- ギル・スコット・ヘロン Gil Scott-Heron -

<詩のボクシング>
 僕はNHKの衛星放送で毎年やっている「詩のボクシング」の大ファンです。リング上で繰り広げられる素晴らしい「言葉」の闘いを見るたびに「詩」の魅力に改めて引き込まれています。
 「言葉」のもつ力に感動しつつ、自分の文章にも少しは役立てたいとうつも思うのですが、なかなか難しいものです。今やあらゆるメディアは統合されつつあり、芸術の世界でもやはりジャンルの枠を越えたコラヴォレーションが当たり前になりつつあります。
 しかし、そんな状況だからこそ逆に「言葉」という最もシンプルな素材にこだわる「詩人」の存在感はどんどん増しつつあるような気がします。

<詩人を目指した少年>
 「詩」は「言葉」。書かれた文字を口に出すことで、心を震わせます。
 「音楽」は「音の連なり」。空気を振るわせることで、心を震わせます。
 詩と音楽の合作が「歌」を生み出し、心を振るわせるだけでなく、身体を動かし踊らせます。
 だからこそ、語りたい「言葉」が多すぎて「詩人」の道を選んだ人の中にも、それだけでは満足できなくなる人がいます。レナード・コーエンやパティー・スミスは、まさにその代表格と言えるでしょう。ポエトリー・リーディングからスタートし、そのバックに音楽をつけているうちにいつしか歌い出していたという「パンクの女王」パティー・スミス。彼女が活動を開始した60年代後半のニューヨーク市チェルシーの街は、そんな詩人たち、ビートニクたち、そしてミュージシャンたちのたまり場であり、作品発表の場でもありました。そんな熱気にあふれた街に母親とともにやって来て住むことになった孤独な黒人少年。彼は街角で朗読される詩やギター片手に歌われる音楽に感動し、自ら詩人になることを志します。
 激動の60年代が過ぎ、公民権運動の熱気がさめてしまった70年代に活動を開始した彼はシラケた時代の気分を奮い立たせようと闘い続けました。「黒いディラン」と呼ばれた男、ギル・スコット・ヘロン。人種差別に対し、言葉で闘い続けた彼の曲は、実は意外なほどポップでファンキーです。もっと日本でも、その名が知られてもよいと思うのですが・・・。

<ジャクソンでの少年時代>
 ギル・スコット・ヘロンは、1949年4月1日にシカゴで生まれました。しかし、両親が離婚してしまったため、彼は生まれてすぐテネシー州ジャクソンに住む母方の祖母に預けられることになりました。図書館に勤めていた彼の母親と同様、彼の祖母もまた知性的なしっかりした女性でした。そのおかげで彼は50年代に南部で巻き起こっていた公民権運動の盛り上がりを子供ながらに理解しながら育ちました。ジャクソンの街は、当時黒人解放運動の拠点のひとつであっただけに、彼はその街で多くのことを体験したはずです。
 しかし、そんな祖母も彼が13歳の時にこの世を去ってしまいました。そのため彼は、母と共にニューヨークで生活する事になり、新しいプエルトリカンの父親とともにチェルシーで少年時代を過ごすことになったのです。時は1960年代の前半、街ではフラワー・チルドレンではなく、ビートニクたちが幅をきかせており、わずか15歳の彼もまた、彼らの歌や詩を聴いて育ったのです。

<ポエトリー・リーディング文化>
 ところで、アメリカにおいて「ポエトリー・リーディング(詩の朗読)」というのは、アートにおけるひとつのジャンルを形成する重要な文化です。プロだけでなく観客が詩を朗読し、それを観客の中から選ばれた審査員が採点するコンテストを毎週開催している店もあります。
 口に出して読むことを重視しているため、詩を朗読したCDやカセットも数多く販売されていて、詩人自らがポエトリー・リーダーとして舞台に立つのが当たり前にもなっています。
 そんなポエトリー・リーディングのメッカ、ニューヨークにおいても、チェルシーからほど近いグリニッチ・ヴィレッジはその中心地と言えます。

<ニューヨーク・ラップとポエトリー・リーディングの関係>
 もともとポエトリー・リーディングは白人インテリ層の文化であり、それに対してラップは黒人たちの中から生まれた文化です。そのため、ニューヨーク・ラップとポエトリー・リーディングの関係は、意外に遠いもののようです。しかし、ラップ文化の大きな拡がりによって、しだいに二つの文化は融合し始めるのかもしれません。実際、ラップ・ミュージシャンたちの間で、ギル・スコット・ヘロンの曲はサンプリング・ネタとして大活躍しています。

<詩人ギル・スコット・ヘロン>
 10歳の時にピアノを買ってもらったギルは、ほとんど独学で勉強し、家計を助けるためにパーティーなどでの演奏をするようになります。しかし、ペンシルバニアのリンカーン大学に進んだ彼は文学に熱中するようになり、二年生の時に一年間休学し、処女小説「禿げ鷹」を書き上げました。続いて、彼は大学にもどると処女詩集「Small Talk At 125th And Lanox」を書き、1970年には両方が出版されました。

<ポエトリー・リーディング、ギル・スコット・ヘロン>
 小説、詩ともに話題となった彼は、自分の作品をより多くの人に聞いてもらうため、それを音楽に乗せようと考えるようになりました。そこで彼はフライング・ダッチマンというできたばかりのレーベルと契約します。このレーベルは、インパルスというジャズ系レーベルでジョン・コルトレーンなどを手がけていたボブ・シールが前衛化しすぎたジャズではなくファンキーでポップなジャズも取り上げようと設立したため、彼にはうってつけでした。1970年、彼はこのレーベルからファースト・アルバム「Small Talk At 125th And Lenox」を発表します。このアルバムは、同名の処女詩集の作品をジャズ・ファンクの音楽に合わせて彼が朗読するというものでした。

<盟友ブライアン・ジャクソンとの出会い>
 大学に復帰していた彼は、この頃ブライアン・ジャクソンというピアニストと出会います。子供の頃からずっとクラシックを勉強していたというブライアンは、ジャズにのめり込み作曲も手がけるようになっていました。彼はギルの詩を読むとそれに曲をつけただけでなく自ら演奏をかってでました。こうして、ギルとブライアンのコンビが誕生し、ギルはいよいよ詩と歌に専念できるようになります。こうして、ギルにとって初の歌ものアルバム「ピーセス・オブ・ア・マン」(1971年)が発表されます。このアルバムからは「Revolution Will Not Be Televised(革命はテレビで放送されない)」がヒットし、話題になります。
 黒人解放運動(黒い革命)がもつ現在進行形のパワーを表現した過激な詩とブライアンのフルートによりファンキーかつ危険な香りの音楽に仕上がったこの曲は、2000年公開のモハメド・アリの伝記映画「アリ Ali」でもタイトル・マッチのシーンで使われています。
 続いてギルは1972年に片面づつ詩の朗読と歌を収めたアルバム「フリー・ウィル Free Will」を発表。その後、彼らはレコード会社を移籍。その後、ギル&ブライアンというコンビで、作品を発表してゆくことになります。演奏は、ギルの歌とピアノ、ブライアンのピアノとフルート、それにドラムとベースが基本スタイルとなります。

<「黒いディラン」としての活躍>
 1975年彼らに大きな転機が訪れます。大手レコード会社CBSから独立し、新レーベル、アリスタを立ち上げたばかりのやり手オーナー、クライヴ・デイヴィスが彼らを獲得。彼はボブ・ディランのような詩を書き、スティービー・ワンダーのようにソウルフルに歌う、新しい時代の黒人アーティストとして売り出されることになります。当時活躍していた、マーヴィン・ゲイやダニー・ハサウェイ、カーテイス・メイフィールドなど、ニュー・ソウルのアーテイストたちも目標となっていたのでしょう。
 そこで彼らは、より分厚いファンク・サウンドを目指しバンドにパーカッション3名、サックス、バック・ヴォーカルを加え、新たにミッドナイト・バンドとして再スタートを切りました。
「The First Minute of A New Day」(1975年)
「From South Africa To South Carolina」(1975年)
このアルバムは、彼の作品として初めてビルボードのアルバム・チャート29位まで登りました。
「It's Your World」(1976年)は、ライブとスタジオ録音、両方を収めた作品集
「Bridges」(1977年)
「Secrets」(1978年)
ビルボードのシングル・チャート15位まで上昇した「Angel Dust」を収録
「1980」(1980年)
 最後の2枚には、プロデューサーとしてマルコム・セシルが参加。彼はスティーヴィー・ワンダーのシンセサイザー・サウンドを生んだ人物で、彼の参加によりギルのサウンドは変化し、ギルとブライアンのコンビも解消されることになります。
「Real Eyes」(1980年)
「Refrections」(1981年)
「Moving Turget」(1982年)
3枚はどれも完全なソロ作となりますが、決してパワー・ダウンしたわけではありませんでした。しかし、アリスタ・レーベルとのトラブルがあって契約を破棄して以降、90年発表の2枚組ライブまで、まったく作品が発表されませんでした。
(1994年久々のオリジナル・アルバム「Spirits」を発表しています)

<歌詞は重いが音はポップ>
 残念なことに、ギルのアルバムの日本版はほとんど出ていません。そのため、彼の曲の歌詞は自分で訳すしかありません。とはいえ、彼の曲は歌詞が理解できなくても十分楽しめることだけは確かです。彼の曲は歌詞がどんなに重くてもポップで聞き易いものばかりなのです。その証拠に日本ではDJを中心に彼の曲は非常によくかけられています。もしかすると、重い歌詞の内容がわからないぶんアメリカよりも日本の方が彼の音楽を受け入れやすいのかもしれません。(もちろん、アメリカでも彼の曲はサンプリング・ネタとして大人気ですが・・・)
「俺たちはさんざん祈り、行進し、考え、学んできた。もうウンザリなんだ。いまや俺たちは、人を切りつけ、銃を撃ち、盗みや放火を働きたくなっている。」
ギル・スコット・ヘロン
 キューバ系の父親のもとで生まれ、プエルトリコ系の父親とともに育った少年時代、彼が住んでいたチェルシーは、ビートニク文化の中心地であると同時にプエルトリカン・コミュニティーの中心地でもありました。そのため、彼の詞と音楽にはラテン系のリズムがしみ込んでいます。実際、彼のアルバムには、ほとんどサルサと言える曲もあります。時代的にも、70年代はサルサの黄金期だっただけに、彼のラテン系サウンドにはサルサ黄金期の勢いが感じられます。その点ではラテン・サルサ・ファンにもお薦めであり、ここからソウル・ファンが70年代サルサに入ってみるのも良いと思います。
 その他、レゲエやスウィートなソウル・ナンバーなど、ポップな曲がいろいろあるので、なぜもっとヒット曲がないのか不思議ですが、歌詞がもし「ボーイ・ミーツ・ガール」ものばかりだったら、もっとヒットしていたのは間違いないでしょう。

<時代の流れに逆らい続けた男>
 彼が活躍を始めた1970年代半ば、すでに黒人解放運動は行き詰まりの状態にありました。黒人音楽もそんな状況を表すかのように低迷の時代を迎えようとしていました。世の中はディスコ・ブームのまっただ中、そんな中彼はかつての勢いを失ってしまった「ジャズ」とまだ新しかった音楽「ラテン」をバックに「まだ闘いは終わっていないのだ」と力強い言葉を繰り出し続けました。
 彼は時代の流れの中で退却を続けながら、それでも前向きに進むことをあきらめませんでした。時代が違えば偉大なヒーローになっていたかもしれません。ヒーローを必要としない時代に生きることを神に命ぜられた男は、孤独な闘いを続けるしかなかったのです。僕はこういう人こそ、本当に信じられような気がしてなりません。
 21世紀に入ってもなお彼は活躍を続けています。黒人文化の語り部の活躍はまだまだ続きそうです。

<追悼>
 2011年5月30日62歳でこの世を去りました。208年にはエイズに感染していることを公表していたようです。

<締めのお言葉>
「・・・どうやら今の時代、いわゆるジャズは死んでしまった。いや、おそらく社会的機能の点から見て、夢遊病にかかっているようだ。かつて自らが痛烈な批評の対象としていた連中から崇拝を受け、大事に祭り上げる芸術になってしまい・・・。今日の黒人がもっている民族自決の気持ちを表現する様式とはなり得ないのだ。・・・」
ハリー・アレン
リッキー・ヴィンセント著「ファンク」より

「兄弟よ、革命に再放送はない
 革命は生なのだ」

ギル・スコット・ヘロン

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