- 藤原新也 Shinya Fujiwara -

<心の師匠>
 昔から僕は常に心の師匠を目標に生きてきたような気がします。最初に出会った師匠は、バリバリ左派で学校に着任したばかりだった担任の先生とその真逆で徹底した自由主義者だった塾の先生、二人は僕の人生に大きな影響を与えました。その後も、僕自身が何かにのめり込むたびに、その道の達人をかってに「心の師匠」として崇めてきました。
 スキューバ・ダイビングにはまりインストラクターを目指そうと思っていた頃の僕の師匠は、ジャック・マイヨールでした。
 ブルース、R&B、サルサなど、レコードを買い集めていた日々には、輸入盤専門店芽瑠璃堂の店長大場さんがいました。
 シーカヤックにはまっていた時期は、「シーカヤックの神様」と呼ばれていたジョン・ダウドの著書を聖書のように大切にしていました。
 このサイトを書き出すきっかけでもあった文章を書くための目標となってくれたのは、カート・ヴォネガット村上春樹スティーブン・キングらの偉大な作家たちでした。
 東京に出たばかりの僕が年に100本映画を見た頃の「心の師匠」は今は亡き淀川長治氏でした。
  そんな、あらゆるジャンルに師匠となるべき存在がいると信じる僕にとっての「旅と写真」の師匠だったのが藤原新也でした。
「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ」
 彼ならそう言うかもしれません。しかし、そうした思想的な面も含めて、藤原新也は僕に大きな影響を与えてくれた人物でした。

<藤原新也の旅>
 藤原新也の20年に渡る長い旅は1969年インドを100日かけて旅したところから始まりました。この旅の記録が「印度放浪」とちて雑誌に発表されると彼の名は一躍有名になります。(ただし、この時発表された単行本には写真は10枚程度した使用されていませんでした。1979年に発表された「藤原新也印度拾年」には数多く掲載されています)
 その後、チベットなどアジア各地を旅した後、400日に渡るアジア横断の旅に出発。トルコから始まり、中東、パキスタン、インド、チベット、ビルマ、タイ、中国、香港、韓国、そして日本に到達する旅で一つの区切りをつけ、それを「全東洋街道」として発表しました。(1981年)
 旅から戻った彼は、しばらく留守にしていた間に日本が大きく変わっていたことに驚かされます。1960年代に日本を出た時、日本人はみな怒っていたが、帰ってきたらみな笑っていた、彼はそう述壊しています。再びカメラを持った彼は、当時社会現象を巻き起こしていた写真雑誌「FOCUS」において写真連作企画「東京漂流」をスタートさせます。日本で起きつつある変化をいくつかの事件に焦点を合わせることで切り取ろうというこの企画は大きな話題を巻き起こします。ところが、「FOCUS」編集部が彼に無断で記事の内容を変えるという事件が起き、怒った彼はその企画から降りてしまいます。その後、この時の顛末も書き加えて「東京漂流」は単行本として発表され、ジャーナリズム、コマーシャリズムの世界に大きな衝撃を与えました。僕が初めて彼の名を知ったのは、この「東京漂流」でした。

<東京からアメリカへ>
 「東京漂流」で1980年代の日本を切り取った彼は、そこに1990年代に訪れることになるであろう次なる日本の姿を映し出していました。1983年、彼は「東京漂流」以前の作品の中から「死」に関する総集編ともいえる「メメント・モリ」を発表します。(「メメント・モリ」とは、「死を想へ」という意味)ここで取り上げていた「死」を見つめることによってのみ「生」を生きられるという感覚は、その後21世紀の日本人には完全に失われてしまうことになったように思います。
「・・・本当の死が見えないと、本当の生も生きられない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。・・・」

「墓につばをかけるのか、・・・・・それとも花を盛るのか。
 『東京漂流』が「つば」であるなら、本書『メメント・モリ』は「花」である。それは、ニンゲンが本来的にもつ「憎」と「愛」の二つの現れだともいえる。
 わたしはあきらめない。」

「メメント・モリ」より

 そして、この時の日本の姿とダブることになるのが、彼の次なる旅の目的地アメリカでした。彼はその旅でアメリカは日本の未来であり、世界が向かうであろう新たな世紀の象徴であることを確認することになります。こうして彼はモーター・ホーム(日本でいうキャンピング・カーのこと)による7ヶ月に渡るアメリカ横断の旅に出発します。1990年、その旅の記憶は「アメリカ」そして写真集「アメリカン・ルーレット」として発表され、彼の長い旅は再び大きな区切りを迎えることになりました。

<僕の旅>
 彼の作品が次々に発表され話題となっていた1980年代、僕は就職後、会社の休みを利用して海外旅行に出かけるようになっていました。技術系の職についていた僕は当時2週間連続で休むことも可能で、バリ島1週間音楽の旅から始めて、トルコ3週間横断旅行、インド2週間+オーバー・ブッキングの旅、モロッコ・スペイン3週間の旅などへと出かけました。もちろん、どの旅もバック・アップ1つの行き当たりばったりでしたが、それぞれ行く前にはちょっとしたこだわりをもって出かけたものです。
 例えば、トルコ横断ひとり旅は、トルコ映画ユルマズ・ギュネイ監督の「路」に感動したことから始まり、映画の中の最も美しかったシーンの背景となった「ハランの草原」に映画の主人公のようにバスで向かう旅をしようと企画したものでした。ただし、この旅はハランへ向かう前に同じバスに乗り合わせた高校の先生の誘いでまったく別の知らない町(シベレキという町でした)へと向かう展開になってしまったのですが・・・。
「『旅』は無言のバイブルであった。『自然』は道徳であった。『沈黙』はぼくをとらえた。そして沈黙より出た『言葉』はぼくをとらえた。悪くも良くは、すべては良かった。ぼくはすべてを観察した。そして我が身にそれを『写実』してみた。」

 僕も毎回旅にはカメラを持って出かけましたが、気の弱い僕はなかなか人物にカメラを向けることができず、旅の終わり頃になってやっと何枚か撮れるという情けない状態でした。旅の写真について、彼はこう言っています。
「仮にそれが旅の写真であるとしても、やっぱり三ヶ月はいなければならないと思う。長年旅してきた経験から言うと、三ヶ月で人間の体はその土地に入り込む。その前に帰ってきたら駄目なんだ。・・・・」

 情けないことに神経質な僕はほぼ毎回旅が始まって一週間でお腹をこわしていました。それでも抗生物質を飲んでそれが直るとなぜか怖いものがなくなり、いつしか別の人格になっていたものです。そこで初めて僕は「藤原新也」に近づくことができ、被写体にも迫ることができるようになっていました。
「旅にも『氷点』はある
 必ずやって来る
 人間の氷点を溶かしてくれるものはニンゲンだ。
 ニンゲンの体温だ
 とにかく付き合ってみたまえ」

「全東洋街道」より

 
ロバート・キャパはかつてよくこう言ったそうです。
「もし君の写真が良くないとすれば、それは君が充分に被写体に近寄っていないからだよ」

 被写体との距離を縮めるには、僕の場合、一度お腹をこわし、熱を出すことが必要。そう思うようになった頃からでしょうか。僕は以前のようにお腹をこわすことがなくなり、いつしか飛行機を降りた時点で人格を変えてゆけるようになっていました。人間とは不思議なものです。でもそれには、僕自身一つの対応策を見つけたおかげもありました。それは「書くこと」こそ、僕にとって最高の薬だったということを発見したことです。僕は旅に出る時には必ずノートを持ち歩き、それに旅の記録や感想を毎日書き記すようになりました。旅の途中で心細くなったり、何かの心配事ができると、とりあえずノートを出して、その時の気持ちを思いつくままに書き込むことで僕は精神の安定を得ることができるようになりました。そして、それはその後は旅に出ていない時にも用いられることになります。
 いつも僕は旅に出ると、行きの飛行機の中で旅に出たことを後悔していたものです。弱虫で度胸がないくせに、英語もろくにしゃべれないくせに、なぜ自分は一人で旅に出かけたのか?旅の計画を誰も知らないということは、何かの事故が起きても誰も助けに来てくれないぞ!とか、毎回そんなことをウジウジと思い悩んでいたものですが、そんな時は必殺の精神安定ノートが大いに役に立つことになりました。
 そういえば、日記について藤原新也はこう言っています。
「日記というのは自分の存在証明でしょ。表現じゃない」
確かにそのとうりかもしれません。

<僕のアメリカへの旅>
 1974年、中学2年生の春休みに僕は2週間ほどアメリカの西海岸でホームステイしたことがあります。
ジョン・レノンの「マインド・ゲームス」、エルトン・ジョンの「グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード」、イエスの「海洋地形学の物語」なんかが流行っていた頃、僕はサンフランシスコとロサンゼルス、そして、その間にある小さな街に滞在、カルチャー・ショックの連続パンチを受けて帰ってきました。この時に買ってきたレコードから僕のロックの歴史探求の旅が始まることになりました。こうして、僕にとってアメリカはいよいよ強烈なイメージを残すことになりましたが、それとは逆のイメージ、気になる違和感のようなものを持ち帰ることにもなりました。
 その中でも未だに記憶に残っているのは、「香り」に関する記憶です。街のショッピング・センターだけでなく、宿泊先の家庭でも、アメリカでは常に芳香剤などによる人工的な「香り」が漂っていました。今では日本では珍しくありませんが、当時の日本にはそうした「香り」の文化はほとんどありませんでした。アメリカ製のホーム・ドラマで見るような住宅街や街並みは、ある意味見慣れたものでしたが、その強烈な「香り」は未体験のものだっただけに僕の記憶に強く刻まれ、アメリカに対する違和感の原体験となりました。
 やはり藤原新也も同じことを思ったようです。
「・・・それは女たちがつけている香水の匂いであり、入りまじり合う多民族の固有の匂いを消すべく、店舗、商品にふりまかれた消臭剤もしくは芳香剤。ビルの間をただよう風はたえず臭覚を軽くマッサージし続けている」

 アメリカの西海岸は気候も良く、街並みも美しく、人々も優しく、何もかも素晴らしい土地でした。(1974年当時は、特に良かった時期なのかもしれません)にも関わらず、どこかに違和感を感じたのは、そんな理想郷のようなアメリカがヴェトナムで繰り広げている戦争のことを中学生の僕でもよく知っていたせいなのかもしれません。それとも世界中がこんなユートピアのような世界になれるとは思えないというひねくれ根性のせいだったのかもしれません。それとも、そこに住んでいる人々がそれほど幸福そうに見えなかったというだけのことなのかもしれません。やはり藤原新也のインタビューでこんな記述もありました。
「当然書きにくいのはカリフォルニアです。ここではあの何もない虚無を書かなければならないということを表現者は課せられる。・・・」
 またアメリカの旅で最も印象に残った場所を聞かれて、
「・・・ロスアンゼルスだね。アジアでカルカッタとチベットという別々な場所で僕は天国と地獄を見た。しかし、アメリカの場合は同じ場所に天国と地獄がある。カリフォルニアの明るい街の一角が、突然、ぱっと暗転して何かが起こる。・・・・・」

 僕のごく短い旅では、そんな危険な裏側までも見通すことはできなかったのですが、その匂いだけは感じたということかもしれません。しかし、この時僕が感じた違和感はその後日本にも輸入されることになります。
「私はこの80年代の日本の風景や人々を見ながら、三年前に滞在したことのあるカリフォルニアの風景を思い出した。この町の二重人格性、あるいは自己分裂性は、何とあの町のそれに似てきたことか。・・・」
「東京漂流」より

 そういえば、アメリカについての記述でこんなものもありました。
「・・・現実との関わりの中で挫折経験のない幼児が全能幻想を所有しているように、歴史の浅い赤子のアメリカ人はその全能幻想を多くは科学と芸術によってかなえてきた。・・・ベトナム戦争とシャトルの失敗はその意味で三歳の幼児に初めて現実原則を教え込むアクシデントとなった。・・・・・」

 残念ながら、アメリカはそれらの授業で現実について学びとることはできず、その後も過ちを繰り返すことになります。
 ちなみに、こうしたアメリカの非現実感覚を象徴する存在こそ、ハリウッド映画であり、もうひとつアメリカが生んだ一大レジャー企業ディズニーでしょう。彼曰く、「ディズニーランドは、資本主義でも社会主義でも共産主義でもない、非現実主義の帝国である」なるほど、そうなるとマイケル・ジャクソンこそ、アメリカが生んだディズニー亡き後、最高の非現実主義の帝王だったということになるのでしょうか。

<最後に>
 1991年に発表された雑誌「Switch」のインタビューの最後に彼はこう語っています。
「論者として僕は『乳の海』でいったん死んだのです。それがいかに先の時代を予見していたとしても論者であったり観察者であると同時に生きる者として、世界にコミットメントしていく存在でありたいと思うようになりました。・・・・・一つだけわかっていることは人が観察者であり論者のみであることはもうこの世の中では無意味だということです。・・・・・」
 幸いにして、僕はこの文章を書くのと同時に実社会(小樽市)にて、社会活動をし、商売をし、子供たちを育てています。生きるべき場所を得ることができました。正直、生きることと死ぬことを両方考えるようになってきました。

<締めのお言葉>
「死というものは、なしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最期のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選びとるのです。だから、
 生きているあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。」


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