- ギュンター・グラス Gunter Grass -

<衝撃のカミングアウト>
 「ブリキの太鼓」の著者、ギュンター・グラスの半生を描いた自伝である本書は、発表された当時、ドイツで一大センセーションを巻き起こしました。それは、著者が若かりし頃、ヒトラーの親衛隊員だったことを初めてその中で明かしたことによるものです。
 左翼よりの作家として政治的発言も多い彼は、幅広い影響力をもつ知識人としてドイツ国外からも高く評価されており、1999年にはノーベル文学賞を受賞しています。それだけの人物が少年時代の事とはいえ、ヒトラーを信望していた事実を隠していたことは、戦争責任の追及については日本以上に厳しいドイツでは衝撃的に受け止められました。戦犯だった人間が総理大臣にまでなってしまう国に住む日本人にしてみれば、いまさらいいんじゃないのと思えるのですが・・・。幸いなことに、彼が兵士として戦争に参加したのは確かですが、ユダヤ人の虐殺や反ナチの密告や暗殺に関わってはいなかったようですし・・・。
 それ以上に彼の生い立ちと青春時代の出来事を追体験しながら、あの名作「ブリキの太鼓」がどうやって生まれたのかを知ることができる喜びの方に興味がつきません。さらには、ナチス・ドイツの犠牲になったユダヤ人側からの視点からではなく、加害者の側からあの悲劇の時代を追体験することもまた新鮮な驚きでした。

<ギュンター・グラス少年>
 ギュンター・グラス Gunter Grassは、1927年10月16日第一次世界大戦まではドイツ領だったポーランドの年、ダンツィヒで生まれました。(現在はポーランドのグダニスク、当時は国際管理下にある街でした)彼の父親はドイツ人でしたが母親はスラブ系の少数民族カシューブ人でユダヤ系ではありませんでした。家族経営の食料品店は、繁盛していたわけではなく子供の頃から彼は店の手伝いでツケ払いのお客の家をまわる仕事でお小遣いをかせいでいました。
 そんな中でも彼には美術に対する興味があり、店で売っているタバコについている絵画のカードを集めながら、いつか芸術家になりたいと思っていたようです。この当時のダンツィヒでの少年時代こそ、「ブリキの太鼓」の背景そのものといえます。ただし、「ブリキの太鼓」の主人公が成長を止めることで兵士にならなかったのとは異なり、グラス少年はまだ未成年ではあっても少年兵としてナチス・ドイツの親衛隊員として軍に入隊します。
 この時、彼の母親は息子の入隊を悲しみ見送りにも来なかったといいますが、彼自身は兵士になることに憧れていたといいます。そんな時代の自分にあえた彼は問いかけます。

 十三歳の少年だった昔の自分を呼び出し、その自分を厳しく尋問し、どんなに苦しんでいても痛くもかゆくもないよその人間のように彼を裁きたいと思うや、たちまち半ズボンに膝までの靴下をはき、いつもしかめっつらの中背のわんぱく小僧の姿が目に浮かんでくる。彼は私から逃れ出て、価値判断されたり有罪判決を下されたりされるのはごめんだと思っている。彼は母親の膝の上に逃げていく、こ叫びながら。
「だって僕は子供だったんだよ、まだ子供にすぎなかったんだから・・・」


<戦場にて>
 自ら望んで入隊し、最前線に新米兵士として送られた彼は、すぐに本物の戦争とは何かを知ることになりました。当時、戦争はすでに末期の状況になっておりドイツの敗色は濃厚でした。敗走を重ねる部隊では次々に兵士たちがが死んでゆき、彼はかろうじて生き残ることができたものの砲撃によって負傷しアメリカ軍の捕虜になりました。(この時、ほぼ同時にドイツを占領していたロシア軍の捕虜になっていたら、彼はその年の冬を越えられなかったか、もしくは東ドイツの住人として無名のままこの世を去ることになったいた可能性が高いでしょう)
 当初は、ナチス・ドイツを信じていた彼ですが、アメリカ軍の捕虜となり、そこでヒトラーの指示によって行われていたユダヤ人への残虐行為の数々を知ることで、少しずつ自分の過ちに気づき始めました。

「私が少しずつ理解し、自分が知らないあいだに、もっと厳密には、何も知ろうとせずに、犯罪へ加担したことをおずおずと認め始めるまでには、時間がかかった。その犯罪とは年とともに小さくなるものではなく、時効になろうともせず、相変わらず私を苦しめている。
 空腹の場合と同様、罪とその帰結としての恥も、心をむしばみ、ひっきりなしにかじるものだと言えよう。飢えは一時のものだった、だが、恥の方は・・・」


「私たちの頑なな態度を砕いてくれたのは、教育将校の主張と私たちに示された明々白々な写真ではなかった。一年後、、元ヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハが、どこからか知らないが、ラジオで話しているのを聞いたとき、その閉ざされていた壁がなくなったのだった。」
(彼はアメリカ人将校の教育ではなく、信頼していた指導者の告白を聞くことで初めて、真実を理解するに至ったということです)

<芸術家への道>
 終戦後、彼は家にはもどらず、食べるものもろくにない中、美術の世界で生きようと決意します。(家が残っているとは思えず、家族がどこにいるかもわからなかったので、戻ってもどうしようもなかったのですが・・・)そこで彼は、美術学校の彫刻科に入学しようと学校を訪ねます。しかし、戦後の混乱の中、まだ再開されていなかった学校で途方にくれていると、その学校の教師が素晴しいアドバイスを与えてくれました。
「学校はまだやっていない。学校が始まるまで、石工の仕事をして基礎を学んできなさい」と仕事先の紹介までしてくれたのです。幸いなことに、石工の仕事は墓石が必要な時期だったこともあり、いくらでも働き口はありました。そのうえ、戦争によって破壊されたり痛んだ建物やモニュメントなどの修理仕事もいくらでもある時代でした。こうして彼は仕事と勉強をしながら忙しく生きることになり、青春時代を楽しむゆとりもありませんでした。そのうえ、彼にはオスカルのように女性をくどくテクニックもなく、彼のような勇気も持ち合わせていませんでした。

「オスカルは美しい言葉を捏ね上げることができたが、私は口べただった。さらに、彼は背中の瘤を売りにし、1ダースもの思いつきをいつも用意していたのに、私はぎこちなく、誤解さえ招く身振りしかできなかった。
 オスカルの口からは古典的な誘惑術がいとも優雅に飛び出てきたが、私からはせいぜいつばを呑みこむか、言葉をこらえている音が聞こえるだけだった。」

 しかし、彼は芸術に関する才能は、オスカル以上に持ち合わせていたのでしょう。芸術学校に彫刻専攻として入学を許されると、彼は彫刻だけでなく詩人としての才能も発揮。さらには、ウォッシュボード・プレイヤーとして仲間たちとジャズ・バンドを組み、街のクラブで演奏しお金を稼いでもいました。その実力を示す逸話にはちょっと驚かされます。

「その著名なゲストは、後で聞いたのだが、タクシーで自分のトランペットをホテルから取ってこさせて、突然、まごうことなく我々のいる階段下を見て、(今や私も彼らの姿が見える)唇に楽器をあて、酒場でキーキーという雑音のなかで安い報酬で演奏している私たちのところに、トランペットをまるでシグナルを鳴らすように明るく吹きながら上がってきて、フルートちゃんの荒々しいフルートの切れ切れの音を捉え、目をぐるぐる回してソロ演奏した。」
(これはもちろん、あのルイ・アームストロングのことです!確かに彼はいい人だったようですが、それにしてもウソのような本当の話です)

 その後、彼はバレーダンサーを目指していたスイス人アンナと結婚。彼女の実家を訪ねた時に彼の人生を変えることになる重要な場面を体験することになります。

<「ブリキの太鼓」誕生秘話>
「いずれにせよ、コーヒーテーブルを囲んだ家族の集まりは、ときに標準ドイツ語、ときにスイス・ドイツ語の会話で盛り上がったとき、三歳くらいの男の子で、私の慧眼な映画友達の姉の息子が、子供用のブリキの太鼓をぶら下げてタバコの煙が立ちこめる居間に入ってきて、木のばちで丸いブリキを叩き始めた。
 その子は二回右、一回左と叩いた。彼は集まった大人たちを無視して、部屋を横切り、繰り返しテーブルのまわりを回るあいだも絶え間なく叩いていた。彼はチョコをやっても馬鹿げた呼び声をかけても惑わされず、まるで何もかも見抜いてしまったかのようだったが、突然、向きを変え、同じ道を通って部屋を後にした。」


 小説「ブリキの太鼓」の主人公オスカルのイメージは、この時、彼の脳裏に焼き付けられ、1959年に小説となって世に出ることになるわけです。当時、彼はまだ無一文の学生に過ぎず、詩人としてもまだまだ無名の存在でしたが、着実に彼は作家として生きてゆくために必要なアイデアのストックを貯めつつあったのでしょう。
 彼の名を世界に広めることになる小説「ブリキの太鼓」は、こうして彼が脳裏に刻み込み育てていった「タマネギの皮」を一枚一枚はぐようにして生み出した彼自身の分身であると同時に、ちょっとやり過ぎの感があるホラ話しのようでもありました。

「玉ねぎにはたくさんの皮がある。山ほどあるのだ。ひと皮むけば、すぐに新たに生まれ変わってしまう。だが、刻むと涙が出てくる。皮はむかれて初めて、真実を語るのだ。私の子供時代が終わりを迎える前後に起きたことは、こちらに事実をつきつけようとしているうちに予想外にまずいことになったために、あるときはこう、またあるときはこうと、違ったふうに語らせているうちに、いつの間にか法螺話になってしまう。」
(まさにその法螺話が「ブリキの太鼓」なのでしょう)

 優れた作家とは、もしかする二つのタイプからなるのかもしれません。一つは、誰にも真似することのできない魅力的なキャラクターや世界を想像力によって生み出すことのできる天才型の作家。
 そしてもう一つは、自らの頭の中、記憶の中にすでに存在している中から、新鮮でリアリティーのある特殊な存在をすくい上げることができる体験型の作家です。
 たぶん多くの作家は後者なのだと思うのですが、グラスはそうした記憶を独自のやり方で組み合わせることによって、まったく新しい魅力的なキャラクターや物語を作り上げることに成功した数少ない作家といえるのでしょう。

「あれからずっと、頁から頁へと進みながら、本と本との間で生きてきた。私の心の中には今もたくさんの登場人物が息づいている。だが、それについて話そうにも、今はもう玉ねぎはないし、話す気にもなれない。」
(「玉ねぎの皮をむきながら」を書くことにはそれだけ、気合を必要としたのでしょう。21世紀に入ってもなお、彼はまだまだ作家として活躍を続けています)


「玉ねぎの皮をむきながら Beim Hauten der Zwiebel」 2006年
(著)ギュンター・グラス Gunter Grass
(訳)依田隆児

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