- ホランド・ドジャー・ホランド H-D-H -

<モータウンのスターたちの影で>
 モータウン・サウンドが栄光に輝いていた1960年代、その主役は数多くの人気アーティストたちとカリスマ的な社長ベリー・ゴーディーでした。しかし、その栄光の影には優れた裏方達の活躍がありました。その中でも最も重要な存在をあげるとすると、文句なしにモータウン最高の作曲家チーム、H-D-Hと言うことになるでしょう。

<H-D-Hの実績>
 モータウンが1965年から1970年にかけて、全米ポップチャートのベスト10に送り込んだヒット曲は、全部で79曲。そのうちの28曲は、H-D-Hもしくはそのうちの誰かによる曲です。さらに、その中でも全米ナンバー・ワンに輝いた21曲のうちなんと12曲は、H-D-Hの作品なのです。(フォートップス、シュープリームス、マーサ&ザ・ヴァンデラスのヒット曲のほとんどはH-D-Hの作品)
 モータウンのことを、モータータウン、デトロイトの自動車工場に例えて「ヒット曲製造工場」と呼んだのも当然のことですが、H-D-Hこそ、その「ヒット曲製造工場」が世界に誇る新製品企画チームだったのです。

<H-D-Hとは?>
 H-D-Hとは、ホランド・ドジャー・ホランドの略で、エディー・ホランドブライアン・ホランドのホランド兄弟とラモン・ドジャーという3人のメンバーからなる作曲家チームです。その中で、エディー・ホランドは作詞、ブライアン・ホランドは作曲を主に担当し、ラモン・ドジャーがその両方に加わる形で曲を完成させていました。この3人がチームとして活動を開始したのは、1962年頃のことですが、まさにその頃からデトロイトの小さなレーベルに過ぎなかったモータウンが、奇跡ともいえる大躍進を始めたのでした。

<H-D-Hのヒット曲製造法>
 3人は、それぞれ一度はアーテイストの道を目指し、ヴォーカリストとして活動していました。(後にモータウンから独立して、新レーベルを始めた時、再びシングルを吹き込んでいます)しかし、彼らは音楽学校を出たわけではなく、専門的な音楽的知識が豊富だったわけではありません。彼らが得意だったのは、若者の心をつかむちょっとしたフレーズや踊りたくさせるような洒落たリズムを見つけだすことと、それを元に数々のパターンの曲を生み出すコツを心得ていたことでした。彼らはちょっとしたフレーズやリズムのアイデアを持ち込むと、モータウンが誇る最高級のミュージシャンたち(その中心が「ファンク・ブラザース」と呼ばれたモータウンのハウス・バンドです!実は、彼らこそモータウンのヒットを支えた屋台骨だったと言われています)に、それをいろいろなパターンで演奏させ、そこから曲を完成させるという方法をとっていました。

<もうひとつの裏方「ファンク・ブラザース」の存在><追記>2005年10月1日
 ジャズが大好きなピアニストのアール・ヴァン・ダイク、数々の斬新なリズムを生みだしたベーシストのジェームス・ジェマーソン、そして、モータウン・サウンド独特の軽快なリズムを生みだしたドラマーのベニー・ベンジャミン、「マイ・ガール」のあの有名なリフを生み出したロバート・ホワイトらを中心とするファンク・ブラザースと呼ばれたメンバーが、H-D-Hの持ち込んだ曲のアイデアを具体化し、味付けをすることで、1日に3曲というハイ・ペースで次々にヒット曲が完成させられていったのです。彼ら、ファンク・ブラザースは、ヒット曲製造工場の生産ラインにおいて、最も熟練した作業員であり、彼らの優れた手作業抜きに、あれだけの数のヒット曲は生みだし得なかったのです。そのため彼らは、モータウンの海外ツアーなどにも、ほとんど同行することがなく、常にスタジオで録音のために待機させられていたと言います。しかし、そうして工場の歯車のように働き続けた彼らに対する報酬は、ほんのわずかの時給だけだったと言うのですから、実にかわいそうな話しです。おまけに、モータウンがロスに移動することで彼らはその活動の場すらも奪われてしまったのです。なんという悲劇。(このファンク・ブラザースについては、ドキュメンタリー映画の傑作「永遠のモータウン」を是非是非ご覧下さい!)

<H-D-Hの独立>
 モータウン最大の貢献者でありながら、カリスマ的指導者ベリー・ゴーディーによるワンマン体制のもと、H-D-Hに与えられた報酬は、その活躍に見合ったものではありませんでした。そのため、1968年に彼ら3人は、モータウンからの10万ドルのボーナスを蹴って独立し、自らの主催するレーベルを設立します。そのレーベルが、インヴィクタスホットワックスという二つのレーベルで、実績のある彼らの作品は、キャピトル、ブッダから、さっそく発売されることになりました。

<落日のモータウン、LAへ>
 彼らが新たなレーベルを立ち上げたちょうど同じ年、モータウンは衝撃的な発表を行ないます。それは、モータウンの本社を、デトロイトからロスアンゼルスへ移転させるというものでした。H-D-Hという柱を失ったモータウンは、自らのルーツでもありアイデンティティーでもあった地域のブラック・コミュニティーとも決別し、まったく新しいチャレンジを始めようとしていたのです。しかし、残念ながらそのチャレンジは成功しませんでした。今にして思えば、モータウンは、自らその死期を早めたと言えるでしょう。

<H-D-H最後の黄金時代>
 こうして、H-D-Hの新レーベルは、フィラデルフィアのフィーリー・サウンドとともにモータウンの後を継ぎ、ノーザン・ソウルの時代を背負って行くことになりました。しかし、その活躍はソウルの時代にとどめをさすことになるあのディスコ・ブームが始まるまでの、ほんの数年間のことにすぎませんでした。残念ながら、そのわずかの期間に彼らが生み出すことができたアルバムは、ごくわずかに過ぎなかったのです。

<正統な評価を受けられなかったアーティストたち>
 インヴィクタスとホットワックスが生みだした素晴らしいアーティストたちは、時代の流れの変化のおかげで、正統な評価を得ることができませんでしたが、その質の高さは、モータウンの黄金時代に負けないほどのものでした。
 チェアメン・オブ・ザ・ボードは、ジェネラル・ノーマン・ジョンソンダニー・ウッズなど、実力派のヴォーカリストをそろえた本格派のヴォーカル・グループでした。
 ハニー・コーンは、3人組みのガール・グループで、マーサ&ザ・ヴァンデラス的な存在。
 グラス・ハウスは、タイ・ハンターをリーダーとするフィーリー・タイプのソウル・グループ
 それにワンハンドレッド・プルーフエイス・デイという素晴らしいグループに、最高級のアルバムを残した謎のヴォーカル・グループ、バリノ・ブラザースの存在も忘れられません。彼らのアルバムは、一時期ほとんど入手不可能になっていましたが、CD化によって、今は入手可能になっているはずです。是非聞いてみてください。文句なしに、絶品です!

<締めのお言葉>
「美や端正さは、物にはなく、芸術と構想にある。身体それ自体にはなく、形態や形態を作り出す力にあるのだ」 シャフツベリー伯爵

<参考資料>
「モータウン・ミュージック」ネルソン・ジョージ著(早川書房)
「R&B、ソウルの世界」鈴木啓志著(ミュージック・マガジン社)

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