- はっぴいえんど Happyend -

「僕たちにとっての伝統の問題」松本隆<追記2014年3月>
ニューミュージック・マガジン(1971年12月号)より
・・・ぼくらの日常は、この「西洋まがい」と「日本もどき」の谷間の中にうもれている。そして、夢に描いていた「西洋」を見失い、ふりかえってみると、「日本」さえ、喪失してしまっているぼくらは、まるで袋小路の中に迷い込んでしまった盲人のように不安なのだ。・・・
 残された手段は、ぼくらの日本を探し出すことだ。ぼくは「はっぴいえんど」に、それを賭けた新しい日本的なものを探すために(もう日本語でロックをやることについては何も言わない。そんなことはイロハの問題である。話してもわからない頭の悪い奴には唾をひっかけてやるだけだ)。
 日本のロックに、埃のかぶったカビ臭い伝統なんか最初からない。要は自分が、これからやることが新しい伝統になるのだ。
・・・
 日本のロックがはっぴいえんどで本当にハッピーエンドにならないようにするのは、ぼくたちの仕事ではない。ぼくは啓蒙しようなんぞ、考えたこともないから、別にここで終わったって痛くもかゆくもないのだ。最初だ言ったように、乏しい状況の中でアンノンとしていてはいけない。共鳴しているだけじゃだめだ。問題は、演奏(やる)のは君だということ、聴くのは君だということ(三田祭のコンサートで、はっぴいえんどに石を投げつけた諸君よ、ぼくらの「風街ろまん」をそれで打ち負かせたつもりなら、とんだ思いあがりだぜ)。
 風は歴史を越えて吹いてくる。そしてその限りに風は伝統だとも言える。だとしたら、風街ろまんから新しい日本的なものを聞きとるのはそんなに難しいことではない。それは、はっぴいえんどが、精製した風を、君が自分の顔に受け止める時だ。


<語っても、語り尽くせない存在>
 はっぴいえんど、彼らが日本のロック、そしてJ−ポップ全般に与えてきた影響の大きさは、解散後の個々の活動まで含めると、他のミュージシャンたちの追随を許さないほどのものです。はっぴいえんどほど、糾弾され、議論され、研究され、模倣され、再評価され、カバーされてきたアーティストは他にないでしょう。
 「ロック世代のポピュラー音楽史」と銘打っておいて、はっぴいえんどがないとは何事か!と思われていた方も多いと思います。なかなか登場させられず、長らくお待たせいたしました。実は、僕にとってはっぴいえんどはリアル・タイム・アーティストではなく、けっこう後になってから聞いた存在だったため、なかなか気持ちが高まらなかったものですから・・・。そのうえ、これだけの存在となれば、軽々しく扱えないし・・・。
 しかし、ここ数年で我が家でのはっぴいえんど人気は急上昇。「風をあつめて」は、我が家のドライブにおける超定番合唱ソングになっています。(僕と長男二人で歌ってます)
「はっぴいえんど大好き!」そう言える今ならオーケーかな、そう思い準備を始めました。

<短命のバンド>
 実のところ、はっぴいえんどのバンド活動期間は、1970年にデビュー・アルバム「はっぴいえんど」を発表してから、その解散までわずか3年にすぎません。1973年発表の3作目「Happy End」は、解散後にこのアルバムの録音のためだけに再結成して作られた作品です。しかし、このわずか3年の間に、彼らは日本のロックの歴史を大きく変える仕事を成し遂げました。そして、その影響は3年どころか30年に渡ってJ−ポップの歴史に影響を与え続けることになったのです。

<はっぴいえんど結成時の目標>
 はっぴいえんどは、アメリカのロック・バンド、バッファロー・スプリングフィールドを目標として結成された、ある意味確信犯的なコピー・バンドでした。しかし、活動開始当初から、彼らは日本における主流派だった英語を用いたロックではなく、日本語の歌詞による、より日本的なロックの道を選んでいました。
 誰よりも当時のアメリカン・ロックに詳しかった彼らは、自分たちにも日本人としてのオリジナルなロックを作ることができると確信していたのです。このことは今考えると、ごく当たり前のことかもしれませんが、当時は「ロックに日本語が乗るわけがない!」そう、まじめに思われていたのです。その証拠に、これと同じようなことが、その20年後にも再び起きています。「ラップに日本語の歌詞が乗るわけがない!」そう思われていたのは、ついこの間のことなのです。

<バッファロー・スプリングフィールド>
 さて、バッファロー・スプリングフィールドといえば、後にクロスビー・スティルス&ナッシュを結成するスティーブン・スティルスと今やアメリカン・ロックを代表するソロ・アーティスト、ニール・ヤング、そして70年代に活躍した人気カントリー・ロック・バンド、POCOの中心メンバー、リッチー・フューレイが中心になって、1966年に結成されました。(ジム・メッシーナも後半所属しています)
 活動期間は2年に満たないわずかなものですが、アルバムを3枚発表。幻のスーパー・グループとして、解散後再評価されました。同時期のバーズがそうだったように、彼らもまたロックの進化史におけるミッシング・リンク(失われた輪)的な存在だったと言えるでしょう。しかし、それはロックの歴史が築かれた後に明らかになったことで、同時代に彼らの存在をそこまで評価できる人は、ほとんどいませんでした。まして、外資の巨大レコード店どころか輸入盤を扱うレコード店すら珍しかった1960年代の日本にそこまで聞き分けられる人物がいたということは驚きです。

<はっぴいえんど結成>
 そんな優れた耳の持ち主だった細野晴臣(Bass)と松本隆(Dr)の二人は、1968年、これまた伝説のロック・バンド、エイプリル・フールの一員として活躍していました。このバンドは、すでにオリジナル曲を中心とする日本語のロックを追求し始めていましたが、バッファロー・スプリングフィールドという新たな目標を見つけた二人は、新しいバンドを結成するべくメンバーを探し始めます。するとそこに、同じくバッファローに憧れているというミュージシャン、大滝詠一(Gui)が現れ、1969年3人はヴァレンタイン・ブルーというバンドを結成します。
 さらにそこに細野晴臣とは以前からセッションでの仲間だったギタリストの鈴木茂が参加。こうして、はっぴいえんどのメンバーがそろいました。

<URCとの出会いとレコーディング>
 結成当初、バッファロー以上に無名だったはずのはっぴえんどですが、すぐにレコーディングの話しがもちあがります。それは当時急激に盛り上がりをみせつつあったアングラ・フォークの発信源であり元祖インディー・レーベルでもあるURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)からの誘いでした。
 URCは当時、遠藤賢司、岡林信康、ジャックス早川義夫、高田渡、北山修、シューベルツ、六文銭などが所属しており、絶頂期をむかえていたフォーク・ブームの台風の目となっていました。しかし、将来ロックの時代が来ることを予測していたURC(当時の担当は今や音楽評論家の大御所の一人になった小倉エージさんでした)は、元エイプリル・フールの細野晴臣が結成したはっぴいえんどに大きな期待をよせ、まだ作品を聞いていないにも関わらず契約が交わされました。
 バッファローだけでなく、ザ・バンド、モビー・グレープ、グレイトフル・デッドボブ・ディランザ・バーズラヴィン・スプーンフル、C・S・ナッシュ&ヤング、、それにザ・ビートルズなどを意識した彼らのデビュー・アルバムは、1970年3月に録音が始まりました。
 しかし、そう簡単に新しいスタイルが作り上げられるわけはなく、最初のレコーディング・セッションは完全な失敗に終わり、再度仕切直しの録音が行われました。こうして、当初の予定より遅れて、8月にデビュー・アルバム「はっぴいえんど」は発売されました。

<ロックかフォークか、英語か日本語か>
 当時日本のロック・バンドが、ブルース・ロックもしくはハード・ロックを演奏し、アメリカよりはイギリス指向だったこと、フラワー・トラヴェリン・バンドに代表されるように英語で歌い欧米で活躍することを目指していたバンドが大勢を締めるなか、彼らの存在は異色であるだけでなく、政治的に右よりであり、軟弱であるとさえ言われました。(反米一色の時代だったのに不思議な話ですが・・・)日本語でロックを歌うことは、技術的にナンセンスであると言われるだけでなく、精神的にも保守的な体制派であると考えられる傾向があったのです。
 1970年に日米安保条約が自動延長され、なし崩し的に安保問題に終わりの時がやって来たとはいえ、政治的主張を含まない日常のささいな出来事を歌うことは演歌よりも保守的な反革命的行為であると見なされていたのです。(この時代は、本当に革命が起きると考えている人が多かったのです)

<バック・バンドとしてのはっぴいえんど>
 彼らのデビュー・アルバムの発売が遅れたため、その後に発売されるはずだった彼らがバックを務めた別のミュージシャンのアルバムが先に発売されることになりました。それは、フォークの神様と呼ばれた岡林信康の代表作のひとつ「見るまえに跳べ」でした。このアルバムは、ボブ・ディランのロックへの転向に影響を受けた岡林による初のロック・アルバムと呼べるもので、はっぴいえんどはまるでザ・バンドのような役割を果たしています。まだデビュー・アルバムを発表していなかった彼らは、このことでその謎めいた存在感が増し、なおさらデビュー前のザ・バンドを思わせることになりました。
 アングラ・フォークの中心地、URCに所属していたことで、彼らは数多くのフォーク・シンガーのバックを務めました。岡林以外にも、高田渡、友部正人、加川良、遠藤賢司などのバックを担当しています。そして、1970年代に入り、フォークからシンガー・ソングライターの時代へと変化する中、セッション・ミュージシャンとしての彼らは、しだいにジェームス・テイラーにとってのセクションのような存在へと変わってゆきます。そして、その延長線上にあるのが、次なる時代「ニューミュージック」をリードすることになる荒井由美のバック・バンド、キャラメル・ママだったわけです。(キャラメル・ママには細野と鈴木が在籍していました)

<中津川フォーク・ジャンボリーにて>(追記2011年12月)
 1971年9月中津川で開催された日本初の野外ライブ・フェスティバルに彼らは出演しています。このイベントは、1969年に開催された伝説のロック・フェスティバル「ウッドストック」を目指して開催されました。しかし、日本版では、政治的な主張がアーティストや観客の間で飛び交い大混乱となりました。そんなコンサートの様子を雑誌記者とさいて取材していた評論家の川本三郎は、彼の著書「マイ・バック・ページ」の中でこう書いています。

「夜の十時ごろだったろうか、会場は混乱の極に達し、ついに主催者は音楽集会の中止宣言をした。それでまた混乱が拡大した。・・・
 こんな状態が夜中まで続いた。しかし午前三時ごろになるとさすがにみんな疲れてきて混乱はぽつんぽつんと自然におさまり始めた。みんなマットや寝袋で眠り始めた。私もそろそろ山の下の宿に帰ろうとした。その時、サブステージで突然演奏を始めるグループがいた。もはや混乱も怒号もなかった。大多数の観客は眠りこけていた。わずかにまだ元気のある若者たちがそのステージの下に集まり始めていた。小数のいわば選ばれた者たちに向かってそのグループはエキサイティングに、しかし、同時に冷静に演奏を続けた。凄いグループだなと感激して私は彼らのステージを見続けた、それははっぴいえんどだった。」

川本三郎「マイ・バック・ページ」より

<傑作の誕生、解散へ>(2012年11月追記)
 彼らは世間での評判や売れ具合などには関係なく、より自分たちのスタイルを深めた作品「風街ろまん」(1971年)を発表します。マンガ雑誌「ガロ」からの影響を受けた言われる日本的で叙情的な松本の歌詞は、いよいよ映像的幻想的になり、多くの人の心に秘められた懐かしい街の姿を見事に描き出してみせました。(小津安二郎監督が描いていた古き良き東京の街をイメージさせます)
 音楽的にも、より深いカラーを出すために一曲一曲をそれぞれの作者自身がプロデュースし、いよいよクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのようなソロ・プロジェクトの集合体的要素を強めてゆきました。しかし、だからこそバンドの解散はごく自然な流れだったのかもしれません。
 1972年に4人はロスに結集し、ラスト・アルバム「Happy End」を制作します。しかし、この時すでに4人は別々に活動を開始していました。
 ラスト・アルバムには、なんとリトルフィートのメンバーとヴァン・ダイク・パークスが参加しています。それまでのご褒美もかねてLAでの録音を行った彼らは、同じスタジオで偶然録音を行っていた彼らに現金で支払うので、組合を通さずに録音に参加してほしいと依頼。彼らも音楽好きだけに、快くそれに応じ本気で録音に協力してくれたのでした。もともと彼らはスタジオの予約だけで、彼らの参加は予定にまったくなかったのだそうです。
(このあたりの詳細については、松永良平の「20世紀グレーテスト・ヒッツ 音楽をめぐる記憶から」の中の山本隆司氏へのインタビュー記事をご覧ください!このツアーをコーディネイトした山本さんの裏話が載っています)

<その後の4人>
 細野晴臣は、鈴木茂とともにキャラメル・ママを結成。ニュー・ミュージック草創期のバックを務めた後、ソロ活動に移行します。「Hosono House」(1973年)「Tropical Dandy」(1975年)「奉安洋行」(1976年)「はらいそ」(1978年)などのアルバムの発表後、坂本龍一、高橋ユキヒロとともにYMOを結成、世界にテクノポップ・ブームを巻き起こすことになります。
 松本隆は、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」の作詞を担当して以降、はっぴいえんど時代以上にロック界から「裏切り者」扱いされますが、歌謡曲とロックがしだいに接近してゆく中、彼はシンガー・ソングライター系ロック・ミュージシャンの歌謡界での活躍において重要な役割を果たします。(原田真二、桑名正博、太田裕美など)その後は、ご存じのとうり、松田聖子、近藤真彦、小泉今日子に詞を提供。寺尾聡の「ルビーの指輪」、森進一の「冬のリヴィエラ」、大滝詠一の「ロング・バケーション」、YMOの「君に胸キュン」などを作詞し、文句なしにJ−ポップス界を代表する作詞家の仲間入りを果たします。(それだけではなく、「微熱少年」などを発表し作家としても活躍しています)
 鈴木茂は、1975年に「Happy End」の延長線上にあるとも言えるLA録音のアルバム「Band Wagon」を発表し、一気にその存在感をロック界に知らしめました。(今聴いてもすごくいいアルバムです!)しかし、その後はソロ・ミュージシャンからギタリスト、アレンジャーとしての活躍へと方向を変えて活躍を続けています。(原田真二、石野真子、桑名正博、中島みゆき、五十嵐浩晃、堀ちえみ、Winkと幅広く関わっています)

<未だに新鮮に聴けるその音>
 はっぴいえんどが解散して、すでに30年以上がたちました。しかし、世紀末には再び彼らの再評価熱が高まり、若手ミュージシャンたちが、彼らのカバーにチャレンジしたり、トリビュート・ライブが行われたりと、その物語に終わりはまだまだなさそうです。
 しかし、何より凄いのは、彼らのオリジナル・アルバムがリミックスなどという余計なお化粧をしなくとも、未だ十分新鮮に聴けるということです。それは、彼らの音楽の魅力が歌詞や曲の良さだけではなく音楽全体が発する総合的な魅力から成り立っていることの証なのかもしれません。
 鈴木茂のギターは格好いいし、松本隆のドラムはまるで歌っているように聞こえます。それと大滝、細野の味わい深い歌声。リズムだけでなく、歌詞だけでなく、アンサンブルだけでもない、かつてビートルズが築き上げたロックの一つの完成型。その域に到達したのが、彼らだったのかもしれません。彼らは日本のロック界において、かつて自分たちが目指していたバッファローを越える存在になったと言えそうです。

<締めのお言葉>
「バッファローのようなことをやろうというのは、音楽の構造でもない、演奏技術でもないもっと違った何か、第3の謎がね、そこに隠されているんですよ」
細野晴臣「定本 はっぴいえんど」より
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