
- グランド・ファンク・レイルロード Grand
Funk Railroad -
<良くも悪くもアメリカン・バンド>
もしかすると、このサイトで取り上げてきたアーティストたちの中で、彼らは最もダサいバンドかもしれません。アルバム・タイトルからしてこうなのです。
「戦争をやめよう」(ベトナム戦争に対する彼らの主張をそのままタイトルにしてしまった。確かに真面目ではあるが・・・ちょっと単純な気もする)
「不死鳥」(ジャケットは、もちろん燃えさかる火の中の不死鳥の絵だ)
「サバイバル」(ジャケットは、洞窟の中で原始人スタイルのメンバーの写真・・・ダサ)
「ハードロック野郎(世界の女は御用心)」(こちらのジャケットは、ボディー・ビルダーの写真が並び首だけがバンドのメンバーに変えてある・・・トホホ)
「輝くグランド・ファンク」(世界初の3Dメガネつきジャケットだ。我が家では大事にとってあります。値打ちがでるかも・・・)
どうです。なかなかでしょう。ついでに言うなら、全米ナンバー1を2曲生んだ彼らの最高傑作アルバムのタイトルは「We're An Amerikan Band」(俺たちゃ、アメリカン・バンドだぜ!)だ。
ついでに言うと、リード・ヴォーカリスト、マーク・ファーナーのお得意のファッションは、ロン毛に上半身裸と腕に入れ墨。このファッションは、未だに続くアメリカン・マッチョ系バンドの定番だった。(ロリンズ・バンドの遙か先をいっていた)
これだけ直球一本槍で全米のナンバー1に輝いたロック・バンドは、後のエアロ・スミスくらいかもしれない。彼らは、間違いなく1970年代前半を代表するハード・ロック・バンドでした。ダサくて、ひねりがなくて、馬鹿正直、しかし、体力だけは誰にも負けないプロ根性に徹する男たち。(1971年後楽園球場で行われた日本公演での雷雨の中のコンサートは、そんな彼らの根性が生んだ伝説です!)
アメリカ人を馬鹿にするわけではないが、彼らこそ愛すべきアメリカ人の典型であり、アメリカン・ロックの原点とも言える存在かもしれません。
<グランド・ファンクの誕生>
グランド・ファンクのメンバーのうち3人、クレイグ・フロスト Craig Frost(KeyB)、ドン・ブリューワー Don Brewer(Dr)、マーク・ファーナー Mark Farner(Vo,Gui)は、ともに1948年ミシガン州のフリントという街に生まれています。1951年生まれのメル・サッチャー
Mel Schacher(Bass)もまたミシガン州の出身で、彼らは1960年代にミシガン州の中心地デトロイトで出会いました。
1965年、後に彼らのマネージャーになるディスク・ジョッキーのテリー・ナイトがテリー・ナイト&ザ・パック Terry Knight&The Packというバンドを結成、このバンドにドン・ブリューワーとマーク・ファーナーがメンバーとして参加、"Tears
Come Rollin"という曲でデビューを飾ります。(このバンド名、「テリーとその一味」っていうのもけっこうダサイかも)
1966年にマーク・ファーナーが抜け、さらに1967年中心となっていたテリー・ナイトがソロ・シンガーに転向してしまったため、残ったメンバーは、ファビュラス・パック(伝説の一味)と改名し活動を続けることになった。しかし、看板のテリー・ナイトを失ったバンドの失速は明らかで、リーダー格のドン・ブリューワーは、再びマイクとテリーを呼び戻します。(ということは、独立した二人もパッとしなかったということなのでしょう)同時にメル・サッチャーをベーシストとしてメンバーに加え、ほぼメンバーが固まります。(クレイグ・フロストは、この時脱退し、1973年に再びバンドに戻っています)
ここで、バンドにとって重要な決断が下されました。元々バンドの顔であったテリー・ナイトがメンバーからはずれ、彼らのマネージャー兼プロデューサーになったのです。これによりバンドの顔は、ヴォーカル兼ギターのマーク・ファーナーになり、ベースとギターとドラムだけというシンプルなスリーピース・バンドとして、いよいよ本格的なスタートを切ることになりました。
<グランド・ファンク、デビュー>
1969年、彼らはキャピトル・レコードと契約し、各地の音楽フェスティバルに出演し始めます。デビュー・アルバム「グランド・ファンク・レイルロード登場 On Time」を発表後、いきなりデトロイトで行われたレッド・ツェッペリンのライブで前座を務めるなど、その知名度を上げてゆき、1970年にはセカンド・アルバム"Grand Funk"、サード・アルバム"Closer To Home"、二枚組のライブ・アルバム"Live Album"を次々に発表し、そのどれもがゴールド・アルバムとなりました。
この年の終わりにはニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデンに4万人以上の観客を動員してコンサートを行いました。わずか一年足らずで彼らはアメリカン・ハード・ロック・バンドの頂点に立ったのです。実際、この年ニューヨーク・デイリー・ニュースの読者の人気投票で彼らはベスト・ロック・グループ・イン・ザ・USAに選ばれています。勢いに乗る彼らは、この年1971年にもオリジナル・アルバムを2枚発表しています。(「サバイバル Survival」、「戦争をやめよう E Pluribus Funk」
<トッド・ラングレン登場>
ここまで順風満帆だった彼らでしたが、ここで大きな変化が訪れます。マネージャー兼プロデューサーだったテリー・ナイトとバンドのメンバーの間に溝が生じ、それがついには訴訟問題にまで発展してしまったのです。こうして、テリー・ナイトとGFRは決別、1972年のアルバム「不死鳥 Phoenix」は、初めて自分たちでプロデュースを行いました。しかし、セルフ・プロデュースでは新しい展開が見えず、やはり外部にプロデュースを依頼することになります。そして白羽の矢は、なんと当時絶好調だった「くせ者ポップ・アーティスト」、トッド・ラングレンTod Rundgrenに立てられます。その効果はすぐに現れました。彼がプロデュースしたアルバム"We 're An American Band"(1973年)からシングル・カットされたタイトル曲は、それまでシングル・チャートで10位代にすら入ったことのなかったGFRとしては異例の全米ナンバー1ヒットになってしまったのです。彼らは、あっという間にハードロック・バンドのナンバー1から、ポップ・バンドのナンバー1に登りつめてしまったのです。
トッド・ラングレンは次作のアルバム"Shinin' On"でもプロデュースを担当。ここからも「ロコ・モーション The Loco-Motion」というナンバー1ヒットが生まれました。(この曲はもともとリトル・エバのヒット曲をカバーしたもの。そして、スマップ出演のCMでこのカバー曲は再利用されました)
このポップ路線での成功は、彼らの未来を大きく変えたと言ってよいでしょう。1974年の年末に発売されたアルバム「世界の女は御用心 Some Kind Of Wonderful」では、よりポップ色の強いプロデューサー、ジミー・イエナー(ラズベリーズやスリー・ドッグ・ナイトのプロデューサー)が起用され、タイトル曲"Some Kind Of Wonderful"(全米3位)や"Bad Time"(全米4位)などのヒットを生みます。
<ライブ命!>
そんなGFRの絶頂期の音を聴くなら、やはりライブ・アルバムでしょう。1976年発表のライブ・アルバム"Caught In The Act"は、彼らの総決算とも言える作品で、大ヒット曲はもちろん、そうでないナンバーも魅力たっぷりに仕上げられています。(不思議なことに彼らの場合、ヒット曲よりも泥臭いR&B系のナンバーのほうが、生き生きと感じられます)
<ハイセンスなロック・バンド?>
トッド・ラングレンというあまりにセンスの良い男との出会いによって、彼らは芋にいちゃんのバンドから、お洒落なロック・バンドへと一気に変身をとげたのですが、それは逆に彼らのバンド生命を縮めることにつながったのかもしれません。実際、翌1976年のアルバム「熱い激突」発表後、バンドは解散してしまったのです。そう言えば、同じ頃活躍していたJ・ガイルズ・バンドもライブが命のバンドでしたが、大ヒットが出たとたんに解散してしまいました。ロック・バンドにとっても、モチベーションというのは重要な意味をもつのでしょう。(と言うことは、10年以上の時を越えて、トップの座に返り咲いたエアロ・スミスは本当に凄いバンドです!)
<その後のGFR>
マークとドンは、1981年に新メンバーを加えてGFRを再結成、2枚組みアルバムを発表した後、再び解散しています。しかし、しかし、1990年にはオリジナル・メンバーによって、またまたバンドを結成、世界ツアーも行いました。もしかすると、彼らは未だにデトロイトを中心に活動しているのかもしれません。それが例えドサ回り的な活動だったとしても、たぶん彼らなら悲壮感など感じさせることはないでしょう。相変わらず"We're
An American Band !"と歌い続けているに違いありません。
なにせ彼らは、「サバイバー」であり「不死鳥」であり、「輝けるハード・ロック野郎」なのですから。
<僕は大好きですよ>(追記 2005年5月28日)
実は、お前はグランド・ファンクを馬鹿にしてるのか!とお叱りをいただきました。改めて、読み返すと、ずいぶん失礼な書き方でした。でも、僕はこのバンド大好きですよ。ストレートで馬鹿正直で裏表がないロックは大好きです。ドゥービー・ブラザースだって、後期のフュージョン時代より、前記のロック時代の方が僕は好きです。ダサくてもいいじゃないですか。
<締めのお言葉>
「この世の素晴らしさは、間抜けと言われた人々の信念の賜物なのよ」
映画「スミス都へ行く」(フランク・キャプラ監督作品)より
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