「灰色の魂 Les Ames Grises」

- フィリップ・クローデル Philippe Claudel -

<灰色の世界>
 実によくできた小説です。
 第一次世界大戦中のフランスの田舎町を舞台にした殺人事件という地味な題材。登場人物たちも、全員その町に住む普通の人々。タイトルどうり、内容も舞台も登場人物もすべてが「灰色」に統一された小説です。
 そんな地味な小説のどこが面白いのか?
 先ずは、最初の一節が読者を一気に物語の世界に引き込みます。

 どこから語ればいいのか、よくわからない。これはけっこうむずかしい。すべては過ぎ去った時のこと、言葉はもう戻ってはこない、あの顔たちも、笑みも、傷も。それでも語らねばなるまい。ここ二十年来、私の心を苛んできたことを語るのだ。悔恨と大いなる疑惑の数々。ナイフで腹を切り開くように謎を切り開かなければならない、そして、そこに諸手を差し入れるのだ。たとえそれで何も、何ひとつ変わらないとしても。

 なんという見事な書き出しでしょう!
 この小説の魅力のひとつは、こうした磨きぬかれた文章にあります。フランスの小説ではありますが、ヘミングウェイチャンドラーなどが書いていたハードボイルド小説を思わせる雰囲気が全体に漂っているのも魅力的です。主人公が過去の苦い思い出を振り返ることで物語が進むのもハードボイルド的ですが、この文章がまたハードボイルド的です。

 人生とはおもしろいものだ。予告はない、選り分けることもできずにすべてが混じりあい、流血の時のすぐあとに恩寵の時が続く、そんな具合だ。まるで人間は道に落ちているあの小石のようで、来る日も来る日も同じ場所にあったのに、放浪する男のひと蹴りで転がされ、理由もなく、空に向かって投げ飛ばされてしまうこともある。そして、小石に何ができようか?・・・

 しかし、この小説の本当の素晴しさは、物語を「灰色」で統一するための様々な仕掛けにこそあります。

<灰色の舞台>
 この物語が展開する時代背景と舞台となる町がまず灰色です。その場所は、著者のフィリップ・クローデルが育ったフランスのロレーヌ地方のようです。石炭や鉄鋼の産地としても有名なロレーヌ地方はドイツとの国境地域に近いこともあり、当時は常に紛争が絶えない地域でした。この地域の領有権争いが戦争の引き金になっていたわけですが、そこは重要な鉱業地帯でもあったため、この地域の鉱山や工場は戦争中も稼動することを求められました。
 そのため、町の住人たちは戦場へ行くのではなく、町の鉱山や工場で働くことになります。したがって、その町は戦場へ向かう若者たちの通過点となり、傷ついた場合の帰還の地ともなります。
 町の人々は、すぐそばにある戦争に参加するのではなく、ながめる傍観者となりました。まさに「灰色の町」です。

 そして、奇妙な日々が始まった。
 あいかわらず戦争は続いていた、というより、刻々と激しさを増しているようだった。どの道も蜿々と続く人馬の畝と化し、すっかりくたびれ、褪せた灰色に染まっていた。砲声はすでに鳴り止まず、昼となく夜となく、あたかもその巨大な時針で傷ついた肉体と死んだ命を攪拌する不吉な大時計のごとく、われわれの生活を刻んでいた。そのくせ、その音がほとんど耳に入らなくなっているのは最悪の事態だった。毎日、若者たちが徒歩で同じ方角に向かうのが見えたが、死地に向かっていながら、なおもそれをかわせると信じていた。・・・

 この小説は、そんな「灰色の町」を舞台に遠くから聞こえる砲声を通奏低音として聞きながら展開してゆくことになります。

<灰色の男>
 「灰色の町」を舞台に物語を演じる人々の配置もまた見事に計算されています。この小説の主人公といえる二人。刑事である「私」と検察官の「哀しみ」は、まさに「灰色の男」たちです。「私」は刑事として犯罪者として追う正義の男でありながら、妻を死に追いやった男であり、もうひとつ重要な死にも関わっており、「白」と「黒」が混ざり合う人生です。

「・・・思い出そうとはするんだが、こっちに向かってくるかと思ったら、すぐに掻き消えてしまう、あとには何も残らない。それでおれは自分を殴る、どやしつける・・・」
「どうしてそんなばかなことをするんだい?」
「愛した女の顔を思い出せないなんて・・・。おれはろくでなしさ」
 ジョゼフィーヌは肩をすくめた。
「ろくでなしだろうが、聖人だろうが、そんなのは見たことないよ。真っ黒だとか、真っ白なものなんてありゃしない、この世にはびこるのは灰色さ。人間も、その魂も同じことさ・・・。あんたは灰色の魂、みごとに灰色、みんなと同じようにね・・・」


 そして、殺人事件の犯人ではないかと疑われる検察官は、次々と犯罪者を刑場へと送り出す無慈悲な人物ではありますが、誰よりも深く亡き妻を愛する哀しみの人でした。そして、その哀しみの深さゆえに殺人を犯したのではないかと「私」に疑われることになります。

 人は自分の知らないことを恐れるとよく言われる。むしろ私は、昨日まで知らなかったことを、ある日学んだときに恐怖は生まれるのではないかと思っている。それこそがデスティナの秘訣だった。彼らが目の当たりにしたくないと思っているものを、何気ない顔で、慢心した連中の鼻先に突きつけること。仕込みは充分。勝利は間違いなし。

 この小説の絶妙なところは、二人の「灰色の男」の周りに配置された人間たちが見事に描き分けられていることです。無実の男を死に追いやる「黒い男たち」として、ミエルク判事とマティエフ大佐。
 逆に「私」を助けて「白い男たち」として、デシャル医師、リュラン神父、リュミー医師・・・。それにミリュエル判事とマティエフ大佐の行為を目にしながら、見て見ぬ振りをしてしまったことを後悔し続ける憲兵のデスピー。彼もまた「灰色の男」のひとりです。

・・・デスピオーは肩をすくめると、帽子を深々とかぶり、さよならも言わずに私に背を向けた。彼はまた彼の悔恨へと立ち去り、私はまた私の悔恨に残された。私は、おそらく彼と同じように、人はひとつの国に暮らすように、悔恨のなかで生きられるものだということを知っていた。

<白い女たち>
 こうした男たちのグラデュエーションに比べると女性の登場人物は、様々な身分や階層でありながら、ほとんどが天使のように白い存在として描かれています。特に魅力的なのは、「私」の幼馴染で最下層ともいえる皮を売る商売人の女性ジョゼフィーヌです。誰からも見下される低い階層に属する女性でありながら、自宅はきれいに整理され、カトリックの置物がきれいに飾られています。

「きれいな銅のなべがあれば、それを掛けておいたかもしれないね。どっちみち同じこと、世界はそれほど醜いものじゃない、ときにはぴかぴか光るものだって転がってる、ようするに人生はそういう金ぴかのかけらを探すことなんだってことが感じられればいいのさ」
ジョゼフィーヌ

 その他には、オーストリアに移住した兵士相手に売春をしていたブランシャール。上流階級に属しながら兵士たちを看護するため病院で働くクレルス夫人。「私」に「哀しみ」の家の鍵を残してくれた料理女のバルブ夫人。身分はバラバラですが、みな「汚れ仕事」をしているにも関わらず「白い心」持つ人々です。
 しかし、それ以上に「天使」のごとく「白い心」を持っていたのが、若くしてこの世を去ってしまった女性たちです。「哀しみ」の妻、クレリス・デスティナ。「私」の妻、クレマンス。謎の自殺を遂げてしまった女教師、リジア・ヴェラレーヌ。そして、殺人事件の犠牲者となった少女、「昼顔」。誰もが、美しく悲しく純粋な女性たちとして描かれており、「黒」もしくは「灰色」の男たちに比べると実に対照的です。
 こうして、「白い女」と「黒い男」、「灰色の男」たちによって展開する事件の結末もまた「灰色」へと収束してゆくことになります。

 デスティナの過失によって、錯覚によって、希望によって、記憶によって、恐怖によって人を殺したという思いを抱いて、私はずっと生きてきた。私はそれを美しいことだと思っていた。たしかに殺人であることには変りないが、そう思うことで、殺人が光り輝き、みすぼらしさから引き出してくれる。加害者と犠牲者がどちらも殉教者になることは、めったにない。

 お見事です。著者は初めからこうした全体構造を頭の中に作り上げていたのでしょうか?ファッション業界におけるディスプレイの鉄則に、使う色は基本は2色、多くても3色にしぼれ、というのがあります。
 さすがはおしゃれの国、フランスの小説です。グレーを基調にモノトーンでまとめたこの小説は、文章、構成ともに美術品のように美しい作品です。

「劇の他の場面がいかに美しくても、最後の場面は血なまぐさい。ついには頭から上をかぶせられ、それで永遠におしまいである」
パスカル「断想集 パンセ」より


「灰色の魂 Les Ames Grises」 2003年
(著)フィリップ・クローデル Philippe Claudel
(訳)高橋啓
みすず書房

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