伝説の贋作画家、波乱の人生


- ギィ・リブ Guy Ribes -
<贋作の魅力>
 かつて、オーソン・ウェルズが映画「フェイク」(1975年)で天才贋作画家を主役に描いたように、フィリップ・K・ディック原作の「ブレード・ランナー」(1982年)でレプリカントを魅力的に描いたように、質の高い「贋物」は本物をも上回る魅力を持ち、「本物」をも超える場合があるものです。「贋作」は実に魅力的なのです。
 特に美術品の「贋作」となるとその価値は、他の「贋物」とはレベルが違い、その技術的な奥深さもレベルが違います。見た目の再現だけでなく、画材の選択、製作年代の再現、販売の方法(これが実は一番難しそう)など、クリアするべきことは、数多くあります。そしてその分、裏話には面白いネタが満載です。
 この本は、そんな魅力的な「贋作者」の中でも伝説的な存在であるギィ・リブという人物の自伝です。実際にその自伝を文章化しているのは、別のライターのようなので文章が上手すぎて逆に話が眉唾にも読めるほどです。だって話があまりにも面白すぎるのです!
 もしかすると、このお話そのものが「贋作」なのかもしれませんが、たとえ、この内容が嘘ばかりだとしても、充分に面白いから僕は納得です。
 
 例えば、彼の「贋作作り」について行われた裁判の場面からして、なんと魅力的なことでしょう!

 問題になった絵は、一部は傍聴席に直接展示され、残りはビデオ・スクリーンに映写されたのだが、そこでわかった作品だけでも、サインを施しているピカソ、シャガール、マティス、ルノワール、ダリ、モディリアーニ、デュフィ、ヴラマンク、マリー・ローランサン、レジェ、フジタ、キース・ヴァン・ドンゲン、ジャン=ミシェル・アトラン。まるで裁判所主催の近代アート展にでもいるようだった!足りなかったのはシャンパンと、おつまみのお菓子ぐらいだろう。

 とうぜん、それだけの作品を完成させ、疑われることなく売ってきた作者の技量への評価は高く、まるで本物の画家を扱うかのようです。

 裁判の二日目、判事から任命された美術専門家、ジル・ペローが証人席に立ち、二つのことを言ったのを覚えている。一つは、彼はこれまで、俺のような多彩なアーティストを模倣できる贋作作家と出会ったことがないということだった。確かに、俺はほかの贋作作家のように、ひとりの画家にも、一つのテクニックにも自分を限定しなかった。俺に興味があったのは、違う方法や、素材、時代を探求することだった。俺は近代アートを継承したかった。二つ目は、彼が俺についてこう結論づけたことだった。
「もしピカソが生きていたら、彼を雇ったことだろう」


 それだけの画力を持つ画家がなぜ贋作の世界にはまってしまったのでしょうか?当然、そんな天才贋作者の人間性、生い立ちも気になります。
 彼の生い立ちがまた、実にフランスのアーティスト的です。彼はパリの娼館で生まれ、そこで育ったストリート・チルドレンでジャン・ジュネやエディット・ピアフと同じように厳しい子供時代を送っています。そして、そんな生活のおかげで裏社会とのつながりが出来、それが後に贋作作りに結びつくことになります。ただし、そんな荒んだ人生を歩みながらも、彼が絵を描き続けていたのはさすが「芸術の都、パリ」です。アメリカなら、それはボクシングかミュージシャンを目指すところでしょう。まして、彼が育ったのは19世紀末のパリではなく、1970年代のパリなのです!
 そんなわけで、彼の回顧録の中には、ピカソやギリシャの大物女優イレーネ・パパス、「007ゴールド・フィンガー」の主題歌で有名なシャーリー・バッシー、バレエ・ダンサーのミハイル・バリシニコフからあのジョン・トラボルタまで、様々なセレブやアーティストたちが登場。さらには、ルノワールの伝記映画では、彼がフランスの大物俳優ミシェル・ブーケの代わりに手だけが出演して絵を描いたりもしています。

<「本物」とは何か?>
 絵画作品の真贋を見極めることの難しさはよくわかるのですが、彼はそれよりももっと重要なことについて語っています。それは、「本物」とは何か?という根本的な問いかけです。「本物」とは、美術作品の鑑定人が「正式な鑑定書」を発行したものであって、たとえ「贋物」であっても問題ないということです。
 そして、その真贋を判定する鑑定人が「本物」かどうか、さらには彼が嘘偽りのない判定を下しているのか?そこにも疑問は残ると彼は書いています。なぜなら、彼らはその鑑定によって、作品の価値を上げることもできるし、下げることも可能なのです。したがって、彼らがその立場を利用すれば、作品を安く買いたたき、それを高く売って大儲けすることも可能なのです。これはとんでもない利益を生み出す可能性をもっています。
 そうなると、美術オークション会社も、同じような方法によって、大きな利益を得ていても不思議はないのです。そのために、彼の生み出した優れた贋作は大きな役目を果たしていた可能性があります。

・・・たぶん、少し誇張があるだろうが、俺はルノワール、ピカソ、マティス、ダリ、シャガール、モディリアーニ、フジタ、ヴラマンク、その他大勢の巨匠たちの作とされる、膨大な作品を制作した。しかし、そんなことは誰にもわからないだろう。それもそのはず、これらの絵はすべてもう贋作ではなく、本物になっているからだ。それらはいまや絵で俺が模倣した画家たちの作品になりきっている。これらの絵で俺ができる唯一の展覧会は、俺の頭の中。そこでの俺はたったひとりの主催者であると同時に、たったひとりの訪問者、たったひとりの批評家なのだ。

<贋作作りの魅力と魔力>
 主人公が贋作作りにのめり込んだ気持ちも、この本を読んでなんとなくわかってきました。絵画が本当に好きなら、その作者と同じように描いてみたくなるものです。同じようなことは、絵画だけではありません。音楽でも、文学でも、スポーツでも、誰もが大好きな作品や選手の真似をしながら上手くなるものです。
 しかし、たいていはそこまで上手くマネできるはずもなく、そこから自分なりの絵画が生まれ、新たな才能が現れることにもなるのです。ただし、もしその真似ができてしまったとしたら、彼のような天才が誕生してしまうのでしょう。

「画家とは結局なんですか?」という質問に、ピカソにこう答えた。
「それは、自分が好きな他人の絵を描きながら、コレクションを続けたいと願うコレクターのことだ。私はそうやって始め、するとそれが別物になっていく」。そして彼はつけ加えた。
「巨匠をうまく模倣できないから、オリジナルなものを作ることになる」。
 俺は問題は、巨匠を模倣して時間を使い、そして、うまくできるようになったことだ。数年前、俺は自分の絵で個展を開き、みんながとてもいいと言ってくれたのだが、すぐに、この一点はなぜかピカソ、あれはアンドレ・ロート、三点目はレジェを思わせる言わせてしまった。みんないとも簡単に、俺が模倣していた画家のテクニック、やり方を見つけていた。俺はもう自分が誰で、どんな絵を描きたいのかわからなかった。


 もし、身も心も、その画家にのめり込み、同じように考え、同じように描けるようになったら、そんな幸福な瞬間はないでしょう!そしてもし、そうなったら、もう自分だけの絵を描く気にはなれないかもしれません。それは、ある種薬物を用いないトリップ状態なのですから。

 しばらくすると、贋作作りが一つの欲求になった。絵を描いていないと調子が悪くなったのだ。お金の問題ではなかった、お金なら必要以上に持っていた。そうではなく、これはまさに感動や高揚感の問題だった。俺は画家たちと言葉を交わし、俺たちの「想像上の会話」を通して、もっと遠くへ行きたいと思った。ピカソの贋作を作っているとき、俺は彼と一緒にいるような気持ちだった。絵を描くにつれ、どこまでこの関係でいられるのかを知りたくなった。俺は彼が感じたであろうことを感じ、彼が体験したであろうことを体験しようとした。

 だからこそ、彼にとってはすべてのアーティストが自分と共にあり、その作品群も、彼の頭の中に完璧な作品として存在しているのです。
 映画「ショーシャンクの空に」の中で、主人公は「俺の頭の中には音楽があって、たとえ独房の中に入れられても、その音楽を奪うことはできない」と言いました。それと同じように彼の頭の中には、脳内ルーブル美術館が存在し、そこにはかつて彼が描いた作品がすべて飾られているのです。そして、その中には本物の作品も数多く並んでいるのですが、そのクオリティーに優劣はつけがたいはずです。もちろんその違いは見分けられるのは彼だけなのです。それはなんという優越感でしょう!

 そんな究極の脳内美術館のことを想像するだけで、ワクワクしてきませんか?僕も実はそんな脳内美術館、脳内ライブハウス、脳内映画館、脳内文学館の充実に日々をついやす主人公の仲間のひとりだと思います。もちろん、今この文章を読んでいるあなたもその一人ですよね?


「ピカソになりきった男 Autoportrait D'un Faussaire」 2016年
(著)ギィ・リブ Guy Ribes、ジャン=バプティスト・パレティエ Jean-Baptiste Peretie
(訳)鳥取絹子
キノブックス

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