「シェーン Shane」「ジャイアンツ Giants」

- ジョージ・スティーヴンス George Stevence -

<「白熱教室」にて>
 先日(2013年6月)、NHKの「白熱教室シリーズの映画編」を見ていたら、講師が1951年の最高傑作としてジョージ・スティーヴンス監督の「陽のあたる場所」を教材に授業を行っていました。主演のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーがパーティーでダンスを踊り、その後二人で会場の外に出て愛を語り合うという場面でした。
 ほんの数分の場面でしたが、初めはパーティー会場の中の二人としてとらえていたカメラがしだいに二人に寄ってゆき、ついには彼らの目元のアップへと動いてゆく意味のある展開は実に見事です。そのカメラの動きが、二人の心の内の表現であることを改めて知ると、撮影と編集の役割の大きさ、映画の奥の深さに感動してしまいました。この時代すでにカメラワークによって映像に語らせる手法は完成の域に達していたことにも驚かされました。逆に言うと、最近の映画ではあえてカメラを固定することで観客に自由に映像を感じさせる手法へと回帰している気さえします。(北野武監督作品は、まさにそんなタイプだと思います)
 そう考えると、すべての映画をもう一度見直す価値があるのかもしれない、そんな気がしてきました。
 その授業で講師は、1951年のアカデミー賞では最優秀作品賞を逃したが、それは審査員の選択ミスだったと言い切りました。それでも、この映画によってアカデミー監督賞を受賞したのが、ジョージ・スティーヴンスです。彼はこの作品だけではなく「ジャイアンツ」(1956年)でもアカデミー監督賞を受賞しており、文字通りハリウッドを代表する名監督といえるでしょう。

<ジョージ・スティーヴンス>
 ジョージ・スティーヴンス George Stevence は、1904年12月18日にアメリカ西海岸カリフォルニア州のオークランドで生まれています。父親が劇団を運営していたため、彼は早くからショーヴィズの世界に馴染み、俳優だけでなくステージ・マネージャーなどを担当。彼は1921年、17歳でカメラマン助手として映画界入りしています。
 1927年にハル・ローチ・スタジオに入社すると、彼は当時大人気のコメディアン・コンビ、ローレル&ハーディーの短編コメディ映画の撮影を担当。そして、1930年に短編映画「Ladies Last」で監督デビューを果たします。RKOとユニヴァーサルで監督を担当するようになった彼は1933年に初長編映画「The Cohens and Kellys in Trouble」を撮り、やっと映画監督として一本立ち。映画界で働き出して12年、長い下積みの中で彼は映画を撮るためのノウハウをしっかりと身につけていました。そんな彼の映画監督としての才能をいち早く認め、彼を一流監督へと引き上げてくれた人物。それは意外にも、監督でも製作者でもない一人の若手女優でした。後にハリウッド最高の女優と呼ばれることになるキャサリン・ヘップバーン、彼女が彼の実力を認め、監督として指名してくれたのです。

<キャサリン・ヘップバーンとの出会い>
 ローチ・スタジオ時代に彼と知り合っていたキャサリン・ヘップバーンは、彼の監督としての才能を認めていて、彼女の主演作「乙女よ嘆くな」(1935年)の監督に彼を指名。この映画のヒットにより、彼はキャサリンの主演作の監督を任されるようになります。1937年の「偽装の女」に続く1942年の「女性No.1」も監督します。するとその映画が、「強い女」、「自立する女性」としての彼女のイメージを決定づけることになります。女優キャサリン・ヘップバーンの成長は、監督ジョージ・スティーブンスの活躍と共にあったともいえるでしょう。
 さらに「女性No.1」という作品は、キャサリン・ヘップバーンと彼女に匹敵する名優スペンサー・トレイシーとの運命の出会いの場でもありました。二人の不倫関係はその後スペンサー・トレイシーがこの世を去ることになりますが、その間、ジョージ・スティーヴンスは二人の相談役として、長く心の支えとなりました。

<女優を生かす作品群>
 この時期彼は、人気女優を主役にしたラブロマンスの名監督として大活躍しています。
「有頂天時代」(1936年)は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の傑作ミュージカル。
「愛の弾丸」(1935年)は、バーバラ・スタンウィックが有名な女性ガンマン、アニー・オークレーを演じた娯楽西部劇。
「ガンガ・ディン」(1939年)は、インドを舞台にした冒険アクション。(「インディージョーンズ 魔宮の伝説」に影響を与えた作品?)
 キャサリン・ヘップバーンの活躍に象徴されるように、女性の活躍が娯楽として受け入れられる時代に彼の作品は上手く乗ったといえます。しかし、そんな彼の活躍も戦争によって中断を余儀なくされます。
 1940年代に入り第二次世界大戦が始まると、彼は陸軍の通信隊に配属され、そこで戦闘の記録映像を残すための特別映画班の主任をつとめました。

<ハリウッドを代表する監督へ>
 戦後、ハリウッドに復帰した彼は、1951年には前述の名作「陽のあたる場所」を監督。アカデミー監督賞を受賞。ハリウッドを代表する監督の仲間入りを果たします。そして、西部劇の名作として長く語り継がれることになる傑作「シェーン」を撮ります。

「シェーン Shane」(1953年)
(監)ジョージ・スティーヴンス
(脚)A・B・ガスリー・Jr
(撮)ロイヤル・グリッグス
(音)ヴィクター・ヤング
(出)アラン・ラッド、ヴァン・ヘフリン、ジーン・アーサー
 アメリカ中西部の美しい土地の所有権を巡る貧しい農民たちと悪徳牧畜業者の争いに流れ者のガンマンが巻き込まれ、農民たちを救うまでのドラマを彼を慕う少年の目で描いた西部劇の代表作。
 クリント・イーストウッドの名作「ペイルライダー」は、この映画を下敷きにした作品だし、日本でも山田洋次監督が「はるかなる山の呼び声」を高倉健を主演に映画化しています。同じ土地の主有権争いの戦闘を扱った作品には、他にもマイケル・チミノ監督の偉大なる失敗作「天国の門」があります。
 この作品ほど、多くの観客を泣かせた西部劇は未だにないかもしれません。「シェーン!カムバック」と叫ぶ少年の声、それにワイオミングの美しい山々の風景の記憶は、アメリカ人の郷愁を呼び起こすだけでなく日本人の心にも訴え、テレビで何度放映されたことか。(日本人向けのメンタリティーをもつ作品だったともいえます)

「ジャイアンツ Giants」(1956年)
(監)ジョージ・スティーヴンス
(原)エドナ・ファーバー
(脚)フレッド・ガイオル、アイヴァン・モファット
(撮)ウィリアム・C・メラー
(音)デミィトリー・ティオムキン
(出)エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームス・ディーン、ジェーン・ウィザース
 20世紀初めのテキサスを舞台にした大河ドラマ。大牧場に嫁いだ娘レズリー(エリザベス・テイラー)が、アメリカ南部の荒くれ男たちの中で苦労しながら成長してゆく姿。そんな彼女に恋をした牧童ジェット(ジェームズ・ディーン)が、彼女を見返そうと成り上がってゆく人生を描いています。石油によって一攫千金を得たものの、自ら人生を崩壊させてゆく姿は、「華麗なるギャツビー」の西部劇版とも思えます。
 主役ではないはずのジェームズ・ディーンはこの映画で10代の若者から成功者に登りつめた中年までを演じ、俳優としてならに高い評価を得ることになりましたが、この作品が遺作になってしまいました。
 優れていはいても難しい役者だったジェームズ・ディーンを見事に俳優として開花させたジョージ・スティーヴンスは、この映画で再びアカデミー監督賞を受賞しました。

 1959年、あまりにも有名な「アンネの日記」に挑んだ彼は、狭い範囲だけの地味な題材を見事に映画化。
 1965年には、さらに有名な物語であるイエス・キリストの人生を描いた大作「偉大な生涯の物語」を監督しています。聖書という歴史的な名著をもとにした作品でしたが、時代は60年代後半はもう時代は大きく変わっていました。若者たちの英雄、ビートルズがブレイクし、ヌーヴェルバーグの作品が次々に公開されている時代にもう聖書の物語は、時代遅れに見られていました。そして、彼はサイレントの時代から関わってきたハリウッドの黄金時代は、いよいよ終わりを迎えようとしていたのです。彼の活躍の場はもう失われようとしていました。
 1970年の「この愛にすべてを」を撮った彼は、ついに映画界から引退。1975年3月8日に彼はこの世を去りました。

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