- グレン・グールド Glenn Gould -

<天才としての人生>
 天才として生まれることは、幸福なことかもしれませんが、その苦労の多さもやはり人並みではなさそうです。
 そのことは、アインシュタインやピカソなど天才と呼ばれた人たちの生涯を知れば知るほど考えさせられます。音楽の世界においても、数多くの天才がおり、このサイトではこれまで多くの天才たちを取り上げてきました。しかし、そうしたアーティストたちの中でも、今回取り上げるグレン・グールドほど「天才中の天才」と呼ばれる人はいないかもしれません。(ロック界ならフランク・ザッパキャプテン・ビーフハートあたりが、彼に匹敵する存在でしょうか?)
 正直、彼が発表した数々の録音について音楽的評価をする資格は僕にはないと思います。僕のクラシック音楽についての知識といえば、NHK衛星放送「名曲探偵」の野本先生から学んだ知識ぐらいなので、彼の弾くピアノの解釈が録音によって、どう違うのかなんてわかるわけがありません。ただし、音楽評論家としてのグレン・グールドの言葉の数々には関心もあり、学ぶところ大でした。というわけで、ここでは彼の音楽について専門的に語るのではなく、彼の音楽論について語らせていただこうと思います。それならば、可能だと思います。(もちろん、彼の音楽について語らなければ意味がないといわれてしまえばそれまでなのですが・・・)

「・・・私は自分のことを、音楽におけるある種のルネサンス的人間だと思っていました。万能型の教養人です。作曲家になりたかったのは本当です。今でも気持ちは変わりません。ところが晴れ舞台で演奏することには少しも惹かれませんでした。・・・・・
 人々は闘牛場にいる観衆のようなもので、演奏を何かの運動競技だと考え、危険の及ばない場所で、目の前の光景を楽しんでいる。舞台で実際に行なわれている営みからは完全に切り離されているわけです。つまり、音楽とひとつになろうとする演奏家の努力のことです。演奏は競技ではない。恋愛です。・・・」

グレン・グールド

 多くの天才がそうであるように、彼もまた早くから天才ぶりを発揮し、その分周りから孤立する少年時代を送ったようです。

<天才少年の孤独>
 グレン・グールド Glenn Gould は、1932年9月25日カナダのトロントに生まれています。母親はかつて音楽家を目指したことがあり、ピアノとオルガンが専門でした。父親もまたアマチュアのバイオリニストで母親の祖父のいとこが「ペールギュント」などを作曲したエドヴァルド・グリーグという名門音楽家の家系に属していました。
 三歳の時、彼が絶対音感の持ち主であることが明らかになり、そしてすぐに楽譜を読むことができるようになったといいます。母親が自慢の息子に自らピアノを教え始めると、5歳ごろには自作曲をピアノ演奏で聞かせるようになり、自ら作曲家になると決意していたといいます。
 6歳の時、ピアニストのヨーゼフ・ホフマンの演奏会に行った時、彼はこう感じたといいます。
「・・・・・圧倒されました。唯一覚えているのは、車で帰るときのことです。眠りかけ、半分意識を失った状態で、うっとりした気分になっていたところ、信じられないようなさまざまな音が私の頭の中を駆け抜けて行きました。すべてオーケストラの音なのに、演奏しているのは、何と、この私なのです。私はいつの間にかホフマンになっていました。魔法にかかっていたようでした」
 なんと6歳にしてこの境地だったとは・・・。凡人はやってられません。
 しかし、これだけの天才少年ともなると、学校で周りの子供たちと仲良くやってゆけるわけはありませんでした。彼は同級生どころか先生ともうまくゆかず、学校では完全に孤立。そのため、彼は学校での生活よりもアプターグローヴにある湖の畔の別荘で静かに暮らすことを好むようになっていました。そんな孤独な少年にとって、音楽は逃避の場であり、自分を表現する唯一の場ともなってゆきます。


<オルガンとの出会い>
 10歳になった彼は、トロント音楽院でオルガン、ピアノの演奏と音楽理論を学び始めます。この時から、オルガンを6年ほど学んだ彼は、そのおかげでJ・S・バッハをこよなく愛するようになり、オルガン独特の演奏技術をピアノにも生かすようになります。このことは、彼の音楽性にも大きな影響を与えることになりました。

「オルガンはグールドのピアノ演奏ばかりか作曲方法にも影響を与えた。ピアノでは手がもう一本ないと弾けない独立した低音旋律を想像するという点で、足鍵盤を持つオルガンが音楽的な思考の基礎になっている。グールドはそう述べる。」
ジェフリー・ペイザント著「グレン・グールド、音楽、精神」より

 こうして、彼は自己表現の手段として、ピアノとオルガンの演奏を選ぶようになりましたが、このことはある意味必然的な選択だったのかもしれません。ドイツの音楽評論家ヨーアヒム・カイザーはこう書いています。

「音楽の再現行為の中で、ピアノ演奏ほどすべてが個人の感性や構成力や処理能力に委ねられているものはないと思われる。・・・」

 ピアニストだけでなく世界中の多くのアーティストたちは、天才であればあるほど、他者と関ることよりも孤独な作業に集中する方を好む傾向があります。こうした傾向について、アンソニー・ストーは名著「創造のダイナミックス」の中でこう書いています。

「・・・最も創造的な活動は実に孤独な営みであるため、そうした職業を選ぶことで、分裂気質の人間は他者との直接の関係から生じる問題を回避できる。文筆、絵画制作、作曲にあたり、彼はもちろんコミュニケートしているのだが、まったく彼なりのコミュニケーションにすぎない。状況は彼自身がすべてコントロールしている。信頼を裏切られたあとで嘆くような事態はありえない。・・・書籍や絵画や弦楽四重奏曲を媒介物としてのみ自分を表現することは、自分を守りつつ自己顕示の喜びを楽しむことを意味する」

 ジャンルを問わず、世界の巨匠と呼ばれるアーティストの多くは、このタイプに属するといえるでしょう。ウディ・アレン小津安二郎ジョン・レノン、ゴッホ、サリンジャー村上春樹・・・数え上げるときりがありません。
 こうした他者に関心をもたない人こそ、他者の目を気にすることなく自らの美学に忠実に作品づくりに集中できるわけですが、現実にはそれを自由に出来るのはほんの一握りの選ばれた人だけです。幸いにして、彼はそんな一握りの芸術家の一人でした。

「創造的な人間が・・・他者の同情的な理解を求めるならば、それは恥ずべきことです。生産し創出する営みは、もっと直接的です。・・・自分を隔絶させ、周囲の人間の支持も不支持も得られない場に置く時に、創作活動に何が生じるかに私は非常に関心があります」
グレン・グールド


<天才ピアニスト登場>
 彼のピアニストとしての才能はすぐに注目されるようになります。1944年にトロントで開催された第一回キワニス音楽祭の「ピアノ・トロフィー・コンペティション」にグールド少年は11歳で出場。そこで彼は最高点を獲得し一躍天才少年として、その名を知られることになりました。その後、彼はトロント・ロイヤル音楽院で1945年にピアノ独奏者の修了認定を受けると、翌年には音楽理論の試験にも合格。
 1945年12月12日、彼はオルガン奏者としてイートン・オーディトリアムで初の演奏会に出演。ピアノの独奏者としては、1946年5月8日、トロントのマッシー・ホールでの演奏がデビューとなりました。当然、彼の演奏は専門家からも高く評価され、演奏の依頼が次々にくるようになりました。しかし、すでにこの頃から、彼は演奏会というものに疑問を感じていたようです。
 低い特殊なイスにすわりピアノにかぶりつくようにして弾く彼の演奏スタイルは、それだけでも観客の注目を集めましたが、演奏中に彼が発するうなり声、もしくは歌はさらに観客を驚かせました。そのため、多くの人が彼の弾くピアノの音色以外の部分に注意をひかれてしまうのは仕方のないことでした。しかし、彼が演奏会というものに感じていた不満は、そうした聴衆の聞き方の問題だけではありませんでした。彼の演奏会についての考え方について、「グレン・グールド、音楽、精神」の著者ジェフリー・ペイザントは、こう書いています。

「彼は演奏会での拍手の習慣を廃止できればと願ってもいる。理由に挙げるのは、拍手は、演奏会に積極的に参加しているという誤った感覚を聴衆に与えること、演奏家に対しては、群衆を喜ばせる解釈上の小細工や、個人的なひけらかしを誘発すること、である」

「公開演奏はいくつかの点で競い合いである。演奏家は自分自身の録音と、あるいは自分の過去の演奏と競う。協奏曲では独奏者はオーケストラと競う。聴衆を「制覇」し、ニューヨークやモスクワで「勝利」を収めなくてはならない」



<レコード・デビュー>
 1965年に彼がレコード・デビューを飾ったアルバムで彼が取り上げたのは、彼が最も愛する作曲家J・S・バッハの「ゴルトベルグ変奏曲」でした。一般的には、チェンバロによって演奏されるその曲をピアノで演奏した彼のその作品は驚きをもって迎えられましたが、彼にとってバッハの曲をピアノで演奏することに違和感はまったくありませんでした。(バッハの時代には、まだピアノという楽器は存在しませんでした)
「<フーガの技法>同様<平均律クラヴィーア曲集>も、全曲にせよ、その一部分にせよ、その名の「クラヴィーア」で弾かれるばかりではない。チェンバロやピアノ、管弦楽のアンサンブルや、ジャズのコンボでも演奏される。またスキャットで歌うグループも少なくともひとつある。このようにどんな響きでも通用する点は、バッハの普遍性を強調する魅力のひとつである。」
グレン・グールド

 彼はJ・S・バッハとオーランド・キボンズ、アルノルト・シェーンベルクの曲を好んで演奏しました。それはこの3人が楽器の特性にこだわることなく、心的イメージによって曲を作り楽譜を演奏による具現化は2次的なものと考える「観念論の作家」だったからです。
「音楽作品を編曲してみると、その作品が観念論的に作られたのか、経験論的に作られたのかが判定できる。・・・・・
 大きな変更なしに編曲できる作品からは、ギボンズ、バッハ、シェーンベルクといった作曲家のとった観念論的アプローチが見えてくる。逆に大きな変更なしに編曲できない作品から見えてくるのは、ショパンのような作曲家のとった経験論的なアプローチである」


 当然、彼は天才ではあっても異なるタイプの天才、職人タイプ?のシューベルトによる楽器重視の作品を嫌っていました。そして、この考え方は彼の編曲に向かう姿勢にも影響を与えていました。
「ポイントはここである。編曲は編曲らしく響いてはいけない。編曲者はもとの楽譜をほかの楽器のためにただ移し変えればよいのではない。むしろ目指すべきなのは、もとの楽譜の向こうにある観念にまで立ち戻り、新しい響きにおいて音楽を具現化すること。つまり「音楽そのもの」から編曲に着手するのである」
 こうした考え方には、彼の「音楽そのもの」に対する考え方が表れているといえます。

<スタジオ録音作業重視とライブ活動の休止>
 彼は当初からステージ上で演奏することを好まなかったのですが、その代わりスタジオで演奏することに関しては常に積極的でした。それはスタジオ録音なら失敗してもやり直しがきくという単純な理由ではなく、いくつかの彼ならではの理由がありました。
 その一つは、録音された音楽を聴く側の問題です。彼は録音技術の発展と聴くための装置の発展により、聴く側もまた音楽活動に参加することが可能になったと考えていたのです。以下は、いずれもグレン・グールドの言葉です。

「テクノロジーの議論の中心・・・・・にあるのは、新種の聴き手、音楽体験において参加度を増した聴き手である。二十世紀中葉におけるその登場は、録音産業最大の功績となった。このおかげで、聴き手はもはや受動的な分析者ではない。彼らは今や、趣味や嗜好や性向に基づき、自分の関心を寄せる体験を変化させる末端の提携者であり、音楽芸術の未来は、彼らの存分な参加を待っているのである」

「自信をもって言えますが、マーラーの第八番は、家庭で適切に −親近感をもって、落ち着いた状態で、思索的に− 聴かれるときの方が、演奏会場で聴かれるときよりも、まさに圧倒的な効力を発揮します」


 さらに彼は自らが体験したある不思議な出来事についてこう語っています。それは彼が「モーツァルトのフーガハ長調K394」を家で弾いていた時のことでした。
「十代の始め頃、あの曲を勉強していたとき、ある日、急にピアノの横で電気掃除機のスイッチが入り、自分の演奏が聞こえなくなりました。ちょうどそのとき家政婦と険悪な状況で、彼女のいやがらせでした。きちんと聞こえなくなったのです。ところが自分の演奏が感じ取れる。つまり、触感によってフーガが立ち現れたのです。・・・」
 この体験をグールドは人生最高の瞬間のひとつと語っています。自らが弾くピアノの音色と電気掃除機の音、相反する音が混じり合うことで、時には驚くべき美を生み出すこともありうる。この体験により、彼は生の演奏をそのまま観客に聴かせる事だけが音楽ではないと確信したといえます。そして、この延長として彼が後に熱中することになる独特なラジオ・ドラマが誕生することになります。
 そして、もうひとつ演奏する側にとっての録音技術の発展は、彼に音楽の完全性をもたらしてくれました。

「私たちが音楽に期待するものは、録音では得られ、生演奏では得られない事実上の完全性を前提としている。レコード制作者は、最良の「テイク」を選んで一枚のディスクを作るが、演奏会では、聴衆は「テイク1」に金を払い、出来の良し悪しとは無関係にそれを受ける。演奏会の演奏者にとって、チャンスは二度ない。グールドはこれを「ノン=テイク=ツーネス」(テイク2の欠如性)と呼んだ。彼が演奏会に反対する理由がこれである」
ジェフリー・ペイザント著「グレン・グールド、音楽、精神」より

「バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音したとき、私は主題を迂回しました。変奏曲全体の基礎であるたいへん簡潔なアリアです。すべての変奏を満足な形でテープに録り終えるまでは手を着けませんでした。かくして私は、あのあどけない小さなサラバンド「主題のアリア」に戻りましたが、結果としてテイクを二十回録り直すことになりました。それはアリアのあとで作品が複雑になっていくことが事前にわからないような、まったく特徴のない性格をアリアに与えるためでした」
グレン・グールド
(この手法は、映画界でかつて小津安二郎監督が役者たちに何度も何度も同じシーンを演じさせる、彼らの演技から「作られた演技」を奪ってしまったことと似ている気がします)

 彼はこうして録音された数多くのテイクの中から、最良のテイクを選んでいるわけですが、さらに彼は録音テープをつぎはぎして、さらに一段上の最良の作品を生み出していました。そうした加工も、聴いた時に違和感なく聞こえるなら、そこから生まれた作品は正当な作品として認められる。そう彼は考えていました。

「録音後に働かせる後知恵によって、演奏が想像力に課している制約を超越することは、かなり多くの場合に可能なのである」
グレン・グールド

 この考え方は、今でこそ、デジタル録音技術の発達やサンプリング技術の登場により、それほど違和感はなくなりました。しかし、当時はまだ音を聴きながらテープを直接切り貼りしていた時代です。それに、ライブによって生み出される一発撮りの緊張感にあふれた録音こそ、最高の演奏であるという考え方が一般的には広まっており、多くの音楽家や評論家は彼の考え方に批判的でした。

 さらに彼の場合、最良のテイクを選ぶために異なる方向からのチャレンジを何度も行なうことで、新しい発見を生み出す可能性が高まることも意識していました。そのため、彼はどの録音にも過去の作品を意識することなく挑戦することが可能になったといいます。

「彼は伝統的な解釈にこだわらないし、規範的とされる演奏を意識することもない。まるで新作であるかのように作品を演奏したいのである。スタジオでの彼は、一曲あたり十ないし十五もの解釈を弾くのを好む。それぞれがまったく異なる解釈で、その多くが通用するが、最終的な演奏を決める前に曲をあらゆる角度から試しているかのようである」
ポール・マイヤーズ(音楽プロデューサー)

「録音された音楽は自律的な芸術であり、固有の約束事、技術、歴史、神話、士気、規準を有している。それが彼の主張である。レコード音楽と演奏会音楽の関係は、映画と演劇の関係と同じである。グールドの録音の数々は、そうした主張を徹底的に裏づけようとする試みである。そこにこめられるのは奇抜で常軌を逸したような(と私たちには思える)解釈であり、彼の著作の多くは、それを正当化する目的を部分的あるいは全面的に担っている。このすべてにおいてグールドが実行しているのは、録音を演奏会が琥珀に閉じ込められたものとみなす<古い哲学>や、録音とは生演奏の代用品にはほかならないと考える批評家たちに対する反発である。録音は生演奏の代用品ではない。映画が演劇の代用品でないのと同じである」
ジェフリー・ペイザント著「グレン・グールド、音楽、精神」より

 彼がどれだけ多くの方向から一つの曲を解釈できたのか?凡人には到底わかりません。しかし、楽譜をすべて暗記していて、練習する必要もなかったという彼ならすべての演奏において、異なる解釈ができても不思議はないのでしょう。
 1964年4月10日、ロサンゼルスで行なった演奏会を最後に彼は公演活動を休止。その後、二度と一般の聴衆を前に演奏することはありませんでした。スタジオでの音楽制作でのみピアノを弾くようになった彼は、しだいにそうした演奏活動からも離れてゆき、ついにはまったく新しい活動へと移行してゆきます。その代表的なものがラジオ番組の制作でした。それも単に台本にあわせて俳優がしゃべり、ドラマが展開するという従来型のドラマではなく、多くの俳優が同時に台詞をしゃべったり、そこに音楽をかぶせるなどして立体的で複雑な構造をもつ音による彫刻ともいえるような作品でした。しかし、こうした複雑な構成はけっして奇をてらった前衛作品ではなく、グールドにはしっかりとした作品のビジョンがあり、その具現化のために、彼は細部までこだわったスタジオ・ワークを行なっていました。
「気が変だと思われるかもしれませんが、私はまったく違う音源を少なくとも二つ同時に鳴らしながら書きものをします。たいていひとつはテレビ番組で、もうひとつはラジオ番組です。背景と言おうと思いましたが、むしろ中景と呼んだほうが正確かもしれません。それから、レストランに行くと、近くのテーブルの会話の三つ四つを自然と選り分けて聴いている自分に気付くのです」
グレン・グールド

「コンサートは、カメラが音楽と一体化し、カメラとマイクとが聴き手にとって代わっているまったく均質な映画が与えられるような親密さは、けっして到達することが出来ないでしょうね」
グレン・グールド

<新たな音楽活動を目指して>
 彼のこうした普段の生活ぶりを知ると、音の組み合わせによって新たな音の世界を作ろうという彼の試みも可能なように思えてきます。(悲しいかな凡人には確認困難ですが・・・)残念ながら、彼のそうした活動は、それまで彼のピアノを評価していた人々にとってすら理解困難でした。(それでも、その後それらの作品はCD化もされ理解されつつあるといいますが・・・)
 音楽評論家としての彼についても、周りからの評価は複雑でしたが、そうした特殊な彼の活動について、あえて分析を行なったのが、この文章で大いに参考にさせてもらったジェフリー・ペイザントによる名著「グレン・グールド、音楽、精神」でした。(タイトルが、グレン・グールドと音楽、精神が同列に並べられているのがミソです)
 1978年に発表されたこの本を読んだグールドは、その内容を高く評価しただけではなく、そこから大きな影響を受けたようです。その本の日本版翻訳者でもあるグールドの研究者宮沢淳一は、その本のあとがきにこう書いています。
「ある意味で、ペイザントはグールド以上にグールドを深く理解していた。その本を通して、四十五歳のグールドは自分と向き合った。自分の仕事と生涯を顧みた。音楽とメディアをめぐる自分の思想の拡がりを知った。その後のグールドがほとんど執筆をしなくなったのも、CBS(放送局)の仕事に消極的になったのも、五十歳になったらピアニストをやめて「指揮活動」に移ると決めたのも、本書の刊行と無関係であるまい。・・・・・
「あなたの本が私を変えた」脳卒中の発作に倒れる数時間前にペイザントに語ったというこの最後の言葉の示唆するところは大きい」

 アーティストの研究本がそこまで当のアーティストに影響を与えるというのは珍しいことです。1982年10月4日、彼は50年という短い人生を終えました。人生をリセットして、新しい音楽を生み出そうと彼は考えていたのかもしれませんが、その時間は残されていなかったのでした。
 最後に、彼が「芸術」について語った素晴らしい言葉で締めたいと思います。

「芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な分泌にあるのではなく、驚きと落ち着きの状態をゆっくりと、一生涯をかけて構築してゆくところにある」
グレン・グールド

「ポップ」と「芸術」の本質もしくはその目指すところの違いは、彼のこの言葉によって見事に表されているように思います。

「・・・バッハのすべてを現在のピアノで演奏しようと企てることは、シェイクスピアを日本の戦国時代やニューヨークのウエストサイドを舞台に演出することと同様、機知の発想にすぎず、起源の設定を変えることを通して、より作品の構造を明確に浮き彫りにさせるための戦略である。音楽体験がレコードやCDの受容といった複製メディアにあって、わたしはグールドの決断になんら不自然なものを認めない。ちなみにわたしは、昨今の西洋音楽のコンサート形式はもうすぐ終焉を遂げるだろうという、漠然とした予感を抱いている。名匠に憧れる素朴な愛好家たちも、もうすぐ消滅してしまうだろう。グールドがその終末の直前に出現する反キリストのような徴候であるといったら、あまりに神学的にすぎる見方だろうか」
四方田犬彦著「音楽のアマチュア」より

<追記>(2014年9月)
 小澤征爾によるグールドの音楽について
「グールドの音楽って、結局のところ自由な音楽なんですよ。それともうひとつ、彼はカナダ人というか、北アメリカに住む非ヨーロッパ人だから、そういうところの違いは大きいかもしれないですね。ドイツ語圏に住んでないってことが。・・・」
小澤征爾「小澤征爾さんと、音楽について話をする」より

 村上春樹はグールドの演奏法についてこう語っています。
「しかし、独特ですよね。ビデオで見ていると、空中に手を上げて、指で音に細かくビブラートをつけたりしてますよね。実際にはつくわけないんだけど」
村上春樹「小澤征爾さんと、音楽について話をする」

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