古き良き男気が生んだ伝説の超大作

「風と共に去りぬ Gone With The Wind」

- デヴィッド・O・セルズニック David O.Selznick 、クラーク・ゲイブル Clark Gable -

<製作者の映画>
 映画史に残る傑作「風と共に去りぬ」を語る時、監督の名前よりも、主役のヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲイブルよりも先に、製作者であるデヴィッド・O・セルズニックから始めるべきでしょう。それは、彼の存在なくしてこの映画の成功はありえなかったことが明らかだからです。
 この映画より昔、D・W・グリフィスやエリッヒ・フォン・シュトロハイムなどサイレント映画時代の巨匠たちが巨費を投じて超大作を撮りながら巨額の赤字を出すという事件を起こしています。そのため、映画会社は映画製作現場の最高責任者を監督ではなく、財布を握る製作者へと移すことになりました。こうして力を得た製作者の中には、金銭面だけでなく、演出面や脚本にまで口出しする人物も登場しました。ただし、そうしたやり手の製作者たちの多くは、現場を混乱させ作品をメチャクチャにするのがほとんどでした。製作者の口出しが映画を良くすることはない、これは映画界の常識のひとつといえます。
 しかし、どんな常識にも例外はあるものです。そして、その数少ない例外的な作品がこの映画といえます。ただし、そうなったのには、当然ちゃんとした理由があります。それはこの映画の製作者であるデヴィッド・O・セルズニックの異常なまでのこだわりが製作者の枠を越えてしまっていたことにあります。彼はあまりにこだわり過ぎるがゆえに、製作者としての経営的な仕事を忘れ、いつの間にか自分が監督になってしまったのです。それはあわや、映画会社を潰しかねない危険な賭けでした。しかし、それを救うだけの何かがこの映画にはあったのです。

<映画化までのこだわり>
 元々映画のストーリー編集者として、映画化原作を選ぶ仕事から映画界に入った彼は、製作者ではあっても自ら原作を選んでいました。この時の原作選びこそ、彼にとって最も重要な仕事だったのかもしれません。だからこそ、そんな彼はマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」を読んですぐに映画化を決断。1936年7月の発売後、6週間で映画化権を5万ドルで購入。彼はその小説の映画化に賭ける決意を固めると、それから1939年の夏まで、3年がかりで映画化に向けて脚本化を進めます。この時、彼が雇った脚本家はなんと11人。物語の構成とセリフはあくまで原作を重視しつつも、彼は気に入るまで脚本を練り上げさせました。こうして完成した最終稿を書き上げたのは、ピューリッツァー賞を受賞したこともある大物作家シドニー・ハワードで、彼はただ一人脚色者としてクレジットされる栄誉を得ることになりました。
 実は当時、原作者のマーガレット・ミッチェルにも脚色の依頼があったのですが、彼女は自分の分厚い小説が脚本家できるとは思えずに依頼を断っていました。それだけこの映画の脚本化は困難だったとうことです。
 ちなみに、シドニー・ハワードはこの映画の脚色でピューリッツァー賞に続きアカデミー脚色賞も獲得することになるのですが、1938年8月23日彼は自宅の農園でトラクターの事故を起こしてこの世を去り、オスカーを受け取るどころか映画の完成版すら見ることができませんでした。最後まで残った運の良い脚本家のはずが、その最後は不運でした。

<セルズニックの貢献>
 他にも彼が、この映画の成功のために貢献したことがあります。
 この映画の重要なポイントになった土地であるタラを舞台に選んだのは、セルズニックでした。
 この映画のもう一つの魅力である主人公スカーレット・オハラ役にイギリスの女優ヴィヴィアン・リーを選んだのもセルズニックでした。この時の俳優選びにも大きなドラマがありました。
「イギリス人女優を選んだセルズニックの英断を祝福するしかない。ヴィヴィアン・リーはスカーレット・オハラを演じたのではなく、スカーレットだったのだ」
ヘッダ・ホッパー(コラムニスト)

 この映画の成功にとって最も重要だった製作資金の確保。この部分におけるセルズニックの貢献もまた重要です。1939年1月26日の撮影開始時点で、すでにこの映画には86万9000ドルもの巨費が投じられていましたが、まだ脚本もセットも完成していませんでした。そのままいったらこの映画は巨額の赤字を生むことになるかもしれない。普通の製作者ならそう思うはずです。しかし、彼はやはり普通の製作者ではありませんでした。(ちなみに、彼の父親はサイレント映画時代に活躍した映画監督でしたが、自身の映画会社を倒産させてしまっています)
 彼は映画を思い通りに作る執念を保ち続け、撮影が始まって3週間して、監督のジョージ・キューカーを解雇してしまいます。「フィラデルフィア物語」や「スタア誕生」の巨匠よりも、自分の意図を映像化する監督を彼は求めていたようです。そこまでやるなら自分で監督すればいいのにって感じですが・・・。その後、つなぎの監督としてサム・ウッド(「打撃王」、「誰がために鐘は鳴る」などの監督)を使い、最後にヴィクター・フレミングを呼び寄せて撮影を継続、完成に至りました。(ヴィクター・フレミングといえば、なんとこの年にあの有名な「オズの魔法使い」も撮っています!)
 結局、この映画は完成までに200万ドルの巨費が投じられましたが、公開後、すぐにその巨額の資金を回収することになります。

<クラーク・ゲイブル>
 この映画のもう一人の主役ともいえるクラーク・ゲイブルの存在なしに、この映画の成功はなかったはずです。
 クラーク・ゲイブル Clark Gable は、1901年2月1日オハイオ州カディッツに生まれています。本名は、ウィリアム・クラーク・ゲイブルで、両親はともにドイツからの移民でした。彼が7歳の時に母親が亡くなり、2歳の時に父親が再婚。エジンバラ・ハイスクールの音楽部で活躍しますが、その後、家を出て職を転々としながら、俳優の道に歩み出しました。
1924年 彼は14歳年上の女優ジョセフィン・デイロンと結婚。ハリウッドでエキストラ俳優として働き始めます。彼は十代で母親を失ったことから、若い頃は年上の女性との恋が続きます。この後、彼が結婚する2番目の妻、ライア・ランガムはなんと17歳年上でした。
1931年 舞台俳優として出演中にMGMの幹部に見出され、映画「惨劇の砂漠」に出演するチャンスを得ます。
1932年 彼は「心の青空」で共演した女優キャロル・ロンバードと恋に落ち、3度目の結婚をします。この結婚はハリウッド史上に残る伝説的カップルを誕生させました。
1934年 ギャング映画の悪役がほとんどだった彼に初めてコメディー映画の主役が巡ってきました。それが、大ヒット作「或る夜の出来事」でした。この映画は、アカデミー賞で作品、監督、主演女優賞、そして彼に主演男優賞をもたらしました。映画の中で彼が部屋でワイシャツを脱ぐシーン。そこで彼はあえてアンダーシャツを着ませんでした。すると、彼のそのスタイルが流行。アンダーシャツの売り上げが、一気に40%ダウンしてしまったといいます。当時の彼のカリスマ的な人気がうかがえます。
(ちなみに、Yシャツは元々下着として着用されるモノでした。したがって、クラーク・ゲイブルの着方は間違っていないわけです。それが今では、制服的機能が重要視されるようになり、綿100%ではなく下着としての機能は失われてしまっています)
1942年 キャロル・ロンバードとの結婚生活は彼にとって最も幸福だったともいわれますが、この年彼女が飛行機事故でこの世を去ったことでそれが終わりを迎えてしまいます。この悲劇は彼にとって大きな痛手となり、しばらく彼は仕事どころではなくなってしまいます。
 その後、彼はダグラス・フェアバンクスの元妻シルヴィア・アシュレーと結婚しますが、長くは続かず。1955年、ついに最後の妻となった18歳年下のケイ・W・ブルックスと結婚します。そして、何度も結婚していながら、彼は子供に恵まれず、最後の妻との間についに最初の子供が生まれました。ところが、その子が生まれた時、彼はもうこの世にいませんでした。1960年11月17日彼は心臓麻痺で59歳で急死してしまいます。
 彼は5回結婚したモテモテ俳優として有名でしたが、実はその裏には彼の生い立ちや悲劇が隠されていて、それが後に彼の演技に深みを与えることになったともいえそうです。

1939年に「風と共に去りぬ」に出演した彼は、一躍映画史に残る存在となり、「ハリウッド・キング」という称号を得ることになりました。

 サイレント映画の黄金時代に登場したカリスマ俳優ルドルフ・ヴァレンチノは、中性的な美しい顔立ちとダンサー上がりのセクシーな動きで人気を獲得しました。それに対して、クラーク・ゲイブルは映画界で初めて、汗臭さとマッチョさを売りにする男性的セックス・アピールで大スターになった最初の俳優と呼ばれています。(彼のトレードマークともいえる口髭「コールマン髭」の生みの親ロナルド・コールマンという人気俳優がいましたが、彼は甘口な英国人紳士。アメリカ的で男らしいアイドルではありませんでした)
 「風と共に去りぬ」のレッドバトラーのキャラクターは、そんな彼の「男気」あふれるイメージを決定づけることになりました。
 スカーレットを置いてバトラーが一人旅立つシーン。彼女が泣きながら「残されたわたしはどうなるの」とすがるのに対し、バトラーは「そんなこと、俺の知ったことか」と言い放ちます。このセリフは原作にはないものでしたが、原作者のマーガレット・ミッチェルは、クラーク・ゲイブルが言うのならと許可したといいます。
 これが、違う俳優だったら・・・説得力はなかったかもしれません。

「あなたは紳士じゃないわ」
「きみも淑女じゃない」
「わたしを侮辱なさる気?」
「そこが魅力ということさ。俺たちは気が合いそうだ」

「風と共に去りぬ」より

<クラーク・ゲイブルの主な出演作品>
「夜間飛行」「1933年)、「男の世界」(1934年)、「戦艦バウンティ号の叛乱」(1935年)、「妻と秘書」(1936年)、「サラトガ」(1937年)、「地球を駈ける男」(1938年)
「冒険」(1945年)、「帰郷」(1948年)、「スピード王」(1950年)、「モガンボ」(1953年)、「ながれ者」(1956年)、「深く静かに潜行せよ」(1958年)、「荒馬と女」(1961年遺作)

 改めて振り返ると、「風と共に去りぬ」は、古き良き「男気」にあふれた二人の男と、もうひとり新たな時代の「男気」にあふれた一人の女(もちろん、それはヴィヴィアン・リーのこと)という3人が奇跡のように揃ったことで初めて傑作に成り得たと考えられそうです。

「風と共に去りぬ Gone With Thje Wind」 1939年
(製)デヴィッド・O・セルズニック David O.Selznick
(原)マーガレット・ミッチェル Margaret Mitchell
(監)ヴィクター・フレミング Victor Fleming
(脚)シドニー・ハワード Sidney Howard
(出)クラーク・ゲイブル Clark Gable、ヴィヴィアン・リー Vivien Leigh、レスリー・ハワード Lesile Howard、オリヴィア・デ・ハビランド Olivia de Havilland
   ハティ・マクダニエル(黒人として初のアカデミー助演女優賞受賞)

「一本の映画、一本の標柱、一本の標識が風とともに去った。標識には心臓の鼓動が永遠であることを願い、もっとも理性的でない愛が認められることを要求した、過ぎ去った時代が描かれた」
「ル・フィガロ」1985年

20世紀映画劇場へ  トップページへ