静かなるビートルよ安らかに眠れ


- ジョージ・ハリスン George Harrison -

<静かなるビートル>
 偉大なるバンド、ザ・ビートルズにあってファンから「静かなるビートル」と呼ばれていた男、ジョージ・ハリスン George Harrison。彼は1943年2月25日にウェールズ系のバスの運転手だった父親とアイルランド系の母親の間に生まれました。ということは、年齢的にビートルズの中で最も若いメンバーだったことになります。だからなのか、彼はバンド内では常に目立たない存在として表に出ない存在でした。そのため、ビートルズへの音楽的貢献はそれほど大きくなかったと言われます。
 彼はビートルズの解散によって初めて音楽界で存在を認められる存在となったと言えるのかもしれません。ここでは、彼のビートルズ内での活動から始めて、ソロとしての活躍にスポットを当ててその後半生を追ってみようと思います。

<ビートルズでの活動>
 ビートルズでのジョージの活動は、当初はほとんど目立っていませんでした。ポール・マッカートニージョン・レノンという二人の天才がいたのですから、それは仕方ないことだったのかもしれません。やっと彼の曲が注目を集めるようになったのは、1966年のアルバム「リボルバー」からです。このアルバムでは、ジョージの曲「タックスマン」がアルバムの一曲目に収められ、さらにインド音楽の要素を前面に打ち出した「ラブ・ユー・トゥー」は、ビートルズのインド音楽への傾倒を示していました。この後、1967年8月ビートルズはインドの思想家マハリシ・ヨギに弟子入りするためインドに渡ります。結局ヨギとの関係は長続きしませんでしたが、インド文化に魅了されたジョージはシタール奏者ラヴィ・シャンカールに弟子入りすることになります。(ビートルズのメンバーの中で最もインド文化にのめりこんだのがジョージでした)そして、少しずつ彼の曲はビートルズの中で重要な位置を占めるようになってゆきました。
 代表的な曲としては、名曲「While My Guitar Gently Wheeps」(1968年「ホワイト・アルバム」収録)、ジョージ初のシングルとなった「Something」、ビートルズの代表曲ともなった「Here Comes The Sun」(ともに1969年「アビーロード」収録)しかし、この頃すでにビートルズは解散の危機に陥っていて、メンバーは早くもソロ活動を始めていました。ジョージもそんな状況の中、先ずは映画の世界に進出しています。
 1968年、ジョージはジェーン・バーキン主演の映画「不思議の壁 Wonderwall」のサントラ盤の音楽を担当。翌年にはインストのソロアルバム「電子音楽の世界 Electronic Sound」を発表。それは当時開発されたばかりのムーグ・シンセサイザーを用いた前衛的なアルバムでポップとは縁遠い内容でした。しかし、彼の頭の中にはビートルズでは使ってもらえなかった多くの曲が眠っていて、それを発表する機会を求めていました。ビートルズ内ではスタジオ録音の際、ポールにアイデアを使ってもらうどころか、ギターの弾き方を指示されることもあり、彼の中にはかなりの曲とストレスがたまっていたようです。ビートルズの解散はそんな彼にやっと自由な発表の場をもたらしたといえます。

「・・・カメラの前にいて、撮影が行われている際中だというのに、ポールはぼくの演奏がまずいといって”当り散らす”始末だった。・・・」
ジョージ・ハリスン(映画「Let It Be」撮影中の出来事について)

 ジョージとポールの関係が悪かったのは明らかでしたが、どうやらジョージはジョンとの仲も上手くいっていなかったのかもしれません。ビートルズ解散の理由に迫った「ザ・ビートルズ解散の真実」という本の中にポールのこんな発言があります。

「ぼくにとって慰めだったのは、(レノンが)死んだとき、ぼくらが関係を修復できていたことだ」とマッカートニーは1992年にふり返っている。「その点ではジョージに同情するよ。彼にはそのチャンスがなかったからね。ジョージは最後まで言い争っていた」

<名盤「All Things Must Pass」>
 ビートルズの解散後、メンバーが次々にソロ・アルバム発表のための準備をする中、彼はそれぞれの録音に参加します。そして最後になっていよいよ自分のアルバムの録音を開始。ビートルズ時代に発表できなかった曲と多くのゲストとのセッションをめいっぱい詰め込んだアルバムを作り上げます。
 こうして1971年、20世紀を代表する名盤「All Thinghs Must Pass」が発表されました。このアルバムは3枚組という異例のヴォリュームでした。(値段は当時日本では5000円)レコード会社は当然反対したはずです。しかし、予想を覆しこのアルバムは大ヒットとなり、全英、全米両チャートで7週連続ナンバー1に輝きました。

「All Things Must Pass」(訳)山本安見
朝陽の輝きはずっと続くわけではなく
午後の夕立ちは夜までずっと続きはしない
こよなく愛した女との恋も今は終わり
あの女は別れも告げずに去っていく
だけどこの灰色の日々もいつかは終わる
すべては移りかわっていく
すべては過ぎ去っていく

 シングルとして大ヒットした「My Sweet Lord」、「What Is Life」、それに「Wah-Wah」、「I'd Have You Anytime」など、ポップな曲が並ぶこのアルバムはヒットして当然の内容でした。しかし、このアルバムの聴き所は、それだけではなく豪華なメンバーによる素晴らしい演奏にありました。
 その演奏の中心となったのは、ボビー・ウィットロック(KeyB)、カール・レイドル(Bass)、ジム・ゴードン(Dr)の3人。彼らはデラニー&ボニーのバック・バンドとしてイギリスに来ていましたが、この後彼らはエリック・クラプトンとデレク&ザ・ドミノスを結成。あの伝説の名曲「レイラ」を録音することになります。
 その他、ドラムにはもちろんリンゴ・スターも参加(半分は彼のドラム)、ベースにはクラウス・フォアマン、ピアノにはビリー・プレストン、そしてギターには盟友エリック・クラプトン、その他にもフィル・コリンズ(Dr)、ゲーリー・ライト(オルガン)、ボビー・キーズ(サックス)、デイブ・メイスン(ギター)などが参加。ちなみにクラプトンはこのアルバムには当時、ノンクレジットで参加し、「I'd Have You Anytime」、「Wah-Wah」、「If Not For You」、「Art of Dying」、「Plug Me In」でギターを弾いています。
 このアルバムは、参加者が多いだけでなく音自体も分厚くなっています。曲によっては、ピアノ2台、ベース2人、ギターが4,5人、ドラム2台などが演奏しています。そんな分厚すぎる演奏を、すっきりとまとめあげたのは、「ウォール・オブ・サウンド」で有名な名プロデューサー、フィル・スペクターです。当時、絶頂期に合った彼のプロデュースも、このアルバムで重要な役目を果たしています。
 歌詞に注目すると、このアルバムに収められている曲は、ほとんどが「愛の歌」と「神の歌」です。そして、「愛の歌」の多くは彼女への惜別の歌なのですが、聴き方によってはビートルズのメンバーに歌っているようにも聴こえてきます。「Wah-Wah」、「Isn't It A Pity」、「Run of the Mill」、「All Things Must Pass」、「Art of Dying」・・・

<伝説のライブ「バングラディッシュ」>
 1970年11月、インドがイギリスから独立する際、宗教的違いから二つに別れて独立したうちの東パキスタン(バングラディッシュ)で巨大なサイクロンが発生。これにより25万人もの命が失われました。これにより東と西の対立が激化し、独立運動が起きます。それはすぐに内戦へと発展し、30万人が命を落としました。元々東パキスタンで生まれ育っていたラヴィ・シャンカールは、故国を救うためのチャリティー・コンサートを企画します。
 1971年8月1日昼夜二回、彼はラヴィ・シャンカールからの要請で、当時食糧危機により悲惨な状況にあったバングラディッシュを救済するためのコンサート「バングラディッシュ救済ライブ」を主催します。このコンサートには、リンゴ・スター、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、レオン・ラッセルら多くのミュージシャンが参加。このライブは、その後数多く開催されることになる様々なエイド・ライブ(慈善コンサート)の原点となりました。この時のライブ録音は、こちらも3枚組のライブ・アルバム「バングラディッシュ」として発売され全英1位、全米2位の大ヒットとなり、1972年のグラミー賞アルバム・オブ・ジ・イヤーに選出されました。
 このコンサートの成功によって、ジョージはビートルズのメンバーの中でも最も活躍する存在になったとえます。それまで、ジョンとポールの陰に隠れていたジョージはやっと自分の力で成功し、ソロ活動に向けて幸先の良いスタートを切ったのでした。
 勢いに乗る彼は、1973年アルバム「Living In The Material World」を発表。全英2位、全米1位の大ヒットとなり、シングルカットされた「Give Me Love」も全英8位、全米1位となりました。
 1974年、彼は「ダークホース・レーベル」を立ち上げ、ラヴィ・シャンカールやスプリンターらのアルバムをそこから発売します。そして、アルバム「ダークホース Dark Horse」を発表した後、1975年にアルバム「ジョージ・ハリスン帝国 Extra Texture」を発表後、アップルとの契約を終え、自身のレーベルに移籍します。
 移籍後、彼はアルバム「331/3」(1976年)、「慈愛の輝き George Harrison」(1979年)を発表。しかし、この頃彼の人生は大きな曲がり角に来ていました。愛妻パティ・ボイドとの離婚があり、彼女は友人のエリック・クラプトンと結婚してしまいます。
 さらに1976年、大ヒット曲「My Sweet Lord」が、R&Bコーラス・グループ、シフォンズのヒット曲「He's So Fine」の盗作との裁定が下され、彼は58万7000ドルの支払い命令を受けてしまいます。本人はゴスペルの名曲「Oh,Happy Day」を元に作ったつもりで、シフォンズの曲との類似に気づかなかったことを後悔していたといいます。きっとそれはわざとではなかったのでしょう。
 1981年のアルバム「想いは果てなく― 母なるイングランド Somewhere in England」(全英13位、全米11位)からジョンに捧げた追悼曲「過ぎ去りし日々」が全英13位、全米2位のヒットになったものの、その後1980年代の彼は忘れられた存在となります。

<映画製作者の顔>
 彼のもうひとつの顔として映画に関わる仕事があります。自らの映画製作会社ハンドメイド・フィルムスを1979年にデニス・オブライアンと立ち上げたジョージは映画の音楽を担当しただけでなく、数多くの映画のプロデューサーを務めています。代表的な作品としては「モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン」(1979年)などのモンティ・パイソン作品。そして、モンティ・パイソンのメンバーから映画監督として巨匠の仲間入りを果たしたテリー・ギリアムの初期の傑作「バンデッドQ」(1981年)。ニール・ジョーダン監督のヒット作でボブ・ホスキンスを一躍スターにした「モナリザ」(1986年)などを製作しています。その他にも、彼は様々な映画に俳優、音楽、製作として参加しています。彼にとっては映画もまた重要な仕事の場だったようです。
 彼の死後、そんなジョージのドキュメンタリー映画をマーチン・スコセッシが発表しています。

<再ブレイク作「クラウド・ナイン Cloud Nine」>
 1986年、彼は自らの映画プロダクション作品「上海サプライズ」に出演し音楽も担当します。残念ながら、この映画の評価は散々でしたが、この時スタジオで元エレクトリックライト・オーケストラのジェフ・リンと知り合い意気投合。それをきっかけにジョージは次のアルバムに、ジェフ・リンを共同プロデューサーに迎えることになりました。こうして、アルバム「クラウド・ナイン Cloud Nine」(1987年)が発表されると、そこからシングルカットされた「Set On You」は全米1位の大ヒットとなりました。
 ジェフ・リンとは、翌年再びバンドを組み、そこにボブ・ディラン、トム・ペティ、ロイ・オービソンを加えてトラベリング・ウェルベリーズを結成し、アルバム「ヴォリューム1」を発表します。そして全米10位の大ヒットとなったこのアルバムは、1989年度のグラミー賞最優秀ロック・グループ・アルバム賞を受賞しました。

「みんなとにかく盛り上がっていた。たぶん全員が、自分ひとりで全責任を負わなくてもいいという事実にノッていたんじゃないかな」。ただしペティは、「ジョージがぼくらのリーダーで、マネージャーだった」ことを認めていた。
 20年前のハリスンは、以前ディランのバッキングを務めていたザ・バンドのように、おたがいに協力し合う、完全に民主的なユニットに加入することを夢見ていた。そして、今、彼の願いはかなえられた。

ザ・ビートルズ解散の真実」より

 1990年には再びトラヴェリング・ウェルベリーズのアルバム「ヴォリューム3」に参加。その後は、ウェルベリーズのメンバーやエリック・クラプトンのアルバムにゲスト参加。さらに1991年、クラプトンと彼のバックバンドを従えて日本でのライブ・ツアーを行ないます。この録音は「Live In Japan」(1992年)として発表されていますが、これがジョージ唯一のソロでの日本公演となりました。思えば、彼は愛妻パティ・ボイドをクラプトンに奪われたのですが、結局クラプトンもパティと離婚。二人の友情はより深まることになったのかもしれません。
 2001年、彼はアルバムの録音を開始しますが、肺がんがであることがわかり、緊急入院し治療を開始します。しかし、回復することはなく、2001年11月29日にこの世を去りました。享年58歳、まだまだこれからだったはずです。
 彼の死後、2002年、未完成だったラスト・アルバム「ブレインウォッシュド」が発表されました。

<人気者ジョージ>
 ビートルズ時代からジョージの人気は日本ではかなり高かった気がします。そのためか、ソロになってからも彼の曲は日本で次々にヒットしていました。「My Sweet Lord」、「美しき人生 What is Life」(1971年)、「Give Me Love」(1973年)、「Dark Horse」、「Ding Dong,Ding Dong」(1974年)、「You 」、「ギターが泣いている This Guitar I Can't Keep from Crying」(1975年)などの曲は僕も大好きでした。しかし、これらのヒット曲はポールやジョンの曲に比べると今やほとんどラジオなどで聞けません。残念です。
 ビートルズ解散の内幕に迫った「ビートルズ解散の真実」によると、ビートルズ解散の後、ポールとジョンの仲は最悪の状態でしたが、その後、少しずつ改善していたとも言われています。そのため、ジョンが射殺された時点でジョージが最もジョンと不仲だったと言われていたようです。
 ブラック・ユーモアが好きなのに神を信じ続けたジョージは、天国の存在を信じなかった真面目なジョンと天国で、仲直りし久しぶりにセッションすることはできたでしょうか?
 改めて「静かなるビートル」のご冥福をお祈りします。

「Art of Dying」(訳)山本安見
いつか僕たち全員
地上を去らなければならない時がくる
聖母マリアでさえ 僕たちを永遠に結びつけることはできない
そしてこの人生において
僕が骨折ったことのうち何ひとつとして
死の美学に勝るものはない
僕の言葉を信じるかい?

<参考>
アルバム「All Things Must Pass」デジタルリマスター盤ライナー

<関連するページ>
ポール・マッカートニー  ジョン・レノン  リンゴ・スター  ザ・ビートルズ・デビュー  ザ・ビートルズ解散 映画「ビートルズがやって来る/Ya!Ya!Ya!」

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