永遠の未完成アメリカン・ライブ・バンド

- グレイトフル・デッド Grateful Dead - 

ドキュメンタリー映画「アザー・ワン ボブ・ウェアの数奇な物語」
  

<グレイトフル・デッドとその音楽スタイルの誕生> 
<グレイトフル・デッドの誕生>
 今や伝説的存在となったグレイトフル・デッド誕生のきっかけは、1963年の大みそかにサンフランシスコ近郊の町パロアルトの楽器店裏口でジェリー・ガルシアとボブ・ウェアが出会いセッションを始めたことでした。すぐに二人は意気投合。1942年生まれのガルシアと1947年生まれのボブは、5歳違いの兄と弟のような関係になり、仲間たちとWarlocksというバンドを結成ます。
 当時、カリフォルニアは全米に広がりつつあったサイケデリック・ムーブメントの先進地で、彼らもマリファナやLSDを普通に使用する情況になりつつありました。そんな中、ケン・キージーらを中心としたサイケデリック集団、メリープランクスターズのバスが彼らの町にやってきました。ボブやガルシアらは、すぐに彼らが行っている薬物体験にはまり、ビートニクの神様的存在だったニール・キャサディが運転するバスに乗り込みます。こうして彼らはサイケデリック・ムーブメントの聖地サンフランシスコへと向かうことになりました。
<サンフランシスコにて>
 サンフランシスコに着いた彼らはニールと共に家を借りるとそこでメンバー全員が共同生活を始めます。アシッドテストを行う会場やキャバレーなどで演奏を行うようになります。1ドル払えばLSD入りのドリンクがもらえるアシッド・パーティーの会場でのライブで音楽がなかったことがきっかけに彼らはそこでハイになった状態で演奏を行うようになります。当初、その演奏はめちゃくちゃなものになりましたが、しだいにそんな状態でも演奏を続けられる技術を身につけるようになります。延々と続くギターソロなど、毎回異なるインプロビゼーション・スタイルのジャムセッション的な演奏はそんな情況が生み出したものだったわけです。
 そうした彼らの演奏はバンドのメンバーがニールのようなカリスマ的存在と家族のように暮らす中で育てられたものでしたが、後にこの共同体的な小さな社会は、彼らのファンたちが生み出す「デッドヘッズ Dead Heads」と呼ばれるグループの原型となりました。しかし、そんな共同体に中心だったニールは、メキシコでの放浪の旅の途中に事故死してしまいます。この時にボブが書いたのが、「The Other One」という曲でした。
<メジャーデビュー>
 アシッド・パーティーと共に始まった彼らの演奏は、その後もライブ演奏と共に成長したため、彼らはスタジオでの録音という音楽スタイルに興味を持ちませんでした。しかし、その知名度が高まるとレコード会社からスタジオ・アルバムを出すようオファーが来ることになり、「Walkinng Man's Dead」(1970年)のような名盤が誕生。彼らの名前はそうしたレコードの登場によりやっとアメリカ国内全体にまで広がるようになりました。
 しかし、彼らの活動の影には薬物やアルコール依存などの問題もありました。1973年には、パーカッションやキーボードを担当してきた「ピッグペン」ことロン・マッカーナンがアルコール依存による合併症で死亡し、その後キーボード奏者となったブレント・ミドランドも1990年に薬物中毒で死亡しています。もちろんその他のメンバーも薬物常用の問題を抱えていました。
<独自の音楽スタイル>
 グレイトフル・デッドの音楽スタイル最大の特徴は、ジェリー・ガルシアによる独特なギター・ソロにありますが、それを支えるバンドのメンバー、特にボブ・ウェアのリズム・ギターの存在は重要です。デビュー前からジェリーとコンビを組んできたボブは、ジャズを研究することで新しいギターのコード進行を生み出しながらジェリーのソロを生かす奏法を身につけました。ジョン・コルトレーンのサックス・プレイを支えたジャズ・ピアニスト、マッコイ・タイナーのプレイは特に参考になったといいます。
<まさかのブレイク>
 1980年代に入ると、アメリカ最大のライブ・バンドとなった彼らを追いかけ続けてきたデッドヘッズたちとは異なる新たな若い世代のファン層が増え始めます。ライブ会場により多くの観客が集まるようになり、ジェリー・ガルシアの存在は「グル」であり「神」のような存在になってしまいます。そして、その絶大な人気は彼に大きなプレッシャーをもたらすことになりました。それまで以上に薬物の使用が増えたことで、ボブ・ディランとのライブ中、糖尿病からくる昏睡状態に陥ってしまいます。
 ジェリーの回復後に発表された1987年アルバム「イン・ザ・ダーク」とシングル「タッチ・オブ・グレイ」が世界的な大ヒットとなります。デビューから20年以上たってからのまさかのブレイクでした。
<ジェリー・ガルシアの死>
 1990年代に入ると、再びジェリーはヘロインを使用をし始めます。ボブはなんとか使用を抑えようとしますが、状況は悪化し、1995年8月にジェリーは53歳の若さでこの世を去ってしまいました。バンドは解散を余儀なくされました。ジェリーを兄のように慕っていたボブ・ウェアは、心の空白を埋めるように初めて結婚し、再び音楽活動を開始します。ボブ・ウェアの人生を追ったドキュメンタリー映画「アザー・ワン ボブ・ウェアの数奇な物語」では、さらにその後、ジェリー・ガルシアに代わる人物との驚きの出会いが描かれます・・・。
 延々と引き延ばされた澄み渡った音色のギター・ソロが生み出す、空高く抜けるようなグレイトフルデッドのサウンドは、音楽が「時を止めて永遠を生み出しうることを教えてくれました。
 ボブ・ウェアはこう語っていました。
「時間を超越するものを探してきた。それが俺の旅だ」
 そして、そのための最良の手段が相棒のジェリー・ガルシアと紡ぎ出すデッドサウンドだったのです。
 ちなみに、そんなグレイトフル・デッドの3000回にも及ぶコンサートの音源は、自由に録音できたことからほとんどが録音されていること。そして、長くデッドヘッズとして関わって来たメンバーの中には、その音源を聞けば、何年にどこで行われたライブの記録だとわかる人もいるとか!?
 彼らの中でグレイトフル・デッドの音楽は永遠とイコールなのかもしれません。
 コンサートという究極の音楽伝達手段が困難となった2020年。改めて、彼らの音楽の偉大さを噛みしめたいと思います。
ドキュメンタリー映画「アザー・ワン ボブ・ウェアの数奇な物語」The Other One 2014年
(監)マイク・フライス
(製)マット・ブッシュ、マーティン・ヒルトン他(撮)ダン・フリードマン(編)リッチ・フォックス(音)ニール・カサール
(出)ボブ・ウェア、ジェリー・ガルシア、ジェリー・ハリソン、ブルース・ホーンズビイ、ジョン・ペリー・バーロウ、サミー・ヘイガー 
 ボブ・ウェアの生い立ちからガルシアとの出会い、バンドの結成からブレイク、解散までを追ったドキュメンタリー映画。
 天才を支えたナンバー2だからこそ見えてくるバンドの本当の姿と60年代末のアメリカが実に新鮮です!
 ビートルズともストーンズともクイーンとも違うアメリカ最高の人気バンドだったグレイトフル・デッドとはどんなバンドだったのか?
 その魅力の秘密がわかる作品です。
 ネットフリックスで見ることができます。
<使用されている曲> 
曲名  作曲  作詞  コメント 
「Weather Report Suite」  ボブ・ウェア
Bob Weir 
Bob Weir
Eric Andersen 
「Wake of the Flood」(1973年)収録 
「The Other One」  Bob Weir
Bill Kreutzman 
Bob Weir  「ザ・グレイトフル・デッド」(1971年)収録
(ライブ・アルバム)
「Lost Sailor」  Bob Weir John Barlow 「Go To Heaven」(1980年)収録 
「Don't Ease Me In」  Henry Thomas  Henry Thomas (編)グレイトフル・デッド
「Go To Heaven」(1980年)収録 
「Dark Star」  Jerry Garcia
Bob Weir, Phil Lesh
Bill Kreutzman
Ron McKernan
Robert Hunter 「ライブ/デッド」(1969年)収録 
初期の代表曲
「New Potato Caboose」  Bobby Petersen Phil Lesh 「Anthem of the Sun」(1968年)収録 
「Beat It On Down The Line」  Jesse Fuller Jesse Fuller (編)グレイトフル・デッド
「The Gratful Dead」(1967年)収録
「One More Saturday Night」  Bob Weir Bob Weir 「ヨーロッパ・ライブ’72」(1972年)収録 
「Cassidy」  Bob Weir John Barlow 「Ace」(1972年)ボブ・ウェアのソロアルバム
「Reckoning」(1981年)収録 
「Shakedown Street」  Jerry Garcia  Robert Hunter  「Shakedown Street」(1978年)収録
「Playing In The Band」  Bob Weir
Mickey Hart 
Robert Hunter  「ザ・グレイトフル・デッド」(1971年)収録
(ライブ・アルバム) 
「Looks Like Rain」  Bob Weir  John Barlow  「Ace」(1972年)ボブ・ウェアのソロアルバム 
「On The Road Again」  トラディショナル    (編)グレイトフル・デッド
ウィリー・ネルソン、キャンド・ヒートのカバーも有名
「I Need A Miracle」  Bob Weir   John Barlow   「Shakedown Street」(1978年)収録 
「Jack Straw」  Bob Weir   Robert Hunter  「ヨーロッパ・ライブ’72」(1972年)収録 
「Touch of Grey」  Jerry Garcia   Robert Hunter  「In The Dark」(1987年)収録
全米9位となった最大のヒット・シングル曲 
「Brokedown Palace」  Jerry Garcia   Robert Hunter  「American Beauty」(1970年)収録 
「Corrina」  Bob Weir   Robert Hunter  「Rady or Not」(2019年)録音は1995年 
「Mr.Charlie」  Ron McKernan  Robert Hunter  「ヨーロッパ・ライブ’72」(1972年)収録 
「Days Between」  Jerry Garcia   Robert Hunter  「So Many Roads(1965-1995)」(1999年)収録


<1970年代ライブ・アルバム黄金時代とグレイトフル・デッド> 
<1976年「フランプトン・カムズ・アライブ」>
 僕が初めて買ったグレイトフル・デッドのアルバム「凍てついた肖像」が発表された1976年、その年はライブ・アルバム大当たりの一年でした。その中でも代表的な作品は、なんと言ってもピーター・フランプトンの「フランプトン・カムズ・アライブ」でしょうか。(映画「リアリティー・バイツ」の主人公のひとりは、このアルバムの「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」を聴いて人生が変わったと言いました)それまで在籍していたハンブル・パイでの活躍以来、ヒット曲のなかったフランプトンが、ソロ・アーティストとして全米各地をツアーで回りながらコツコツと実績を積み、その結果を2枚組のアルバムとして発表したとたん大ブレイク。ライブ盤でありながら、そこから次々にヒット・シングルが登場することになりました。

<ライブ・アルバムの年>
 この年に発表されたライブ・アルバムを有名どころだけでもあげてみると、ボブ・ディランの「ハード・レイン」、アース・ウィンド&ファイアの「グラティチュード」、レイナード・スキナードの「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」、デイブ・メイソンの「サーティファイド・ライブ」、アヴェレージ・ホワイト・バンドの「パーソン・トゥ・パーソン」、それに僕の大好きなJ.ガイルズ・バンドの「狼から一撃」と言う具合に、実に豪華なライン・アップでした。この年は、「ライブ・アルバム」がひとつのブームだったと言えるでしょう。

<スタジオ・ミュージシャンの時代始まる>
 この年、それまでスタジオ・ミュージシャンとして活躍していた名うての男たち(エリック・ゲイルリチャード・ティーら)が自ら「スタッフ」と名乗りアルバムを発表しました。デビューアルバム「スタッフ」は大ヒットとなり、セカンドアルバムの制作だけでなく、ツアーまで組まれるほどの人気バンドになりました。さらに、翌年発表されたスティーリー・ダンの「エイジャ」では、スタジオ・ミュージシャンが主体となって録音が行われ、スタジオ・ワークとしてのアルバム制作の時代が始まったと言えます。

<バンド演奏能力の絶頂期>
 この時代以降、パンクの登場やシンセサイザー、サンプリング・マシーンの発達にともない、バンドのもつ演奏能力はそれほど重要な要素ではなくなって行きました。そのため、この時代こそ、個々のバンドのもつ演奏能力が最も高かった時期と言えるかもしれません。そして、この時期、集中的に発表されたライブ・アルバムは、その意味では、究極のバンド演奏に支えられた「完成されたベスト・アルバム的作品集」と言う側面をもっていました。

<何故かグレイトフル・デッドは違った!>
 しかし、同じ年に発表された彼らの作品は、他のライブ・アルバムとは明らかに違っていました。ベスト・アルバム的に曲を並べ、観客を盛り上げ、時には大合唱をする、そんなホットな内容が「ライブ・アルバム」の基本であるのに対して、デッドのそれは「クール」という形容がピッタリでした。観客を前にしていても、意識的に盛り上げようとするわけではなく、自らの意志に従って、淡々と演奏を行い、インプロヴィゼーション的に曲を展開させてゆく、それが彼らのライブ演奏の基本なのです。録音もその意図に従い、あくまで演奏される音楽を中心に音を拾っていて、歓声や手拍子などは、ほとんど聞こえてきません。

<「凍てついた肖像」>
 いったいこれは何なんだ?僕はそう思いながらも、何度もこのアルバムに針を落としたものです。その意味では、アルバム・タイトル「凍てついた肖像」は実に素晴らしいタイトルでした。
 凍りつくように澄みきったジェリー・ガルシア独特のギターの音色とその音にからみつく霧にかすむようにもやっとしたボーカル。ジェリー・ガルシアを「仏像のような男」と言った人がいましたが、彼らの音楽自体、僕にはまるで禅問答のように謎めいて聞こえました。今にして思えば、それが彼らの魅力だったのです。

<不思議な音空間の意味>
 彼ら独特の音楽の意味が、やっとわかってきたのは、それから15年ほどたってからでした。それは、彼らのアルバムづくりに対する考え方がポイントだったようです。彼らはこう考えています。
「俺たちは、ライブで飯を食っているバンドなんだ。だから、アルバムづくりのために、ライブを中断してスタジオにこもるっていうのは時間の無駄だと思っている」
そして、彼らはライブの意味について、こう答えている。
「ライブで演奏するっていうのは、曲を完成するために絶対に必要なことなんだ。ひとつの曲が完成するためには、最低2,3年はライブで演奏しなきゃだめなんだ」
 すなわち、彼らにとってのライブ活動は、多くのミュージシャンにとってのスタジオにおけるセッションと同じ意味をもつと言うことなのです。だから、観客に手拍子させたり、いっしょに歌ったりなんてことは、やっていられないわけだ。彼らは、こうも言っています。
「もし、レコード会社の圧力がなかったら、永遠にアルバムを出さないかもしれないな」
 彼らのバンド名「グレイトフル・デッド」は、「感謝すべき死」ということであり、それはもちろん「輪廻転生」を意味しています。なんという首尾一貫したグループでしょう。(実は、このバンド名はジェリー・ガルシアが辞書の中から適当に指さしで選んだ「安楽死」からきているいうことです)
 今は亡きジェリー・ガルシアも、今頃何かに転生しているに違いないでしょう。もしかしたら、彼らが熱心に保護活動につとめた熱帯雨林の中の一本の大きな木になって、のんびりとうたた寝でもしているのかもしれません。日本では、ほとんど知られていませんが、20世紀に活躍したアメリカン・ロックのバンドの中で彼らの人気と集客力は、文句なしに全米一でした。全米一のカリスマ・ライブ・バンドは、多くのファンに支えられた全米一幸福なバンドだったのかもしれません。

<締めのお言葉>
「どんな作品にも空虚な場所が最後まで残っていなくてはなりません。つまり拘束的であってはいけないのです。おそらくそれは”永遠の”法則ではなく”明日の”法則でしょう。私は慎み深く、”明日”で甘んじます」 W. カンジンスキー(画家)

<参考資料>
「ロック伝説(上)」
 ティモシー・ホワイト著(音楽之友社) 

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