アメリカン・クロスオーヴァー・ミュージックの原点

- ジョージ・ガーシュイン George Gershwin -

映画「アメリカン交響楽」

<追記>2003年12月24日

<アメリカのシンボル>
 アメリカと言えば、ニューヨーク。そして、ニューヨークと言えば、マンハッタンにそびえ立つ摩天楼。そして、そこに流れる曲と言えば、文句なしに「ラプソディー・イン・ブルー Rhapsody In Blue」ではないでしょうか。ウディー・アレンの代表作「マンハッタン」のオープニングを思い出される方もいるかもしれません。実際、アメリカ人にとっても、アメリカとニューヨークと「ラプソディー・イン・ブルー」は切っても切れない関係にあるようです。
 このアメリカの象徴とも言える曲を作ったジョージ・ガーシュインとは、いったいいかなる人物なのか?以前から、僕はそのことが気になっていました。
 彼が作ったもうひとつの代表作、「ポーギーとベス」は黒人オペラであり、そこからはいくつもの名曲がジャズのスタンダード・ナンバーになっています。彼は白人?ユダヤ人?黒人の血は?なぜ、その後のジャズの時代に彼の名前が出てこないのだろう?
 ロックからR&B、ブルースへ、さらにジャズからラグタイムへとさかのぼって行くポピュラー音楽の歴史において、ジョージ・ガーシュインは、どんなところに位置しているのだろう?
 そんな数々の疑問に答えてくれる本にやっと出会うことができました。その本は「ラプソディー・イン・ブルー ガーシュインとジャズ精神の行方」(平凡社)、なんと作者は末延芳晴という日本人でした。ガーシュインに興味を持たれた方は、是非この本をお読み下さい。お薦めです。

<ストリートの悪ガキ>
 ジョージ・ガーシュインは、1898年9月26日ニューヨークに生まれています。本名はジャコブ・ガーシュイン。名前のとおりユダヤ系のロシア人で、父親のモイシェ・ガーシュヴィッツはロシアからユダヤ人への迫害を逃れて1890年アメリカに移民してきました。
 意外なことに彼の父親は靴の装飾デザイナーが本職で、音楽との関わりはまったくありませんでした。そのため、彼と楽器の出会いは、14歳の時に兄のために購入されたピアノが最初だったということです。彼ほど音楽教育との出会いが遅かったクラシック音楽の作曲家は他にいないかもしれません。それまでの彼は単なる街の不良少年だったのです。

<新しい音楽を創造できた理由>
 ユダヤ人街の不良少年として、仲間たちと遊び回っていたガーシュインは街中に流れていた当時の人気ナンバー1ポップス、ラグタイムを聞きながら育ちました。(実際当時はあらゆる曲がラグタイムに編曲されて演奏されていました)
 その後、彼はクラシックの理論や和声学を学んでゆくのですが、この頃聞いた音楽が後に「ラプソディー・イン・ブルー」を生むうえで大きな意味を持つことになります。さらに、クラシック音楽の作曲家としての教育期間が短かったぶん、彼にはジャズやラグタイムをクラシックに取り込むための「心の自由度」が残されていたのです。
 逆に音楽教育を受けるのが遅れた分、彼には編曲の能力が不足していたとも言われています。そのため、彼は自分自身のオリジナルのイメージに基づく「ラプソディー・イン・ブルー」を楽譜として残すことができなかったのではないかとも、言われているようです。そして、元々は小編成のジャズ・バンド用に作られたはずの曲がクラシック音楽の名曲と呼ばれるようになり、後に別の作曲家が編曲したオーケストラ版だけが広まることになりました。

<ラグタイムとは?>
 ラグタイムとは、一般的にアフリカから持ち込まれた音楽をクラシックの様式によって楽譜化したもので、独特のシンコペーションを持つピアノ・サウンドに代表される音楽をさします。1899年に黒人のピアニスト、スコット・ジョップリンが「メープル・リーフ・ラグ」を大ヒットさせて一躍有名になり、その後1911年に白人の作曲家アーヴィング・バーリンが「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」を大ヒットさせたことで、一気にアメリカのポピュラー音楽における主流になりました。
 基本的には、アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の融合ということになりますが、そこに奴隷生活から生まれた悲しみの感情「ブルース・フィーリング」やアフリカ音楽独特のアドリブ・パートが加わることで、いよいよジャズやブルースなど現在につながる黒人音楽が生まれることになります。
(一番わかりやすいのは、映画「スティング」の音楽でしょう。アカデミー賞も受賞したマーヴィン・ハムリッシュの音楽は、全編ラグタイムの完成者スコット・ジョップリンの曲ばかりです)

<ティンパン・アリーの売れっ子ミュージシャン>
 この当時、音楽はレコードで聴くものではなく、ピアノなどの楽器を用いて生で演奏するものでした。(まだまだレコードは普及していませんでした)そのため、音楽産業とは楽譜販売業のことだったわけです。したがって、楽譜を販売する企業は、売りたい曲のプロモーションのために常時演奏者(ピアニスト)を必要としていました。
 そんな楽譜商が軒を並べていたのが、ニューヨークの有名な通り「ティン・パン・アリー」でした。(「ティン・パン」とは、ピアニストたちが一日中ピアノの鍵盤を「ティン!パン!」と叩いていたところから名付けられました)
 少年ガーシュインは、その通りにある企業の中でも大手に属するレミック社のオーディションを受けたところ、見事に合格してしまいました。なんとまだ15歳の若さでした。さっそくデモンストレーション・ピアニストとしての仕事を始めた彼は、売れ筋ナンバー1のラグタイムのテクニックを磨くため、優秀な黒人ラグタイム・ピアニストが出演する店を巡り歩きます。それは仕事のためとはいえ、彼にとっては至福の時でもあったようです。そうして彼はどんどんそのテクニックを盗み取り、白人としては文句無しのナンバー1ピアニストにのし上がって行きました。

<作曲家としての活躍>
 レミック社の看板ピアニストになった彼は、その知名度を利用して作曲家としての活躍も開始します。こうして発表された曲の中には、彼の兄アイラが作詞を担当し、彼が作曲した最初のミュージカル「レディーズ・ファースト」(1918年)があり、その中には「本当のアメリカのフォーク・ソングはラグ・タイムだ」というタイトルのラグタイム・ナンバーも収められています。
 しかし、一世を風靡したラグタイムも1917年に「ラグタイムの王様」スコット・ジョップリンが死んだあたりから、少しずつ人気に陰りが見え始めます。そして、逆に人気が高まり始めたのが、ニューオーリンズ生まれのデキシー・ランド・ジャズでした。

<ジャズ王との出会い>
 クラシックの楽団でバイオリンを弾いていたポール・ホワイトマンは、シカゴでデキシーランド・ジャズと出会い、その魅力にいち早く気づきました。彼はニューオーリンズから少しずつ北上していたデキシーランド・ジャズをいち早くニューヨークに持ち込み、自らが作った楽団で演奏し大ヒットさせます。彼はその新しい音楽を白人向けにわかりやすく整理し、オーケストラによるダンス音楽として広めることに成功したのです。彼はこうして自らを「ジャズ王」と称し、彼のヒットさせたオーケストラによる音楽が後のビッグ・バンド・ジャズの元となり、スウィング・ジャズへと発展して行くことになります。(もちろん、カウント・ベイシーやデューク・エリントン、ルイ・アームストロングら、黒人アーティストたちの存在なしにその本格的発展はなかったのですが・・・)
 そんな「ジャズ王」ポール・ホワイトマンが、お得意の先見の明でジョージの才能に目を付け、彼に大きなチャンスを与えました。
 彼は自ら「アメリカ音楽とは何か?」という実験的コンサートを企画、その中でジョージ・ガーシュインによるジャズ・コンチェルトの新曲を演奏すると発表しました。(ところが、この企画がマネされることを怖れたホワイトマンは、新聞発表当日までそのことを秘密にしていました。そのため、ガーシュインですら、そのコンサートとそこに自分の名前があることを知らなかったそうです。なんと、歴史的名曲「ラプソディー・イン・ブルー」は、作者が知らないうちに、その発表を義務づけられてしまっていたのです!)

<「ラプソディー・イン・ブルー」誕生>
 1924年2月12日リンカーン大統領の生誕記念日、エオリアン・ホールにおいてポール・ホワイトマンが指揮するパレ・ロワイヤル・オーケストラが「アメリカ音楽とは何か?」というタイトルのもと、新しい作曲家たちの作品を次々と演奏してゆきました。審査員の中には、あのラフマニノフをはじめとする大物作曲家たちも名を連ねており、人々は新しい時代のアメリカ音楽の誕生を期待して、そこに集まっていました。しかし、その時演奏された曲の中には、意外に目新しいものが少なく、しだいに観客たちはコンサートに飽きてきました。
 そんなコンサートも終わりにさしかかったころ、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」が登場。いっきにその場の空気を変えてしまったそうです。
 それはクラシックとラグタイムを単純に合わせただけの音楽ではありませんでした。そこにはブルースやジャズのもつ「ブルー」な雰囲気とユダヤの人々が愛する独自の音楽、クレツマーの要素も加えられ、人種のるつぼニューヨークを象徴するかのような音楽に仕上げられていました。(この曲の冒頭に登場するクラリネットの不思議な音色はまさにクレツマー音楽の特徴そのものです)
 さらにこの曲が優れているのは、それらの複雑な音楽要素に順位づけをするのではなく、どこを切っても楽しめる織物(タペストリー)として作られていることです。そのため、この曲は何度聞いても飽きないし、どこから聞いても楽しめるスタンダード・ナンバーに成り得たのです。そして、そんなこの曲のもつ構造こそ、アメリカという国の構造そのものだったわけです。

<ジャズ・エイジの作曲家>
 遅いスタートだったにも関わらず、「ラプソディー・イン・ブルー」を作曲した時、彼はまだ24歳の若者でした。元々街の不良少年だった彼は、けっして品行方正な人物ではなく、生涯未婚のまま酒と女にお金を使うのが楽しみという当時流行の「ジャズ・エイジ」的人物の典型でした。
 しかし、そんな人物だったからこそ彼には怖いものもなく、新しい挑戦に向かうことができたのでしょう。彼以外にも、ドボルザークやドビュッシー、ストラビンスキー、エリック・サティーなどの作曲家たちが、アメリカの黒人音楽を元にした曲を作っていますが、彼らは黒人音楽を「聴いた」だけであり、「体験」していなかったため、クラシックの枠を越えることはできませんでした。
(当時の「ジャズ・エイジ」風俗を知るには、ロバート・レッドフォード主演の映画「華麗なるギャッツビー」がぴったりかもしれません。もちろん、小説ならスコット・フィッツイジェラルドということになるでしょう。それから、もうひとつ映画で、そのものズバリ「ミセス・パーカー/ジャズ・エイジの華」(1994年)という作品もあります。アラン・ルドルフ監督でロバート・アルトマンが製作の作品です。お話は、それほど面白くはありませんが、実に良く当時の状況を見せてくれています)

<黒人音楽に迫った男>
 1935年、彼はさらに奥深い黒人音楽の世界に挑戦します。それがデュボース・ヘイワードによって書かれた「ポーギーとベス」のオペラ化です。この作品は、1970年代になるまで黒人キャストによる本格的な公演が行われなかったにも関わらず、そこからは数多くのスタンダード・ナンバーが生まれました。
 このオペラを作る際、彼はその作品の舞台になった土地、チャールストン近郊にあるフォーリー島を訪ねています。その時、彼はすぐにその島に住む黒人たちの間にとけ込み、彼らのダンスの輪に加わって人気者になってしまったといいます。やはり彼は単なる黒人音楽オタクではなかったのでしょう。

<早すぎた死>
 その後彼はハリウッドに居を移し、映画音楽の仕事をするようになりますが、その分野で大きな結果を残すことはできませんでした。残念なことに、彼はその後すぐ脳腫瘍でこの世を去ってしまったのです。まだ39歳の若さでした。こうして、アメリカにおけるクロスオーバー・ミュージックの原点は、あっという間に時代を駆け抜けて行ったのです。
 若くして彼がこの世を去ったことで、その名はいつしか伝説と化しました。その存在はある意味ジミ・ヘンジャニスジョン・レノンボブ・マーリーらに通じるものとなったのです。しかし、彼の場合、アメリカのクラシック音楽を代表する輝ける星となったがために、街の酒場で演奏されるラグタイムの作曲家であったことは、すっかり忘れられてしまいました。そのことが、彼によって良かったのか、悪かったのか?
 今や大衆音楽としての人気をすっかり失ってしまったクラシック音楽にとって、ガーシュインは最後のアイドルだったのかもしれません。

<クレツマー音楽についての追記>
 末延氏の本の中に池宮正信さんというニューヨーク・ラグタイム・オーケストラを率いている方についての紹介があります。ガーシュインが実際に演奏していた音楽スタイルを現代に再現しているということで、是非一度聴いてみたいものです。(この方、本職はクラシックのピアニストだそうです)
 しかし、考えてみるともうひとり似たようなスタイルの音楽を追求している人がいました。それは映画監督のウディ・アレンです。先日偶然彼が出演しているドキュメンタリー映画「ワイルド・マン・ブルース」(1998年)を見る機会があったのですが、なんとこの映画ウディーのジャズ・クラリネット奏者兼バンド・リーダーとしてのヨーロッパ・ツアーを収めたものでした。
 筋金入りのユダヤ系ニューヨーカーである彼が、クラリネットを用いて再現するスウィング・ジャズ以前のジャズ。これは間違いなくガーシュインの時代の音楽のはずです。どうやら、彼のほとんどの映画で聴かれるちょっと古めのジャズの原点はそこにあったようです。
 さらにもう一つ思い出したことがあります。映画「戦場のピアニスト」の中で、ユダヤ人居住区内の踏切でドイツ兵が無理やり演奏させるバンドもまた、まさにクレツマーの楽団でした。人々に楽しみを与えるはずの音楽が逆に精神的暴力の武器にされていたという点で、あのシーンは僕にとって強烈に印象に残りました。

<ガーシュインの映像>(2003年12月24日)
 NHKが制作した「映像の世紀」(3)にガーシュインの映像が収められています。(もちろん生演奏も)自演の「ラプソディー・イン・ブルー」は、一般的に聞かれているものより、ずっとテンポが早くダンサブルななジャズでした。

<締めのお言葉>
「ヨーロッパの民族音楽は、ハーモニーの面でいささか複雑であり、アフリカの部族音楽はリズムの点でいささか複雑である。メロディーに関しては両者ともだいたいにおいて同等だ・・・新大陸にやって来たアフリカ人は、彼らを迎えたフォーク・ミュージックを、リズムに欠けるだけで十分耳慣れたものとして聞いたに違いない」

マーシャル・スターンズ「都市の黒人ブルース」より

映画「アメリカ交響楽 Rhapsody in Blue」 1945年 
(監)アーヴィング・ラパー(アメリカ)
(製)ジェシー・L・ラスキー(原)ソニア・レヴィン(脚)ハワード・コッチ、エリオット・ポール、クリフォード・オデッツ(撮)ソル・ポリト(曲)マックス・スタイナー
(出)ロバート・アルダ、ジョーン・レスリー、アルバート・バッサーマン、アレクシス・スミス、ジュリー・ビショップ
(本人が出演)オスカー・レヴァント、ポール・ホワイトマン、アル・ジョルスン、ジョージ・ホワイト、ヘイゼル・スコット
<あらすじ>
無名の作曲家、ジョージ・ガーシュインがソングプラガーとして活動開始。その後、アル・ジュルスンに作曲した「スワニー」がヒット 。
商業作曲家で終わらないようブラームスやベート―ベンを目指せと教えてくれた師匠の意志を継ぎ、彼は「ラプソディ・イン・ブルー」を作曲。
交響楽を書くためにパリに渡った彼は、そこでラベルや様々な人々と出会います。
彼のその後の大成功からその死までを描きます。
かなりの傑作です。音楽の再現が素晴らしく音楽へのこだわりが感じられます!
「交響曲を書きたいから教えて欲しい」と頼んだら、ラベルが「私が教えても第二のラベルになるだけだ」と言ったというのは本当のこと。
「ラプソディ・イン・ブルー」は最初から最後までフルで演奏されていて迫力満点で、泣けます!
ピアノも実際に弾いているような主役のロバート・アルダはミュージカルもこなす俳優。そして、なんと「マッシュ」などの名優アラン・アルダの父親です!
脚本家のハワード・コッチは「赤狩り」の被害者の一人です。ユダヤ系白人のジャズへの愛情が生み出した。
ガーシュインの死から8年後に撮られていることもあり、多くの人物を本人が演じているのも異色。

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