1991年

- 「ゴルバチョフ-エリツィン革命」とソ連の崩壊 -

<危険な1980年代>
 1980年代半ばレーガン政権のもとで右傾化を強めたアメリカに対抗するため、ソ連は第二次世界大戦後の「鉄のカーテン」時代をおもわせる軍備増強を行なっていました。そのため、公共的な設備投資は滞り、ロシア革命の状況と同じように都市部で食料が不足し、モスクワの街の食料品店前に長蛇の列ができている風景はその象徴として世界的に知られていました。ロシア革命から70年の時がたちましたが社会の状況はまったく変わっていなかったのです。
 かつて、ロシアではそんな状況の中で第一次世界大戦が起きたことで、一気に歴史が動くことになったのですが、1980年代のソ連で起きたのは戦争ではありませんでした。1986年にソ連国内で起きたチェルノブイリ原発の大事故。それが、1981年に訪れるソ連崩壊のきっかけになったのでした。

<チェルノブイリ原発事故>
 1986年世界中を震撼させたチェルノブイリ原発の事故は、その事故がもたらした大きな被害やその後の後遺症や農作物への影響など、様々な悪影響をソ連にもたらしました。しかし、そうした影響とは別に、この事故はソ連の国民に大きな精神的衝撃を与えることになりました。それはアメリカの国民にとっての9・11同時多発テロ事件に匹敵するものだったといえます。
 それまでロシア国内の大きな事件や事故は政府によって隠され、情報操作されることで、その本質的な問題点は明らかにされることはありませんでした。しかし、チェルノブイリ原発の事故は、あまりにその規模が大きく海外にもその被害が及んだため、情報の隠蔽が困難でした。なおかつ海外メディアが詳細な情報をどんどん発表することになり、ソ連の国民は海外から最新の情報を得ることができました。そして、それらの情報は彼らが予想したとうり、事故の最大の原因は人為的なミスの積み重ねであることを示していました。その事故は、ソ連の腐敗した官僚組織がそれぞれの立場で手抜きをし、知らん振りをし、責任逃れをしたことから起きた世界最悪の人災だtったのです。
 この事故により食糧不足はより深刻なものになりましたが、それ以上に問題だったのはソ連の国民の多くが、やはり自分たちの国のシステムは根本的に誤っていたのだ、という確信をえてしまったことでした。海外からの信頼だけでなく国民の信頼をも完全に失ってしまったソ連は、このままでは国内経済もまた崩壊の危機に陥りかねないと本気で改革に乗り出すことになりました。そして、この時、改革のトップに選ばれたのが、ミハイル・ゴルバチョフ Mikhail Sergeevich Gorbachev でした。

<ゴルバチョフ旋風>
 それまでエリート街道を順調に進んできたゴルバチョフは、けっして社会主義体制を改めるというタイプの過激な政治家ではありませんでした。しかし、1985年に書記長の座についた彼は官僚組織の抜本的な改革については積極的で、あの有名な「ペレストロイカ」(改革)を始めます。特に彼が重要視したグラスノスチ(情報機関)は、ロシア国民に現状を認識させることで、政治への参加を促し、「改革」実現の大きな原動力となりました。(「グラスノスチ」の「グラス」という言葉は元々詩を朗読する際の「声」を意味しているらしく、「声に出して現状を説明する」という積極的な意志を表していました)
 しかし、ゴルバチョフの名が世界に知られることになったのは、ペレストロイカによる国政の改革によるものだけではありませんでした。彼はアメリカに対して核兵器の大幅な削減を提案。1987年にINF(中距離核兵器)全廃条約の調印を実現します。1989年には、1979年から続いていたアフガニスタンへの介入を止め、軍隊を撤退させました。その他にも、米ソ首脳によるマルタ会議を実現させるなど、東西対立の緊張を和らげるための活動を展開。もちろん、これは経済的にも崩壊寸前だったソ連による苦肉の平和貢献だったともいえるのですが、・・・。そう考えと、2009年にアメリカのオバマ大統領が打ち出した核兵器廃絶に向けた宣言も、あの時のゴルバチョフの平和貢献とそっくりといえます。しかし、理由はどうあれ、彼のおかげで世界滅亡までの時を示す終末時計の針が久しぶりに逆向きに動いたのは確か。こうした平和貢献活動を高く評価された彼は、1990年ノーベル平和賞を受賞しました。

<エリツィンの登場>
 国民からの強い支持を得ていたとはいえ、彼の目指す改革はそう簡単には進みませんでした。一時は暗殺の目標ともなったゴルバチョフは、文字通り命がけで改革を進めていました。しかし、改革の現場では、彼の後に登場してきたもう一人の英雄ボリス・エリツィン Boris Yeltsinとの対立が表面化するようになります。人当たりがよく国民からの人気も高かったゴルバチョフでしたが、元々官僚としてエリート・コースを歩んできた彼にとって、「改革」とは「社会主義から民主主義への移行」ではなく、あくまで「社会主義体制の枠内における改革」のはずでした。
 それに対し、一見強面で昔ながらのロシアのオヤジ風政治家エリツィンは、より過激な変革を初めから目指していました。特に彼がこだわったのは共産党の指導部がもつ馬鹿げた特権の数々を全廃することでした。政治家や官僚たちが、いかにその特権によって、狂わされていたのか。こんな記述があります。

「何もかも考え抜かれているのだ。課長はまだ専用車を持っていないが、自分用あるいは指導員用に注文する権利はある。課長代行はすでに割り当てられた『ヴォルガ』を持っているが、部長の『ヴォルガ』はもっと高級で、自動車電話が付いている。
 党の特権階級のピラミッドのてっぺんにまで登れば、そこにはすべてがある - 共産主義の実現だ!この共産主義には、世界革命も、高度の生産性も、全体の調和も、そんなものは一切不必要だ。・・・・・」

「ゴルバチョフ・エリツィン革命」清水良三著(成文堂)

(しかし、考えてみるとこの官僚特権は、共産主義国ではない日本にもそのまま当てはまっています。一度つかんだら絶対に手放したくなくなる特権を廃止することは政治体制を根本的にやり直すぐらいの覚悟が必要だということです)

<クーデター発生>
 1990年、ゴルバチョフは市場経済の導入を宣言。1991年の8月、このままでは、すべての特権を奪われるどころか、仕事そのものをも奪われかねないと考えた右派勢力はついにクーデターを決行します。(ここでいう右派勢力とは、一般的にいうとより共産主義よりな勢力という意味では、一般的に左派と呼ぶべきところの存在です。ややこしや!)この時、ゴルバチョフは軟禁され、世界中が事件に注目することになりました。実際には、この時ゴルバチョフは右派と左派の板ばさみになっていて、身動きがとれない状況に陥っていたともいわれています。ここにゴルバチョフの限界があったとも後に言われることになります。
 かつて、チェコやハンガリーの民主化運動に対してソ連が行なった戦車部隊の侵攻が、この時首都のモスクワでも行なわれました。しかし、その動きに対し、ソ連ではなくロシア共和国のトップだったエリツィンが命がけで対抗、民衆の支持を得て見事その阻止に成功します。この時、モスクワには二つの政府が存在していたことになります。そして、片側の指導者エリツィンの活躍は世界中に民主化の英雄伝説となって広められ、彼は新たなる「人民革命」のカリスマとして世界にその名を知られることになりました。

<共産党解体、ソ連崩壊>
 ついにソ連共産党は解体されることになりました。その間にバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)がいち早く独立。そして、あの悪名高き国家保安委員会(KGB)までもが解体され、一気にソビエト社会主義共和国連邦は世界地図の上から消え去ることになったのです。
 この年の12月、ソ連に代わる新体制として、独立国家共同体(CIS)が創設され、ゴルバチョフに代わってエリツィンがそのトップに立ちます。そして、ソ連は分裂して、それぞれの国が新たな道を歩みだすことになるのでした。
 しかし、一度は解体された官僚組織は本当に一新されたのでしょうか?実際には、その後CISは次々に起きる混乱の中で「改革」どころではなくなってゆきます。
 ゴルバチョフが行おうとしていた民主化は、エリツィンによって、異なる方向へと向かいます。それは、党による独裁から、一部の資産家による独裁へと、変わっただけだったことが後に明らかになります。

 エリツィンは、経済を自由化し、国のものだった企業や資源を民営化した。強く必要とされていた政府からの助成金をなくし、価格統制もやめた。その結果起きたのは民間による独占である。・・・国営の工場、資源などが、格安で民間の投資家たちに売却されたのだ。かつての共産党幹部を含む投資家たちは一夜にして大富豪になる。ロシア国民はこれを「大強奪」と呼んだ。・・・数千万人もの人が職を失い、平均寿命は66歳から57歳へと急激に低下した。1998年までには、農場の80%超が破産している。GDPは、ほぼ半分にまで減少した。ロシア経済はオランダくらいの規模にまで縮小したのだ。
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史3 帝国の緩やかな黄昏」より

1993年、トムスクで核施設の爆発事故が発生。グルジアでは独立派による内乱が勃発。モスクワでは議会が大混乱となり機能を停止してしまいます。
1994年、ロシアの通貨ルーブルが大暴落し、世界経済においてロシアはその信用を失ってしまいました。さらに、この年には21世紀まで続くことになるチェチェン独立派との戦闘も始まっています。
1995年、サハリンで大地震が発生し、2000人以上の死者が出ました。
 こうして、広いロシア各地で混乱が続く中、1996年エリツィンは元々悪かった心臓が発作を起こし倒れてしまいました。幸い緊急手術は成功し政界に復帰できたものの、かつてのレーニンのようにもうカリスマ的な指導力を発揮することはできませんでした。

・・・クリントンはエリツィンを「民主主義の建設者」と言ってほめそやしたが、選挙によって選ばれた議会を彼が不法に解体し、武力で攻撃までしたことをロシア国民は忘れなかった。独立を宣言したチェチェン共和国に対し彼が1994年に血なまぐさい戦争を起こしたこと、国の経済の破綻を招いたことも許しはしなかった。ゴルバチョフはエリツィンを「嘘つき」と呼び、ロシア皇帝以上の特権を得ていると批判した。こうしてロシアの政治を混乱させた後、彼は後継者にウラジミール・プーチンを選びます。

 20世紀末、ロシアは自らの手で民主化を達成することができたのでしょうか?状況はそう素晴らしいものではなさそうです。ロシアのかつての栄光が失われてゆく中、保守派の巻き返しが始まります。そんな中、KGB出身のプーチンが登場。カリスマ的な人気を背景にロシアの権力を一気に掌握してしまいました。その後、彼は静かに反体制派を一掃。独裁体制を築くと、引退後もなおその影響力を保っています。
 21世紀のロシアは、とりあえず石油や天然ガスなど豊富な国内資源のおかげで、経済的には豊かになりつつあります。しかし、それは「ペレストロイカ」のおかげだったのか?少なくとも、新聞記者が政府によって暗殺される21世紀初頭のロシアに「グラスノスチ」は存在しないはずです。国民がその判定を下すまでには、再び数十年の年月を必要とするのかもしれません。
 20世紀に起きたロシアにおける二つの「革命」。それは「革命」の素晴らしさと「革命」が陥る危険をものの見事に示した「革命の中の革命」だったのかもしれません。「革命」といえば、やはり「ロシア革命」なのです。

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