ゴールキーパーの進化史

「孤高の守護神 ゴールキーパー進化論」ジョナサン・ウィルソン(著)

- イケル・カシージャス、レフ・ヤシン、ジャン・ルイジ・ブフォン・・・-

<ゴールキーパーの大会>(2014年ブラジル・ワールドカップ)
 2014年ワールドカップ・ブラジル大会は、終わってみると主役不在の大会だったのかもしれません。メッシのMVPには批判が多く、ネイマールも大会を途中で去り、優勝したドイツも「顔」のないチームだったといえます。そんな中、ドイツのゴールキーパー、ノイアーこそMVPに相応しいという意見も多かったはずです。過去に日韓ワールドカップの時、オリバー・カーンがMVPを受賞していますが、ゴールキーパー(以下はGK)がMVPを受賞するのは非常に珍しいことです。しかし、2014年のブラジル大会は今までになくGKが活躍した大会だったことは間違いありません。ドイツのノイアー以外にも、コスタリカのナバス、メキシコのオチョア、アメリカのハワード、オランダのシレッセンと秘密兵器のクルル、ナイジェリアのエニュアマなどGKが大活躍しました。
 改めて振り返ると、2014年ブラジル大会の大きな特徴としていえるのは、グループ・リーグが過去にない得点の多さだったことです。そのために、各チームのGKは大忙しとなり、その分、よりGKの活躍が目立ことになりました。その後、決勝リーグに入ると、今度はお互いの攻撃スタイルの特徴を消す作戦が主流となり、得点が急に減ります。そのため、同点で延長に入る試合が増え、PK戦も急増します。そうなると、自ずと試合の主役はGKになるわけです。
 さらにいうなら、今大会でもっとも目立った攻撃パターンであるカウンター攻撃の起点としてもGKの仕事は大きかったことも忘れられません。今やGKは守備の要であるだけでなく、攻撃の起点としてゲーム全体の流れを左右する存在になりました。しかし、GKの役割が現在のようになったのは、ごく最近のことなのです。GKの役割の変化は、サッカーの進化と大きく関わりがあるのです。
 そんなサッカーとGKの進化について、実に詳しく調べた本が出版されました。「孤高の守護神 ゴールキーパー進化論」(ジョナサン・ウィルソン著)という本です。ここでは、その本を紹介しながらGKの進化とサッカーの歴史について学ぼうと思います。ただし、ものすごいボリュームの本ですから、ごく一部を年代別に分けて年代記的に紹介させていただきますが、多くの面白いエピソードについては是非本を実際に読んでいただければと思います。
 残念ながら日本からはまだ世界に通じるGKは誕生していません。(川口はいいところまでいきましたが・・・)アギーレ・ジャパンが新たな方向性として守備重視のスタイルを打ち出そうとしている今、日本からも海外で活躍するGKが現れるようにならないと世界のトップには近づけないと思います。しかし、日本のサッカー界ではGKのポジションの重要性はまだまだ低いという現状があります。特に少年サッカーの現場では、GKになるのは、動きは遅くても先ずは背が高い子か足技が不得意な子だったりして、能力によって選ばれてはいないのが現状です。それだけ日本にはサッカーについての伝統も知識も少ないということでもあります。そうしたサッカー全体の底上げのためにも、こうしたマニアックな本が「マニアック」ではなく「常識」になるよう広く読まれるようになってほしいものです。

「その結果、本人がやりたいかどうかは関係なく、一番体が弱くて臆病な少年に必ずゴールキーパーがあてがわれる。あまりに攻撃的でないタイプはフルバックにされ、残ったものたちが侃々諤々の議論の末にハーフバックとフォワードに分かれてチームができあがる」
ジョナサン・ウィルソン(昔のイングランド)

<ゴールキーパーとは?>
 「ゴールキーパー」とはいったいいかなる仕事なのか?その名言を集めてみました。

「つまり根本的に、彼はアンチ・フットボーラーなのだ。ゴールを止めることに全力を注ぐゴールキーパーは、サッカーの真髄に反する」
フランシス・ホッジソン「叩かれるのはゴールキーパーだけ」より
(サッカーが、聖なる場所(ゴール)にボールを運んでゴールすることで、神々に捧げて豊穣を祈願するという凝った儀式であるならば、それを妨害するゴールキーパーは、願いを一つにする集団からの逸脱者ということになる)

「たいていのキーパーは一試合に一二回のいいセービングを見せるが、そういうセーブをしなくては7ならないのは、敵の攻撃が襲いかかり観衆が悲鳴を上げるような場面が続いて、哀れなキーパーめがけて雨霰とシュートが浴びせられるからだ。これは哀しい現実だ。なぜなら味方が押し込まれないかぎり、キーパーは輝けないのだから。・・・」
テッド・ディッチバーン(元トッテナムGK)

「ゴールキーパーは、背中に1の数字が書かれたユニフォームを着ている。最初に報われる人だからか?違う、最初に責められる人だからだ。悪いのはいつもキーパーのミスだ。・・・」
エドゥアルド・ガエレアーノ(思想家、詩人)

「ペナルティは、キーパーが不安がらないことの一つだ。なぜなら、負けることがないから。得点されても誰も彼をとがめないし、ストップしたなら、ヒーローになるし。・・・」
デイヴ・セクストン(クイーンズパーク監督)

「ゴールキーパーは孤独な鷹であり、神秘の人であり、最後の一兵なのだ」
ウラジミール・ナボコフ(作家)

<時代の変化>
 「孤高の守護神」を読むと、初期のサッカーにおいて「ゴールキーパー」という仕事は、やり手のないポジションだったことがわかります。かつてサッカーは村の繁栄のため、ボールを神に捧げる行事でした。ゴールキーパーはその行為を邪魔する邪悪な存在であり、けっして「守護神」ではなかったのです。当然、キーパーになりたい人も少なかったはずです。しかし、サッカーがスポーツとなりルールが定められてくると、ゴールキーパーはチームの一員と認められるようになってゆきました。その後、時代と共にゴールキーパーの人気が上がり、国によっては一番人気のポジションになっています。もちろん、それに合わせてルールはゴールキーパーを守る方向へと変化して行きました。
 ではなぜゴールキーパーの人気が高くなってきたのでしょうか?
 それはサッカーというスポーツが、ポジションごとに与えられる仕事をこなす分業制から誰もが攻撃から守備までをこなす「トータル・フットボール」へと進化し続けてきたからでしょう。そのためGKにはシュートを防ぐだけではない様々な役割が回ってくることになりました。(攻撃の起点となるパサー、後方から指示を出すコーチング・スタッフ・・・)
 当然、それぞれの時代が生み出したゴールキーパーのタイプも違ってきますし、強いチーム、強い国が優れたゴールキーパーを生み出すのも当然のことでした。ここでは年代記的に世界各国のスーパー・ゴール・キーパーたちの活躍を記しています。

1865年
<ルール>
バックスが3人いて、「ゴールキーパー」、「ゴールカバー」、「バック」と役割が分けられていました。残り9人がフォワード。当然、みんなフォワードをやりたがりました。
1871年
<ルール>
「ゴールキーパー」だけが手を使うことができると決められる。(これ以前はまだラグビーとの区別がなかった)
1887年
<ルール>
「ゴールキーパー」が手を使える範囲が、ハーフウェイ・ラインを越えるまでの範囲に規定される。
<ファッション>
「ゴールキーパー」のポジションが重要視されるようになり、運動具メーカーが専用の用具を販売し始めます。
1891年
<ルール>
「PK(ペナルティー・キック)の導入」
 最初のPKは、6月2日ロイヤル・アルバートvsエアドリー・ユナイテッドFCで実施
1892年
<ルール>
「ゴールキーパー」がボールに触れているか、妨害行為を働いている時だけ、選手はGKに体当たりできる。(それまではいつでも体当たりができた)
<ウィリアム・ファット・フォルク>「格闘家としてのGK時代」(イングランド)
 19世紀末から20世紀の初めに活躍したゴールキーパーとして、イングランドのウィリアム・ファット・フォルクがいます。彼はなんとピーク時には180Kg近くにまでなる肥満体系の選手でした。(身長は195cm)しかし、彼は体重のわりに素早くまた体重にもそれなりに意味がありました。それは彼が現役だった時代はルール上GKへのチャージは許されていたためです。この時期まではGKにはボールを抱えたら離さない頑丈な体が必要だったわけです。
 当時の写真を見ると彼の体型はまるで「不思議の国のアリス」の「ファンプティ・ダンプティ」そのものです。(かなり笑えます)
1905年
<サム・ハーディ&ハリー・ヒッブス>「古き良きGKスタイルの最高峰」(イングランド)
 リバプールを優勝に導いたGKサム・ハーディはライバル的存在のハリー・ヒッブスとともにイングランド代表GKの座を争った。二人ともに、スーパーセーブよりもより安全なポジショニングを追及するタイプで、イングランドの守備的GKの基本となりました。
 二人と異なるタイプの攻撃的ともいえる例外的スタイルをもつGKとしては、前述のウィリアム・フォルクとリー・リッチモンド・ルースがいました。

<ルール>
PKの場合、ゴールキーパーはゴールライン内にとどまることが決められました。それまではボールまで半分ぐらいの位置まで出ることが許されていました。
1906年
<ゴールキーパーの条件>「ザ・タイムズ」に掲載されたイングランドのGKリー・リッチモンド・ルースのコメントより
「ゴールキーパーは身長183cmでなくてはならない。その身長なら強いという印象を与え、垂直・水平両方向の広い範囲を易々とカバーできる。その身長より低く小柄であることはハンディになる。反対にそれ以上あまりに背が髙くてどっしりとした体型のゴールキーパーは、小柄で敏捷性のある相手に俊敏に走りこまれたり、低いシュートを打たれたりすると不利だ。そして若さが持つ敏捷性と、ベテランの賢さとと合わせ持たねばならない」
 このGKについての考えは、今でも基本的に変わらないのではないでしょうか。ただし、2mを越えても敏捷性のあるGKは珍しくはなくなっています。
1909年
<ルール>
「ゴールキーパー」は他のフィールド・プレイヤーと違うユニフォームを着用することになる。
1912年
<ルール>
「ゴールキーパー」が手を使うことができる範囲が「ペナルティ・エリア」のみに狭められる。
ただし、当時のGKはゴール前で敵の攻撃を待つのが仕事だったので、このルールの意味はほとんどありませんでした。
1931年
<ゴールキーパーの死>
9月5日スコットランドでの試合、レンジャースVSセルティックにて、セルティックのGKジョン・トムソンは後半5分にレンジャースのフォワード、イングリッシュと激突。頭がい骨骨折により死亡。
 この死からGKへのチャージについて、問題点が指摘されるようになり始めます。
1932年
<ルディ・ハイデン>「ボー(洒落男)」(オーストリア)
 「奇跡のチーム(ブンター・チーム)」と呼ばれ当時頂点を極めていたオーストリア代表チームのゴールキーパー。
 モテモテのイケメン洒落男で、サッカー以外のビジネスにも熱心でしたが事業に失敗して悲惨な人生を送ることになりました。
1933年
<フランク・スウィフト>「ミュンヘンの悲劇、もう一人の犠牲者」(イングランド)
 この年、18歳のフランク・スウィフトはマンチェスター・シティのゴールキーパーとして活躍。FAカップで準優勝に貢献しました。その後、彼はイングランド代表GKとしても活躍。36歳で引退すると、記者として活躍。しかし、1958年にマンチェスター・ユナイテッドのメンバーのほとんどが命を落としたミュンヘン発の飛行機に彼も取材のために同乗。あの有名な「ミュンヘンの悲劇」に巻き込まれ、彼もまた命を落としました。
1934年
<リカルド・サモラ>「スペイン最高のゴールキーパー」(スペイン)
 この年に開催されたワールドカップ・イタリア大会において、最優秀ゴールキーパーに選ばれたスペイン代表GKのリカルド・サモラは当時世界最高のGKと呼ばれており、現在でもリーガ・エスパニョーラにおける年間最優秀選手賞は「サモラ賞」と呼ばれています。RCDエスパニョーラとレアル・マドリードでGKを務め続けたサモラは1920年にオリンピック代表メンバーに選ばれて以降、長くスペインのゴールを守り続けました。Vネックの厚いセーターを来てハンチングをかぶった彼の姿は、実にお洒落で粋な感じです。
 彼はスペイン戦争の混乱の中、暗殺され追悼式が行われました。ところが、彼は逮捕後、刑務所から見事脱走に成功。フランスに逃げ延びていました!
1937年
<スタンフォード・ブリッジの幽霊>
 この年のクリスマス、チャールトン・アスレチックFC対チェルシーの試合の途中。チャールトンのGKサム・バートラムは後半15分、霧の中から現れた警官に職務質問されて驚きます。
「お前はここで何をやっている?」
 実は、この試合は濃霧のため中止になっていた。他の選手はさっさと上がったにも関わらず、GKは一人取り残されていたのでした。イングランドにおけるGKの孤独さがわかるエピソードです。サム・バトラーはしばらく「スタンフォード・ブリッジの幽霊」と呼ばれ笑われることになります。
1938年
<フランティシェク・プラーニチカ>「プラハの猫」(チェコ)
 この年に開催されたワールドカップ・フランス大会のブラジル戦で片腕を骨折した状態でゴールを守り切り伝説となったGK。
 1934年のワールドカップ・イタリア大会でチェコを決勝に導いたゴールキーパー。「プラハの猫」と呼ばれ、国際サッカー歴史統計連盟による史上最高のゴールキーパー・ランキングで9位。
1950年
<モアシール・バルボーサ>「マラカナンの犠牲者」(ブラジル)
 ブラジルでは昔からGKになるのは変人ばかりと言われてきました。もちろん、それは誰もがストライカーになりたいからです。そのため、GKは敗戦の際、責任をなすりつけられる場合も多かったようです。「マラカナンの悲劇」の際は、失点に責任がないのは明らかにも関わらず、GKのモアシール・バルボーサは戦犯としてスケープゴートになりました。それは、彼がまだサッカー界では少数派だった黒人だったからでもありました。そのせいでブラジルでは、黒人にGKをさせるべきではないという間違った常識が広がることにもなりました。
 彼の汚名は長く続きます。1993年、ワールドカップ・アメリカ大会でブラジルのキャンプ地を訪れたバルボーサは、ブラジル代表のマリオ・ザガロ監督に「悪運がつくからキャップに入るな!」と言われたとか・・・。かわいそうに。
 同じような黒人への差別は、他の西欧諸国にもありイングランドでも1990年代まで黒人のGKはほとんどいませんでした。
1952年
<ヴラディミル・ベアラ>「アフリカ最高のGKを育てた男」(ユーゴスラビア)
 この年、ヘルシンキ・オリンピックで銀メダルを獲得したヴラディミル・ベアラは、後にレフ・ヤシンが世界最高のGKと呼んだ東欧ユーゴスラビア(現在のクロアチア)が生んだGKでした。1954年のワールドカップ・スイス大会ではユーゴスラビアをベスト8に導いています。現役引退後、彼は当時アフリカとの交流を積極的に行っていたユーゴの指導者チトーの指示によりアフリカに派遣されます。
 1974年から彼はカメルーン代表チームの監督を勤めながら優秀なGKを育てます。その中でも、トーマス・ヌコノとジョセフ=アントワーヌ・ベルの二人はアフリカ最高のGKと呼ばれるようになり、カメルーン代表チームは1980年代に黄金時代を迎えることになります。
1953年
<グロシチ・ジュラ>「最初のスイーパー・キーパー」(ハンガリー)
 イングランドを地元ウェングリーで6-3で最初に破った「マジック・マジャール」ことハンガリー代表チームのゴール・キーパー。彼はハンガリー・チームが見せた攻撃的サッカーを象徴するように積極的にペナルティ・エリアを出てクリアをすることで「最初のスイーパー・キーパー」と呼ばれることになります。ハンガリーは、フルバックと連動して動くことでGKが4人目のフルバックとなっていた。
 1949年、彼は不法出国の罪で逮捕された経緯があり、政府にマークされる存在で、1956年に起きた「ハンガリー動乱」では民衆側の蜂起にも参加した。ハンガリーの英雄的人物。
1956年
<バーンハート・トラウトマン>「ゲルマン魂が生んだ伝説のGK」(イングランド)
 ドイツ人として生まれ、第二次世界大戦中はナチスの兵士として戦ったトラウトマンは、イギリス軍の捕虜となり収容所でサッカーの試合に参加するようになり、そこでゴールキーパーとしての才能を発揮するようになります。1948年本国送還が決まったものの、彼はそのまま英国に住むことを決意し、マンチェスター・シティと契約します。当初は、元ナチというレッテルを貼られ差別を受けますが、マンCのファンを中心に彼を応援する声があがるようになりました。
 1956年のFAカップ決勝でマンチェスター・シティはバーミンガム・シティと対戦。マンCリードで迎えた後半16分、バーミンガムのフォワード、ピーター・マーフィーとトラウトマンが激突。気を失ったものの、意識を取り戻したトラウトマンは、そのままぷらーを続行し見事チームを勝利に導きました。試合後、検査を受けると彼の首の骨が骨折していたことが明らかになりました。見事彼はその年の年間最優秀GKに選ばれます。
 しかし、その時のケガは彼のプレーに影響を与えるようになり、結局彼は早い時期に引退することになりました。翌年にも、マンチェスター・ユナイテッドのGKレイ・ウッドが相手チームの選手と激突し、頰骨を折るケガを負わされ、GKを守るためのルールを求める声が高まることになります。
1962年
<ジウマール・ドス・サントス・ネベス>「ブラジル黄金期のGK」(ブラジル)
 黒人GKはダメというブラジルにおける常識を覆したGKジウマールは、1958年と1962年の2大会で代表キーパーとして活躍。ブラジル代表2連覇の主役の一人になりました。
1963年
<レフ・ヤシン>「世界最高のゴールキーパー、黒豹の時代」(ソ連)
 その後、世界最高のゴールキーパーとして伝説となるソ連代表GKのレフ・ヤシンは、この年ソ連を欧州選手権準優勝の主役として、欧州年間最優秀選手(バロンドール)に選出されました。GKでこの賞を受賞したのは未だにヤシンだけです。彼はディモナ・モスクワとソ連代表のGKとして438試合に出場し、209試合で完封しています。彼が出場した試合は、48%の確率で完封していたことになります。まさに伝説のGKです。
 「黒豹」もしくは「黒蜘蛛」と呼ばれていた黒ずくめの彼のユニフォームは実は濃紺だったということです。

「ロシアほどゴールキーパーを崇拝する国はほかにない。ゴールキーパーへの崇拝度を国別に比較するのはむずかしいが、しっかりした裏付けはないものの、英国の子供たちはサッカーを始めると、前方のポジションでゴールして脚光を浴びたいと願い、ロシアの子供たちは、一人だけ違うユニフォームを着て最後列にいる謎めいた選手になりたい、と願うように思える。当然ながらヤシンが勝ち得た地位が、この現象に影響を及ぼしている」
ジョナサン・ウィルソン
(個性の喪失を良しとしていた共産圏の国にとって、他人と違うユニフォームを着てまったく異なるプレーができることは、十分に憧れになりえる仕事だったのかもしれません)
1966年
<トニー・ローレンス>「イングランド初のスイーパー・キーパー」(イングランド)
 この年、プレミア・リーグを制覇したリバプールのゴールキーパー、トニー・ローレンスはイングランド初のスイーパー・キーパーとも言われます。しかし、彼はその体型から「飛ぶ豚」と呼ばれてたといいます。それでもこの年、彼が奪われたゴールはわずかに34点しかありませんでした。
1967年
<パット・ジェニングス>「攻撃的GKの先駆」(北アイルランド)
 北アイルランド出身のGKパット・ジェニングスは、もともとがゲーリック・フットボールというラグビーに近いスポーツの出身だったこともあり、正確なキックと素早いロングスローによって攻撃の起点として活躍。超攻撃的GKとして新たなスタイルを築きました。(ポジション的には決して前がかりではありませんでしたが・・・)
1970年
<ゴードン・バンクス>「イングランド優勝の立役者」(イングランド)
 1966年ワールドカップ・イングランド大会での母国の優勝に貢献。大会中の失点はトータルでわずか3点だった。この年に行われたメキシコ大会でも代表GKとして活躍し、ベスト8に導いた。特にブラジル戦でペレのヘディング・シュートを止めたスーパー・セーブは止められたペレが最高のセーブだったと絶賛。伝説となりました。
 しかし、その後、ピーター・シルトンの登場により、代表GKの座を奪われることになります。
1973年
<ハインツ・ストイ>「トータル・フットボールの申し子」(オランダ)
 1971年から欧州選手権三連覇を達成したアヤックス。リヌス・ミケルス率いるアヤックスのトータル・フットボールの起点として活躍したゴールキーパー。オランダの超攻撃的なサッカー・スタイルはこの 後のサッカーを変えることになりますが、同時にGKの役割も大きく変化します。
1974年
<ゼップ・マイヤー>「ドイツ黄金時代の先駆となったGK」(西ドイツ)
 2014年のノイヤーへと続くドイツ代表キーパーの歴史は、この年西ドイツを母国開催のワールドカップ優勝へと導いたゼップ・マイヤーから始まったといえます。ドイツのGKとして、1970年のメキシコ大会で3位、1972年ヨーロッパ選手権で優勝に導いた彼はベッケンバウアーとともにチームの精神的主柱となっていました。
 雨の日以外でもGKが大きなグローブを着けてプレーするようになったのは、彼からだったと言われています。

<エメルソン・レオン>「スターGKの誕生」(ブラジル)
 後にブラジル代表の監督になるGKのエメルソン・レオンはブラジルのGKとして初めて「スター選手」として活躍しました。彼はCMに出演したり、「レオン」というブランドを立ち上げたりして、ブラジルの少年たちにGKもカッコいいというイメージを発信することになりました。
1975年
<ピーター・シルトン>「イングランド最高のGK」(イングランド)
「各国にはそれぞれ品質の優秀さを誇る名産品がある。スイスの時計、イタリアの車などだ。英国の名産品は、質の高いゴールキーパーだ」
ピーター・シルトン
 この年、ピーター・シルトンはGKとしては最高額となる年俸2億4千万円でストークシティと契約。名実ともにイングランド最高のGKとなりました。
 彼は、学生時代はフィールド・プレーヤーとして活躍。味方チームがリードするとGKと代わって、勝利に導いていたといいます。彼の身長は183cmですから、それほど体格的にGk向きだったわけではありません。その分、彼はGKとしての研究心、探究心が人一倍でした。例えば、パンチングのパワーアップを目指してボクシングの練習を取り入れて、パンチングバッグを使ったり、スピーディーなステップを身に着けるためダンス教師のアドバイスを求めるなどしたといいます。そうした努力により、チームの先輩だったイングランド代表のGKゴードン・バンクスをすぐに追い越し、より攻撃的なGKとしてイングランド代表GKの座を獲得しました。彼はGKの役割として「コーチング」も重要視していました。
「人は私のセーブやクロスへの対応を見て評価するが、適切なタイミングで適切な指示を大声で伝え、チームに自信と決断力と規律を注入するところには注目していない」
ピーター・シルトン
1976年
<ウーゴ・ガッティ>「ボカの守護神」(アルゼンチン)
 ボカ・ジュニアーズの守護神として南米選手権制覇。スイーパー・タイプのGKとして、アルゼンチン代表のGKとしても活躍。
1977年
<ホセ・アンヘル・イリバル>「バスクとスペインの代表GK」(スペイン)
 スペインの中のバスク族地域が生んだGKホセ・アンヘル・イリバルは、この年アスレチック・ビルバオのGKとしてUEFAカップ決勝にまで進出しました。その後、バスク地域の代表チームのGKだけでなくスペイン代表チームのGKにも選出され49試合に出場しています。
1978年
<ウバルド・フィジョール>「リバープレートの守護神」(アルゼンチン)
 リバープレートの守護神であり、ウーゴ・ガッティとライバル関係だったGK。この年、アルゼンチン代表GKに選出され二人のライバル関係が始まることになります。ウーゴとは異なり、彼はオールドタイプともいえる守備的なGKとして対照的なプレー・スタイルだった。
1982年
<ディノ・ゾフ>「イタリア黄金時代の守護神」(イタリア)
 この年イタリアはワールドカップ・スペイン大会で優勝。その時のキャプテンであり守護神ディノ・ゾフは、1960年代末から1980年代にかけてイタリアを代表するGKとして活躍しました。1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会ではキャプテンも務めました。ユベントスのGKとして、330試合連続出場という記録をもち、イタリア代表としては1972年から1974年にかけて1143分無失点という記録をもっています。

 ディノ・ゾフは、60年代前半のヤシン、後半のバンクス、70年代前半のマイヤーと引き継がれた「大ゴールキーパー」の継承者である。しかし、イタリアのサッカーが、彼により、一段と「マイナー化」の度を進めたことを言っておかなくてはならない。いいかえると、伝統的に守備的といわれ、カテナチオといわれる強固な守備システムをもったイタリアのサッカーの「逃走性」を完璧なものとしたのだった。
細川周平「サッカー狂い」より
1985年
<アンドニ・スビサレッタ>「80年代スペイン代表の守護神」(スペイン)
 ホセ・アンヘル・イリバルと同じくバスク出身のGK。この年スペイン代表チームのGKに選出され、その後13年間に125試合も出場し、不動のGKと呼ばれていました。ただし、1998年のワールドカップ・フランス大会では1次リーグのナイジェリア戦で痛恨のオウンゴール。そのためにグループ・リーグ敗退という不運に見舞われました。1986年以来、1990年、1994年、1998年と連続出場しながら、たった一つのミスで彼の評価は一気に下がることになりました。これこそGKならではの不運と言えます。
 彼は、プレミア・リーグでは名門のバルセロナに所属。ヨハン・クライフの指導の下、バルセロナ黄金時代のGKとしても活躍しています。
1988年
<デビッド・シーマン>「イングランド第二の守護神」(イングランド)
 この年、サウジアラビア戦でイングランド代表GKとしてデビューしたデビッド・シーマンは、この後、1998年のワールドカップ・フランス大会、2002年の日韓大会でも正ゴールキーパーとして出場。代表GKとして75試合に出場。この数字はピーター・シルトンに次ぐ数字です。2003年に彼が引退後、イングランドは不動の正GK不在の状況が長く続くことになります。
1989年
<クラウディオ・タファレル>「ブラジル人GK海外へ」(ブラジル)
 ブラジル代表GKとなったタファレルは、イタリアのパルマに移籍。ブラジル人GKとして初めて海外で活躍することになりました。彼のおかげで、それまでブラジル人GKの評価が一気に上がります。ただし、ブラジル人GKはDFラインを高い位置に設定するヨーロッパのサッカーには不向きと言われていたのも事実でした。思えば、タファレルが活躍したイタリアはヨーロッパの中でも例外的な守備のサッカー「カテナチオ」の国です。
1990年
<バックパス禁止の原因>
 この年開催のワールドカップ・イタリア大会において、アイルランドVSエジプトの試合中、アイルランドのGKパット・ボナーが、DFとのパス交換やボールの抱え込みにより6分間も時間稼ぎしたことが問題視され、バックパス禁止への動きが早まることになりました。
1992年
<ルール>
 バック・パスをゴールキーパーが手で処理することが禁止になる。
 このルール変更により、GKは必然的に足も使うことが求められることになります。スイーパー・キーパーという言葉の重要性がより高まります。ちょうどこの時期、ファン・デル・サールが登場。新たなスイーパー・キーパーの誕生となります。
1993年
<レネ・イギータ>「笑激と伝説のスコーピオンキック」(コロンビア)
 超攻撃的GKの代表格であると同時にやり過ぎキャラとして一時代を築いたレネ・イギータは、1990年ワールドカップ・イタリア大会でのカメルーン戦、彼はボールを持つとフォワードのロジェ・ミラを交してドリブルで攻撃参加しようとしてボールを奪われ、得点を決められてしまいます。
 この年、イギータは麻薬組織のボス、エスコバルと敵カルロス・モリーナの抗争に巻き込まれ、逮捕され私的にも攻撃的でイカれていることを証明してしまいました。(コカインの使用も有名)とはいえ、彼が活躍していた時期のコロンビアはまさに黄金期でした。

<ミルティン・ソスキッチ>「GK王国アメリカの生みの親」(ユーゴスラビア)
 ユーゴスラビア出身のGKミルティン・ソスキッチはユーゴの名門チーム、パルチザン・ベオグラードで活躍した後、ブンデスリーガに移籍。この年彼はパルチザンで同僚だったボラ・ミルティノビッチがアメリカ代表チームの監督に就任。彼に誘われてアメリカ代表のGKコーチとなります。その後12年彼はGKコーチとして、ユルゲン・ソマー、マーカス・ハーネマン、ケーシー・ケラー、ティム・ハワードらを育てました。彼が伝えた新しいスタイルであるスイーパー・タイプの技術、ポジショニングは、ヨーロッパや南米のような伝統を持たないアメリカでは素直に受け入れられたようです。さらに大きくてガッチリとした体格。1994年のワールドカップ・アメリカ大会開催に合わせて誕生したメジャーリーグ・サッカー(MLS)の誕生。手を使うスポーツに慣れた国民性(バスケットボール、アメリカンフットボール、野球・・・)。リーダーシップを取りたがる国民性。様々な面でアメリカは優秀なGKを生み出す要素を持っていたのでしょう。
1994年
<ホルヘ・カンポス>「サーファー系キーパー」(メキシコ)
 スイーパー・キーパーの域をさらに広げ、よりフィールド・プレイヤーに近い選手として一時代を築いたGK。公式には1974cmとなっていましたが、実際はさらに背が低かったようです。故郷のアカプルコで見たサーファーたちのファッションに影響を受けたというド派手なユニフォームを自らデザインし、その存在感をより大きなものにしようという努力にも感動です。動きずらそうにも見えるダブダブのデザインは今見ると正直笑えますが・・・。そのプレーの機敏さとジャンプ力の凄さは世界を驚かせました。思えば、メキシコは「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスの故郷です。あの空中殺法とコスチュームの斬新さは、サーファーではなくプロレスから着ていると僕は思うのですが。これもまたメキシコの伝統です。
 メキシコ代表GKとして129試合に出場し、不動の地位を獲得。この年、国際サッカー歴史統計連盟による年間最優秀キーパー・ランキングの3位となりました。
1995年
<ジャン・ルイジ・ブッフォン>「イタリア・ユベントスが誇るスーパーマン」(イタリア)
 この年17歳でACミランのGKとしてデビューしたジャン・ルイジ・ブッフォンは、サッカーを始める前、ハンドボールとバレーボールで活躍していたといいます。その後、ユベントスに移籍後はユベントスのGKとして、その黄金時代の中心選手となり、イタリア代表のGKとしても長く活躍することになります。
 彼は子供時代はMFでしたが、1990年のイタリア大会で見たトーマス・ヌコノ(カメルーン)のプレーに感動。父親からの勧めもありGKとしてプレーする道を選択しました。1998年に初めてイタリア代表GKに選出されました。ユベントスでは2002年~2003年にセリエAで優勝していますが、チャンピオンズリーグの決勝でACミランにPK戦で敗れました。この敗戦のショックもあり、彼はその後スランプに陥り、一時はうつ病となって精神科に通う状態だったといいます。
1999年
<ホセ・ルイス・チラベルト>「最強の攻撃的キーパー」(パラグアイ)
 パラグアイ代表のゴールキーパーとして一時代を築いたチラベルトは、1990年代に3度FIFA年間最優秀GKに選出されています。彼はアルゼンチンのチーム、ベレス・サルスフィエルドを国内リーグでの4連覇と南米チャンピオンに導きました。
 この年、彼はGKとしては非常に珍しいハットトリックを達成しています。(すべてPK)彼はPKだけでなくフリー・キックも蹴ることで知られていました。得点源として期待されるGKの元祖的存在です。

<ピーター・シュマイケル>「スター・ジャンプGK」(ポーランド)
 この年、マンチェスター・ユナイテッドをUEFAチャンピオンズ・リーグ優勝に導いた守護神ピーター・シュマイケルはポーランド生まれで、もともとはハンドボールの選手だっただけに配球の技術も優れていましたが、大きな身体を生かし相手を威圧する「スター・ジャンプ」は有名でした。彼が攻撃の起点となり、ライアン・ギグス、デビッド・ベッカムらにカウンター攻撃のきっかけを与える戦法を武器にマンUは常勝チームとしての地位を築くことになりました。

<ベスト・キーパー>
国際サッカー歴史統計連盟による1985年以降のベスト・ゴール・キーパー
(1)ファン・デル・サール(2)イケル・カシ―ジャス(3)ジャン・ルイジ・ブッフォン(4)ピーター・シュマイケル
2000年
<イケル・カシージャス>「スペイン最高のGKの栄光と悲劇」(スペイン)
 この年、イケル・カシ―ジャスは19歳でスペイン代表GKとしてデビュー。その後、スペイン代表と銀河系軍団レアル・マドリードのGKとして活躍し、世界最高のGKと呼ばれるようになります。ワールドカップには2002年日韓大会に初出場。2008年の欧州選手権で44年ぶりに優勝すると2010年南アフリカ大会では初の世界一になりました。バルセロナ中心のスペイン代表が完成させたポゼッション・サッカーの要として、21世紀型GKのスタイルを完成させた彼は世界最強チームの世界最強GKとしての栄光に輝きました。
 彼は国際サッカー歴史統計連盟により、2008年から2011年まで4年間連続して年間最優秀GKに選出されています。(4年連続は世界初のことでした)
 しかし、2014年のブラジル大会では予選リーグでオランダに1-5の敗戦。この試合では彼の大きなミスもあり、4年前の栄光が一気に地に落ちたかたちになりました。これもまたGKにとって、必然ともいえる運命んまのかもしれません。
2002年
<オリバー・カーン>「ゲルマン魂のスーパースター」(ドイツ)
 1994年バイエルンミュンヘンのGKとしてドイツ最優秀GKに選出されたオリバー・カーンは、この年ワールドカップ日韓大会で準優勝に貢献し、GKとして初めて大会のMVPを獲得しました。ただし、決勝のブラジル戦では彼のミスでゴールを奪われて優勝を逃しています。この年、彼は3度目の世界最優秀GKにも選ばれています。
 その後、世界的なスーパースターとなったものの、不倫騒動や夜遊び、ケンカなど様々なトラブルを抱えるようになり、プレーの質も低下してゆきました。

<マルコス・ロべルト・シウベイラ・レイス>「ブラジルを出なかった男」(ブラジル)
 この年開催のワールドカップ日韓大会でブラジル代表のGKマルコスが大活躍。しかし、彼は海外からのオファーがあってもブラジルを出ることはありませんでした。ロシア人とブラジル人のGKは優秀ではあってもなかなか故国から出たがらない傾向があるようです。
2003年
<ティム・ハワード>「GK王国アメリカが産んだ名GK」(アメリカ)
 この年アメリカ代表GKのティム・ハワードはアメリカMLSのNY/NJメトロスターズからイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドに移籍。その活躍により、「GK王国アメリカ」が世界に通用することを証明します。2006年からはエバートンに移籍し、プレミアを代表するGKとなります。2014年のワールドカップ・ブラジル大会でもアメリカ・チームを引っ張り話題になりました。ちなみに、彼は子供時代はバスケットボールで活躍していました。
2004年
<川口能活>「日本を救った奇跡のセーブ」(日本)
 この年、アジアカップ準決勝のヨルダン戦のPK戦で4人連続でPKをシャットアウトした川口はまさに日本の守護神でした。1996年アトランタ・オリンピックでブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」も彼のおかげでした。日本代表としての出場試合数も遠藤、井原に次ぐ3位。彼は日本人として初めて海外チームに移籍したGKでもありました。(イングランド2部ポーツマス)残念ながらあまり成功したとはいえませんでしたが、彼のよって日本人GKの世界への扉が開かれたといえます。
2005年
<ヴィクトル・バルデス>「影のスペイン代表GK」(スペイン)
 この年、リーガ・エスパニョーラを征したバルセロナの守護神ヴィクトル・バルデスは、サモラ賞を受賞しスペイン代表キーパーに迫る。ファンハールやライカールトらオランダ出身の監督の指導で攻撃的GKの役割を果たせる能力を身に着けたが、イケル・カシ―ジャスから正ゴールキーパーの座を奪うことはできず。
2006年
<伝説のPK戦>
 ワールドカップ・ドイツ大会準々決勝ドイツvsアルゼンチンは1-1の同点のままPK戦に突入。
 PK戦に向けて、ドイツのGKレーマンにGKコーチのアンドレアス・ケプケがアルゼンチン選手の情報をメモ書きして、アルゼンチン選手のキックの傾向を教えました。実は、そのメモにはその日の5人のキッカーのうち2人の情報しか書かれていませんでした。しかし、レーマンはメモ紙をチラつかせることでキッカーにプレッシャーをあたえ、その影響があったのか、カンビアッソがシュートミスしドイツが勝利を収めました。
2008年
<伝説のPK戦>
 欧州チャンピオンズリーグ決勝戦(チェルシーvsマンチェスター・ユナイテッド)
 この試合を前にチェルシーにPKに関する研究を行っていた人物からアドバイスがありました。
(1)マンUのファン・デル・サールは、チェルシーのデータを調べて必ず得意方向に飛んでくる。したがって、キッカーは得意方向の逆に蹴ること。
(2)マンUのクリスチャーノ・ロナウドはGKが動いた瞬間にその逆をつくキックを得意にしている。もし、GKが動かない場合は、自分が得意とする右方向に蹴ってくるはので、GKは動かずにがまんして右に飛べ。
(3)PKは先攻有利。できれば先攻をとれ。
 チェルシーはコイントスで先攻をとれず。しかし、アドバイスどうりに逆方向に蹴ることでロナウドのキックもセーブ。しかし、ジョン・テリーは不得意方向に蹴ったためかシュートミス。アネルカがミスすると負けという状況に追い込まれます。この時点で、ファン・デル・サールはチェルシーの蹴る方向が逆ばかりであることに気づいていて、アネルカにどうせこっちに蹴るんだろう!と指を指してみせます。混乱したアネルカはいつもどうり得意方向に蹴るもののシュートは取りやすい高さになってしまいました。そして、それはファン・デル・サールの思うつぼでした。こうしてチェルシーはPK研究者の助力を得ながら敗戦。結局、どんなに情報があっても、プレーする選手しだいで結果はどうなるかわからないということのようです。
2014年
<マヌエル・ノイヤー>「ワールドカップ・ブラジル大会MVP」(ドイツ)
 ワールドカップ・ブラジル大会最大の貢献者マヌエル・ノイヤーは、シャルケのGKとして2003年から2011年まで活躍していましたが、より高いステージを目指してドイツ最強のバイエルン・ミュンヘンに移籍。当初は両チームからの批判を浴びて苦しいシーズンを過ごしました。しかし、バイエルンはさらに強さを増して、FIFAチャンピオンズ・リーグでも2013年には世界一に輝き、文句なしの世界一のチームになりました。そして、ワールドカップ・ブラジル大会ではドイツが世界一に輝いたのですから、文句なしに彼は世界最高のGKになったといえるでしょう。
 21世紀型最新スタイルのゴールキーパーの今後はどこに向かうのか?
<参考>
孤高の守護神 ゴールキーパー進化論 The Outsider A History of the Goalkeeper」
 2012年
(著)ジョナサン・ウィルソン Jonathan Wilson
(訳)実川元子
白水社

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