「切り裂き魔ゴーレム Dan Leno & the Limehouse Golem」

- ピーター・アクロイド Peter Ackroyd -

<特殊構造サスペンス>
 19世紀末ロンドンの貧民街を舞台としたサイコ・サスペンス小説。有名な「切り裂きジャック」をモデルにした殺人者が登場するもののシャーロック・ホームズのような名探偵が登場するわけではなく、読者は自らの知能によって事件の捜査を行なわなければなりません。そして、その捜査資料が4種類の記述によって与えられます。
(1) 第三者視点での事実の記述
(2) エリザベス・クリーの裁判についての法廷記述
(3) エリザベス・クリーの回想もしくは証言
(4) ジョン・クリーの日記

 この4種類の記述が時間軸を無視して登場するため、読者は初めのうち頭が混乱してしまうかもしれません。おまけに、こうして4つに分けられた文章により作者は読者に対するトリックも仕掛けているのです。実によく出来た特殊構造サスペンス小説です。
 この小説のように時代考証に凝ったサスペンス小説の多くは、犯罪のトリックや謎解き、犯人当ては二の次になりがちです。ところが、この小説は驚くほど見事に世紀末のロンドンの雰囲気を描き出していながら、結末にはしっかりと、読者をあっと言わせる驚きの仕掛けを用意しています。
 完全にこの小説を理解するには2回は読む必要があるかもしれません。読み終った後になって、殺人犯ゴーレムはいったい何人の人を殺したのでしょうか?と問われて、すぐに答えるのはかなり難しいはずです。(マスコミが取り上げたゴーレムのよる殺人事件以外にも、犯人は殺人を何度か犯しているはずです)

<極上の歴史小説>
 ここまで、よく出来たサスペンス小説でありながら、この小説は推理小説のコーナーではなく現代英米文学のコーナーに並んでいるはずです。このサイトでもアクロイドの別の作品「原初の光」を取り上げていますが、それはまったく異なるタイプの小説です。この本の解説によると、彼の存在は「フロベールの鸚鵡」のジュリアン・バーンズ、「悪魔の詩」のサルマン・ラシュディと並ぶ存在と称されているそうです。
 優れたサイコ・サスペンス小説であるこの作品は、それ以上に世紀末のロンドンの社会風俗をよみがえらせた極上の歴史小説です。ここで再現された世紀末のロンドンに生きた実在の人物と架空の登場人物との共演には、読んでいてワクワクさせられてしまいます。簡単にその中の重要人物を挙げると・・・・・。
<トマス・ド・クインシー>
 この連続殺人事件によって再現されることになった1811年に本当にあった殺人事件の犯人ジョン・ウィリアムズを英雄として扱った評論「芸術としての殺人について」の著者トマス・ド・クインシー。彼は実在のイギリス人評論家として有名な人物です。
<ダン・リーノ>
 19世紀後半、イギリスを代表する娯楽文化だったミュージック・ホールにおいて、最大の人気者だった俳優のダン・リーノ。この本の原題は「Dan Leno & the Limehouse Golem(ダン・リーノとライムハウスのゴーレム)」となっていて、まさに彼こそがこの本の主役なのです。もしかすると、登場人物の中で唯一ゴーレムの正体を見抜いていたのは、このダン・リーノだけだったのかもしれません。そのことは、小説のラストで犯人の正体が明らかになった時、ダンの言葉でも納得できるはずです。事件の真相を知る人物として、エンディングを見事に飾ったことで、彼は最後に見事に主役の座についたといえます。
<カール・マルクス>
 ドイツからイギリスに移住し、その晩年を迎えつつあった「共産主義」の生みの親カール・マルクスとその娘エリナー。ゴーレムが殺そうとしたのは、実はマルクスだったという驚きの仕掛けも憎い!
<チャールズ・バベッジ>
 蒸気機関による自動計算機を開発した天才数学者チャールズ・バベッジも興味深い存在です。一般的には知名度が高いとは言えず、物語的には彼の登場する必然性はなかったのかもしれませんが、彼の存在により19世紀が向かいつつあった未来が暗示されているといえます。17世紀にパスカルがQ生み出した手動歯車式計算機は彼が開発した自動計算機によって大きく進歩。この後、世紀末に登場する「電気」を利用することでいよいよ電子計算機コンピューターの時代が始まることになります。
 20世紀を大きく変えた思想「共産主義」の父と同じく20世紀を変え21世紀をも変え続ける「コンピューター」の祖父が、最後には同じ劇場の観客席に座っている。これぞ小説の醍醐味です。おまけに、その劇場にはあの「ドリアン・グレイの肖像」などで有名な作家オスカー・ワイルドも取材のために訪れていたとも書かれています。
<チャーりー・チャップリン>
 ダン・リーノが助けた俳優ハリー・チャップリンの妻のお腹の中には、どうやらあのチャーリー・チャップリンがいたようです。チャップリン、その後大きくなるとロンドンのミュージック・ホールを代表する人気俳優となり、一座と共にアメリカへ巡業の旅に出ます。そして、その旅の途中にハリウッドでスカウトされ、映画俳優の道を歩みだすことになります。

<舞台装置としてのミュージック・ホール>
 登場人物だけでなく、そこに登場する街の様子やバベッジの巨大計算機、ミュージック・ホールの出し物、大英博物館などの背景も歴史好きにはたまらない魅力があります。特に、イギリス独特の風俗として一時代を築いたミュージック・ホールの黄金時代については、あまり詳しく書かれたものがなく、レコードや映画が登場する前のために映像や音で知ることはできません。それだけにダン・リーノとともに描かれているミュージック・ホールの様子にも要注意です。
 この時代の後に登場するイギリスのミュージシャンや俳優たちの中には、ミュージック・ホール文化の遺伝子を受け継いだ者が数多く存在します。(ロック界ではキンクスがその影響を作品に多く取り入れていることで有名ですが、ビートルズにも明らかに影響を残しています)

<19世紀のロンドン>
 音楽評論家、中村とうよう氏の名著「大衆音楽の真実」の中で19世紀のロンドンとミュージック・ホールについて書かれている記述があります。
「19世紀のロンドンは、世界一のセックス都市で次がパリ、その次がウィーンだという・・・・・」
「ロンドンの場合、なにしろ19世紀当時、娼婦が10万人ほどいて、男5人か6人に対し娼婦が1人いるという数字になる。・・・・・」
 当然、ミュージック・ホールはそうした売春文化と切っても切れない関係にあったはずです。(世界中のどの街でも、かつてミュージシャンが集まり音楽文化の中心地となったのは、売春が行なわれた地域のキャバレーやクラブでした。シャンソン、ジャズ、タンゴなどのポピュラー音楽が誕生したのはそうした地域でした)
 19世紀後半に繁栄の時代を迎えたミュージック・ホールは、1880年代その人気のピークを迎えたといわれ20世紀に入って、第一次世界大戦が始まるまではその人気が続いていました。この小説の舞台となった世紀末はまさにその人気の頂点だったということです。
 ものすごい量の歴史情報を注ぎ込みながら、なおかつ極上のエンターテイメントに仕上げられたこの小説は、ウンベルト・エーコの大著「薔薇の名前」の19世紀ロンドン版といえるかもしれません。

<あらすじ>
 19世紀末のロンドン。その下町で、かつて起きた連続殺人事件を再現するかのように残虐な殺人事件が連続して起きていました。ナイフによって切り裂かれたのは、娼婦、ユダヤ人の学者、そして古着屋の一家でした。街では、その事件の残虐さや手際の良さと冷酷さが大きな話題となり、人々はユダヤ教の伝説にある魂を吹き込まれて動く土の人形「ゴーレム」と名づけ恐れるようになります。
警察は捜査の中で浮かび上がった怪しいと思われる人物の尋問を行ないます。その中には、後に「共産主義の生みの親」として世界中にその名を知られることになるカール・マルクスや当時芸能界の人気ナンバー1だったダン・リーノもいました。しかし、いずれも犯人ではないことがわかり、捜査は行き詰まりをみせます。
 ちょうど同じ頃、資産家の夫を妻が毒殺するという事件が起きます。そして、その事件の後、二度とゴーレムは現れなくなります。しかし、二つの事件のつながりに気づく者はなく絞死刑となった妻の物語が芝居として上演されることになります。そして、そこに集まった関係者たちの前で、最後の悲劇が起きることになります。
 いったいゴーレムの正体は誰だったのか?

「切り裂き魔ゴーレム Dan Leno & the Limehouse Golem」 1994年
ピーター・アクロイド Peter Ackroyd(著)
池田栄一(訳)
白水社

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