- グロリア・エステファン Gloria Estefan -

<追記> 2003年10月27日

<もうひとつのキューバ音楽史>
 1980年代に世界的ダンス・ヒット・ナンバー「コンガ Conga」によって一躍大スターとなったグロリア・エステファンが、ポップ・スターであると同時にポリティカル・スター(政治的スター)でもあることは、日本ではほとんど知られていません。
 それは彼女の本拠地フロリダ州マイアミが、アメリカの歴史において果たしてきた役割と大きく関わっています。そして、その歴史はまた、北の大都会ニューヨークにおいて発展したサルサとはまったく異なるもうひとつのキューバ音楽史でもあるのです。

<リトル・ハバナの誕生>
 マイアミの歴史は古く、その地に最初に住み着いたスペイン人移住者が「ラ・フロリダ=花の咲く地」と呼んだフロリダ州の田舎町としてスタートしました。街が都市と呼べるまで発展したのは20世紀に入ってからのことになります。
 特に1920年代から1930年代にかけて、アメリカ経済が黄金時代を迎えた頃、マイアミはニューヨークなど北の大都市圏に住む人々の避寒地としてリゾート開発がいっきに進みました。その中心は、後に「リトル・ハバナ」と呼ばれることになるカジェ・オーチョ地区で、そこにはスペイン風で異国情緒にあふれた建物が次々と建ち並びました。

<リゾート都市マイアミの黄金時代>
 その後カリブの楽園、キューバの首都ハバナで富を築いていたギャングたち(マフィア)が、その拠点をマイアミに置くようになり、マイアミはリゾート都市としても、その絶頂期を迎えました。当時は、あの有名なアル・カポネの子供たちもマイアミで生活しており、ギャング界を引退した大物たちもこの街に住み着いていました。(映画「ゴッド・ファーザー Part2」で登場するリー・ストラスバーグ演ずる大物フィクサーもマイアミ在住でした)
 街には、観光客のためのホテルが次々と立ち、そこで演奏するために全米各地からバンドが集まってくるようになりました。

<キューバ革命と政治難民>
 その後「禁酒法時代」が終わり、第二次世界大戦が始まる頃には、マイアミの景気は下降気味になり始めますが、1959年その状況を大きく変える事件が起きます。それは、目と鼻の先の国、キューバにおける革命政権の誕生です。(キューバ革命)
 カストロによる革命政権は、従来の支配階級、エリート階級にとってまさに脅威でした。そのため、医者、弁護士、実業家など裕福な階層の人々の数多くが、アメリカに向けて旅立ちました。そして、その中には、自由な演奏活動ができなくなることを怖れて亡命を決意したミュージシャンも数多くいました。そんな移民の多くは、キューバとは目と鼻の先にある街、マイアミに住み、共産主義政権が倒れることを夢みながら生活する道を選びました。彼らは、その才能と人脈、財力を活かしマイアミの街の支配階級となり、現在では街の人口の半分がキューバ系という特異な状況をつくることになりました。そして、同じ頃キューバからやってきた人々の中に、まだ小さかったグロリア・エステファンと後に彼女と結婚し、マイアミ・サウンドの仕掛け人となるエミリオ・エステファンもいたのです。

<エミリオ・エステファン>
 元々ミュージシャンとしてスターになることを夢みていたエミリオは、やはり後にラテン系ロック・スターとして大成功するキューバ系ミュージシャン、ウィリー・チリーノとともに10代の頃からバンド活動を始めていました。最初のバンドは「アニョラード・クーバ キューバが恋しい仲間たち」という名で、その後マイアミ・キューバン・ボーイズに参加。彼はパーカッション(コンガ)を担当していました。そんな彼が、まだ10代で心理学者を目指していたグロリアと出会ったのがこの頃でした。彼女の音楽的才能に気づいたエミリオは彼女を説得し、学問の道からミュージシャンの道へと方向を変えさせます。こうして、彼女はエミリオが作ったバンド、マイアミ・サウンド・マシーンのヴォーカリストになりました。

<ラテン・アメリカの首都>
 1970年代、白人系アメリカ人のH・W・ケーシーをリーダーとするK・C&ザ・サンシャイン・バンドの大ブレイクにより、マイアミはディスコ・ブームの中心地のひとつになりました。
 さらに、1980年代に入ると、キューバから12万人もの亡命者たちが船で押し寄せ、コロンビア、ニカラグア、ホンジュラス、ドミニカなどからも政治的混乱を逃れた難民たちがやってきたため、マイアミは「ラテン・アメリカの首都」と呼ばれるほどに膨れ上がりました。そして、この状況はマイアミに多種多様な音楽を発展させるきっかけともなったのです。

<「コンガ」の大ヒット>
 1980年代半ば、マイアミ・サウンド・マシーンの「コンガ」が世界的大ヒットとなったのは、そんなマイアミの街がもつエネルギーのせいだったのかもしれません。パキート・エチャバリーアのピアノ、エミリオ・エステファンのコンガ、グロリアのヴォーカル、さらにプエルトリコ人DJペドロ・フローレスのリミックスにより、この曲は見事世界のダンス・シーンを席巻しました。
 グロリアは、この後ソロとして活動を行うようになりますが、その人気が衰えることはなく、1988年にはマイアミで毎年3月に行われている音楽祭カジェ・オーチョの女王に選ばれ、文字どうりマイアミ&ラテン・アメリカの女王の座につきました。

<グロリア女王の時代>
 「コンガ」以降、サルサというよりは英語によるラテン風ポップス、ラテン風ディスコを中心としていたグロリアでしたが、1990年のヒット・シングル「オエ・ミ・カント 私の歌を聴いて」からは再びラテン色を前面に出すようになります。そして、1993年、彼女の代表作となった「ミ・ティエラ〜遙かなる情熱〜」が発表されました。このアルバムは、彼女にとって初めての前編スペイン語によるアルバムで、演奏されている曲もすべて本格的キューバン・サルサでした。さらにバックを勤めたミュージシャンたちのほとんどがキューバからの移民で固められており、彼女のキューバ音楽に向ける熱い思いを感じさせる傑作となりました。
 しかし、このアルバムはそんな故郷への思いの表現であると同時に、カストロ以降のキューバ社会主義政権を否定する強い政治的意思表示でもありました。アルバム・ジャケットには、明らかにキューバ革命以前のハバナのクラブを意識した写真が用いられ、その時代へのノスタルジックな憧れを感じさせます。アルバム・タイトルの「ミ・ティエラ=我が故郷」とは、現在のキューバを指すのではなく、あくまで過去のキューバのことを指しているのです。

<反カストロ勢力の拠点、マイアミ>
 そんな彼女の反カストロ思想は、マイアミの街においてけっして特殊な考え方ではありませんでした。それはキューバからの難民が大勢を占めるマイアミの街にとって、まさに民意とも言えるものだったのです。
 マイアミの街で、キューバのミュージシャンが演奏することはできませんでした。(21世紀に入っても)それどころか親キューバもしくは一度でもキューバを訪問したことがあるミュージシャンもまた、マイアミでの演奏が禁じられていました。(左翼的思想をもつルベン・ブラデスのようなアーティストもまたマイアミで演奏することはできません)もちろん、キューバの音楽はラジオだけでなくレコード店からも追放されています。
 こうして彼女は、はっきりと反カストロの意思表示をした後、親米宣言とも言えるアルバム「Hold Me,Thrill Me,Kiss Me」(1993年)を発表します。このアルバムは、彼女が子供時代から親しんできたアメリカン・ポップスのカバー集でヤング・ラスカルズの「How Can I Be Sure」やキャロル・キングの「It's Too Late」など、こちらはアメリカへの感謝をこめたアルバムとなっていました。

<汎ラテン・アメリカのヒロイン>
 1995年、彼女は再び全編スペイン語のアルバム「Abriendo Puertas 扉を開けて」を発表しました。このアルバムは、タイトル通り南北アメリカ全体に開かれた内容になっており、彼女が汎ラテン・アメリカの女王であることを証明するものでした。
 コロンビアの人気サウンド、バジェナートやクンビア。ドミニカのメレンゲにキューバン・サルサの基本であるソンやサルサなど、実に幅広いラテン音楽が取り上げられていました。このアルバムのブックレットのラストにはこうあります。
「もし、これらのリズムをうまく合体することに成功すれば、ラテン・アメリカの全ての人々がひとつになれるはずです」
 彼女はこれまでの反カストロ一辺倒の考えを改めつつあるのかもしれません。そしてそれはまた、マイアミの街とアメリカ全体の対キューバ姿勢の変化を象徴しているのかもしれません。

<クレッセント・レーベルの活躍>
 グロリアの活躍と平行するように夫のエミリオもまた活躍の場を広げて行きました。彼はミュージシャンとしてではなく、プロデューサーとして数多くのラテン系ミュージシャンを育て、ついにはマドンナやウィル・スミスなどまったく畑違いのアーティストにまで関わるほどの大物になります。さらに自らのレーベル「クレッセント」を起こし、そこからキューバ出身のアルビータ(・ロドリゲス)をデビューさせ、一躍大スターにしてしまいました。(彼女もまたキューバからの亡命組です)
 彼もまた、アメリカにおけるラテン文化拡大を象徴する存在ということができるでしょう。

<マイアミとキューバ、新たな関係>
 1997年、マイアミではラテン&カリビアン・ミュージック見本市が開催され、そこにはキューバの代表はいなかったもののキューバ音楽を扱うレーベルが数多く出店していました。そして、1998年ライ・クーダーによって見出されたキューバ音楽の大御所たちによる画期的なアルバム「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」と映画版が大ヒットしたことにより、キューバ音楽は再び世界中の注目を集めるようになりました。
 ラテン・アメリカの首都と言われてきたマイアミにとって、今までのようなキューバ音楽を排除するやり方は時代錯誤と言わざるを得なくなってきたようです。たぶん近い将来マイアミの街でグロリアがキューバのミュージシャンたちと共演することもあるのでしょう。その意味でも、グロリアの存在はアメリカとキューバ、そしてラテン・アメリカの未来を占ううえでも、欠かせない存在となったようです。

<追記>(2003年10月27日)
 先日松井が出場して話題を集めたアメリカのワールド・シリーズで、グロリアが国歌を歌っていました。地元フロリダで行われただけにやはり彼女の歌は欠かせなかったようです。
 ちなみに、このワールド・シリーズが行われている最中、野球のワールド・カップが行われていました。アメリカは5位だったそうです。

<締めのお言葉>
「当時、モータウンに起こったことは、まさにラテン音楽にいま起こっていることと同じだ、つまり、眠れる巨人が世界中で目を覚ましつつあるということさ」

エミリオ・エステファン「カリブ・ラテンアメリカ音の地図」より

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