経済的には何不自由なかった彼でしたが、家庭環境としてはけっして恵まれていたというわけではありませんでした。12歳の時に父親が自殺。母親はその後再婚し、彼の名はパーソンズとなりました。しかし、新しいその家庭も長くは続かず、なんと彼が高校を卒業するちょうどその日にアルコール中毒になっていた母親もまた自殺してしまったのです。このショックからか、彼はハーヴァード大学に進むとキリストについて学ぶため、神学を専攻します。しかし、結局彼にとっての救いの道は、牧師になることではなく、音楽家にになることだったのでした。(いや、彼の悲劇的な最後のことを考えると、それで本当に良かったのかもまた疑問になってきますが・・・)
<音楽の世界へ>
1966年、大学を辞めた彼はカントリー好きの友人ジョン・ニュースらとインターナショナル・サブマリン・バンド
International Submarine Band を結成。ニューヨークで本格的にバンド活動に取り組み始めました。当初、彼は
ボブ・ディランやピーター、ポール&マリーらの活躍で盛り上がるニューヨークのフォーク・リヴァイバル・シーンに憧れていましたが、しだいにバック・オウエンスやマール・ハガードなどカントリー畑のアーティストたちへとその関心は移り、彼らの曲をカバーすることが多くなって行きました。そこには子供の頃に知らぬ間に聞いていたカントリー音楽の思い出や南部の血が関係していたのかもしれません。
しかし、彼らの演奏するカントリー音楽は、コンクリートに囲まれた大都会、ニューヨークの街では完全に浮いた存在でした。そのため、彼らはその活動拠点を西海岸のロサンゼルスへと移します。ロサンゼルスの街は昔からテキサスなど南部からの移住者が多く文化的にも結びつきが強い街です。後に、ロスがウエストコースト・ロックというカントリー色、南部色の強いロックの拠点となったのも、その地域性のおかげだったのでしょう。
そして1968年、彼らにとって最初で最後のアルバムになった「Safe
at Home」が発売されることになりました。残念ながら、このバンドはヒット曲もないまま終わってしまいますが、ロック・バンドのスタイルでカントリーを演奏するという新しいロックのスタイルに手ごたえを感じたグラムは、このスタイルをさらに追求してゆく決意を固めました。
<カントリー・ロックへの道>
当時、アメリカのロック・シーンではあらゆる音楽ジャンルとの融合が試されていて、次々に新しいスタイルの音楽が誕生していました。そんな中、彼は自らのルーツでもある南部のカントリー音楽とロックとの融合をいち早く選択したといえるでしょう。もちろん彼と同じ様にカントリーの導入を志向するアーティストは他にもいました。そうしたバンドのひとつに
ザ・バーズがありました。たまたまインターナショナル・サブマリン・バンドのマネージャーがザ・バーズのマネージャーだったこともあり、ザ・バーズのクリス・ヒルマンからグラムに対してアルバム録音への参加要請がありました。
こうして、彼は短期間ながらザ・バーズのメンバーとなり、彼らの名盤「ロデオの恋人」の録音に参加。ザ・バーズに本格的なカントリー・ロックのスタイルをもたらしました。その路線はその後もバンドの柱となりますが、あくまでも自分の求める路線を追求したいグラムは、ザ・バーズの個性的なメンバーと意見があわず、すぐに脱退してしまいました。
<フライング・ブリトー・ブラザース誕生>
いよいよ彼は本格的なカントリー・ロックのバンドを立ち上げます。それが今や伝説となったカントリー・ロック・バンド、フライング・ブリトー・ブラザース
The Flying Burrito Brothersです。このバンドのメンバーは、ギター、マンドリン、ヴォーカルがザ・バーズからいっしょに脱退した友人のクリス・ヒルマン。クリス・エスリッジとスティール・ギターのスニーキー・ピート・クレイナウは、ともにカリフォルニアで活躍していたスタジオ・ミュージシャン。ドラマーはアルバムの録音時が元インターナショナル・サブマリン・バンドのジョン・コーニールで、その後はオリジナル・バーズのメンバーだったマイケル・クラークに代わっています。そして、ヴォーカル、ギター、キーボードをグラムが担当。バンドの中心はもちろんグラムでしたが、このバンドについて歴史的
に特筆すべきこととしては、彼らはロック・バンドとして初めてスティール・ギターの演奏者を正式に加わえたということでしょう。
1969年、いよいよ彼らのデビュー・アルバム「黄金の城
The Gilded Palace of Sin」が発表されました。本格的なカントリー・ロックの登場は話題を呼ぶことになり、収録曲の中でもサザン・ソウルの名曲「Do
Right Woman」「Dark End of the Street」のカントリー・ヴァージョンは、ソウルの新しい表現として高い評価を得ることになりました。しかし、一部では話題にはなったものの旧体制の音楽と考えられていたカントリーが若者たちの間に受け入れられるには至らずヒットにはなりませんでした。その後作られたより完成度が高いといわれるセカンド・アルバム「ブリトー・デラックス」(1970年)も評論家やミュージシャンたちからは評価を得るものの結局ヒットせず、この後彼はバンドを離れてしまいました。(バンドはその後もしばらく彼ぬきで活動を続けています)
<カントリー・ロックの伝道師として>
バンド脱退後、彼はしばらくカントリー・ロックを志向するミュージシャンたちからのオファーにより、数多くのアルバムに参加。カントリー・ロックの伝道師、指導者としての役割を果たします。彼はデラニー&ボニー、フレッド・ニール、ザ・バーズ、そしてローリング・ストーンズらと共演します。特にストーンズのミック・ジャガーはアルバム「メインストリートのならず者」のために彼からカントリー・スタイルの歌い方を学ぶなど、大きな影響を受けました。(その感謝の気持ちを表わすために作られたのがストーンズの隠れた名曲のひとつ「ワイルド・ホーセス」です)こうして、彼の影響は着実にロック界に広がっていったわけです。
そして1973年、いよいよ彼のファースト・ソロ・アルバム「GP」が発表されました。このアルバム最大のポイントは、カントリーの世界では常識的な男女デュオのスタイルを大幅に取り入れたことです。その相手エミルー・ハリス
Emmylou Harrisは、クリス・ヒルマンが見つけた新人歌手で、その後グラムとのデュエットをきっかけにソロ作も発表。ボブ・ディランの傑作アルバムのひとつ「欲望
Desire」での共演などでも高い評価を受け、一躍スターとなります。しかし、このアルバム自体の業界での評価に比べ、売り上げはやはりぱっとしませんでした。それでも彼はバンドを率いてツアーを行いながらセカンド・アルバムの準備に入りました。
<セカンド&ラスト・アルバム>
ツアーの終了後、さっそく彼はバンドのメンバーとともにセカンド・アルバム「グリーヴァス・エンジェル
Grievous Angel」の録音に入ります。しかし、この時彼の心はすでに暗い影に覆われていて、酒と麻薬無しでは生活できない状態になっていました。その原因をいくつかあげると、・・・。
彼と行動をともにするようになったエミルー・ハリスとの仲が親密になるとともに、それまでの彼女との関係が険悪化していました。
ザ・バーズ時代の仲間であり、同じカントリー・ロックのスタイルを模索する盟友そしてライバルのひとりだったクラレンス・ホワイトの交通事故死など、友人たちの不慮の死がこの時期に続きました。
そして、なかなかヒットに結びつかない自身の作品についての迷いもあったのかもしれません。その影響なのか、彼はセカンド・アルバムのための曲作りが進まず、アルバムの録音が始まった時点でたった2曲しか準備できていなかったといいます。結局、旧作の未録音曲を4曲加え、それ以外はカバー曲を取り上げることでなんとかアルバムの完成にこぎ着けましたが、彼はこのアルバムを聴くことなくこの世を去ってしまいました。
1973年9月19日、彼はカリフォルニア州のジョシュア・トゥリーのモーテルにてこの世を去ってしまいました。死因はやはりアルコールと麻薬の過剰摂取だったようです。
<母に捧げられた曲>
南部で生まれ育った若者の血に流れていたカントリー・スピリット。それをロックのフォーマットに乗せて表現しようとしたグラム・パーソンズ。しかし、彼はもうひとつ父と母から心の闇のようなものを受け継いでしまったのかもしれません。彼が高校を卒業する晴れの日に自殺を遂げた母親に対する彼の思いは愛憎愛半ばものだったのでしょう。
彼の遺作となったアルバム「グリーヴァス・エンジェル」に収められた「ブラス・ボタン」という曲は、その自殺した母親に捧げられた曲でした。愛する母親に曲を捧げつつ、彼は自らも死への歩みを止めることができなかったのです。カントリー・ロックの始祖といわれる英雄ではあっても、彼はその時まだ26歳の若者でした。
<グラムとカポーティー>
両親を早くに失い、南部からニューヨークへと旅立った青年。彼は南部への思い、父と母への思いが断ち切れず、その思いを作品の中に込めました。そして、彼はそうした強い思いに引きずられるようにして両親の悲劇的死と同じ道を歩むことになってしまいます。
実は、このグラムの人生とよく似た一生を送った人物がいます。小説「ティファニーで朝食を」や歴史的傑作小説「冷血」の作者、
トルーマン・カポーティーです。そのうえ、カポーティーは母親が離婚し再婚するまでの本名がなんとトルーマン・パーソンズといいました。不思議な偶然です。彼が自らの少年時代をもとに描いた小説「草の竪琴」を読み返しながら、僕はグラムの曲「僕の淋しさを知って
Do You Know How It Feels」を思い出さずにはいられませんでした。
「 愛してくれる人がひとりもいなくなって
独りぼっちがどんなものか知っているかい
誰かに微笑みかけたことがあるかい
そんなことをしてもみんなにじろじろ見られるだけさ
・・・・・」
なんという淋しい人生でしょう。ブルースもジャズもレゲエも、多くの音楽は悲しみや嘆きから生まれたといわれていますが、カントリー・ロックという音楽の誕生にも少なくともひとつは悲しい物語があったことを覚えておきたいと思います。