- 浜口庫之助 Kuranosuke Hamaguchi -
<昭和を代表する産曲家>
昭和を代表する作詞・作曲家、浜口庫之助は、「歌は赤ちゃん」と言い、自分のことを「産曲家」と呼んでいました。彼にとって、詞は父親で曲は母親でした。さらに彼は詞を左手、曲を右手にたとえて、両手を合わせた時に「パン!」という音が出る瞬間こそが音楽であるという自論を持っていました。左手と右手が上手く空気を捕まえてバランスよくぶつかった時、最も良い音が生まれるように、良い音楽もまた詞と曲が上手く融合する必要があると考えていたようです。
彼の考え方によると、詞と曲を同じ人間が作ることは、より良いバランスを生み出す最良の方法と考えるのは当然だったかもしれません。シンガーソングライターという存在がまだなかった時代、彼はそこに限りなく近い存在だったといえそうです。
ただし、彼は初めから「産曲家」として成功したわけではありません。そうなるまでには、もうひとつ別の音楽人生があり、成功までに長い苦闘の歴史があったのです。
<バンドリーダーとして>
彼は戦後、ラテン音楽を演奏するバンドを作り、バンドリーダー兼歌手として活躍していました。(浜口庫之助とアフロ・クバーノ)当時は、米軍兵士相手のクラブが繁盛していて、いくらでも仕事があったせいで彼はかなりの収入を得ていました。そのうえ、彼はバンドと共に1953年から1955年まで3年連続で紅白歌合戦に出場しているのです。ところが、1957年彼のバンドにアメリカ巡業の声がかかります。当時はまだ海外旅行など一般人には不可能な時代で、アメリカでの公演など夢のまた夢でした。だからこそ、アメリカでの公演を実現しておけば、たとえそれが失敗に終わったとしても、帰国後のバンドの評価が上がることは間違いないはずでした。俳優も歌手も洋行帰りというだけで、大スターとして扱われる時代でした。
ところが、彼はジャズやラテン音楽の本場で、そのモノマネ音楽ともいえる自分たちの演奏を披露することなど恥ずかしくてできるはずがないと考えます。そして、アメリカ行きを断っただけでなく、バンドも解散してしまいました。モノマネばかりの音楽に彼はすでに嫌気がさしていたのでしょう。
それ以前から、彼はアメリカのマネではないオリジナルの日本のポップスを作りたいと考えるようになっていたようです。こうして彼は作詞と作曲の勉強をしながら、歌謡界でライターとして活動する決意を固めたのです。
<作詞家・作曲家として>
彼は自分が作った曲を持って、レコード会社を回り、音楽関係者への売り込みを始めました。しかし、彼の曲はなかなか認めてもらえず、厳しい生活が続くことになります。収入がない日々が続き、それまで稼いできた財産や外車を売り払いながら、ついに2年が過ぎようとしていました。そのうえ、その間に妻とは離婚し、その妻が亡くなるという悲劇にも見舞われていました。まさに彼の人生はどん底にありました。
やっと目が出たのは1959年のこと。スリー・キャツの「黄色いサクランボ」がその最初のヒット曲でした。(この曲の作曲は、彼ではなく星野哲郎でした)
「黄色いサクランボ」
若い娘が お色気ありそで なさそで ありそで
ほらほら黄色いサクランボ
つまんでごらんよ ワン しゃぶってごらんよ ツー
甘くてしぶいよ スリー ワン・ツー・スリー ウーン
黄色いサクランボ
彼の曲の魅力は、歌詞と楽曲の見事な連動性にあるともいえます。そのために彼が生み出したヒット曲はどれも、大衆に長く口ずさまれる愛唱歌となったのでしょう。ついつい歌ってしまう曲、一度歌うと癖になるメロディーには、麻薬のような魅力がありました。
守屋浩の「僕は泣いちっち」(1959年)は、「泣いちっち」という言葉を生み出すことで成功した曲。一歩間違えるとストーカーみたいに情けないキャラクターは斬新でした。
「僕は泣いちっち」
僕の恋人 東京へ 行っちっち
僕の気持ちを知りながら なんでなんでなんで
どうして どうして どうして 東京がそんなにいいんだろう
僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
淋しい夜はいやだよ 僕も行こう あの娘のい住んでる東京へ
ほかにも田代美代子&マヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」(1965年)もタイトルのゴロの良さだけでもヒットは決まりでした。しかし、この曲の誕生には、それが生まれるべき理由がありました。妻を亡くした後、彼は「黄色いサクランボ」からやっと食べて行けるようになり、そんな中再び恋をしていたのです。ちょうどこの年に彼の元に弟子入りしてきた、後に大スターとなる歌手、渚ゆう子に彼は一目ぼれ、その恋しい思いを素直に鼻歌のように歌にしたからこそ、こうした素直な歌が生まれたのでしょう。心の思いを自然に歌にするのは、後の大ヒット曲「バラが咲いた」にも共通するものがあります。これこそが浜口庫之助らしさなのでしょう。ちなみに、彼は渚ゆう子と結ばれることなく終わりますが、1973年渚まゆみという27歳も年下の女優と結婚しています。
「愛して愛して愛しちゃったのよ」
愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ あなただけを死ぬほどに
愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ ねてもさめても
ただあなただけ
生きているのが つらくなるよな長い夜
こんな気持ちは 誰もわかっちゃくれない
坂本九の「涙くんさよなら」(1965年)、マイク真木の「バラが咲いた」(1966年)もまたタイトルがそのままサビともいえる素晴らしい曲名だったといえます。さらにいうと西郷輝彦の「星のフラメンコ」(1966年)は、右手と左手を合わせた「パン!」という音がフラメンコになってしまったヒット曲でした。
「星のフラメンコ」
好きなんだけど 離れてるのさ 遠くで星を見るように
好きなんだけど だまってるのさ 大事な宝
かくすように 君は僕の心の星 君は僕の宝
こわしたくない なくしたくない
だから好きなんだけど 離れてるのさ 好きなんだけど
だまってるのさ
<芸術家として>
彼は1990年に文化庁から勲四等叙勲の打診を受けた際、「芸術家は肩書きをもったときに死ぬ」と言って断ったといいいます。職業音楽家ではあっても芸術家であることにこだわった彼は、曲は自然に生まれて来るものであって、何かを狙って書くものではないという信念を持っていました。
例えば、彼は生み出した大ヒット曲「バラが咲いた」(マイク真木)の誕生秘話はこうです。
ある朝、彼は気分よく目が覚めて庭に出ました。すると緑の庭の中に赤いバラが一輪咲いていることに気が付きました。
「バラが咲いたなあ」
そう言いながら、ふとメロディーが浮かんできて、あわててギターを取って曲を書き始めたのでした。まさか、その曲がオリジナル・フォーク・ソング初の大ヒットになるとは思ってもいなかったでしょう。この曲のヒット以降、それまでの歌謡曲の多くがそうだったように暗く悲しい人生を嘆き、むくわれない恋を切なく歌うというスタイルから、人生を喜びとしてとらえる方向へと変わるきっかけになったのかもしれません。時代は、それまでの戦後復興から東京オリンピック(1964年)以降、高度経済成長期に突入し、人々は花が咲く風景を楽しむ余裕が生まれつつあったのでしょう。
浜口庫之助は、そうした時代の空気の中をごく自然に生きていたからこそ、ごく自然に生まれたのかもしれません。
「バラが咲いた」
バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた
たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで
淋しかった僕の庭ぎあ 明るくなった
バラよ バラよ 小さなバラが いつまでも咲いてておくれ
まるで童謡のようにシンプルな歌詞。これは書こうと思って書けるものではないかもしれません。そして、歌詞がシンプルだからこそ、この曲は人生にまで結びつく奥の深い曲になりえたのかもしれません。
彼の最後の大ヒットは1987年島倉千代子の復活作「人生いろいろ」でした。(作詞は中山大三郎)その後、彼は前述のように勲章を辞退した後、1990年12月2日喉頭がんによりこの世を去りました。