聴くように読むフランス式音楽小説


「さいごの恋 Dernier Amour」

- クリスチャン・ガイイ Christian Gailly -
<物語のはじまり>
 客席の照が落ちた。舞台は明るく照らされている。
 もうすぐ始まりだ。庭園側から演奏家が入ってくる。


 こうして物語が始まります。たぶん、あなたは150ページに満たないこの小説をちょっとしたコンサートを聴きに行ったぐらいの時間で読み終えるはずです。「音楽的小説」という表現は、村上春樹ポール・オースターの小説に対してよく使われますが、この小説にこそ「音楽的小説」という呼び方はぴったりです。
 素晴らしいコンサートを聴き終えた後のように思わずスタンディング・オベーションしたくなる、そんな素敵なひと時を過ごせる素晴らしい小説です。それにしても、読み出してすぐにその魅力に引きつけられた原因は何なのだろう?ちょっと考えてみました。

<あらすじ>
 現代音楽の作曲家ポール・セドラは、スイスのチューリッヒで開催された音楽フェスティバルで最新作の発表があり、それを聴くため会場に向かいました。ところが、彼の新曲は暗いイメージの難解な曲だったために観客からブーイングを浴びることになり、演奏は中止になってしまいます。ショックを受けた彼は、会場を出てホテルに戻り、翌日、パリの自宅によった後、そのまま海辺にある別荘へと向かいます。それは医師に余命わずかといわれている彼にとって、最後の旅となるかもしれませんでしたが、長年連れ添った妻を彼はおいて一人出発してしまいます。
 やっと別荘についた彼は、海辺で妻が着いていたはずのローブを見つけ、彼女が忘れたと思い、家に持ち帰ります。ところが、それは別の女性のもので、持ち主があわてて彼の別荘に追いかけてきます。美しくその女性は地元のクラブを経営していて、自らもそこでジャズ歌手として出演していました。
 翌日、彼女はポールの体調が心配になり、別荘をたずね、彼を車に乗せ自分の家に連れてゆきます。ところが、その間にも彼の命の炎は、少しづつ消えかかろうとしていました。一人パリで夫を待っていた妻は、ポールが電話に出ないことに驚き、あわてて家を出て別荘へと向かいます。

<映画的視点>
 この小説の大きな特徴は、著者の視点が映画を観ているような客観的な位置にあり、それを映画の字幕のように細かく、かつテンポ良く記述し続けているところにあります。それはどういうことかというと、こんな感じです。

 ポールは会場にきている。
 下のほう。一階席、前から八列目の真ん中。
 だれも彼のことを知らない。さりげなく座っている。
 話しかけてくる者もいない。ポールの心臓は高鳴る。
 会場内は独特の雰囲気に包まれている。
 夏の暑い日。八月、正確には八月十八日。


 ここでは主人公のポールをコンサートホールの上から眺めていて、その様子を客観的に描写しています。彼は自分の曲が初めて演奏されるのを前に、その評価がどうなるのか不安でいっぱいですが、その不安感は「ポールの心臓は高鳴る」としか表現されていません。でも、それだけで読者には、ポールの心理状態が十分に伝わる気がします。著者は、その心理状態を細かく描写せずとも、読者はポールと共にホールの席についてハラハラしてしまいます。読者の目にはポールと同じようにステージ上の演奏者たちの姿が浮かび、同じように心が高鳴ってしまうからです。

 こうしてコンサートは始まり、曲の進行と共に物語も進んで行きます。

 事態が悪化し始めたのは、アレクサンデル・カルテットがノクターンを弾き出したときだった。
 またしてものろい、第四楽章。
 群衆のあいだは起こりがちな現象が起こった。
 だれか一人が声を挙げる - もう沢山、もういい。
 のろいのも、ぱっとしないのも、陰気なのも十分。
 いきいきとした、陽気なやつを頼むよ。

 文章が短い。文章がシンプル。そして、文章の長短や「もう - 、もう - 」や「 - のも、- のも、 - のももう十分」といった繰り返しがリズムを生み出しています。もちろん、これらは翻訳者である野崎さんの力による部分もあるでしょう。

 さらに注意して読むと、著者の視点は単なる客観的な視点というわけではないようです。それは物語を書くだけでなく、そこに自ら関わろうとする視点のようにも思えます。例えば、こんな箇所があります。

 いったいどんな気持ちだっただろうと、私は想像してみる。もちろん、身の置きどころのない気分だったろうが、しかしとりわけ彼は、子どもたちのことを気遣っていた。子どもたちというのは、若い演奏家たちのことだ。・・・・

 この箇所の「私」とは誰か?もちろん、それは著者であり、創造者でもあるガイイなのでしょうが、登場人物たちにとっては「神」ともいえる存在でもあります。それに対し、ラストで主人公の妻が「ありがとう」と語りかけている相手は、著者というよりも、彼にこの小説を書かせた運命をつかさどる「神」なのでしょう。

<音楽的展開>
 第一楽章のエレジーは、ゆっくりとしていながらも演奏時間は十二分と長い。そこで聴衆としては、緩/急/緩/急という古典的手法にのっとって、何かアップテンポなものを期待した。ところが、それどころか。インテルメッツォ。短めとはいえ、これがまた同じようにのろのろとして物悲しいものだった。短めでおおいに結構、お次はテンポのいい楽章が続くにちがいないとだれしもが思った。スピーディーで陽気な場面につながるにちがいない。それがなんとしたことか。

 コンサートの展開を描いたこの部分は、そのままこの小説の展開について語っているようにも読めます。自らの人生があとわずかであることを知り、妻と離れて暮らし、新作がコンサートでブーイングを浴びるという物悲しい展開の連続です。そして、そんな悲しみばかりの人生に別れを告げるかのように、主人公は一人別荘へと向かいます。
 ここまでは、まるで彼の新作曲のように暗いだけの展開です。しかし、読者からのブーイングが聞こえないうちに、物語の展開を救う存在となる「天使」が現れます。一人は、ホテルのエレベーターで出会った女性。(彼女とはその後再会します)
 そして、別荘にやって来たジャズ歌手の女性です。最後に現れるであろう妻もまた天使の一人です。さすがは、もとジャズ・ミュージシャンのフランス人作家。どんなに暗い人生でも「恋」と「音楽」はひとときの幸福を与えてくれるというわけです。
 「文章の展開」と「ドラマの展開」そして「登場人物」それぞれが「音楽的」だからこそ、この短い小説は素晴らしい音楽を聴くように読めるのです。

<クリスチャン・ガイイ>
 著者のクリスチャン・ガイイといは、どんな人なのでしょう?
 訳者のあとがきによると、クリスチャン・ガイイ Christian Gaillyは、1943年にパリで生まれています。1950年代末のパリを舞台にした映画「ラウンド・ミッドナイト」(1986年)でも描かれていたように、1950年代から60年代にかけてフランスには多くのジャズ・ミュージシャンがアメリカから訪れ、ジャズの黄金期となっていました。そんな時代に育った彼はジャズ・ミュージシャンを目指すようになり、セミプロのサックス奏者として25歳ぐらいまでは活動していたといいます。

「音楽は、私がこの世界で生きていくうえでアイデンティティを見つけるための一つの方法でした。でも私たちは別れてしまったのです。それからは本のおかげで、なんとかアイデンティティのようなものを見つけ出しました。」
クリスチャン・ガイイ

 しかし、文学者として、すぐに彼が活躍するようになったわけではありませんでした。先ず彼はミュージシャンを止めて、精神分析家(カウンセラー)になったといいます。(え!これってフジテレビの月9ドラマ「ラブ・ソング」の福山雅治といっしょじゃないですか!)しかし、彼がその道で食べてゆくことはなく、結局は奥さんに食べさせてもらいながら文章を書き続け、44歳になって作家としてデビューしています。
 2001年の「ある夜、クラブで」が高い評価を受け、世界中にその名を知られると、2009年の「風にそよぐ草」はフランスの巨匠アラン・レネによって映画化されています。

「僕は音楽的な文章というのが大好きなのだが、それは単に『美しい文体』であるとか『スムーズに流れる日本語』とかではない。僕が思うに、そんなものは全然音楽的ではない。この『ある夜、クラブで』の中にあるのは、変則的なリズム、描写が端折られたり、唐突に放り出されたりするメロディ=物語の跳躍、うねる語りだ。」

「さいごの恋 Dernier Amour」 2006年
(著)クリスチャン・ガイイ Christian Gailly
(訳)野崎歓
集英社

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