ソ連が生んだ最初で最後の心優しき英雄 


- ミハイル・ゴルバチョフ Mikhail Sergejevich Gorbachev -
<ソ連が生んだ異色の指導者>
 レーニン、スターリンから始まったソ連の指導者たちの系譜は、ブレジネフ、フルシチョフを経て、ロシアのプーチンまで、その顔触れは様々ですがほぼ全員が強面の堅物ばかりでニコリともしないイメージです。それは見た目だけではなく、政治的姿勢に関しても、妥協せず対話より軍事的圧力を優先する外交も共通しています。だからこそ、ミハイル・ゴルバチョフという存在の異色さは不思議な気がします。
 なぜ、あの時、あの地位に彼のような人物がいたのだろう、そう思うのです。
 偶然、必然、神の意志、どう考えても、それまでも、それ以後も、ソ連、ロシアには彼のようなタイプの政治家は登場していません。いや、登場しようにも、叩き潰されてきたのかもしれません。なのに、なぜ彼はあの時活躍することができたのか?
 20世紀の歴史が生み出した不思議のひとつ、ミハイル・ゴルバチョフの登場に迫ります。

<ミハイル・ゴルバチョフ>
 ミハイル・ゴルバチョフ Mikhail Sergejevich Gorbachev が生まれたのは、1931年3月2日。ロシア南部のスタブロポリ地方の農家の次男でしたが、成績優秀で、モスクワ大学に進学。在学中、21歳の時に共産党に入党。それはソ連において出世するためには、誰もが選ぶ道でした。
 卒業して故郷に戻った彼は、そこで党の官僚組織の中で順調に出世街道を登って行きました。ただし、真面目で優秀な彼は、単に出世のために上司に胡麻をするタイプの官僚ではなかったようで、中央から来た政治家にも自分の意見を主張する気概をもっていたようです。ただし、共産党の官僚たちがすべてを支配するソ連においては、そうしたタイプの官僚は地方に飛ばされて出世することはないはずです。ところが、そうはならなかった。後に彼の右腕となる政治家シュワルナゼと共に、彼は頭の固い上司に気に入られるコツや上手く利用する上申書の書き方を知っていたようです。
 とはいえ、そうした能力をもつ官僚なら他にもいたでしょう。少なくとも、スターリンの時代なら、彼の出世はなかっただろうし、シベリアに飛ばされるか、悪名高いNKVD(内務人民委員部)によって処刑されていたかもしれません。(彼の祖父はスターリン時代にサボタージュの疑いにより投獄されています)時代の変化が偶然彼に味方したと考えるべきかもしれません。その最大のカギとなったのは、「チェルノブイリ原発事故」です。

<ソ連崩壊への序章>
 1986年に起きたチェルノブイリ原発事故によって、ソ連は大きな被害を受けました。しかし、事故による金銭的、人的、経済的被害以上に大きな問題となったのは、その事故の原因がソ連が長年続けてきた共産主義体制が育てた官僚組織にあったことでした。それは事故ではあっても、明らかに人為的なものだったことが明らかになったのです。
 このままではソ連は国ごと沈没してしまうかもしれない。どんな保守派の政治家でも、どんなお堅い官僚でも、そのことは理解できたのでしょう。ここまできたら、大きな政治的改革も仕方ないだろう。そう誰もが思ったはずです。
 とはいえ、そこまでは理解できても、共産主義そのものを批判してしまいかねない、改革運動を指導することは、政治生命どころか、命の危険すらあり得ることでした。一歩間違えば、軍部がクーデターを起こし、処刑されるか暗殺されるかもしれません。誰もそんな損な役回りに手を上げたくはなかったと思います。
 そこであえて手を挙げたからこそ、彼に大きなチャンスが回ってきたのです。地方での活躍が認められていた彼は、中央に呼ばれ、1990年ついに書記長ではなく、ソ連初の大統領に就任しました。

<世界を驚かせたゴルビー旋風>
 彼の登場は、ソ連国内以上に海外の政治家やマスコミを驚かせました。それまでのソ連の指導者とはまったく異なりストレートに話ができる人間性はすぐに周囲を巻き込むことで、今世紀最大の変革をもたらすことになります。
 そんな彼の政治姿勢を象徴するのが、彼が打ち出したペレストロイカのための政策指針です。
(1)グラスノスチ(情報公開)と言論・文化の自由化
(2)複数政党を認める政治における民主化
(3)社会主義の枠内における市場経済の導入(働くモチベーションUPや経済活動の活性化)
(4)軍縮と緊張緩和(破たん寸前のソ連経済は、軍事費を削るしかなくなっていました)
 こうしてゴルバチョフが立ち上げたペレストロイカは、長く続いた官僚主義の体制にうんざりしていた国民にも受け入れられ、誰もが予想しない勢いで進みました。しかし、その驚くほど早い展開についてゆけない人々もいました。その中のひとりヤナーエフ副大統領が中心となってクーデターが起こされ、ゴルバチョフは政権だけでなく命の危機を迎えます。

<ペレストロイカの危機>
 1991年8月18日、彼は家族と共にクリミア半島の保養地フォロスの別荘で夏休みを過ごしていました。するとそこに5台の黒塗りボルガが現れ、別荘を取り囲みます。そして車から降りてきた一団の一人ワレンコフ国防次官は、ゴルバチョフに向かい大統領を辞任するよう迫ります。すぐに電話回線はすべて切られ、モスクワとの連絡も不可能になっていました。(このあたりの状況は当時、まったく外部からはわからず、殺されているのではというニュースも飛び交いました)
 同じ頃、モスクワでは軍の一部が戦車隊を動かし本格的な軍事クーデターを起こそうとしていました。かつてチェコやハンガリーでソ連軍が行った武力行使が、自国の首都で行われようとしていたわけです。この一触即発の危機に身体を張って立ち向かったのが、もうひとりの英雄ボリス・エリツィンでした。
 ゴルバチョフが不在の中、戦車の上に立ちクーデターを止めさせた彼は一躍ヒーローとなり、ロシア共和国の初代大統領に就任することになりました。それに対し、身内を信じたために自ら危機を招いたゴルバチョフは、無事にモスクワに戻ることができたものの、主役の座はすでにエリツィンにとって代わられていました。
 硬軟使い分けの天才だったゴルバチョフは、その役割を終え、武闘派のエリツィンに役割が与えられました。しかし、彼は心臓に爆弾を抱えていて、1999年に政界から引退してしまいます。奇跡はやはり長くは続きませんでした。

<ソ連の崩壊>
 ゴルバチョフの後を継いだエリツィンですが、彼の早すぎる退場はソ連の崩壊と同時にロシア中心主義の始まりともなりました。新たな政治体制になったはずのロシア共和国では、再び官僚主義や人種差別が当たり前となり、そこに企業の利益至上主義が加わることで、貧富の差が増大することにもなります。利益や結果を残すためには、何をやってもいいという倫理なき自由主義は、スポーツ界における組織ぐるみのドーピング・システムを生み出すことにもなりました。共産主義は、社会から神を消し、倫理を消してしまい、自由主義の導入と共に「すべて利潤追求のため}という危うい社会を生み出してしまいました。(これは中国も同様です)
 ゴルバチョフの登場は、やはり「奇跡」だったのでしょう。もし、その奇跡がもう少し続いていたら・・・しかし、ペレストロイカはそう簡単に結果を出せませんでした。経済はなかなか改善せず、政府への不満も高まります。そのため、1996年にゴルバチョフはロシア大統領選挙に出馬しますが惨敗。こうして中途半端に終わったペレストロイカのおかげで、ロシア経済はその後も停滞を続け、それがもう一度「強いロシア」を復活させたいという大衆の思いを呼び覚まし右派政権の復活をもたらすことになるのです。
 「改革」の夢から覚めてしまった大衆は、もう彼を求めることはありませんでした。

「幸せな改革なんてあり得ない。それは歴史が語っている」
ミハイル・ゴルバチョフ

<参考>
「100人の二十世紀(下)」
 2000年
(編)朝日新聞
(出)朝日新聞社

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