ハリウッドを復活させた映画小僧の出世作 |
<アカデミー賞を二度とった作品>
アカデミー賞の長い歴史の中で、続編もしくはPart2と呼ばれる作品が作品賞をとった唯一の例が、この「ゴッドファーザー PartU」です。(アカデミー賞作品賞を受賞した「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」はパート3にあたりますが、それはあくまで完結編なので例外でしょう)おまけに、パート2、パート1ともに作品賞をとったのですからもう二度とない快挙かもしれません。映画の歴史に続編、パート2は無数に存在しますが、パート2がパート1の評価を上回ったというのはほとんど例がありません。僕の感想としては、この作品は第一作を越えていたと思います。そうでなければ、アカデミー賞を連続してとるということは不可能だと思います。では、なぜこの作品は一作目を越えることができたのでしょうか?
その謎を解くには、やはり第一作がF・F・コッポラによって映画化されることになった経緯から語る必要がありそうです。ちょっと長くなりますが、先ずは2008年のナポリから始め、その後1972年に戻りたいと思います。
<イタリアン・マフィア>
2008年、イタリア南部ナポリの街がゴミに埋め尽くされている映像が世界中を驚かせました。その原因は、イタリア北部の工業地域から出された産業廃棄物がナポリ周辺の処理場に大量に持ち込まれ違法に投棄されたことでした。そのために処理場がどこも満杯になり、一般のゴミを捨てる場所がなくなってしまったのでした。そして、その不法投棄を請け負っていたのが、北部の工場や政治家からお墨付きをもらっていたマフィアだというのです。イタリアという国は、イタリアが国として統一された時、すでにその国の構造にマフィアという非合法の組織を組み込んでいたといわれています。それはある意味イタリアからアメリカへと渡った人々がマフィアという組織をも持ち込んだことは、ごく当たり前のことでした。特に、1920年代以降、ファシズムの台頭が始まると、マフィアの大物の多くがイタリアを離れてアメリカへ向かったといわれています。
<シチリアからの移民>
この映画の前半にビトー少年がアメリカへと渡った当時の様子が描かれています。彼がアメリカに渡ったのは1901年で、イタリアからの移民がピークを迎えていた時期にあたります。こうして、1880年から1920年にかけて、アメリカに渡ったイタリア移民は400万人にのぼるといわれます。現在アメリカに住むイタリア系の人々の祖先はほとんどこの時期に移住しています。さらにこれらの移民のほとんどはシチリア島か南部イタリア、ナポリ周辺の貧しい農民たちでした。今も昔もイタリアでは南部と北部の貧富の差が大きく、そんな貧しい小作農たちから地代金を取りたてるために雇われた農場管理人とその部下たち、それが「マフィア」のもとになったといわれています。
こうした搾取の体制は、彼らがアメリカに渡ってからも続きました。英語が話せず肉体労働に従事するしかなかった彼らは通訳兼手配師であるマフィアに再び搾取されることになったのです。さらにシチリア島は、歴史的にいろいろな国からの侵略にあいイタリア国内においても植民地的な扱いを受けていたため、そこに住む人々はアメリカに渡るまで自分たちがイタリア人だとは思っていなかったといいます。(イギリスとアイルランド、日本と朝鮮、琉球の関係に似ているのか)それだけに彼らの結束は強く、アメリカにおけるマフィアの中心はシチリア系が占めることになってゆきました。ちなみに有名なアル・カポネはナポリの出身だっため、ニューヨークでその地位を築くことができず、シチリア系の力が弱いシカゴへと渡ってのし上がっていったのでした。
こうした歴史のもとでドン・ビトー・コルレオーネのファミリーはアメリカでの基礎を築くことになったわけです。
「ゴッドファーザー」は、そんなシチリア・マフィアの架空の組織「コルレオーネ・ファミリー」の歴史をアメリカの近代史をからめながら描いた作品といえます。初公開の際、マフィアという組織の存在自体が衝撃的だったこともあり、この映画はマフィアという実在のギャング組織を描いた「実録犯罪映画」という扱い方をされていたように思います。しかし、一作目の後にこのパート2、パート3が作られファミリーの歴史が過去から現在へと描き続けられる中で、このシリーズはマフィアという特殊な運命を背負わされたコルレオーネ一族の苦闘の歴史を描くファミリー・ドラマとしての色合いを強めるようになってゆきました。
<「ゴッドファーザー」>
もともと一作目の「ゴッドファーザー」は、マリオ・プーゾの小説「ゴッドファーザー」の大ヒットに目をつけたパラマウントが映画化の権利を買い取ったところから始まりました。世界中で翻訳された大ベストセラー小説の映画化となれば、多少の予算をかけても間違いなく大ヒットすると考えたパラマウントでしたが、そこで大きな誤算が生じます。それは「ゴッドファーザー」が描くテーマが「マフィア」であり、架空の物語としながらも、それを限りなくリアルに描いていることから、映画化に対して圧力がかかるのではないかという不安が生じてきたのです。それも映画化を阻止するような政界からの圧力ならまだしも、もしマフィアが直接暴力を用いてきたら・・・最初の標的は監督かもしれない。そんな噂が立つ中でパラマウントから監督依頼の打診を受けた監督たちが次々に断りの連絡をいれてきたのです。結局12人もの監督がこの映画を監督するチャンスをふいにしてしまいました。
確かに、この作品では現実に起きた事件が巧みに物語の中に織り込まれているため、マフィアや彼らに関わる人々を告発するものととられる可能性もありました。例えば、一作目の「ゴッドファーザー」には、イタリア系の歌手ジョニー・フォンテーンからあるハリウッド映画の役がほしいと依頼を受けたドン・コルレオーネが、その映画のプロデューサーが寝ているベッドに彼の所有していた馬の生首を入れて脅迫するというエピソードがあります。これはあのフランク・シナトラが「地上より永遠に」に出演するために実際にしたことだと言われています。シナトラは、その映画での演技でアカデミー助演男優賞をとり、歌手としてぶつかっていた壁を壊すことができました。このエピソードだけでもシナトラ・ファミリーから圧力がかかる可能性がありました。
そこでパラマウントは何が何でも映画化を実現するため、それまでの実績を無視し、ほとんど無名の若手監督に白羽の矢を立てました。それが当時まだ無名に近かった弱冠30歳のフランシス・フォード・コッポラでした。しかし、たとえなり手がいなかったとはいえ、ハリウッド大手の映画会社が彼を選んだのには、それなりの理由がありました。(彼がイタリア系だったというのも、選ばれた理由のひとつだったようですが、・・・)
「奴に文句は言わせない I'm going to make him an offer he can't fefuse」
「アメリカ映画の名セリフベスト100」第2位(2005年AFI発表)
<追記>2015年1月
NHKEテレの「岩井俊二のムービーラボ」(ドラマ編)で「ゴッドファーザー」が紹介されていました。この映画の新しさは、それまでもあったギャング映画に「香り」を与えたことにあるというのです。イタリア系マフィアを描いた映画はそれ以前にもありましたが、それは彼らの存在を外から見た乾いた暴力映画に過ぎなかったといえます。それに対して、この映画は監督のコッポラがイタリア系で、音楽のニーノ・ロータもまたイタリア系。この映画には、「イタリアの香り」がびっしりと詰まっていたわけです。確かに、そこにはギャングというよりもシチリア系移民たちの日常生活が食べ物や行事など様々な面から描かれていました。そんな映画はそれまでありそうでなかったというわけです。なるほど・・・
<映画監督になるために生まれた男>
フランシス・フォード・コッポラ、彼は映画監督になることを目標として人生を歩み続け、若くして映画製作に関するあらゆるノウハウを身につけた異色の人物です。彼は10歳の時から映画を撮り始め、ホーム・ムービーを自らの手で編集して作品を作ると近所の子供たちを集めて、有料の映画の映画上映会を開いていたといいます。この時すでに彼は映画の製作、編集、監督だけでなく、その配給や公開、宣伝にまで気を配る総合的な視野をもった映画人としての第一歩を踏み出していたのです。18歳の時、エイゼンシュタインの映画にはまった彼は、再び映画作りを目標とするようになりますが、彼はそこであえてまわり道を選択します。彼は演劇学校に入り、演技や演出だけでなく照明やセット作りなど裏方の仕事をも丹念に学んで行きました。さらに大学時代には、オリジナルのミュージカル「デリケート・タッチ」の脚本を書き、自ら作詞と演出を担当、数々の賞を受賞しました。この頃の心境について、彼はこう語っています。
「その間、私は映画から遠ざかっていた。というのは、いま映画に手をつけたら、私は駄目になってしまうと思ったからだ。・・・・・私は四年間映画から離れ、その間に何かを見につけようとしたのだ」
彼にとって、すべては映画監督になるための準備だったのでしょう。
そして、1960年彼はついに映画科で有名なカリフォルニア大学に入学。いよいよ本格的に映画作りに向かおうとします。意外ですが、同じクラスの学生たちは、いかにハリウッド映画が堕落したくだらないものばかりか、ヨーロッパ映画はいかに素晴らしいかを語るばかりで、いっこうに自分たちの手で映画を撮ろうとしなかったといいます。(当時、映画界はヌーヴェルヴァーグ一色の時代でした)
しかし、彼の目標はあくまでも映画を撮ることでした。彼はそのために、ヌード映画専門の映画会社で監督となり、その後はロジャー・コーマンのプロダクションに入社します。そして、若手映画人を育て、この後のアメリカ映画界の担い手を数多く生み出したロジャー・コーマンの指導のもとで、彼はより深く映画製作のノウハウを学ぶことになります。
「映画界にいる人間のほとんどが、自分の専門外のことを知らない。新人が、そういった連中を見習ってしまうと、自ら仕事をするチャンスを狭くしてしまうことだろう。映画のあらゆる分野を把握している監督やライターはめったにいない。・・・・・」 フランシス・フォード・コッポラ
映画評論家のジョセフ・ジェルミスはこう言っています。
「コッポラは、ハリウッド映画を監督するためにアメリカの大学の映画科を卒業した最初の人だろう。そして、学位論文として商業映画を提出した初めての人でもあった」
ロジャー・コーマンのもとでデビュー作となった「死霊の棲む館」(1962年)を撮った後、彼は脚本を書くことで映画製作のための資金を作り始めます。
「雨のニューオーリンズ」(1966年)、「パリは燃えているか」(1966年)、「パットン第戦車軍団」(1970年)、「禁じられた情事の森」(1967年)など、彼はこの頃すでに超一流の脚本家になっていました。
<ムービー・ブラット Movie Brats>
1940年以降に生まれ、映画学校で学びながら、ハリウッド映画の古典をたっぷりと見ながら育ち、なおかつヨーロッパのネオ・リアリズモやヌーヴェル・ヴァーグなどからの影響を強く受けた監督たちの一団のことをムービー・ブラット(「映画小僧」といった感じでしょう)と呼ぶそうです。ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシ、ブライアン・デ・パルマ、ジョン・カーペンター、メル・ブルックスなどが、そのグループに属するといえます。もとはといえば、彼らのほとんどはロジャー・コーマンの元でB級映画を撮るところからキャリアをスタートさせています。その中でも、いち早くコーマン学校を卒業し、後輩たちにチャンスを作ってやったのが、F・F・コッポラだったといえそうです。その意味でも、この映画の世界的ヒットが彼らムービー・ブラットたちの運命を変えたといえるのかもしれません。
<映画ビジネスの専門家>
途中で株取引に手を出して失敗し、財産を失うということもありましたが、彼はワインの製造も手がけるサイド・ビジネスにも熱心な企業家であり、投資家でもありました。こうした、彼のビジネス好きもまた彼の映画作りの基礎となっていたのかもしれません。彼ほど、ビジネスとしての映画作りに詳しい監督も珍しく、映画会社との交渉ごとに関して、業界の敏腕弁護士以上の能力をもっているといわれています。
特に有名なのは、彼がワーナー・ブラザースに対して起こした幻の映画「ピノキオ」についての訴訟です。この裁判は、彼が企画し脚本まで書いた「ピノキオ」をワーナーがコッポラに断りなくかってに製作しようとしたことに対して、コッポラが起こしたものです。当初は、コッポラ自身が監督するはずが予算面などで折り合いがつかず流れてしまっていたものを、ワーナーが自社の企画として別の監督に撮らせようとしたのが事の発端でした。自分は、その企画をワーナーに売ったつもりはないとするコッポラは、一個人として大企業ワーナー・ブラザースを相手に訴訟を起こし、8000万ドルという巨額の賠償金を得ました。(その後、この訴訟は上告され金額は減ったようですが)
彼はこうした訴訟だけでなく、映画を撮るために必要な映画会社との交渉ごと全般について海千山千の知識をもつ、やり手の交渉人でもあるのです。こうした、映画についての経済学を理解している人物だからこそ、彼は自分の撮りたい作品のためなら、どんな仕事でも請負、チャンスを待ち続けました。
<「雨の中の女」>
1968年のミュージカル映画「フィニアンの虹」も、けっして彼が撮りたい企画ではなく20年前のミュージカルを映画化するという時代錯誤も甚だしい作品でした。第一、ニューシネマの時代にフレッド・アステア主演のミュージカルが流行ると思いますか?それでも、ミュージカルの演出経験があるコッポラはその企画をそつなくこなし、ワーナー重役人の信頼を得ることができました。そして、そのお返しとして、ワーナーは彼に「雨の中の女」(1969年)を撮らせてくれたのでした。シャーリー・ナイト主演のその映画は、女性版「イージー・ライダー」ともいえるニューシネマ風のロード・ムービーで彼にとって初めて満足のゆく出来の作品となりました。ヒットこそしなかったものの評論家から高い評価を得てサンセバスチャン映画祭では見事作品賞と監督賞を受賞。一躍、彼の存在は映画界で知られるようになりました。
映画を大学で本格的に学んだアカデミックな能力。ビジネスとして映画を理解している実務能力の高さ。映画、舞台で身につけた総合的な演出力。クラシック音楽の指揮者を父に持ち、生まれながらに身につけていた芸術、音楽についての高い才能。これらを併せ持つ数少ない映画人として、実績は少ないものの彼は映画界でそれなりの評価を得るにいたっていたわけです。そして、もうひとつ彼は素晴らしい作品と出会うことのできる幸運も併せ持っていた、そういえるのかもしれません。こうして、まだ若かったにも関わらず彼に「ゴッドファーザー」という超大作を撮るチャンスがまわって来たというわけです。
しかし、映画会社では彼のことを完全に信頼していたわけではありませんでした。当初、パラマウントは彼がオーディションなどで選んだ俳優たち、アル・パチーノやマーロン・ブランドの採用を認めず、そのために撮影スケジュールが遅れると早くも後任監督としてエリア・カザンの名前をちらつかせ始めたといいます。その後、コッポラが撮影を軌道に乗せたことで、かろうじて彼の首はつながりましたが、度重なるトラブルと無名監督の作品ということで「ゴッドファーザー」の予算はかなり削られてしまいました。しかし、それこそコッポラの腕の見せ所でした。確かに、この作品は当時としては超大作でしたが、後のパート2、パート3に比べればぐっと抑えた予算で作られていたのです。しかし、そのおかげでこの映画は大ヒットにより、巨額の利益を生み出すことになりました。
スケールの大きさ、迫力、美しさ、リアルさ、スリル、感動・・・あらゆる点でこの作品はハリウッドの黄金時代を思わせる「映画らしい映画」でした。この作品の登場とムービー・ブラッツの活躍により、崩壊の危機にあったハリウッドの映画界は再び上昇気流に乗ることになります。
<偉大なるカメラマン、ゴードン・ウィリス>
一作目の大ヒットにより、すぐに製作が企画されることになった「ゴッドファーザーPart 2」は、確実にヒットすることが予想できたこともあり、予算が大幅に増額されることになりました。セットや衣装など、すべてが一作目を上回るものとなってゆきますが、一つだけ一作目と変わらないことがありました。それは撮影器材です。このシリーズは1作目から3作目まで、同じ俳優が違和感なくドラマを演じてゆくために画面全体のトーン、雰囲気(映画の専門用語では「ルック」といいます)を一貫したものにする努力がなされているのです。そして、その中心となったのがカメラマンのゴードン・ウィリスです。
「ゴッドファーザー」を最初に見たときの印象で、画面の暗さに驚いた方は多いと思います。特に一作目のオープニング直後のシーン。屋外では燦燦と輝く太陽のもと華やかな結婚式が行われていますが、ドン・ビトー・コルレオーネが身内の願い事を聞く部屋の中は薄暗く、顔の表情すらはっきりしないドンがモゴモゴと聞き取りにくい言葉を発しており異様な雰囲気だったことが強く印象に残っています。(その後コッポラとブランドが再び組んだ「地獄の黙示録」のラストシーンでは、さらに部屋は暗くなり、言葉も聞き取りにくくなっていました)顔の表情までもがはっきりしないという画面は、それまでのハリウッド映画ではありえないことでした。しかし、実際にはそうした状況は普通にありうることです。明るい日差しのもとから部屋の中に入れば、そこは真っ暗闇のように見えて当然なのです。さらに結婚式という晴れがましい席とドンの請け負う闇の仕事との対比を考えるなら、明と暗の対比は当然のことかもしれないのです。この画期的な画面作りを行ったゴードン・ウィリスは、アメリカのカメラマンの中で最も尊敬されている人物のひとりといわれています。
彼はハリウッドを嫌いニューヨークを中心に活動していることもあり、アカデミー賞には二回ノミネートされただけで一度も受賞していません。そのため、彼の知名度は今ひとつのようですが、同業のカメラマンの間での彼の評価は非常に高く映画界ナンバー1との呼び声も高い存在です。それは彼が器材やテクニックに頼るのではなく、よりシンプルにリアリティーを追求するカメラマンだからのようです。プロのカメラマンたちが評価するのは、現実をごく普通に写し取ることにこそあるのでしょう。
彼のモットーはとにかくできるだけ自然光を用いてリアルな映像にこだわることです。そして、同じ場面、同じ映画には共通するルックを保たせ、観客にけっして違和感を感じさせないことです。だからこそ、「ゴッドファーザー」3部作には同じカメラ、同じトーン、同じ色合いが保たれ、3本続けて見てもまったく画面に違和感を感じないのです。この映画で彼が用いた黄色味がかったノスタルジックな画面の色合い(ゴールデン・アンバーと呼ばれているようです)は、この映画のヒットの後、一躍有名になり、過去のアメリカを描いたノスタルジックな映画では定番的に真似されるようになったといいます。改めてこの映画を見るときは、この「ゴールデン・アンバー」にもご注目下さい。
<撮影を担当した作品>
「アニー・ホール」(1977年)、「インテリア」(1978年)、「「スターダスト・メモリー」(1980年)、「カメレオンマン」(1983年)、「カイロの紫のバラ」(1985年)など、ウディ・アレン作品。
「大統領の陰謀」(1976年)、「再会の街 ブライトライツ・ビッグシティ」(1988年)、「デビル」(1997年)・・・。
<ニーノ・ロータ>
パート1に続いてこの映画の音楽を作曲したニーノ・ロータ Nino Rota は、1911年12月3日イタリアのミラノに生まれています。幼い頃から音楽において天才ぶりを発揮していた彼は、11歳でオラトリオ(教会音楽の一形式)「聖ヨハネの少年時代」を作曲。14歳になると、アンデルセン童話をもとにしたオペラを作曲したといいます。当時、彼は「20世紀のモーツァルト現る!」と話題になっていたといいます。ローマのサンタ・チェチリア音楽院で学び、17歳で卒業。(エンリオ・モリコーネも出ている名門校)
彼は、音楽家だった祖父の友人トスカニーニの勧めもあり、18歳の時、奨学金を得てアメリカに留学。フィラデルフィアのカーティス音楽院で作曲法、音楽史、指揮について学びました。彼がアメリカに渡った1930年代の初めは、アメリカが大不況に苦しんでいましたが、エンターテイメントの世界では映画、ミュージカル、ヴォードヴィル演芸、黒人音楽は盛り上がっていて、彼はその影響を受けて帰国することができました。
1936年に帰国してからは音楽学校の教授として働きながら作曲活動を行い、交響曲、協奏曲、オペラなどを発表。27歳で、念願だった「交響曲第一番」を完成させています。
そんな彼が映画音楽を手がけるようになったのは、1930年代からで、1948年の「魔の山」の音楽で注目されるようになります。その後はフェデリコ・フェリーニの作品を中心に数多くの作品に音楽を提供しています。フルオーケストラよりも小規模な楽団編成で生み出されたセンチメンタルな音楽は、心にしみるメロディーとして永遠に残るものばかりです。彼は後輩の育成にも熱心で、1950年から22年の長きにわたり、ピッツィニ音楽院の院長務めました。
1979年4月10日没
彼の音楽を愛し使い続けたイタリアの巨匠、フェデリコ・フェリーニはニーノ・ロータのことを「天使のような人だった」と言っていました。小柄で童顔で礼儀正しく物静かな人物像は、イタリア人ぽくはなかったかもしれませんが、だからこそ「太陽がいっぱい」や「道」などのあの天国のようなメロディーを生み出せたのかもしれません。
「音楽とは紙に書かれたり、印刷されたりした記号の羅列ではなく、また楽器の音や空気の振動といった単純なものでもありません。そういった事柄のすべてと、聴き、唄う人々の心の奥底にある大切な思いとが結びあってはじめて形作られるものなのです」
ニーノ・ロータ
「ロータがその生涯をかけて追い求めた理想の音楽とは、結局のところ誰もが知っている”うた”そのものであり、これは器楽曲/声楽曲、純音楽/映画音楽といったジャンルの垣根を越えて、ロータ音楽全体の核とも言うべきものになる」
上原昭一<代表的な作品>
「道」(1964年)、「戦争と平和」(1956年)、「カビリアの夜」(1957年)、「白夜」(1957年)、「甘い生活」(1959年)、「太陽がいっぱい」(1960年)、「若者のすべて」(1960年)、「ボッカチオ’70」(1962年)、「フェリーニの8 1/2」(1963年)、「山猫」(1963年)、「魂のジュリエッタ」(1965年)、「世にも怪奇な物語(悪魔の首飾り)」(1967年)、「ロミオとジュリエット」(1968年)、「サテリコン」(1969年)、「ワーテルロー」(1969年)、「フェリーニの道化師」(1970年)、「ゴッドファーザー」(1972年)、「フェリーニのローマ」(1972年)、「フェリーニのアマルコルド」(1974年)、「ゴッドファーザーPartU」(1974年、アカデミー作曲賞)、「フェリーニのカサノバ」(1976年)、「ナイル殺人事件」(1978年)、「オーケストラ・リハーサル」(1978年)・・・etc.
トータル139本のために音楽を書き続けました。そのうち、16作品はフェリーニ作品でした。共通の美意識を持っていたフェリーニの作品では特に彼らしさが発揮されていたと思います。ノスタルジックで美しくて可笑しくてやがて悲しい世界が彼の音楽によって見事に完成されていたと思います。
<一作目を越えたパートU>
この作品が一作目を越えられた理由の一つは、先ず製作費の大幅増でしょう。一作目は確かに大作ではありましたが、予算はかなり厳しく抑えられていました。監督のコッポラは、そうした緊縮予算でも作品を撮ることができると考えられたからこそ、監督に抜擢されたのですから。
しかし、一作目の世界的大ヒットにより、状況は大きく変わります。パートUで、彼は製作費の大幅増を約束されていたのです。そのためパートUでは、前作では不可能だった過去へのタイム・トリップが可能になりました。ドン・ビトー・コルレオーネの青春時代を描くために必要な20世紀初めのニューヨークの街並みを再現することも可能になりました。
この映画の撮影のため、ニューヨーク市内東6番街の1ブロックがまるごと1918年当時の街並みに改築されました。また国交がまったくないキューバのハバナでは撮影が不可能だったので、そのシーンの撮影はドミニカで行われたのですが、キューバ独裁政権の宮殿に代わり使用されたのがドミニカ大統領の宮殿だったそうです。そこで行われたパーティーのシーンにはドミニカ軍の兵士とその妻たちが200名以上出演したといいます。この時、どれだけのお金がドミニカの政権に支払われたのでしょうか?
この作品は、さらに空間的なスケールの面でも大きくなっていました。マイケルが新たな縄張りとしたラスベガスとその近郊のタホ湖、革命によって進出が不可能になってしまったキューバ、それにニューヨーク、フロリダ、シチリア島と超大作と呼ぶに相応しいスケールで物語が展開しています。
そしてもうひとつ、この作品によって一躍世界的な俳優となったロバート・デ・ニーロの登場です。彼なくしてこの映画の成功はなかったでしょう。そしてもうひとり74歳にして映画初出演となったハイマン・ロス役のリー・ストラスバーグ、彼の存在も忘れられません。アメリカ最高の俳優養成所「アクターズ・スタジオ」を主催してきた偉大な演技の神様が出演したこと事態、いかにこの映画に対する期待が高かったのか、その証明といえます。
「ゴッドファーザー The Godfather 」 1972年公開
「ゴッドファーザーPartU The Godfather PartU」 1974年公開
(監)(脚)(脚)フランシス・フォード・コッポラ
(原)(脚)マリオ・プーゾ
(製)グレイ・フレデリクソン、フレッド・ルース
(撮)ゴードン・ウィリス
(音)ニーノ・ロータ、カーマイン・コッポラ
(出)マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、ジョン・カザール、リー・ストラスバーグ、ダイアン・キートン、タリア・シャイア、ロバート・デュバル、トロイ・ドナヒュー
<あらすじ>
「ゴッドファーザー」
ニューヨークを支配するマフィアの大物、ドン・ビトー・コルレオーネの娘コニーの結婚式が盛大に行われていました。名付け親(ゴッドファーザー)として、ファミリーのトップに立つドンのもとには、いつものように身内からの依頼ごとが絶えず、彼は右腕的存在のトム・ヘイゲンらを使いながら、それらを一つ一つ解決していました。しかし、麻薬取引に手を出さない昔かたぎの彼のファミリーに対し、新興勢力のタッタリア一家が攻勢をかけつつあり、その身内のソロッツォの部下によってドン・コルレオーネが撃たれてしまいます。
ファミリーの一員になることが嫌で軍隊に入っていた三男のマイケルは父が撃たれたことを知り、急遽病院へと向かい、再び暗殺されそうになるところを助け出します。自らの運命を悟った彼は自分の手でソロッツォと仲間の警部を殺害。ほとぼりが冷めるまで父親の故郷でもあるシシリー島に身を隠すことになります。しかし、その間にも彼の兄である長男のソニーが惨殺され、シチリア島で結婚したマイケルの妻アポロニアまでもが殺されてしまいます。しばらく後、ニューヨークでは5大ファミリーのボスたちによる会談が行われ、これまでの殺人をすべて後和算にすることで手打ちが行われました。こうして、マイケルは再びニューヨークへと戻ることになります。しかし、平穏な日々は長くは続きませんでした。ドン・コルレオーネが自宅の庭で突然倒れこの世を去ったのです。再びファミリーの間で抗争が勃発する危険が高まろうとしていました。
ドンは生前、自分が死んだ後、ソニー殺しの黒幕だったパルツィーニが会談を申し込んできたら、それはマイケルを殺すためであり、その仲介者は裏切り者だから注意しろ、そう言い残していました。すると案の定、パルツィーニからの会談の申し入れがあり、その仲介者は古くからの仲間テッシオだったことがわかります。
マイケルがコニーの息子の洗礼式にゴッドファーザーとして出席する日、いよいよ彼にとって初の大仕事が行われます。それは裏切り者テッシオとソニー暗殺の手引きをしたコニーの夫、それにパルツィーニらの敵対者たちをいっせいに暗殺するという作戦でした。こうして、マイケルはコルレオーネ一族のドンの座につき、ファミリーの新しい歴史が刻まれ始めるのでした。
「ゴッドファーザーPartU」
<ビトーの青春時代>
前作でこの世を去ったドン・ビトー・コルレオーネは、かつてイタリアのシチリア島で生まれました。しかし、地元のマフィア(チッチオ)に両親を殺された彼は復讐されることを恐れたチッチオに命を狙われたため、島を脱出しアメリカへ向かう移民船に乗りました。ニューヨークに着いた彼はリトル・イタリアと呼ばれるイタリア移民の多く住む地域で職を転々としながら地域の人々の信望を集めるようになります。さらに、その街を牛耳っていた悪玉のボス、ファヌッチ(ガス・モスキン)を拳銃で殺したことで自らがその土地の顔役になって行きました。
その後、ビトーは結婚し4人の子供をもうけます。成功者となった彼は、久しぶりに故郷のシチリアに帰りますが、それは単なる里帰りではありませんでした。彼がやらなければならない義務、両親を殺したチッチオへの復讐をすることが目的だったのです。
<マイケルの苦闘>
父親の死後、後を継いだマイケルはラスベガスへ進出。さらにマイアミへも進出しようとしたため、マイアミのボス、ハイマン・ロス(リー・ストラスバーグ)の部下ロサト兄弟に命を狙われることになります。その後、マイケルは独裁政権下にあったキューバへの進出をめざし、レジャー業界の代表としてハバナ入りします。ところが大統領主催のパーティーが行われている最中にカストロら反政府組織による革命闘争が勃発します。キューバをあきらめることになった彼はヘリでハバナを脱出します。そのうえ、この時に彼は自分の行動が兄であるフレドー(ジョン・カザール)によってスパイされ、ハイマン・ロスに筒抜けになっていたことを知ります。
本国に戻ったマイケルは今度は彼を逮捕しようとする犯罪調査委員会に召喚され、公聴会には彼の有罪を証明するためにマイケルを裏切った部下のペンタンジェリが現れました。ところが、彼は証言台に立つと、それまでの証言をすべて覆し、マイケルの無罪を証明してしまいます。実は、彼はロサト兄弟に殺されそうなところを裏切ったマイケルによって救われたため、再びマイケルのもとに帰っていたのでした。
こうして再び難関を乗り切ったマイケルでしたが、こうしたマフィアとしての生き方に耐え切れなくなった妻のケイはマイケルに離婚を切り出します。さらに彼には、家庭内の重要な問題が残されていました。彼を裏切った兄フレドーの処分です。マイケルはついにハイマン・ロスを部下の手で殺させるとフレドーも湖で殺させてしまうのでした。マイケルは父ビトーのことを懐かしく思いながら、自らの孤独感に苦しむのでした。
「この戦いは革命軍が勝つ。なぜか。政府軍は給料をもらって戦っているが、革命軍はそうではない」
ハイマン・ロスのセリフより
<マフィアに関する映画>
この映画の映画の他にも、世界中でマフィアに関する映画が作られています。(任侠映画は別にして)
ギャング映画を現在進行形で描いた作品には、歴史的な名作がやはり多いようです。
「犯罪王リコ」(1931年)、「民衆の敵」(1931年)、「暗黒街の顔役」(1932年)、「白熱」(1949年)
「ゴッドファーザー」の大ヒット以降に再びギャング映画(マフィア映画)の時代が訪れます。
「コーザ・ノストラ」(1973年)、「バラキ」(1972年)、「デリンジャー」(1973年)
その後は、マフィア映画も、イタリア系以外のマフィア映画が作られるようになります。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)(ユダヤ系マフィア)
「スカ―・フェイス」(1983年)(キューバ系マフィア)
「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985年)(チャイニーズ・マフィア)
「グッドフェローズ」(1990年)(アイリッシュ系マフィア)
「カリートの道」(1993年)(プエルトリコ系マフィア)
「アラビアンナイト」(監)ピエロ・パオロ・パゾリーニ(カンヌ映画祭グランプリ)
「アリスの恋 Alice Dosen't Live Here Anymore 」(監)マーティン・スコセッシ(脚)ロバート・ゲッチェル(エレン・バースティンがアカデミー主演女優賞)
「ある結婚の風景」(監)(脚)イングマル・ベルイマン(撮)スヴェン・ニクヴェスト(出)リヴ・ウルマン、エルランド・ヨセフソン
「エマニエル夫人」(監)ジュスト・ジャカン(原)イブ=ルッセ・ルアール(出)シルビア・クリステル(女性のためのポルノ映画登場)
「オリエント急行殺人事件Murder on the Orient Express」(監)シドニー・ルメット(音)リチャード・ロドニー・ベネット(ポワロものの第一作であり最高傑作、役者が豪華でした。イングリッド・バーグマンがアカデミー助演女優賞受賞))
「家族の肖像」(監)(脚)ルキノ・ヴィスコンティ(原)エンリコ・メディオーリ(脚)スーゾ・チェッキ・ダミーコ他(出)バート・ランカスター、シルヴァーナ・マンガーノ
(音)「バイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」第二楽章(モーツァルト)(バート・ランカスターが寝る前に聞いていた印象深い曲)
「ガルシアの首Bring me the Head of Alfredo Garcia」(監)サム・ペキンパー
(ペキンパーが思い通りに作った数少ない作品、ウォーレン・オーツの代表作でもある)
「華麗なるギャツビーThe Great Gatsby」(監)ジャック・クレイトン(音)Nelson Riddle アカデミー編曲賞(S.フィッツジェラルドの傑作小説の映画化、ゴージャスなジャズエイジの物語)
「カンバセーション・・盗聴・・」(監)フランシス・フォード・コッポラ(カンヌ映画祭パルムドール受賞)
「ゴッドファーザー PartUThe Godfather: Part U」(監)フランシス・フォード・コッポラ(音)Nino Rota(出)アル・パチーノ、ロバート・デュバル アカデミー作曲賞、アカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞(ロバート・デニーロ)
「こわれゆく女」(監)(脚)ジョン・カサベテス(出)ジナ・ローランズ、ピーター・フォーク(ジナ・ローランズがゴールデングローブ主演女優賞)
「ザッツ・エンンターテイメント」(監)(製)(脚)ジャック・ヘイリーJr(出)フレッド・アステア、ビング・クロスビー
「サブウェイ・パニックThe Taking of Pelham one two Three」(監)ジョセフ・サージェント(音)David Shire
(パニック映画ブームに隠れていたB級サスペンスの傑作!)
「さらば冬のかもめ」(監)ハル・アシュビー(ジャック・ニコルソンがカンヌ映画祭主演男優賞)
「自由の幻想」(監)(脚)ルイス・ブニュエル(脚)ジャン・クロード・カリエール(出)ジャン・クロード・ブリアリ、モニカ・ヴィッティ
「続・激突カージャック」(監)スティーブン・スピルバーグ(スピルバーグの初監督映画、大好きな作品です!カンヌ映画祭脚本賞受賞)
「タワーリング・インフェルノTowerring Inferno」(監)ジョン・ギラーミン、アーウィン・ウィンクラー(音)John Williams 「タワーリング・インフェルノ 愛のテーマ」
(音)アル・カーシャ アカデミー歌曲賞(豪華俳優陣による究極のパニック映画でした)
「チャイナ・タウンCihna Town」(監)ロマン・ポランスキー(音)Jerry Goldsmith (ジャック・ニコルソンのハード・ボイルドもの)
「トラベラー」(監)(脚)アッバス・キアロスタミ(サッカーの試合を見るために10歳の子があの手この手の悪だくみ!初期のモノクロ作品)
「流されて・・・ Swept Away」(監)リナ・ヴェルトミュラー(監)ジャンカルロ・ジャンニーニ
「ハリーとトントHarry and Tonto」(監)(脚)ポール・マザースキー(脚)ジョシュ・グリーンフェルド(出)エレン・バースティン(アート・カーニーがアカデミー主演男優賞受賞)
「薔薇のスタビスキー」(監)アラン・レネ(主)ジャン・ポール・ベルモンド(シャルル・ボワイエがカンヌ映画祭特別表彰)
「ファントム・オブ・パライス Phantom of the Paradise」(監)(脚)ブライアン・デ・パルマ(音)Paul Williams (ロック・ミュージカルの傑作)
「フェリーニのアマルコルドAmarcord」(監)(脚)フェデリコ・フェリーニ(音)Nino Rota (出)ブルーノ・ザニン、マガリ・ノエル(フェリーニの代表作)
「フロント・ページThe Front Page」(監)(脚)ビリー・ワイルダー(脚)I・A・L・ダイヤモンド(音)Billy May
(ノスタルジックな記者ものコメディ、ウォルター・マッソー&ジャック・レモン)
「星の王子さまThe Little Prince」(監)スタンリー・ドーネン(出)ボブ・フォッシー、ジーン・ワイルダー
(ミュージカル版「星の王子さま」ダンスも素晴らしいし、主役がイメージにぴったり)
「マーラー」MAHLER (監)(脚)ケン・ラッセル
(製)デヴィッド・パットナム、ロイ・ベアード(撮)ディック・ブッシュ(音)グスタフ・マーラー
(出)ロバート・パウエル、ジョージナ・ヘイル、リー・モンタギュー、リチャード・モーラント、ロザリー・クラッチェリー1911年に20世紀初頭を代表する作曲家マーラーがウイーンに戻る列車の中で過去を振り返ります。
コジモ・ワーグナーに気に入られウィーンでオペラ監督になるためユダヤ教からキリスト教に改宗した屈辱
妻アルマの浮気や娘の死、ユダヤ人としての差別、弟の自殺…様々な不幸から復帰できたのは妻への愛だった?
ケン・ラッセル的なやり過ぎの演出はあるものの、わりと分かりやすい映画。
もちろんマーラーだけでなくベートーベン、ワーグナーまでの登場して音楽映画として楽しめます。
「約束の土地」(監)(脚)アンジェイ・ワイダ(原)ヴワディスワフ・S・レイモント(出)ダニエル・オルビリフスキ
「レニー・ブルース」(監)ボブ・フォッシー(脚)ジュリアン・バリー(撮)ブルース・サーティーズ(出)ダスティン・ホフマン、バレリー・ペリン(カンヌ映画祭主演女優賞)
「赤ちょうちん」(監)藤田敏八(脚)中島丈博(製)岡田裕(出)高岡健二、秋吉久美子、長門裕之
「伊豆の踊子」(監)西河克巳(原)川端康成(脚)若杉光夫(出)山口百恵、三浦友和(黄金コンビ第一作)
「妹」(監)藤田敏八(脚)内田栄一(製)岡田裕(音)木田高介(出)秋吉久美子、林隆三、吉田日出子
「華麗なる一族」(監)山本薩夫(原)山崎豊子(脚)山田信夫(出)佐分利信、京マチ子、仲代達矢
「小林多喜二」(監)今井正(原)手塚秀孝(脚)勝山俊介(出)山本圭、森幹太(ベルガモ国際映画祭グランプリ)
「サンダカン八番娼館 望郷」(監)(脚)熊井啓(原)山崎朋子(脚)広沢栄(音)伊福部昭(出)栗原小巻、田中絹代(ベルリン映画祭主演女優賞)、田中健
「砂の器」(監)野村芳太郎(原)松本清張(脚)橋本忍、山田洋次(音)芥川也寸志(出)丹波哲郎、加藤剛、森田健作、島田陽子、緒方拳(モスクワ国際映画祭審査員特別賞)
「青春の蹉跌」(監)神代辰巳(原)石川達三(脚)長谷川和彦(製)田中収(出)萩原健一、桃井かおり、檀ふみ
「ともだち」(監)沢田幸弘(脚)勝目貴久(出)阿部仁志、鈴木典子、松田優作(ベルグラード国際映画祭 金賞)
「ねむの木の詩」(監)(製)(原)(脚)(音)(歌)(ナレーション)宮城まり子(ドキュメンタリー映画)(国際赤十字映画祭銀賞)
「竜馬暗殺」(監)黒木和雄(脚)清水邦夫、田辺泰志(製)黒田征太郎ほか(出)原田芳雄、石橋蓮司、松田優作、桃井かおり
「わが道」(監)(脚)新藤兼人(製)高島道吉ほか(撮)黒田清巳(出)乙羽信子、殿山泰司
「襤褸の旗」(監)吉村公三郎(脚)宮本研(撮)宮島義勇、関根重行(出)三国連太郎、荒木道子
岩波ホールにおいてエキプ・ド・シネマがスタート。第一回作品としてサタジット・レイの「大樹のうた」公開
(東和副社長の川喜多かしこ、岩波ホール支配人の高野悦子によるプロジェクト)
田坂具隆(監督)死去(73歳)
花菱アチャコ(俳優)死去(77歳)
山本嘉次郎(監督)死去(72歳)
<アメリカ>
ウォーターゲート事件により、ニクソン米国大統領辞任
G・R・フォード政権発足
<ヨーロッパ>
ノーベル文学賞作家ソルジェニーツィン氏、ソ連追放
ポルトガルで軍部のクーデター、独裁政権倒れる
<アフリカ>
エチオピア革命(皇帝廃位)
<アジア>
韓国で大統領緊急措置発動
朴大統領狙撃事件
<日本>
GNP初のマイナス成長
読売ジャイアンツ長島茂雄引退
佐藤栄作ノーベル平和賞受賞(何かの冗談?)
<芸術、文化、商品関連>
「重力の虹」トマス・ピンチョン著(全米図書賞)
「保護管理人」ナディン・ゴーディマ著(ブッカー賞受賞)
「死者の舞踏場」トニイ・ヒラーマン著(エドガー賞)
ランボルギーニ「カウンタックLP400」発売スーパーカー・ブーム
宝塚歌劇団「ベルサイユのばら」初演
サンリオ「ハロー・キティ」誕生
<音楽関連(海外)>
ザイールのキンシャサで、モハメッド・アリ対ジョージ・フォアマンのヘビー級世界選手権が行われ、ジェームス・ブラウン、ファニア・オールスターズのコンサートが開催される
クール・ハークがブレイク・ビーツの手法を用いたDJプレイを始める
ブラジルで打楽器集団ブロコ・アフロの最初のグループ、イレ・アイェ誕生
スウェーデンのグループABBAが「ウォータールー」で人気爆発
「ドラミング」 スティーブ・ライヒ
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