20世紀最後の銀幕の処女

- 原節子 Setsuko Hara -

<伝説の女優>
 日本映画における「伝説の女優」といえば・・最近なら吉永小百合か宮沢りえ。過去に戻るなら、田中絹代、乙羽信子、杉村春子、淡島千景・・・そんな中でも、やっぱり原節子は別格だと思います。もちろん、僕は小津、黒澤作品を後追いで見てからのファンなのですが、それでも彼女のスクリーンにおける圧倒的な存在感には驚かされました。「カリスマ女優」、「伝説の女優」という称号は、原節子とグレタ・ガルボ、それにグレース・ケリーのためにあるのだと思います。三人に共通するのは、カリスマ的な美しさと絶頂期での引退。特に、原節子の場合は、未だに引退理由がわからず、そのことが彼女の存在をより伝説的なものにしています。そのうえ、彼女は引退から50年という長きに渡り、マスコミの前に姿を見せないことでさらに謎を深めました。
 それにしても、なぜ彼女はある日突然引退してしまったのでしょうか?
 彼女の生い立ちを追ってみると、その理由と思われる事実がいくつもあることに気づかされます。そして、彼女の活躍は日本映画の黄金時代とも重なっていることに気づかされます。そのうえ、原節子伝説は未だに終わっていません。2014年時点で彼女はまだご存命のはずだからです。

<家族のために女優に>
 1920年(大正9年)6月17日、原節子は本名を会田昌江といい会田藤之助、ナミの2男5女の末っ子として生まれました。実家は、横浜で生糸の輸出を営む裕福な問屋で、彼女の兄姉たちはみな名門学校を出ています。彼女もまた典型的な浜のお嬢様として育てられましたが、そんな生活がある日、大きく変わり始めます。
 1923年、関東大震災で母親が頭から油をかぶり、それをきっかけに精神を病んでしまいます。地震により商売が傾いたところに、1930年の世界恐慌により生糸の価格が急落。会田家の商売は立ち行かなくなってしまいました。
 横浜高女に通っていた彼女は学校を中退しただけでなく、家族を支えるために働くことになります。それが女優という仕事でした。そのきっかけとなったのは、彼女の姉、光代の夫である熊谷久虎の存在でした。日活で映画監督として働いていたその義兄が、美人で頭が良かった彼女を推薦してくれたことで彼女は日活に女優として入社することになりました。新人でありながら、彼女にすぐに役がついたのは、義兄だけでなく姉も元女優で、実の兄、吉男もまたカメラマンとして働く映画ファミリーだったおかげかもしれません。とはいえ、彼女はまだ14歳でした。本当は教師になりたかったのですが、そうした周りからの影響により、嫌々ながら彼女は女優の道を選ぶことになったのです。
 1935年、彼女は東京に出て熊谷夫妻とともに暮らしながら女優として働き始め、すぐに「ためらう勿れ若人よ」でデビューを果たします。そして、この映画の役名から、「原節子」という芸名を用いることになります。もちろん成りたくなくてなった職業でも、それが天職になるという場合もあるでしょう。しかし、彼女の場合、どうやらそうではなかったようです。

<アイドル女優へのバッシングとコンプレックス>
 1936年、彼女はその堀の深い顔立ちからすぐに撮影所でも話題の存在となり、「人情紙風船」の監督、山中貞雄はさっそく彼女を指名。彼の代表作のひとつ「河内山宗俊」のヒロインに抜擢しています。さらに撮影中に偶然撮影所を訪れたドイツの映画監督アーノルド・ファンクもまた彼女を気に入り、彼が監督することになっていた日独合作映画「新しき土」のヒロイン役に指名。1937年映画の公開に合わせて、彼女は当時としては画期的なキャンペーン・ツアーのため、義兄の熊谷と製作・配給に関わった川喜多長政、かしこ夫妻とともに世界を一周しています。このツアーの出発を前に、東京駅には彼女を見送ろうと大群衆が集まり、大混乱になったといわれます。デビューして2年ですでに彼女は映画界を代表するアイドルの仲間入りをすることになりました。
 世界一周から帰国した彼女は、義兄からの勧めもあり日活から東宝に移籍します。それにより、彼女の出演料は大幅にアップしました。しかし、まだ数本しか映画に出演していなかったにも関わらず、話題の女優となったことで彼女は逆に業界からのバッシングの標的となります。こうして、彼女は「演技力のない大根女優」と呼ばれることになり、その評価が彼女を生涯苦しめることになります。

「彼女の女存感は、昔からの日本的な、線が細い感じの女のエロスとは違う。天平時代とかはまろやかな女体だったけど、あれとも違う。ほんとに骨太で、あの骨太はソフィア・ローレンに匹敵する。むしろ勝ってるよ。・・・でか目、でか鼻、でか口・・・体つきがどっしりしてて、流されていく感じじゃない。・・・」
荒木経惟

 彼女の現役時代の写真を見ると、少女時代の方が美人だった気がします。(大人になるほど、顔のつくりが極端になっていった気がします)数少ない水着の写真を見ると、プロポーション的には胸は小さく「ボン・キュ・ボン」とは言い難いスタイルでした。それが彼女が肌の露出を嫌がった最大の理由だったのかもしれません。実は、彼女はそんな自らの見た目にもかなりのコンプレックスを持っていたようです。美しすぎるがゆえのバッシングに苦しんでいたにも関わらず、本人は逆に自分の顔やスタイルにコンプレックスもっていたようです。それだけに彼女は自分の容姿の衰えにも神経質になったのかもしれません。

「猛獣が自らの死を悟って身を隠すように彼女もすーっといなくなっていった。しわくちゃな原節子を誰も見たくないし、本人も悟っていて静かに身を引いたのだと思う。・・・」
新藤兼人

<義兄による精神的呪縛>
 彼女を映画界に導いた義兄の熊谷久虎は、その後、夫でもないにも関わらず彼女と生涯を共にすることになります。彼女に対する影響力は異常とも思えるほどで、二人の間には男女の関係があったのではないかとも疑われるほどでした。
 そのうえ、映画監督としての熊谷はそれほど高い評価を受けてはいません。映画監督としてよりも、彼の存在を有名にしたのは、「スメル会」という名前の右翼的な勉強会の中心人物としての活躍でした。特に太平洋戦争末期には、敗戦が近づく中、彼は九州に天皇を招いて戦争を続け、九州に新政府を設立しようとする活動に深く関わっていたといいます。(ちなみに計画によるとその国のトップに予定されていたのは、あのロッキード事件の児玉誉士夫だったという話もあります)
 そんな熊谷の右翼的思想は原節子にも大きな影響を与えていたため、彼女は戦中も数多くの戦意高揚映画に積極的に出演しています。
 戦時下でもあり、彼女は映画会社の枠を超え、マキノ正博の「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)、今井正の「望楼の決死隊」(1943年)、成瀬巳喜男の「勝利の日まで」(1945)など、様々な監督の作品にも彼女は出演しています。
 こうして彼女は戦争中もアイドル女優として活躍を続けることになりましたが、そのことが後に彼女に重い荷物を背負わせることになります。敗戦後、彼女は日本軍に協力していたことを後悔し、そのことが彼女にとって負い目として残ることになるのです。
 映画を用いた戦争犯罪に関わったこともまた彼女にとって映画を嫌いにさせる原因となりました。彼女は、義兄からの影響によってそうした状況に追い込まれたんみも関わらず、その後も彼に依存し続けます。その理由ははっきりしませんが、彼への依存はこの後も生涯続くことになります。映画監督として成功したとは言い難い義兄は映画界を憎んでいたと考えられます。そんな彼の影響を彼女は受け続けていた可能性は高いでしょう。

<活躍と過労と悲劇>
 皮肉なことに終戦後、彼女は戦後民主主義を象徴するヒロインとしての役割を演じることで再び人気女優となります。黒澤明の「わが青春に悔いなし」(1946年)、吉村公三郎の「安城家の舞踏会」(1947年)は、その時期の代表作です。
 1946年、彼女は「東宝争議」の混乱の中、東宝を退社しフリーとなります。さらに熊谷がマネージメントを担当するようになり、それまでよりも幅広く仕事をこなせるようになり、より多くの監督たちのもとで働き始めます。いよいよ彼女は女優として充実した時期を迎えようとしていました。しかし、彼女にとって、映画はまだ必要に迫られた仕事であり続けます。
 彼女は戦争で兄たちを失っていて、そのために収入を失った親族20人を食べさせるため、嫌でも映画に出続け、働き続けなければならなかったのです。
 当時の彼女の仕事量の多さはその作品の数からも明らかです。1946年と1947年が4本づつで、1948年と1949年は5本づつ、1950年と1951年は4本づつに出演。毎年、彼女は3か月に一本の割合で映画に出演し続けていたことになります。この時期の代表作としては、・・・
「誘惑」(1948年)
(監)吉村公三郎(脚)新藤兼人
(出)原節子、佐分利信、杉村春子

「時の貞操」(前編)(後編)(1948年)
(監)吉村廉(原)小山いと子(脚)八木保太郎
(出)原節子、若原雅夫、伊沢一郎

「お嬢さんに乾杯」(1949年)
(監)木下恵介(脚)新藤兼人
(出)原節子、佐野周二、佐田啓二

 働きづめの生活の中、彼女は睡眠をとるため、アルコールに頼るようになりますが、過労のために慢性的な腸の疾患にも苦しむようになります。
 そのうえ、1953年、自らが出演する作品であり、義兄、熊谷のカムバック作品「白魚」の撮影中。兄であるカメラマンの吉男が列車に轢かれて死亡します。撮影中、目の前で起きた衝撃的な事件に彼女は責任を感じ、兄の命を奪った映画に嫌気がさしたともいわれます。
 1954年、撮影中に強い照明を浴び続けたことで、彼女は白内障にかかり、その治療のための手術を受けます。一応手術は成功したようですが、それでも彼女は片目がずっと不自由なままだったといわれていて、それもまた引退の原因になったといわれます。
 
<小津監督との出会い>
 過労の中、しかし彼女は女優としての黄金時代を迎えていました。そして、それは1950年代に訪れた日本映画自身の黄金時代とも重なっていたといえます。そのきっかけとなったのは、二本の映画でした。
「青い山脈」「続青い山脈」(1949年)
(監)(脚)今井正(原)石坂洋次郎(脚)井手俊郎(撮)中井朝一
(出)原節子、池部良、木暮実千代、龍崎一郎、杉葉子
 原作小説に続きこの映画、主題歌が大ヒットとなり、戦後日本を象徴する一大ブームを巻き起こした作品。田舎の女学校で働く英語教師(原節子)が新しい民主主義的な生き方を生徒や同僚たちの間に広げてゆく学園ドラマの先駆作。この作品により彼女は「戦後民主主義」を象徴する新時代のヒロインとなりました。
 しかし、戦意高揚映画のヒロインからの180度の転身には本人も違和感を感じていたはずです。

「晩春」(1949年)
(監)(脚)小津安二郎(原)広津和郎(脚)野田高梧(撮)厚田雄春
(出)笠智衆、原節子、杉村春子、宇佐美淳、三宅邦子
 東宝専属時代から小津安二郎は、原節子の美しさに憧れていて、フリーになったことでついに彼女を使うことができました。脚本の製作段階で、小津監督はすでに主人公には原節子を想定して書いていたといい、この出会いによって彼女は「伝説の女優」への第一歩を歩みだすことになります。この作品により、彼女は毎日映画コンクールで女優演技賞を受賞。小津監督も監督賞を受賞しています。
 後に「紀子3部作」の第一作と呼ばれることになるこの作品以降、次々と小津監督のコンビ作が誕生することになります。
「『晩春』は、原節子の笑いがいいよな。デートして、土手を自転車で行くときに見せる笑い、あの笑顔が最高だよ。・・・」
荒木経惟

「麦秋」(1951年)
(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(撮)厚田雄春
(出)原節子、菅井一郎、笠智衆、淡島千景、二本柳寛
 紀子3部作の二作目であり小津監督の代表作のひとつ。この作品でも彼女は毎日映画コンクール女優演技賞を受賞し、小津監督も監督賞を受賞しています。しかし当時、彼女のギャラは日本でもトップクラスになっており、当初松竹側は原節子の起用に反対したそうです。ところが、小津監督が彼女を使わなければこの映画の企画は成り立たないと主張。それに対して、彼女も「ギャラを半分にしてもいい」と言って出演を受けたといいます。原節子と小津のコンビはいよいよ絶頂期を迎えようとしていました。生涯独身を通した小津安二郎と同じく独身を通すことになる原節子の関係を疑う声が高まるのも当然でした。

「長い間いろいろな監督の間で揉まれ、そして大根云々と散々たたかれながら、猿がドングリを拾うような誰にだって出来る下手糞な演技の真似事をしなかったところに原節子の偉さがある。大根と誰がいったか知る人が、実に無礼だ。あの人は喜怒哀楽の表情以外のものを持っている。これまで、表情を動かす勉強を余りしなかったのがいい。
 人参も牛蒡も一緒くたにして使う監督にあったら堪らんが、いい素質を持った人だから、使いようによっていくらでもいいところを引き出せる人だ。・・・」

小津安二郎「映画ファン」(1952年)より

「東京物語」((1953年)
(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(撮)厚田雄春
(出)笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、香川京子
 紀子3部作の3作目となった作品であり、映画史に残る歴史的名画。この作品と共に彼女の映像は永遠の存在になったといえます。
「最後に『私、ずるいんです』って、白状しちゃただろう。そういうミステリアスな部分というか、何か隠して見せてないところがあるんだよな。そこが魅力。・・・」
荒木経惟

「東京暮色」(1957年)
(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(撮)厚田雄春
(出)原節子、有馬稲子、笠智衆、山田五十鈴、田浦正巳

「秋日和」(1960年)
(監)(脚)小津安二郎(原)里見弴(脚)野田高梧(撮)厚田雄春
(出)原節子、司葉子、佐田啓二、佐分利信、笠智衆

「小早川家の秋」(1961年)
(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(撮)中井朝一
(出)原節子、中村鴈、司葉子、新珠三千代、浪花千栄子
 小津とのコンビ作のラストとなった作品。この映画の翌年、小津監督は病に倒れ帰らぬ人となります。
「小津は役者をみんな人形にしてしまうところがある。役者のほうでも、自分ではないような気がしながら演じていたと思うんだ。でも原節子は、その人形になってからの演技がすごい。」
荒木経惟

<映画黄金期の終わりと引退>
 次々と仕事をこなしていた彼女ですが、女優としての彼女の演技の方向性は様々な監督、様々な作品への出演により、バラバラにならざるをえませんでした。逆に、彼女自身がラブシーンや入浴シーン、水着シーン、歌唱シーン、ダンス・シーンなどを断り続けたことで、おのずと役柄の固定化も避けられませんでした。(小津作品での、「婚期を逃しつつある美人のオールドミス」はその典型)彼女の場合は、和服になることも少なく「時代劇」にもあまり出演していません。
 そのうえ、ファン・サービスのためのイベントだけでなく、映画の完成記念パーティー的なものにもまったく出演していません。
「私が劇場へ出てあいさつをしたのは、この「新しき土」んぼ時だけで、日本でも帝劇で試写会をやったとき一ぺんだけ出ましたが、それ以外はただの一度も出たことがないんです」
原節子「東京新聞」(1959年)

 原節子が通っていたブティックのデザイナー市川によると、
・・・原はパーティーなどのお招ばれの席にまったく出席しないので、イブニングドレスなどの服は作らないそうです。人の見送りにはよく和服を着るが、そのときの和服の選択は地味で、帯などで目立たせるモダンな着方をしたといいます。
 また原がアクセサリーをつけているのを見たことがないそうです。このことを気にして原の写真集を見れば、装身具を身につけた写真がほとんどないことに気付きます。そして、映画のためには髪型を研究していても、普段の原は一年中、同じヘアー・スタイルをしていると市川は指摘しています。


 それでも彼女は映画黄金期を支えた名監督たちの作品に出演することができたことで、トップ女優としての活躍を続けることができました。1950年代から1960年代にかけて、日本の映画界は絶頂期を迎え、彼女にとっても素晴らしい時代だったといえます。

「あたくしって、わがままなのね。映画界であたしぐらいわがままを通して来たのは珍しいと思うの。それじゃいけないんでしょうけど、いやなものはいやだし、どうにもならないの」
原節子「日刊スポーツ」(1959年)

「私らしくない写真はいやよ。持ってもいない自動車の前で、不自然なポーズをつくったり、かぶりもしない帽子をかぶったり、そんなの、なんだかいやだわ。私ね、きれいにとれなくなくってもいいからごく自然に、自分らしい写真がいちばん好きよ。顔の半面に光線がなくても、私らしければいいわ」
原節子「映画ファン」(1949年)

「白痴」(1951年)
(監)(脚)黒澤明(原)ドストエフスキー(脚)久坂栄二郎(撮)生方敏夫
(出)森雅之、原節子、三船敏郎、久我美子、柳永二郎

「めし」(1951年)
(監)成瀬巳喜男(監修)川端康成(原)林芙美子(脚)田中澄江、井手俊郎(撮)玉井正夫
(出)上原謙、原節子、島崎雪子、二本柳寛、小林桂樹

「風ふたたび」(1952年)
(監)豊田四郎(原)永井龍男(脚)植草圭之助(撮)会田吉男
(出)山村聰、原節子、浜田百合子、三津田健

「山の音」(1954年)
(監)成瀬巳喜男(原)川端康成(脚)水木洋子(撮)玉井正夫
(出)山村聰、原節子、上原謙、長岡輝子

「驟雨」(1956年)
(監)成瀬巳喜男(原)岸田國士(脚)水木洋子(撮)玉井正夫
(出)佐野周二、原節子、香川京子、小林桂樹

「娘・妻・母」(1960年)
(監)成瀬巳喜男(脚)井手俊郎、松山善三(撮)安本淳
(出)森雅之、原節子、三益愛子、高峰秀子、仲代達矢
 この映画で仲代達矢と初のキスシーンを演じています。もちろん、巨匠成瀬監督の作品だからこそ、引き受けたのでしょう。彼女のキス・シーンは、他に「慕情の人」(1961年)での三橋達也との2回だけでした。

「忠臣蔵 花の巻」「忠臣蔵 雪の巻」(1962年)
(監)稲垣浩(脚)八住利雄(撮)山田一夫
(出)松本幸四郎(8代目)、加山雄三、三船敏郎、原節子
 原節子にとって最後の出演作。残念ながら、オールスター・キャストの大作で彼女の出番は前半のみしかありませんでした。

「原節子を、完全に使いこなし、その比類なき魅力をスクリーンに開花させてくれるような、一群の映画作家たちの魔術が、だんだん消え失せてしまうような新時代の到来が、彼女に引退を決意させたのだ・・・」
白井佳夫

 こうして、彼女は黒澤、成瀬、豊田、稲垣ら日本映画黄金期を代表する監督たちの作品に出演することができました。しかし、時代は1960年代に突入し、映画の黄金期は終わりを迎えつつありました。黒澤監督は、1963年の「天国と地獄」の後、映画を模倣する犯罪が起きたことをきっかけにしばらく映画を撮れなくなり、成瀬監督は1967年に癌で倒れ、稲垣監督も1970年にこの世を去ることになります。
 しかし、彼女は彼らよりも早く映画界を去ることになります。その最大のきっかけとなったのは、彼女にとって最も大切な存在だった小津監督の死でした。1963年、彼が癌でこの世を去ったことは、愛する人の死であると同時に彼女にとっての女優として働く最大のモチベーションの喪失だったともいえます。
 彼女にとって最も重要な存在だった小津監督の葬儀に現れた彼女はその場で泣き崩れ、周りを心配させたといいます。結局、彼女が公の場に現れたのは、この時が最後となりました。この後、彼女の姿が写真誌やテレビに登場したのは21世紀までの50年間でわずか2,3度だけのことになります。
 実は彼女は1962年の「忠臣蔵」出演後、誰にも告げずに引っ越しを行い、鎌倉に住む熊谷夫妻の敷地内にあった家に住み始めていました。その時、すでに彼女は映画界を去る決意を固めていたのかもしれません。その後、彼女はそこに新しい家を建ててそこに定住、ほとんど家から出ることのない隠遁生活を始めます。
 1986年、義兄であり彼女の世話人でもあった熊谷久虎が死去。すると彼の後を追うようにして、翌1987年には妻の光代もこの世を去ってしまいます。大切な身内を失った彼女は、その後夫妻の子供とともに生活を続けているようです。
 2015年9月5日95歳でこの世を去られました。伝説の女優のご冥福をお祈りさせていただきます。
 20世紀最後の「ザ・女優」がついに消えた・・・いやいや永遠になったというべきなのでしょう。
 「東京物語」の中にも「青い山脈」の中にも「麦秋」の中にも彼女は生き続けています。


 もしかすると、彼女ほど映画が嫌いな女優はいなかったのかもしれません。そして、それが彼女をスクリーンの中で輝かせ続けた最大の原因だった可能性もあります。

 多くの若者を戦地へと送り出すきっかけとなった映画。
 兄の命を奪い去った映画。
 義理の兄の活躍を阻んだ映画。
 彼女が求めていた人生を奪ってしまった映画。
 多くの人たちからの妬みの原因となった映画。
 彼女の視力を奪った映画。
 愛する人との人生を許してくれなかった映画。
 それなのに、彼女は生涯に100本を越える作品に出演しました。
 「優れた女優」とは、成ろうとしてなるのではなく、「映画の女神」によって選ばれることで初めて可能になるものなのかもしれません。

<参考>
「原節子のすべて」
 2012年
(編集)若杉良作
新潮社
「原節子 わたしを語る」 2013年
(著・編)貴田庄
朝日文庫

映画「東京物語」

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