天使と悪魔の顔をもつブルースバンド


- ゴールデン・カップス The Golden Cups -
<伝説のブルースバンド>
 日本のロックの歴史において、今なおブルースロックの先駆として語られる伝説のブルースロック・バンド、ゴールデン・カップス。僕は彼らがGSの人気バンドだったころを知らず、知ったのは彼らのコンサートを録音した友人のカセット・テープをもらったおかげでした。そのテープの音はかなり割れていて、聞きづらかったのですが泥臭いブルース・ロックのライブの迫力は十分に伝わっていました。
 「長い髪の少女」というGSの大ヒット曲を歌っているバンドとは思えない彼らの音楽は、どこから生まれたのか?どうやらその音は彼らが活動を開始した街、横浜と深い関りがあったようです。「天使はブルースを歌う」というノンフィクション作品に、そんな彼らと横浜の街との歴史が書かれていました。

<ゴールデン・カップス>
 先ずはバンドのメンバーの生い立ちから紹介します。
 デイヴ平尾は、1944年11月17日横浜生まれです。(2008年11月10日死去)本名は平尾時宗といい、外国船専門のクリーニング店「シップス・ランドリー」の8番目の息子でした。中学生の頃、ロッカビリー好きの姉に連れられて日劇ウエスタン・カーニバルを見て、ミュージシャンを目指すことを決意。お金持ちの御曹司だったこともあり、21歳の時、親の金で船でアメリカに向かい西海岸で多くのバンドのライブを見ました。旅行中に同じようにアメリカ旅行に来ていたエディ藩とも知り合っていたようです。エディもまたアメリカ旅行をしていたのでした。(1960年代にアメリカ旅行をするのは一般人には到底不可能でした!)
 エディ藩は、本名を藩広源という台湾国籍の中国人で1947年6月22日、横浜中華街にある有名中華料理店の長男でした。彼の家もまた裕福でした。
 ルイズ・ルイス加部は、本名を加部正義といい父親はフランス系アメリカ人兵士で、横浜の娼館で働いていた日本人の母親との間に1948年11月5日に生まれています。祖母の元で育てられた後、歯科医と結婚した母親の元に引き取られ、これまたお坊ちゃまとして育つことになりました。お金があったこともあり、早くからギターを買ってもらった彼は、当時の大人気番組「勝ち抜きエレキ合戦」で個人賞を受賞。ハーフならではのイケメンもあり、高校生でスターの仲間入りをしていました。
 マモル・マヌーは、本名を三枝守といい、純粋な日本人で1949年6月3日に横浜に生まれています。彼もまたイケメンのギタリストとして活躍していましたが、ゴールデン・カップスではドラムスを担当することになります。
 当初はデイヴ平尾が「スフィンクス」というバンド、エディ藩は「ファナティックス」というそれぞれのバンドを率いていましたが、当時、本牧で大人気だったライブ・ハウス「ゴールデン・カップ」のオーナーから専属バンドをやらないかと誘われた平尾が、同じ横浜で活躍する最強メンバーを集めようとして、上記のメンバーをスカウト。デイヴ平尾とグループ&アイとして活動を開始します。当初のメンバーは、デイヴ平尾のヴォーカル、エディ藩のリード・ギター、ケネス伊東のサイド・ギター、ルイズ・ルイス加部のベース、マモル・マヌーのドラムスという構成でした。彼らはその店で毎晩、40分のステージを20分の休憩をはさみながら行い、8時から11時までで、ギャラは1人が月に4万円もらっていたとのこと。公務員の初任給が2万円の時代ですから、高校生のバイトとは思えない額でした。
 イケメンでセンスが良く演奏能力も高い日本人離れしたバンドということで大人気となり、多くの芸能関係者(スパイダースやブルー・コメッツのメンバーや内田裕也など)やスカウトが店を訪れるようになります。そして2年間専属としての活動を行った後、1966年に東芝からプロ・デビューを果たすことになります。

<二つの顔を持つバンド>
 ゴールデン・カップスがレコード・デビューした1967年は、日本中がGSブームに沸く時代でした。イケメンで横浜出身のお坊ちゃまたちで、ハーフのメンバーからなる実力派バンドということで、デビュー前から注目を集めていました。戦後、「混血」の子どもたちは、日本の敗戦とパンパンの存在が生んだ鬼っ子的な存在として差別の対象と見られていましたが、1960年代末には時代の流れは変わりつつありました。多くの日本人が占領国アメリカに憧れの気持ちをもつようになり、「混血児」であることはそんなアメリカに近い存在となります。こうして「混血児」は「ハーフ」と呼び変えられ、憧れの存在になって行きました。
 資生堂のポスターで一躍アイドルとなった前田美波里。歌手では、エミ―・ジャクソン、青山ミチ、ゴールデンハーフ、そして山本リンダ。モデル、タレントとしてブレイクした中には、青山エミ、秋川リサ、キャシー中島などがいて、「ハーフ」の芸能人はまさにトレンドとなっていたのです。
 そんな社会状況が彼らの追い風となり、デビュー・シングル「いとしのジザベル」は18万枚を売り上げるいきなりのヒットとなりました。さらに3作目の「長い髪の女」は35万枚を売り上げるGSブームを代表するヒットとなり、彼らの人気はブルーコメッツ、タイガース、スパイダースに次ぐレベルに達します。ただし、彼らのヒット曲は、オリジナル曲ではなく歌謡界でGSのヒット曲を数多く書いていた人気の作曲・作詞家によるものでした。
「いとしのジザベル」(作曲)鈴木邦彦(作詞)なかにし礼
「銀色のグラス」(作曲)鈴木邦彦(作曲)橋本淳
「長い髪の少女」(作曲)鈴木邦彦(作曲)橋本淳
「愛する君に」(作曲)村井邦彦(作詞)なかにし礼
 しかし、そもそもブルースやロックが好きでバンドを始めた彼らはGS的なヒット曲を演奏する気にはなれず、テレビなどに出演した時以外にこれらの曲を演奏することはありませんでした。彼らがライブで演奏するのは、オーティス・レディング、ヤードバーズ、クリームゼム、ヴァニラ・ファッジなど洋楽のカバーでした。
 当時の横浜は米軍基地があることから東京よりも早くアメリカの流行が入ってくる街でした。優れた演奏力と最新流行ヒット情報があるからこそ、彼らはどのバンドよりも早くロックの最新曲をカバーすることができたのです。(インターネットにより、世界中が同時に情報を得ることができる時代とはまったく違っていました)
 当時人気のロック雑誌「ミュージック・ライフ」で1968年に行われたロックバンドの人気投票で、ゴールデン・カップスはなんと第1位に輝いていました。(ちなみに2位はスパイダース、3位はフォーク・クルセダース、4位タイガースでした)GSファンの間では御三家に次ぐ人気でしたが、ロックファンの間ではナンバー1の人気バンドだったのです。

<バンドの崩壊へ>
 その後、GSのブームが終わると、彼らの人気は下り坂となります。そもそもバンドとして成功しようという欲がなかった彼らは、方向性の違いから崩壊へと歩み始めます。ケネス伊東は故郷のハワイに帰国するためにバンドを脱退。代わりにまだ16歳の若さだったミッキー吉野がキーボード奏者として参加。1969年4月にはエディ藩も脱退。12月にはマモル・マヌー、ルイズ・ルイス加部、エディの代わりに入った林恵文も脱退。元カーナビーツの高野が加入し、エディ藩が再加入し、新人の柳ジョージも加わります。結局、バンドを最後まで守ったのはデイヴ平尾だけでした。
 そして、1970年の秋、メンバーが全員マリファナの不法所持容疑で取り調べを受けることになります。結局、デイヴ平尾とミッキー吉野の二人が逮捕されることになります。その結果、ミッキー吉野はまだ未成年だったことから練馬の少年鑑別所で24日間過ごした後、2年間音楽活動をしないという条件で釈放されます。そして、翌年彼はバークレー音楽院に入学するため日本を離れます。音楽の勉強をした後、帰国した彼はゴールデン・カップスに戻るつもりでしたが、すでにバンドにはドラムスとしてジョン山崎が加入していました。
 その後、マモル・マヌーはソロ歌手としてデビュー。ルイズ・ルイス加部は、林恵文、ジョン山崎らとルームというバンドを結成。その後も彼らは本場のロックを日本に持ち込み続けますが、カバー曲では次々に来日する本場の有名ロックバンドに太刀打ちできるはずはありませんでした。

<その後のカップス>
 解散後、メンバーはそれぞれ異なる道を歩み続けます。
 デイヴ平尾はタレントとして活躍後、1982年六本木にライブハウス「ゴールデン・カップ」をオープンさせ、自らもそこで往年のヒットを歌うようになります。1983年にはアルバム「横浜ルネッサンス」を発表し、バンドのメンバーの中では順調な活躍を続けることができていました。
 ルイズ・ルイス加部は、しばらくアメリカに住んだ後、チャー、ジョニー吉長とピンク・クラウドを結成し、大人気となり、14年間そのバンドで活動しました。解散後も、彼はロック界を代表するレジェンド・ベーシストとして活躍を続けます。
 ミッキー吉野は、アメリカから帰国後、海外から日本を見てきた経験を生かして、アジアンテイストを前面に出した新しいロック・バンドを目指します。その結果として誕生したのがゴダイゴでした。「ガンダーラ」「モンキー・マジック」など、歴史的な大ヒット曲を生み出したゴダイゴは、日本のロックバンドとして初めて中国でのライブを実現します。9年間ゴダイゴで活躍した彼は、解散後、目標を失ってしまったことから薬物に頼るようになり、覚せい剤所持の罪で逮捕されてしまいます。その後、薬物依存から立ち直った彼は、1993年にアルバム「ハート・オブ・ヨコハマ」を発表して見事に復活を果たしました。

「ゴールデン・カップスというのは、単なる音楽グループじゃなかったんですよ。ひとつの生き方だったんです。そういうタイプの見本として、当時、若者の心をつかんだのだと思いますね」
ミッキー吉野

 ゴールデン・カップスはある時期、戦後横浜の顔だった。それは、Yokohama as America であり、「混血」が売り物という、じつにアイロニーに富んだ顔である。
 基地の街、横浜における「混血」とは、差別された存在だった。おおむね「メリーさんの子供たち」とみなされ、アメリカ政府からも日本政府からも目を背けられる存在だった。彼らが歌うとすれば、それはまずブルースであるはずだ。

山崎洋子


「天使はブルースを歌う 横浜アウトサイド・ストーリー」 1999年(改訂版2019年)
Angels sing the blues
(著)山崎洋子 Yoko Yamazaki
亜紀書房
<あらすじ>
 戦後の横浜で米兵らとの間に産まれた多くの赤ん坊がたどった悲劇的な運命の数々。その中でも、もっとも悲惨だったのは生まれ落ちたのと同時に命を落とし埋まられることになった赤ちゃんかもしれません。彼らのほとんどは横浜にある無名の外人墓地に埋められたと言われています。
 米兵相手のクラブをメインに活動していたブルースバンド、ゴールデン・カップス。戦後差別の対象となっていた混血の子供たちを中心に結成された彼らは、日本におけるブルースロック・バンドの先駆となりました。
 米兵相手の娼婦として横浜の街かどに立ち続けた白塗りの老女メリーさん。ホームレスなのか?大金持ちなのか?謎に満ちた彼女の人生は?
 ブルース・フィーリングにあふれた横浜の街の「昭和」から「平成」を記録したノンフィクション文学。

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