「グランド・フィナーレ Grand Finale」

- 阿部和重 Kazushige Abe -

<マインドコントロールされた意識>
 マインドコントロールされている人の意識は、どうなっているのか?
 その人物が見た世界は、どう見えているのか?
 彼らの精神の呪縛を解くには、そうした理解が必要なのかもしれません。
 この小説は、そんなマインドコントロール下にある人物を描いているわけではありません。しかし、僕も含め誰もがある種のマインドコントロールの元にあることは、現代社会の現実ではないでしょうか。自分が今、見ている世界は「リアル」なのか?第三者から見ても同じに見える世界なのか?ふっとそう思うことはありませんか?それは決して世界が「バーチャル」なもので、実は「リアル」ではないといったSF的なことを言っているわけではありません。(映画「マトリックス」のことを言いたいわけではないということです)
 この小説は、ロリータ・コンプレックスの世界にはまり、そこから犯罪に手を染めてしまった男性が、妻と子を裏切り。落ちるところまで落ちてしまい、そこから立ち直るまでの苦悩を描いた作品です。ただし、精神的苦悩からの立ち直りを描いた人間再生の物語ではあっても、この小説には他の作品とは異なる大きな特徴があります。
 この小説は、主人公の精神の変化を客観的に描くのではなく、あくまでも主人公の目線にこだわることで主観的に描いているのです。ですから、あなたは、この本を読みながら自らの過ちをごまかし、他人のせいにしてしまう無責任なダメ男としての人生を生きることになります。
 彼は幼女に対する犯罪の犠牲者を知る人から激しく罵られ、すべてを失いながらまだ自分はなんとかその状況を脱することができると思っていました。客観的な視点が完全に失われてしまった彼は、妻子に逃げられながらも、まだ子供を取り返すことができると考えていたのです。それは主人公が自らマインドコントロールされた世界に閉じこもり、客観的に世界を見ることができなくなったいるからです。

 携帯電話がちーちゃんの吹くハーモニカの音色を奏でたとき、わたしは実家にいて、一人きりで仏壇の前に坐り(なぜなら居場所がなかったからだ)、娘を取り戻すための算段を練っていたところだった。

 それでも彼は、自分の置かれた立場を少しずつ理解し、それを受け入れる覚悟を固め始めます。

 目覚めたくはなかったのだが、もはや後戻りは利かなかった。わたしは二度寝というやつが出来ない体質だから、今日は一日中、満杯の砂袋を抱えたまま過ごさねばならない。いったん覚醒してしまったからには、いやでも起き上がって嘘に満ちた現実の隅っこにでも収まり、刻々と生まれる過去というゴミを溜め込んでいかなければならない。

<世界の変化>
 こうして、彼は故郷の街で何の目的もなく感動もない怠惰な日々を送り始めることになります。読者もうんざりのダメ男ぶりです。それでもまだ、あなたは何か救いが訪れるのではないか、と思いながら、読み進めてくれるはずです。なぜなら、彼の中で何かが少しずつ変わり続けつつあることがわかるからです。
 そして、そんな時、彼のもとに、かつて自分が欲望のために利用していた「少女たち」から救いを求められます。主人公はどうするべきか迷います。できることなら、助けてあげたい、そう彼は考えます。そして、それが可能なら自分の心も救われるかもしれない、そう思ったのかもしれません。
 読者であるあなたは主人公とともに体験を共にしながら、少しずつ主人公が変化しつつあることに気づくはずです。それは自分が演じるドラマを見つめる新たな自分が誕生したことでもあり、その存在が演出家となってドラマを作り始めたことでもあります。この小説の場合、前半部のドラマと後半部の始まりには、それぞれの世界を象徴するキャラクターが登場します。

 可愛らしいピンクのウサギ青色の子グマが手を繋いで横に並び、眼前に立ちはだかっている。

 初めに登場するピンクのウサギと青いクマは、ファンタジーのような前半部を象徴するキャラクターで、その反対の存在として登場するキャラクターが二人のリアルな少女なわけです。二人の登場こそ、新たなドラマの始まりであり、現実との出会いの始まりでもありました。

 去年のクリスマスからまる一年が経った今、カメラを手にしなくなったわたしは、言葉のみを使いこなして現実に介入しなくてはならない難儀な場所へと辿り着いてしまった。・・・
 満員の客席は静まり返り、わたしは不在のスタッフたちに合図を送った。そしていつも通り遅刻せず、亜美と麻弥は二人そろって舞台上に現れた。
「おはよう」
わたしの相棒が、上演の開始を告げた。


<人間を描くこと>
 クリスマスからクリスマスまでの一年の間に起きた心の変遷をその人物になりきることによって「言葉」を用いることで描き出した著者の筆力は凄いと思います。さすがは芥川賞を受賞した作品だけのことはあると思います。
 小説という文学が、言葉によって人間を描く作業のことだとすれば、この作品はまさにその原点に挑んだ本格派の小説といえます。もちろん、主人公がその後も上手くやってゆけるかどうかはわからないままですが、彼が自らの立つべき場所だけでも把握したのであれば、それは十分に成功したといえると思います。

 サッカー日本代表の遠藤選手について、こんな評価があります。彼は日本代表チームの中で唯一、ピッチ上空から全体を見渡す能力を持っているというものです。ほとんどの選手は、自分の周囲とゴール前の守備しか見ていませんが、最高の選手はピッチを上から見下ろし、各選手の位置を把握、さらにその数秒後の配置も予測できるのです。神の目ともいうべきこの才能を持ち、さらにその中に自分を置いてどう動くべきかを客観的にシュミレーションできれば、あとはそこに蹴る能力だけがあればいいわけです。
 こうした、客観的にものごとをとらえる能力は、もちろんサッカーだけに求められているのではありません。それは「教育」全般に求められている最重要課題といえます。
「数学」では、「数字」という絶対的な基準を用いて世界を客観化することが求められます。
「科学」では、「物理」や「化学」など「数学」に元ずく学問によって世界を客観化することが求められます。
「社会」では、地域ごとの文化や社会、経済を比較、考察することで、地域社会を客観化することが求められます。
「国語」では、「言語」という文化、社会の基盤となる単位を用いて、地域社会を客観化することが求められます。
 「小説」は、それらの学問を集約することで、新たな世界を創造することが求められます。そして、優れた「小説」はそうした創造された「世界」から現実の「世界」を垣間見ることができるはずです。その小さな創造の世界は、大きな現実世界へと開かれた窓であるはずです。そこから外の世界を眺めた時、多くの人は自分がいつも見ていた世界が、現実のようでいて実はファンタジーの世界だったことに気づくはずです。
 その「窓」を開いてくれる存在になることこそ、最高の「文学」であることの証明なのだと思うのです。

「グランド・フィナーレ Grand Finale」 2004年
阿部和重 Kazushige Abe(著)
講談社

阿部和重の他の作品「シンセミア」「ミステリアス・セッティング」「ピストルズ」

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