世界を変えた10冊の本とは?


「世界を変えた10冊の本」The 10 Great Book That Changed the World

- 池上彰 Akira Ikegami -
<世界を変えた本>
 池上彰が選んだ文字通り世界を変えた10冊の本です。
「アンネの日記」
「聖書」
「コーラン」
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
「資本論」
「イスラーム原理主義の『道しるべ』」
「雇用、利子および貨幣の一般理論」
「資本主義と自由」
沈黙の春 Silent Spring」 1962年(著)レイチェル・カーソン(アメリカ)
種の起源 On the Origin of Spesies」 1859年(著)チャールズ・ダーウィン(イギリス)

 あなたは何冊読んだことがありますか?
 日本ではほとんど読まれていない本がほとんどだと思います。しかし、日本人の誰もが知らぬ間にその影響を受けている本なのもまた間違いないでしょう。
 「アンネの日記」は多くの方が読んでいるでしょうが、子供向けに編集した版がほとんどのはずです。
 「聖書」もクリスチャンの方は読んだことはあるでしょうが、全部読んだと言う人はそう多くないはずです。
 「種の起源」についてはこのサイトで「進化論」について深く考察しているのでそこで取り上げています。
 「沈黙の春」だけは僕もちゃんと読んでいて、このサイトにページも作ってあります。
 それ以外の本となると、イスラム教徒でもなく経済学が好きではない僕はまったく未知の本ばかりです。
 とはいえ、その影響力は明らかですから、どんなことが書かれているのか?知りたいものです。
 そして、そこからは様々な世界史の謎が見えてきそうです。
 「イスラム原理主義がなぜ危険思想なのか?」
 「なぜ彼らは喜んで自らの命を捨てるのか?」
 「なぜアメリカは世界一の経済大国になったのか?」
 「自由主義経済のどこが、なぜ問題なのか?」
 様々な疑問が明らかになった気がします。
 ということで、10冊の本について、ご紹介します。(2冊は別ページへ)

「アンネの日記」 1947年初版(著)アンネ・フランク(オランダ) 
 ナチスの迫害を逃れオランダの隠れ家に住み、生き延びようとした家族の苦難を記録した少女の日記です。
 終戦の直前に何者かの通報によって見つかり、強制収容所で命を失ったものの、戦後になって隠されていたその日記を親族が見つけ出版。
 世界的な大ベストセラーとなりました。
 かわいい少女の悲しい物語は多くの少年少女の心に強く残っているはずですが、彼女はけっしてかわいいだけの少女ではありませんでした。
 彼女の強い意志は、日記の全文を訳した版を読むとよくわかるようです。
ユダヤ教について

 神様はけっしてわたしたちユダヤ人を見捨てられたことはないのです。多くの時代を超えて、ユダヤ人は生きのびてきました。そのあいだずっと苦しんでこなくてはなりませんでしたが、同時にそれによって強くなることも覚えました。弱いものは狙われます。けれども強いものは生き残り、けっして負けることはないのです!
(ユダヤ人が差別されてきた歴史を彼女もよく勉強していたようです)

 わたしは世間の大多数の人たちのように、ただ無目的に、惰性で生きたくはありません。周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、実際にはわたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!
(まるで聖戦に向かうイスラム・テロリストの言葉を読んでいるようです)

 そう、アンネは、死んでも私たちの心の中に生き続けているのです。そして、世界の歴史を変える存在になりました。
 しかし、と私は思ってしまうのです。
 『アンネに日記』の存在によって、建国されたばかりのイスラエルには、世界の世論の祝福を受け、生き延びることができたのでしょう。アンネの日記に「強いものは生き残り、けっして負けることはんまいのです」と書いたように。
 しかし、イスラエル政府によって壁で包囲されているパレスチナに住む人たち中にも、日記をつけている少女がいるのではないでしょうか。
 その少女は、イスラエルの行動に怯える自分たちのことを日記に語りかけているかも知れません。

(池上彰)

 あの「9・11同時多発テロ事件」の原因のひとつは、「アンネの日記」だったとも考えられるのです。
 いや、ここで取り上げられている10冊のほとんどがこの事件の原因となっているのかもしれません。

映画「アンネの日記」(1959年)
(監)(製)ジョージ・スティーヴンス(原)アンネ・フランク(脚)フランセス・グッドリッチ(撮)ウィリアム・C・メラー
(出)ミリー・パーキンス、シェリー・ウィンタース、ダイアン・ベイカー、リチャード・ベイマー
 動きの少ない舞台劇のような作品でしたが、さすがは巨匠ジョージ・スティーヴンスです。歴史的な傑作「ベン・ハー」がなければ、アカデミー賞を獲った可能性もありました。 
「聖書 The Bible」 
 この書物の著者は複数存在し、多くは謎です。いつ、どこで書かれたのかも明らかになっていない部分がほとんどです。
 この分厚い本に関して特に重要なのは、「旧約聖書」と「新約聖書」の違いです。そこにこそ、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の対立の原点があるからです。
 「旧約聖書」は、キリスト教の主役でもあるイエス・キリストが生まれるまでの記録・詩・伝説・・・をまとめた書物です。「新約聖書」は、そのイエス・キリストの弟子たちが書いた記録。そして、イエスの処刑後に弟子たちがその教えを広めようと苦闘する旅の記録集です。

<ユダヤ教の律法と旧約聖書の違い>
 もともと旧約聖書はヘブライ語で書かれていました。しかし、ヨーロッパでは通じなかったことから、エジプトのアレキサンドリアに72人の学者が集められ、ギリシャ語への翻訳が行われました。こうして、「七十人訳聖書」が完成。
 紀元90年頃、パレスチナのヤムニアに学者が集められ、ユダヤ教の正典を定める会議が開催され、そこで「七十人訳聖書」は正典として認められずいくつかの文書が削られることになります。しかし、「七十人訳聖書」はキリスト教における「旧約聖書」となり、ユダヤ教の聖典である「律法」との違いが生じることになりました。
 こうした翻訳や再編集の作業によって、各宗教間の対立が生み出されることになったのかもしれません。意図的ではなかったのかもしれませんが、歴史がそれを悪い方へと動かしてしまったのでしょう。

<謎の「ユダの福音書」>
 1970年代にエジプトのナイル川流域で発見された資料が「ユダの福音書」らしいとされています。それによるとユダはイエス・キリストからの依頼によって、裏切り者の役割を任されたことになっているようです。(ただし、このことについては主流派に認められていません)

<チェルノブイリの予言>
 第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの死んだ。
「ヨハネの黙示録」より
 1986年「チェルノブイリ原発事故」が起きた際、この部分が大きな話題となりました。「チェルノブイリ」とはウクライナ語で「苦よもぎ」のことなのです!
「コーラン」 
 アッラーの御為めに殺された人たちを決して死んだものと思ってはならないぞ。彼らは立派に神様のお傍で生きておる、何でも充分に戴いて。
(第三章163節)

 一般の人は、死んだ後、世界の終わりが来て、「最後の審判」を受けるのを待つのですが、アッラーのために死んだ人は、すぐに天国に行けるというのですから、ジハードで死ぬことは天国への特急券を得るようなものです。 

 汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。
(2章186節)

 聖戦(ジハード)はやるべきとしているものの、罪なき人を巻き込むテロは「不義」とならないのでしょうか?この解釈の違いこそが現在の危機的状況を生み出したといえます。
イスラム教について
「イスラーム原理主義の『道標』」 1964年(著)サイド・クトゥブ(エジプト)
 「コーラン」にはジハード(聖戦)により人は天国に行けると記されています。だからと言って、他の神を信じる者はすべて敵であり、殺しても良いとしているわけではありません。それどころか、多くのイスラム教徒は困った人は助けるべきだと考えており、犯罪そのものを否定する真面目な人々です。(この点は、トルコ、モロッコを一人旅した経験から自信を持て言えます)
 問題なのは、そんなコーランに新しい解釈をし始めたイスラム原理主義者たちにありました。ただし、彼らの思想を暴力的にし過激化させたのは、イスラム世界というよりも西欧世界からの暴力的な植民地政策であり、その代表的存在であるイスラエルの建国だったことを忘れてはいけません。
 イスラーム以外のシステムは、人々は何らかの形で他人を崇拝する。イスラーム的生活様式においてのみ、全員が人間への隷従状態から自由であり、皆がアッラーの教えだけに従ってアッラーにのみ服従し、唯一神アッラーへの崇拝に献身できる。

<イスラム教徒への批判>
 イスラム教におけるアッラー(アラー)とはアラビア語で神のこと。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも世界を創造した唯一の神を信仰します。つまり、三つの宗教とも、神様は同じなのです。
 ところが、同じ神を信仰しても、信仰の仕方に僅かでも違いがあれば、それを無明社会(ジャヒリーヤ)だと断じ、ジハードの対象にする。恐るべき純粋主義です。この純粋主義は、同じイスラム教徒たちにも向けられます。いわゆる「ムスリム社会」と呼ばれている現在のすべての社会も、ジャヒリーヤだと言うのです。それは、アッラーを信仰していないからではありません。それは、アッラーを信仰していても、それだけでは不十分なのです。
 イスラム原理主義者にとって、普通のイスラム教徒はこう見えているようです。
 アッラーの属性である立法権をアッラー以外の存在に委任してその権威に隷従し、またその権威を根拠として彼らのシステム、伝統と習慣、法律、価値観と規準、さらにすべての生活の実践を導き出している。
イスラム原理主義について

 そんなイスラム原理主義思想の原点となったのがこのサイド・クトゥブによる書物でした。先ずは、彼を生み出した思想団体「ムスリム同胞団」の誕生から。
<ムスリム同胞団>
 ムスルリム同胞団は1928年エジプト人の小学校教師ハサン・アルバンナによって創設された組織です。 
 1954年、同胞団のメンバーの一人が、エジプトのナセル大統領暗殺を計画しますが失敗。政府はすぐに同胞団のメンバー3000人を逮捕し、組織を非合法とし弾圧を加えて行きます。この時の逮捕者の中にこの本の著者サイド・クトゥブもいました。

<サイド・クトゥブ>
 この書物の著者であるサイド・クトゥブは、1906年エジプトに生まれ、エリート官僚候補生としてエジプト教育省から1948年アメリカへと留学しました。しかし、そこでアメリカの物質文明と差別の状況に失望してしまいます。この時の体験が彼をイスラム原理主義へと向かわることになったようです。帰国後、彼はムスリム同胞団に参加し、前述の事件により逮捕され、有罪とされ懲役15年の刑を受けることになりました。そして、彼は獄中で「道標」を書き上げました。
 出所後、彼はこの本を発表したが、当然政府により発禁処分となり、1966年にクトゥブは処刑されてしまいました。(これで彼は聖人になりました)
 では、その「道標」にはどんなことが書かれていたのでしょうか?

 人類は、健全な発展と真実の進歩に欠くことができない価値観を失ってしまったがために、今や滅亡の瀬戸際に立たされている。人類にとって、新たなキヤーダ(指導理念)を樹立することが不可欠となった。
 新しい指導理念は、これまで西洋には知られていなかった高い理想と価値観を人類に提供しなければならない。
 イスラームこそ、そのような価値観と生活様式を保有するただ一つのシステムである。
<ジャヒリーヤ(無明社会)>
 世界全体がジャヒリーヤに汚染され、物質的豊かさも発明も進歩も、無知を根絶していないことが明らかになる。このジャヒリーヤは、地上における神の主権に対する反逆に基礎を置いている。それは、ある人々を人間の主人とすることによって、アッラーの最も偉大な属性、とりわけ主権を人間に引き渡そうと企てることである。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 1904年初版(著)マックス・ウェーバー(ドイツ) 
 ドイツの経済学、社会学の研究者が、資本主義の発展とそれを変えるキリスト教(プロテスタント)の関りについて研究した書物です。
 それもキリスト教の中でも、プロテスタントに属する人々こそが「資本主義」を発展させたことを示し、その理由を説明しています。
 プロテスタントとカトリックの違いについては下記のバナーから!
キリスト教について

<プロテスタントが世界経済を支配した理由>
 18世紀以降20世紀まで、世界経済のトップに立ったのはオランダ、イギリス、ドイツ、アメリカなどプロテスタントの国でした。それに対して、プロテスタントではないロシア、フランス、イタリアは世界の頂点にあと一歩届かなかったと言えます。
 その理由をマックス・ウェーバーはわかりやすく解説してくれます。彼は、プロテスタントこそ「資本主義経済」をリードするのにぴったりの宗教だったと説明しています。

 カルヴァン派の信徒はつねに、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからをたえず吟味しつづけることで救いを作りだすことができるのである。
(カルヴァン派というのは、プロテスタントの一宗派です)

 信徒たちは、自分が選ばれた者だと信じることが絶対の義務とみなし、そのことに疑いをもつことは悪魔の誘惑として退けるよう求められた。自己への確信のなさは信仰の不足を示すものであり、恩寵の働きの不足によるものだとされたのである。

 こうした自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休みなく従事することが教え込まれたのである。この職業労働だけが、宗教的な疑惑を追い払い、恩寵を与えられた状態にあるという<救いの確証>をもたらすことができるのである。

 プロテスタントにとって、神さまに選ばれるために必要なことは、よく働くことにあるのです。その結果、富を得ることは宗教心の証しであり、善であるとされるのです。一般的には、富に執着することは天国よりも地獄に向かう近道のような気がするのですが・・・そうではないのが、プロテスタントだというのです。異なる神を信じる者を征服することを善とするイスラム教に対し、それよりも働いて稼げ!というのですから、そりゃあ世界経済を支配するでしょう。(実はそれ以上にユダヤ人は、迫害から生き延びるために早くから経済を支配することを目標に生き続けてきたのですが・・・)
 稼ぎ過ぎたとしても、その分は貧しい人々や教会のために寄付すれば良い、ということです。(アメリカなど西欧で様々な分野への寄付の文化が発展しているのはその影響です)

 富が危険なものとみなされるのは、怠惰な休息や罪深い生活の享受の誘惑となる場合だけなのである。そして富の追求が危険なものとみなされるのは、将来を心配なしに安楽に暮らすことを目的とする場合だけである。職業の義務を遂行することによって富を獲得することは、道徳的に許されているだけではなく、まさに命じられているのである。

 実業家は宗教家は禁欲の力によって、真面目で良心的で、異例なほどの労働能力をそなえた労働者を雇用することができたのであり、労働者は労働を神が望まれた生活の目的と考えて、熱心に働くのだった。

 労働することが善なのであれば、労働者は働かされることを喜びと感じることになります。それは資本家の側にとっては、好都合なことと言えます。真面目なクリスチャンほど、働くことを喜びと感じることになります。そういえば、リチャード・フラナガンの傑作小説「奥のほそ道」にも、捕虜なのに真面目過ぎる働きを続けるクリスチャンの労働者が登場していました。

 現世において財が不平等に分配されているとしても、それは神の特別な摂理の働きであると、市民的な実業家は心を休めることができたのである。神は特別な恩寵を人々に与えるのと同じように、このような違いを作り出すことによって人間には認識することのできない秘密の目的を推進しているのだと、自らに保証するのだった。

 営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味を倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。
 アメリカにおいてスポーツのプロ化がどの国よりも進んでいるのは、こうした背景があるからでしょう。仕事もスポーツもアメリカ人にとっては、どれも良く働き、良く稼ぐことが目標なのは当然のことで、お金を稼ぐことも神様のためにやっていることなので、アマチュアリズムも何も問題ないのです。

 こしてう彼は、キリスト教(プロテスタント)にとってお金を稼ぐことこそが善であり、生きる目標であると記しました。それはまた、より働く者がより稼ぐのは当然という考え方でもあります。こうして、富の集中が始まり、貧富の差も当然のこととされてしまいました。
「このままでは、貧しい者は生きて行けなくなる」
 そう考える人が現れるのは当然です。
「世の中を不平等にし、不幸な人を増やす宗教ならいらないでしょ!」
 その考えを「共産党宣言」として発表したマルクスとエンゲルスが、その後20世紀の世界を大きく変えて行くことになります。
「資本論 Das Kapital」 1867年(著)カール・マルクス(ドイツ)
<カール・マルクス>
 カール・マルクスは、1818年5月5日、現在のドイツ、プロイセンのユダヤ人の弁護士家庭に生まれました。(ただし、両親はキリスト教に改宗していました)ボン大学法学部、ベルリン大学法学部で学んだ後、ヘーゲル哲学を学び、哲学の博士号を取得しました。そして、父親と同じ弁護士 になるはずが、哲学の道に進み、卒業後はジャーナリストとなりました。しかし、新聞記者にはなったものの、政府を批判する記事を書いたため、その新聞が発行禁止となってしまいます。その後、パリやブリュッセルに引っ越した後、ロンドンに引っ越します。そこで彼は大英図書館に通い詰めながら経済学を自学自習で学び、その成果をもとにして資本主義を批判する「経済学批判」を出版します。(この時期のマルクスが登場する面白い小説があります。ピーター・アクロイドの「切り裂き魔ゴーレム」という作品です)
 「資本論」はその続編として出版されました。さらに親友のエンゲルスと共に共産主義運動を始め、そのマニフェストとして二人の共著「共産党宣言」が出版されたわけです。「共産党宣言」については、ラウル・ペック監督の映画「マルクス・エンゲルス」(2017年)という力作があります!是非、ご覧ください。
 「資本論」によると、労働力とは「資本家が、それを消費することで価値を増やすことができる特殊な商品」
(良くも悪くも、マルクスの理論の基本は「労働」=「商品」と見なし、そこに心の存在を見ませんでしたここが。重要なところです)
 労働者の労働力を商品として購入(労働者を雇う)その商品を消費(働かせる)することによって、新しい価値を生み出せる。
 そして、その新しい価値が付加された商品を売ることで、利益を上げることができる。
 この過程を繰り返すことで資本を増大させることができる。
 ただし、この繰り返しは労働者への搾取を繰り返すことでもあり、富の増大に比例して、労働者の怒りが蓄積され、ついにはその崩壊が始まる。とマルクスは予言しました。「革命」です。
 マルクスの予想はここまでは見事に的中したと言えます。しかし、「革命」は成功したものの、その後誕生した共産主義国家はどれも上手く行かず、ソ連のように国がバラバラにあったり、中国のように中途半端な拝金主義国家になってしまったりしてしまいます。20世紀を象徴する思想となった「共産主義」は、わずか100年ももたずに、その黄金期を終えてしまいました。結局、独裁主義国家だった国は、民主主義を飛び越えてしまうと、独裁的な共産主義国家になるだけだったのです。
 21世紀に入り、再びその思想は注目を浴びつつあります。しかし、その限界を越えるためには、そこに何かを加えなければならないはずです。それは何なのでしょうか?
 ここで、もし誰かが有効な理論・思想を生み出せれば、ノーベル賞間違いなしでしょうね。
「雇用、利子および貨幣の一般理論 The Graet Theory of Employment,Interest and Money」 1936年(著)ジョン・M・ケインズ(イギリス)
<世界経済を動かす書>
 20世紀から21世紀にかけて、世界の経済政策において、最も大きな影響を与えてきた書です。 その影響が今もなお現在進行形であるところが凄いのですが、逆に言うと、それを越える書が未だに書かれていないことが大きな問題でもあります。

<景気対策の基本>
「景気が悪くなったら、政府が公共事業などで支出を増やして経済を活性化させる。金利を下げて、企業の投資を活発化させる」


 彼の考え方のポイントは、資本主義の限界を設定したところから始めていることです。そこには社会主義的ともいえる考えた方が基本にあるということです。
 われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的で不公平なことである。
 欠陥や不公平を是正しなければいけない。市場経済は、放置しておくと失業を多数生み出したり、不況を深刻化させたりするので、政府による積極的な財政政策が必要だ、というものでした。
 政府はそのために十分なお金がなければ、借金をして、つまり国債を発行して資金を調達。これで経済を好転させれば税収が増えるので、それで国の借金を返済すればよい。その影響で、少しづつインフレが進むことになりますが、政府は支出を抑えることで、借金を返済し黒字化に転じるようにすればよい。

 これが基本的な彼の政策で、世界中のほとんどの国はこの政策を参考に経済政策を実施してきました。1930年の世界恐慌のような大きな不況が、第二次世界大戦以降起きないできたのは、彼の政策が歯止めになってきたからとも言われます。
 ただし、彼の理論にも限界があることは、様々な国の経済的な破綻から明らかになりました。多くの国では経済を立て直すために行われた財政支出の後、政治家たちは自分の人気を落とすのを嫌い、支出を抑えて黒字化することを怠っているのが現状なのです。そのために、多くの国が財政破たんするまで借金を重ねてしまい、何かのきっかけで破綻することになってきました。(ギリシャやアイスランドなどはその極端な例)
 一時的に経済を立て直した後、どうやって黒字化まで行くか?
 そのためには、平等に国民が協力し、苦しむことが求められるのですが、大抵は国の中が分裂してしまいます。そうならないようにするにはどうすれば良いのか?
 何か素晴らしいアイデアがあるのでしょうか?この書の限界を越えられる理論を生み出したら、文句なしにノーベル賞が与えられるはずです。
「資本主義と自由 Capitalism and Freedom」 1962年(著)ミルトン・フリードマン(アメリカ) 
<グローバリズムの教科書>
 グローバリズムの基本思想であり、自由主義経済学のバイブルとも呼ばれる書です。そこで書かれている理論は実に明快です。
 「経済活動は政府が口出しすることなく企業に任せればよい!そうすれば資本主義の原理が自動的に働き国民によい経済環境が出来上がる」
 こうして世界中から関税を失くし、貿易を自由化せよ、という「グローバリズムの経済学」が誕生することになりました。確かに理論上は上手く行くようにも思えますが・・・
 でもそんな理想的な状態になるには・・・
 どれだけの時間がかかるのか?どれだけの人が犠牲になるのか?どれだけの難民を生み出すのか?どれだけ地球環境を破壊するのか?どれだけの生物種を地上から消し去るのか?どれだけの富が一部の人に集中してしまうのか?
 人類の文明が崩壊するところまで含めれば、理想的な状態が生まれるのでしょうか?
 様々な問題点が明らかになり、世界各地で反グローバリズム、反自由主義経済の動きが勢いを増しています。 

 第一の原則は、政府の役割に制限を設けなければいけないということである。政府の仕事は、個人の自由を国外の敵や同国民による侵害から守ることに限るべきだ。
 第二の原則は、政府の権力は分散されなければならないことである。政府が権力を行使せざるを得ないときは、国よりも州、州よりも郡や市で行使することが望ましい。自分の住む町のやり方が気にくわないとき、それが下水処理にせよ、区画整理にせよ、学校制度にせよ、さっさと別の町に引っ越せばよい。そこまでする人はめったにいないとしても、その可能性があるというだけで、権力濫用を抑止する効果がある。
(トランプ嫌だからカナダに移住したアメリカ人もいたようですが、誰もがそうした移住が可能なわけではありません。本当に困っている人はそれができないはずです)

 自由市場が存在するからと言って、けっして政府が不要になるわけではない。それどころか、「ゲームのルール」を決める議論の場として、また決められたルールを解釈し施行する審判役として、政府は必要不可欠である。ただし市場は、政治の場で決めるければならないことを大幅に減らし、政府が直接ゲームに参加する範囲を最小限に抑える役割を果たす。

 何よりもまず通貨供給量にルールを導入し金融当局の裁量権を制限することの方が、はるかに大切である。

 通貨の量が少なければ、経済活動に必要なお金の量が不足し、経済活動は停滞する。経済活動に必要なお金を中央銀行は迅速に供給すれば、景気は安定する。
 この考え方を「マネタリズム」と呼びます。
 フリードマンは思想家としては「リバタリアン」であり、経済学者としては「マネタリスト」です。

<「変動相場制」の重要性>
 いつどんな変化が起きるか予測不能だからこそ、自由市場が好ましいのである。肝心なのは、あるときある国で発生した国際収支の不均衡を解決することである。そのためには、自由市場が機能し、国際貿易に影響する変化にすぐさま自動的に反応して効果を上げられるようなメカニズムを採用すべきである。

 こうした経済理論、政治理論は確かに有効な部分はあるのでしょう。しかし、この理論を平等に大衆が理解できる社会でなければ、理解できる人間だけが有利になる格差拡大のための理論にしかなりえない。それが現状なのです。

 10冊の本はいずれも世界を変え、今もなお変え続けています。しかし、これから100年後、それぞれの書物の評価はどうなっているでしょうか?
 誰かが、それぞれの書物のもつ限界や問題点を修正してくれるといいのですが?
 いっそのこと、過去の遺物にしてくれてもいいのですけど・・・。


「世界を変えた10冊の本」 2014年
The 10 Great Book That Changed the World
(著)池上彰
文春文庫

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