スペインに散った女性戦場カメラマンの先駆


- ゲルダ・タロー Gerda Taro -
<「崩れ落ちる兵士」の撮影者?>
 「戦場カメラマン」という20世紀が生んだ新しい職業。その伝説的存在とも言えるロバート・キャパ。彼が写した歴史的な一枚と言えば、スペイン戦争の戦場で撮られた「崩れ落ちる兵士」でしょう。
 その傑作が、最近になってキャパではなく彼の同僚であり、恋人でも会った女性カメラマン、ゲルダによって撮影されたのではないか?と言われるようになりました。それに「ロバート・キャパ」という名前は、そもそも本名ではなく架空のカメラマン・ネームとして創作されたものでした。したがって、キャパとゲルダはチーム「ロバート・キャパ」として、そうした戦場写真を撮っていたと考えるべきだったのかもしれません。しかし、ゲルダが26歳の若さでこの世を去ったことで、チームはキャパだけの一人プロジェクトとなり、ゲルダの名前はいつしか忘れられることになったのでした。そして最後には、ロバート・キャパもまた戦場で命を落としてしまい、当時の真実を語る人物がいなくなってしまったため、ゲルダの名前はいよいよ歴史から消えてしまうことになったのです。
 幸いにして、二人が残した未発表の写真が発見されたり、生存者たちへのインタビューなどにより、当時の真実が21世紀に入り、やっと明らかにされてきました。それらの事実をまとめ、一冊の本にしたのが、ゲルダの伝記本「ゲルダ キャパが愛した女性写真家の生涯」(2015年)です。
 その名を日本人芸術家で二人の友人でも会った岡本太郎からもらったとも言われる、女性カメラマン、ゲルダ・タローとはいかなる人物だったのか?
 多くの男性たちに愛され、恋多く経済的にも恵まれた人生を歩みながら、ユダヤ人であったがゆえに故国を追われ、家族を失い、反ファシズムのカメラマンとして活躍することになった女性カメラマンの波乱万丈の人生を駆け足でご紹介します。

<ゲルダ・ポホリレ>
 ゲルダ・タロー Gerda Taro は、本名をゲルダ・ポヘリレといい、1910年8月1日ドイツのシュトゥットガルトで生まれています。父親はユダヤ系の商売人で、彼女は比較的裕福な家庭で育ったと言えます。
 1917年、彼女はシュトゥットガルトに初めて作られた女性のための上級学校シャーロッテ女王実業学校に入学。
 第一次世界大戦でドイツが敗亡し、両親の母国オーストリア-ハンガリー帝国も崩壊したため、ゲルダの一家は新たな統治国となったポーランドの国籍を持つことになりました。
 1927年、経済力があった叔母の金銭的な援助もあり、彼女はスイス、ローザンヌの寄宿学校ヴィラ・フロリッサンに入学。そこでヨーロッパ各国の言語などを学びました。
 1928年、ドイツのシュトゥットガルトに戻った彼女は、市立の上級商業学校に入学。明るく美しくセンスも良く頭脳明晰な彼女は、学内でも学外でも人気者で恋人候補は多かったようです。そんな中、彼女はその頃知り合った14歳年上の資産家商人の息子ピーター・ボーテと付き合い婚約します。
 1929年、何不自由ない生活が続いていましたが、ドイツにおけるユダヤ人差別は日に日に強まっていて、商売も困難になってきたことから一家は、ライプツィヒへと引っ越すことになります。彼女は、学問の街で有名なその街で、高等女学校ガウディヒ校に入学。その街で知り合った2歳年下の医学生ゲオルク・クリツケスとの恋に落ちました。(ボーテとの婚約は解消されましたが、その後も二人の関係は続きました)
 ゲオルクとの出会いがきっかけとなり、彼女はナチスへの抵抗運動に参加することになります。
 1933年、二人の弟がデパート屋上から反ナチスのビラを撒いて逃亡。捜索に来た突撃隊によって、家にいた姉のゲルダが逮捕されてしまいます。普通ならこれで彼女は収容所送りとなるはずでしたが、幸いなことに彼女はポーランドの国籍を持っていたため、2週間後になんとか釈放されました。しかし、いつまた逮捕されるかわからず、次回は間違いなく刑務所から出ることはできないと判断した彼女は、フランスへの脱出を決意します。この時期はまだパリへの脱出はそれほど危険ではなかったのですが、彼女の家族はそのままドイツ国内にとどまってしまったため、両親や兄弟のほとんどがその後のホロコーストにより命を落とすことになります。

<自由の都、パリにて>
 パリに脱出した彼女は、そこでライプツィヒ時代の学友ルート・ツェルフと再会し、共同で部屋を借りますが、仕送りも滞り貧しい生活が続きました。
 多くの亡命者たちでにぎわうカフェ・デュ・ドーム(後のル・ドーム)で、ドイツ出身の左派グループと親交を結ぶようになった彼女は、そこでアンドレ・フリードマンというカメラマンと知り合いました。それが後に彼女のパートナーとなり、ロバート・キャパとして知られることになる人物でした。
 1935年、彼女は厳しい生活が続いていたパリを離れ、友人たちと南仏カンヌの沖合にあるサント・マルグリット島でのキャンプを楽しみました。そこにまだ知り合い程度だったアンドレもやってきて、二人の仲は急速に深まることになりました。
 同年10月、彼女は同棲を始めていたアンドレから紹介され、写真代理店「アリアンス」で働き始めます。ここで初めて彼女は「写真」と出会い、カメラマンという職業について知ることになり、彼を手伝いだしたことでカメラマンとしての活動をスタートさせます。

<内戦下のスペインにて>
 1936年7月にスペイン戦争が勃発。カメラマンとしてアンドレと一緒に行動するようになっていた彼女は8月に取材のためバルセロナに入りました。その後、アラゴン地方を経て首都マドリード入り、9月には南部アンダルシア地方を取材後、パリに戻りました。
 この取材中、彼女はカメラマンであると同時に戦場では共和軍側のアイドル的存在として歓迎されました。それは彼女が、見た目だけでなく人を引き付けるキャラクターがあったおかげでした。そして、そんな彼女の人気があったからこそ、彼女は兵士たちや難民たちの間に入り込み、多くの素晴らしい写真を撮ることになったのです。
 あの歴史的な写真「崩れ落ちる兵士」が撮られたのは、まさにこの時期でした。しかし、彼女とアンドレはこの時期チームとして活動し、そのペンネーム的な存在として「ロバート・キャパ」という架空のアメリカ人カメラマンの名前を使いだしていました。そのため、それぞれの写真の撮影者は明確ではありません。残念なことにそれが、後に彼女の存在を消してしまう原因にもなりました。
 2月に再びスペインを訪れた彼女は、スペインの南海岸マラガの街で避難民たちを撮影。マドリードで長期滞在をしながら、共和国側の臨時首都となっていたバレンシアへ向かい、コルドバの最前線を取材しました。当初は多くの海外からの支持者や志願兵により勢いがあった共和国軍でしたが、この頃から急速に軍内部が混沌とし始めていました。共和国軍の中心となっていた左派グループは、スターリン率いるソ連主導の共産主義者と反スターリンを主張するアナキストへと分裂し始めていたのです。
 7月にバレンシアで行われた国際的な左派系グループによる「作家同盟会議」を取材した彼女は、14日には革命記念日をキャパと共に迎え、幸福なひと時を過ごしました。

<早すぎる死>
 革記念日の後、キャパはパリに戻り、ゲルダはひとりでブルネラの最前線に向かいます。この時、ブルネラはすでにファシストからの攻撃により危険地帯になっていて、彼女には軍の上層部から退避するよう指示が出ていました。しかし、彼女はそれを無視してしまい、それが悲劇を生むことになりました。混乱する前線で彼女は暴走する戦車に腹部を轢かれてしまったのです。
 1937年7月25日、一週間後に27歳になるはずだった彼女は治療のかいもなくこの世を去りました。彼女の死は、すぐに前線からヨーロッパ各地に伝えられ、その遺体は共和国軍によって丁重にパリまで運ばれました。
 その葬儀は、多くの人々が参列する中行われ、彼女の遺体はペール・ラシューズ墓地に安置されました。残念なのは、葬儀が共和国軍を支配しつつあった共産党によって大々的な政治的プロパガンダに利用されてしまったことです。そのおかげで、「ゲルダ・タロー」という女性カメラマンの名は、共産圏の東ドイツでは英雄としてその後も扱われることになりましたが、西側諸国では逆に忘れられた存在になってしまいます。戦後、そうした影響もあり、ロバート・キャパは赤狩りの対象としてFBIから疑われ続けることになりました。
 そうした彼女への誤った見方が影響したことで、彼女が撮影したかもしれない写真もまた、彼女ではなくキャパが撮影したと扱われるようになったとも考えられます。ゲルダ自身は共産党員ではなかったし、あくまでも彼女は、ユダヤ人として、反ファシストとしての立場として、共和国軍を支持していたのですが、そのこともいつしか忘れられてしまいました。残念かことにキャパ自身も、そうしたゲルダへの不当な扱いに対し、積極的な説明などを行いませんでした。
 ゲルダの死後、キャパは変わってしまった言われますが、それは彼女に対する愛情からなのか?彼女への謝罪気持ちからだったのか?死に対する恐怖のためだったのか?それは永遠の謎になってしまいました。
 そしてあの伝説的一枚「崩れ落ちる兵士」の撮影者は誰なのか?そして、それはやらせによって撮影されたのものなのか?それもまた永遠に謎のままになりそうなのです。

<女性と危険な仕事>
 ドキュメンタリー映画「スタントウーマン」は映画のスタントの仕事につく女性たちの苦労を記録した作品があります。その中で「サイレント映画」の時代には女性スタントマンの数は男性と変わらなかったと説明されていました。映画界で活躍の場が少なかった女性たちの多くがその危険な仕事についていましたが、その後、スタントの仕事が稼げる仕事になってきたいつしか女性役の身代わりも男性に奪われてしまい女性スタントマンは業界から消えたといいます。
 同じように戦場カメラマンの仕事もゲルダ以降、名誉や金銭も得られる「戦場カメラマン」の仕事は男性だけの仕事となってしまいます。女性カメラマンの活躍は、ウーマンリブが進んだ1970年代以降になります。こうした職業に対する偏見もまた彼女の存在を消す原因になったのでしょう。

「ゲルダ キャパが愛した女性写真家の生涯」 2015年
(著)イルメ・シャーバー
(訳)高田ゆみ子
(解説)沢木耕太郎
祥伝社

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