「虐殺器官 Genocidal Organ」

- 伊藤計劃 Keikaku Ito (Project Ito)-

<虐殺器官>
 「虐殺器官 Genocidal Organ」というタイトルが実に上手い!主人公がテロリストの暗殺機関に属していることから「虐殺機関」であるべきところを、同じ「Organ」をあえて「器官」と訳しているわけです。「Organ」という言葉は、楽器の「オルガン」のことでもあり、声を発するための「発声器官」を意味する言葉でもあります。この本の内容からいうと、この本のタイトルは「虐殺の文法」とするべきところだけに、二つの言葉をかけて「器官」を選んだということでしょう。
 噂には聞いてた作品を本屋さんの店頭で偶然見かけ即ゲット。さっそく読ませていただきました。さすがは数々のSF賞を受賞した作品だけのことはあり、構成もよく練られていて素晴らしい作品です。まさか、これが自らの死を意識しながら、文字通り必死の思いで書かれたとは思えないクールな出来栄えです。

 文庫版のあとがきに、かつて小松左京氏がこの本を審査した際の感想が書かれています。(小松左京賞の審査)それによると、彼はこの作家の「文章力」や「アイデアの豊富さ」は認めたものの、「虐殺行為」の主犯ジョン・ポールの動機と「虐殺の文法」についての記述に具体性が不足していると指摘しています。実は、僕もほとんど同じ感想をもちました。ラストのどんでん返しがなければ、正直がっくりだったかもしれません。しかし、こうしてどこか残念な部分が残っているのは、SF小説においてある意味「王道」ともいえます。特にこの小説の場合、まるで思弁小説のように多くのことを語ることに必死です。かつて、多くのSF作家が自らの科学知識を総動員して未来の危機について読者に必死で語りかけていた時期がありました。それは米ソ冷戦時代、この小説にも出てくる「アフター・ヒロシマ」の時代です。当時のSF作家たちは「ネクスト・ヒロシマ=世界の終末」を予見し、数々の作品を発表。その中の代表的終末SF作家が、前述のジョン・ポールが好きだったと記されているイギリスの作家J・G・バラードです。著者はJ・G・バラードへのリスペクトを捧げつつ、この小説では新たな終末の時代「アフター・サラエボ」時代を描き出しています。

<アフター・サラエボ>
 改めて歴史を振り返ると、20世紀後半の地球はヒロシマ、ナガサキの犠牲によって、かろうじて危機を逃れてきたともいえます。次第に薄れつつあるヒロシマ、ナガサキの記憶が再び「パンドラの箱」のふたを開けてしまう可能性は十分にある。それが21世紀初めの世界です。そして、そのスタートとなったのが、9・11同時多発テロ事件でした。著者は、その事件以後の世界について様々な角度からの分析を行い、その結果をこの小説の中に詰め込めるだけ詰め込んでいます。読者はそこに納められた目が回るほどの情報を取り込みつつ、物語をも追わなければなりません。そこまで、それらの情報を共有できるかは、読者にゆだねられますが、著者もまたその解説のために物語の展開を進めきれなくなるところをギリギリのところでふんばって読者を置き去りにさせずに済ませています。
 書きたいことはいっぱいあるのに、それでは物語が進まない。この部分こそ、H・G・ウェルズの時代からSF作家が苦労してきた最重要事項です。その点、「わかりやすく読者にメッセージを伝える」という教師としての作家作業の部分を、著者は見事にこなしていると思います。しかし、「虐殺の文法」についてだけは、もう少し明確な説明がほしかった。ただ僕としては「虐殺の文法」のヒントとしてアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーの仕事をあげておきたいと思います。

<ノーム・チョムスキー>
 20世紀を代表する言語学者であると同時にアメリカの帝国主義的政策を批判する最も過激な思想家でもあったチョムスキーについては、この本の中でヒロインのルツィアも彼へのリスペクト(いや愛情か?)を表明しています。アメリカの対外政策に対する彼の批判については、記録映画「チョムスキー 9・11」(2002年)としても公開されており、世界中で大きな注目を集めました。アメリカが米ソ冷戦時代以降に行なってきたCIAなどによる秘密工作の数々を調査研究してきた彼なら、CIAなどの機関が行なってきたクーデターや内戦の誘導手法について誰よりも詳細に把握しているはずです。もしかすると、そこには「虐殺の文法」と結びつくような秘密が存在しているのかもしれません。彼がこの小説を読んでどんな感想をもつのか知りたいものです。

<伊藤計劃>
 この本の著者、伊藤計劃は1974年10月14日東京生まれで、「計劃」の「劃」の字はジャッキー・チェンの大ヒットシリーズ「プロジェクトA」の原語タイトルからとられたものとのことです。なるほど、彼はブルース・リーではなくジャッキー・チェンの世代のようです。
 武蔵野美術大学美術学部映像科在学中、彼はマンガ研究会に所属。しかし、マンガ家になる道へは進まずテレビ局系のウェブ制作会社に就職。ところが本格的に働き出す間もなく27歳の時(2007年夏)にガンに侵されていることがわかり入院。この時は手術と治療により無事に退院しますが、2005年に再び発病。抗がん剤による治療を続けてやっと2006年に退院した彼は会社勤めをしながら、わずか10日間でこの作品を書き上げたといいます。
 角川書店が主催するSF小説の文学賞「小松左京賞」に応募。前述の理由により、この作品は受賞を逃しますが、高い評価を得たことから2007年、単行本として出版されます。いsかし、彼の病状は再び悪化。この小説の出版時も彼は病院のベッドの上にいたといいます。もう彼は死から逃れられないことを悟っていたのかもしれません。彼は入退院を繰り返しながらもイベントへの出席や執筆活動に時間を使い続け休むことを拒否し続けました。
 翌2008年、この作品は「ベストSF2007」の第一位に選ばれ、その名は全国的なものとなります。6月には、第二長編「Metal Gear Solid Guns of the Patriots」、続いて7月には遺作となった第三作「ハーモニー」を完成させますが、もうこの時、彼には回復の可能性は失われていました。
 12月に「ハーモニー」が出版されると、その作品は再び高い評価を受け、星雲賞日本長編部門、日本SF大賞、ベストSF国内篇第一位など、国内の各章を総なめにすることになりました。しかし、結局彼はそのことを知ることなく3月20日にこの世を去ってしまいました。
 壮絶な闘病生活を続けた中で書き上げられた小説であることを知らずに僕はこの小説を読みましたが、たぶんそれで良かったのでしょう。だからこそ、この小説の弱点も見えたし、彼が怖れる近未来社会の姿も理解できたように思います。

<虐殺の文法とは?>
 文庫版のあとがきに、この小説は「攻殻機動隊」と「地獄の黙示録」の融合と書かれていましたが、僕もまさにそのとおりだと思いました。しかし、そこで非常に重要な役割を果たしている「虐殺の文法」とはいったいいかなるものなのでしょうか?
 あらゆる言語において使用可能であることから、それは特定の「用語」や特定の「音」を必要とするわけではなさそうです。言葉のもつ「音」ではなく、言葉の「意味」が重要であり、「意味」と「意味」を関連づけることで生まれるなんらかの「イメージ」が人に逃れられない呪縛を与えると考えられそうです。
 もしかすると、聖書の中で悪魔がイエス・キリストに擦り寄り耳元でささやいた誘惑の言葉もこの「虐殺の文法」をもとにしたものだったかもしれません。

「その原稿は、ある意味で楽譜だった。ぼくは、それをできるだけ音楽に似せようと努めた。唱うように語ろうとした。音を、リズムを、強烈に意識しながら、あなたたちに殺しあってほしい、アメリカの外で、いろんな人々が殺しあったように、と祈りを込めながら語った。これが祈りであることに、これが歌であることに、だれかが気づいてくれればいいな、と思いながら。」

 カリスマ的英雄だったヒトラーやムッソリーニらの演説スタイルがもつ独特のリズムとイントネーションにも秘密が隠されているのかもしれません。「地獄の黙示録」のヘリコプター部隊が用いたワーグナーの勇壮な序曲「ワルキューレの騎行」が頭の中で鳴り響き続ければ、人は多少の危険は忘れてしまうでしょう。それは、なにかの強烈なイメージを頭の中でループさせ、それ以外のことをシャットアウトしてしまうのかもしれません。映画「時計仕掛けのオレンジ」でマルコム・マクドウェルが見せられた強烈なフィルムがもし快感と共に与えられたら・・・。それとも、この小説の中にも登場する「感覚の遮断」(マスキング)を言葉によって行い、暴力に対する罪悪感を失わせてしまうことも可能でしょう。
 もしかすると、聖書の中に登場する「バベルの塔」の物語において、神が人々を混乱に陥れたのが「虐殺の文法」の起源かもしれません。

<9・11以後の世界>
 この小説が9・11同時多発テロ事件とそれに対するアメリカのイラク攻撃の影響を大きく受けているのは明らかです。しかし、この小説の結末はアメリカ人どう受け止められるか気になるところです。ただし、9・11事件以後しばらくは、確かにアメリカこそ世界の平和にとって最大の脅威であったことは確かです。しかし、それから10年後世界同時不況の影響で世界が混沌として以降、その状況は変わりつつあるようです。不況の震源地となったアメリカの世界経済への影響力は急激に低下。今や中国、ソ連がその影響力を強めつつあります。皮肉なことにアメリカは「自由経済」という自らが広めた「資本主義経済の文法」によって、自らの国を崩壊の危機に追い込んだのです。そして、アメリカの影響力が低下してもなお、世界に平和が訪れる気配は今のところなさそうです。オバマ大統領誕生の時点では、何かが変わりそうな気配があったのですが、・・・。

<参考資料>
 著者がこの小説に盛り込もうとした様々な情報については、彼が文章中に登場させている引用文や小説や映画、音楽について知ることでさらに深く知ることができるでしょう。そこで、僕なりにそれらの情報について参考資料を作ってみました。幸い、このサイトと彼の小説にはかなりの共通点があったようです。全部読むとこの小説よりもボリュームがあるかもしれません。

「不思議の国のアリス」 P11 このブラックな感じは、原作よりも「バーナム博物館」に収められた「アリスは落ちながら」を思わせます
ジミ・ヘンドリックス P27 ジミ・ヘンドリックスの「ブードゥー・チャイル」ちょっと定番すぎるぐらいの名曲です。
映画「2001年宇宙の旅」 P28 2001年宇宙の旅」における静かなる殺人、地味な場面ですが怖いシーンでした。
アインシュタインの相対性理論 P42 アインシュタインの相対性理論は、そんなに難しい理論ではありません。しかし、それを生み出したのは奇跡的です
ジャクソン・ポロック P62 ジャクソン・ポロックの独特の作風「ポアリング」は確かに血がしたたっているようです。
ヘミングウェイ、カート・コバーン P69 アーネスト・ヘミングウェイカート・コバーンどちらも銃によって自殺した英雄です
「思考し得ぬものを思考する」 P87 と言ったのはヴィトゲンシュタインというわけではないようですが・・・・・。
映画「プライベート・ライアン」 P93 「プレイベート・ライアン」の冒頭15分はこれぞ戦場といえる最高かつ最悪の場面です。
僕はもう上陸前の場面だけで船酔いして気持ち悪くなってしまいました。
たぶんこの場面によって、戦争映画は「西部戦線異状なし」以来、再び新たなステージへ進化したものと思われます。
小説「変身」とカフカ P116 ある朝グレゴール・ザムザは自分が一匹の巨大な毒虫に・・・フランツ・カフカの「変身」からの一節です
チョムスキーの話は確かに・・・ P119 ノーム・チョムスキーは確かに魅力的かもしれません。そして、この小説の重要なキーマンなのだと思います。
映画「パルプフィクション」 P135 ブライアン・イーノも「パルプフィクション」を観てこう言っていた・・・
J・G・バラード P139 その原作、J・G・バラードって人が書いたの。・・・
映画「ブレードランナー」 P142 「リドリー・スコットが創造したロサンゼルス」とは、もちろん映画「ブレードランナー」のLAのこと
ミーム的な進化 P365 進化論における重要な言葉「ミーム」とは何か?
CNN P371 テレビのニュース・スタイルを変え、世界を変えたCNN



「虐殺器官 Genocidal Organ」 2007年
(著) 伊藤計劃 Keikaku Ito (Project Ito)
ハヤカワ文庫

遺作となった傑作「ハーモニー」(2008年)についてはここから!(祝 P・Kディック特別賞受賞!

20世紀空想科学史へ   20世紀文学大全集へ   トップページへ