
「ビートルズがやって来る/ヤァヤァヤァ! A
Hard Days Night」 1964年
- リチャード・レスター Richard Lester、ザ・ビートルズ
The Beatles -
<やっつけ仕事の大ヒット作>
1964年公開のこの映画がモノクロ映画だったというのは、考えてみると意外なことです。1950年代後半、すでに映画hはカラーが当たり前になっていて、この時期にモノクロで撮られた作品は、1960年の「サイコ」やヌーヴェル・ヴァーグの作品群、それにドキュメンタりー・タッチにこだわり低予算で作られた「十二人の怒れる男」など、意図的にもしくは予算の都合上モノクロ・フィルムを使用した作品ばかりです。では、ビートルズ主演のこの作品はヒットを期待されていなかったということなのでしょうか?たぶんそれはないでしょう。1962年の10月に「ラブ・ミー・ドゥー」でデビュー、それからまだ一年半しかたっていませんでしたが、その間の彼らの活躍は本人たちですら信じられないほどのハイ・ペースで広がりをみせていました。
1963年2月発表の「プリーズ・プリーズ・ミー」が全英ナンバー1となった後、初のイギリス・ツアーに出発。
同年11月には、イギリス王室主催の「ロイヤル・バラエティー・ショー」に出演。
1964年2月、初のアメリカ公園を行い、全米最高の人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」に出演。全米に彼らの名前が知れ渡りました。こうしたプロモーションの効果もあり、同年4月にはアメリカのビルボード誌におけるヒット・チャートのベスト5を彼らが独占するという快挙を成し遂げます。その後、6月、7月にかけてワールド・ツアーを敢行する頃には、彼らの人気はすでに世界レベルのものになっていました。ちょうどこの頃にこの映画は公開されることになったわけです。
そう考えると、この映画が公開された時点でこの映画は当然世界的にヒットすることは予想されていたに違いありません。しかし、この映画の企画が決まった時点では彼らがそこまで大スターになっているとは思えなかったとも考えられます。実際には、ビートルズというアイドル
実は、この映画はわずか2ヶ月という期間に忙しい仕事の合間をぬって撮影された作品で、映画に使用されている曲もわずか2週間で作曲からレコーディングまで行われたといいます。そのうえ、当初はチャック・ベリーなど、R&Bやブルースのアーティストたちの曲をカバーしていた彼らが、ここにきて全曲オリジナルを準備しているのです。「ア・ハード・デイズ・ナイト」、「アンド・アイ・ラブ・ハー」、「テルミー・ホワイ」、「キャント・バイ・ミー・ラブ」、「オール・マイ・ラヴィング」、「シー・ラブズ・ユー」・・・・・etc.どれも永遠のスタンダード・ナンバーと呼べる曲ばかりです。どれも永遠のスタンダード・ナンバーといえる曲ばかりです。そのうえ、これらの曲を彼らは映画の中でほとんど生で演奏し、録音しているのです。いかに当時の彼らが勢いがあったのか、才能があったのかが、わかるというものです。
しかし、いかにビートルズが才能にあふれた旬の存在だったとしても、世界的な評価を受けるバンドだったとしても、それだけで良い映画になる補償はどこにもありませんでした。「A
Hard Day's Night」がいまだにロック映画の名作のひとつといわれているのは、やはりこの映画の監督リチャード・レスターの才能によるところが大きいのです。
<リチャード・レスター>
この映画の監督リチャード・レスター Richard
Lester は1932年1月19日フィラデルフィア生まれのアメリカ人です。ペンシルヴァニア大学を卒業した彼は、テレビのディレクターとして活躍しますが、その後イギリスに渡り、そこでしばらくミュージシャンとして活動します。1962年には「イッツ・トラッド・ダッド!」というジャズを題材として映画を撮っており、当時イギリスで大人気だったコメディー俳優のピーター・セラーズと共同で短編映画を撮っったりしていました。(ピーター・セラーズは、「ピンクの豹」のクルーゾー警部です)彼が得意とするジャンルが「コメディー」と「音楽」を題材としたものということで、必然的にこの映画もそんな内容になったわけです。この映画で用いられているショート・コントの積み重ねと音楽の組み合わせというスタイルは、実はそれまでほとんどないものでした。現在では当たり前ともなっているショート・ドラマを用いた音楽プロモーション用の映像、MTV(ミュージック・ビデオ)の原点は、この映画にあるともいえるのです。
この映画のヒットによって一躍その名を知られることになったリチャード・レスターは、その実力をその後の作品でも示すことになります。翌1965年発表の「ナック」により、彼はカンヌ映画祭でグランプリを獲得して、早くもその実力を証明。翌年、彼は今度は予算を大幅に増額してもらいカラー・フィルムの使用も許されて、ビートルズ映画の第二作「Help!
4人はアイドル」を撮ります。こちらも当然大ヒットとなります。さらに彼はジョン・レノンを主役として反戦映画「ジョン・レノンの僕の戦争」(1967年)を撮りました。
その後の彼は傑作こそないものの、小品ながらも味わいのある作品を数多く発表しています。パニック映画のブームに乗って作られた豪華客船を用い爆弾テロ事件を描いた大作映画「ジャガー・ノート」(1974年)、ショーン・コネリーとオードリー・ヘップバーンという夢の顔合わせで撮られたもうひとつのロビン・フッドの物語「ロビンとマリアン」(1976年)、これまたもうひとつのブッチとサンダンス・キッドの物語「新明日に向かって撃て」(1979年)、それは「明日に向かって撃て」の主役二人の若かりし頃を描いた作品でした。けっして歴史に残る傑作ではないものの、彼の作品はどれもイギリス風のユーモアが感じられる愛すべき作品ばかりです。
<ミュージック・ホール文化>
しかし、この映画のコメディー・タッチの映像は監督のリチャード・レスターが生み出したものというわけではありませんでした。それはイギリスに伝統的に存在していた文化からきたものでした。そのもとはイギリス伝統のエンターテイメント、「ミュージック・ホール」の芸能から誕生したといえます。下品なキャバレーとの差別化を図るために生まれたともいわれる「ミュージック・ホール」は19世紀後半に全盛期をむかえ、20世紀初頭にまで続きました。あのチャールズ・チャップリンは、このミュージック・ホールで歌と芝居、コメディーを演じることからそのキャリアをスタートさせています。そこでは、歌、小演劇、コメディーなどが適度な割合で演じられ、観客を楽しませていました。それは、逆に言うと中途半端な大衆演劇として馬鹿にされることが多く、現在でもあまり評価されていません。それでも、1950年代、イギリスでは当時のミュージック・ホール文化を再評価される運動が起き、その流れを汲むエンターテイメント・ショーが復活し、劇場だけでなくラジオなどでも大人気となり、レコード化されて大ヒットとなるものも現れました。
特にその中で人気があったのが、当時「グーン・ショー」というラジオ番組を担当していたピーター・セラーズで、彼の番組のレコード盤はイギリスで大ヒット、ジョン・レノンも大ファンだったそうです。そして、そのピーター・セラーズのレコードだけでなく一般の音楽とは異なるラジオ番組などの音源をレコード化すること得意としていたレコード会社、パーロフォンのプロデューサーだった人物こそ、あのジョージ・マーティンだったのです。
この頃作られたイギリスらしいブラック・ユーモアに満ちたコント番組は、その後あのモンティ・パイソン、そして映画監督のテリー・ギリアムへと受け継がれ、世界中に知られてゆくことになります。面白いことに、そんなモンティ・パイソンの代表作「ライフ・オブ・ブライアン」(1979年)やテリー・ギリアムの出世作「バンデッドQ」(1981年)を世に出したイギリスの映画製作会社ハンド・メイド・フィルムズはビートルズのジョージ・ハリソンが作った会社です。 さらにさらに、この年ピーター・セラーズはこの年スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」に出演。一躍世界的なスターへと躍進しています。
ピーター・セラーズ、ジョージ・マーティン、リチャード・レスター、モンティ・パイソン、そしてビートルズは、イギリスの伝統文化「ミュージック・ホール」において、しっかりとつながっていたのでした。
<この映画の魅力>
この映画の魅力は、こうして生み出されたイギリス特有のブラック・ユーモアによって、人気アイドルのビートルズをパロディー化してしまったことにあるのかもしれません。
廊下ですれ違った女性に「あなたジョン・レノンにそっくりじゃない!」といわれたり、タレント事務所の人間につかまって、ジョージ本人がそのモノマネをするようにすすめられたりし、本人たちもその気になってしまうあたりはまさに自分たち自身によるビートルズのパロディー化です。
ポールの祖父に「お前には自由がない、今自由を謳歌しないでどうするんだ!」と説教されてコンサート会場から逃げ出すリンゴの姿はその数年後の彼ら自身の姿でもありました。
しあkし、それぞれが、アイドル・スターとしてファンがイメージしているであろうキャラクターを演じることに、当時ジョンはかなり反発を感じていたといわれています。まったく異なる役柄を演じるなら、かえって楽しめたのかもしれませんが、ジョンにとって自分を演じることは自らのキャラクターを限定することにつながると彼は感じていたのでしょう。
アイドル・スターとしてチヤホヤされながらも、ジョンは自らのアーティストとしての可能性について、すでに悩み始めていたようです。
この映画に映し出されている1960年代のロンドンの街の様子も魅力的です。ベンチや電話ボックス、列車や最後に彼らがコンサートを行うロンドン・スカラ座など、当時の風俗や街並みを収めたドキュメンタりー映像としてもこの映画は十分に楽しめます。
さらにこうした街の映像を収めた軽快なフットワークの映像もこの映画の特徴ですが、これは1950年代末にフランスから登場したヌーヴェル・ヴァーグの影響によるものでしょう。ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが多用した手持ちカメラによって、ビートルズはスタジオを飛び出し、ストリート感覚に満ちた映像を生み出すことが可能になったのです。「キャント・バイ・ミー・ラブ」をバックに彼らがコンサート会場から逃げ出すシーンは、自由への逃亡であり、後のニューシネマの原点となった映像ともいえそうです。
この映画を「ジュークボックス映画の『市民ケーン』である」と評した評論家がいたそうです。そう思って、改めて見てもらえれば、この映画の輝きはさらに増すかもしれません。
しかし、この映画の見所の中でも最も肝心な部分、それは映像よりも演技よりも物語よりも、彼らの演奏する音楽それ自体が最高だということです。思わず口ずさみたくなるメロディー、覚えやすく歌いやすい歌詞、身体を動かしたくなる軽快なリズム、どれをとっても永遠の名曲といえる曲の数々こそ、この映画最大の魅力だということです。
<ちなみに>
この映画が公開された1964年、8月7日の「タイム誌」は「1セントも払うに値しないガラクタ」と酷評したそうです。
<いとしのレイラ>
最後に重要なエピソードをひとつ。この映画の前半、彼らが列車に乗って移動する途中で女子高生をナンパするシーンがあります。なんとその中の一番かわいい女の子があの「いとしのレイラ」ことパティ・ボイドなのです。
ジョージはこの撮影でパティと知り合い、その後結婚することになります。そして、そこに「ギターの神様」と呼ばれていたエリック・クラプトンが現れて歴史に残る不倫ドラマが展開することになるのです。この映画はあのロック史に残る名曲「いとしのレイラ」を生み出したということでも、ロック史を変えた映画といえるのです。
「ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ!
A Hrad Days Night」 1963年公開
(監)リチャード・レスター
(製)ウォルター・シェンソン
(脚)アラン・オーウェン
(撮)ギルバート・テイラー
(音)ジョージ・マーティン
(出)ザ・ビートルズ(ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スター
<関連するページ>
<追記>
「ザ・ビートルズ Eight Days A Week - The Touring Years」 2016年
(監)(製)ロン・ハワード Ron Howard
(製)ナイジェル・シンクレア、スコット・パスクッチ、ブライアン・グレイザー
(脚)マーク・モンロー
(編)ポール・クラウダー
(出)ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーティン
シガニ―・ウィーバー、ウーピー・ゴールドバーグ、エルヴィス・コステロ、リチャード・レスター
ビートルズがデビューし、ブレイクを果たし、世界ツアーに出発し、アメリカでもナンバー1となり、ツアーに疲れ、スタジオにこもり、解散を決め、伝説の屋上ライブを行うまでを追ったドキュメンタリー映画。曲、歌詞、映像、インタビューが見事にシンクロしていて、さすがはロン・ハワード監督の作品です。
ラストの屋上ライブは、今までも見たことがあったのに、彼らの意外に明るい表情(解散が決まっているのに)を見ているうちになんだかじわっと涙が出てきました。
多くのスタッフ・メンバーがこの世を去っただけに、天国に近いところで開催されたライブが昔とは違って見えてきたようです。ビリー・プレストンのキーボードがまた良い!

イタリア製西部劇(マカロニ・ウエスタン)が世界的ブームとなる
「愛する」(監)ヨルン・ドンナー(出)ヘリエット・アンデルセン(ヴェネチア映画祭主演女優賞)
「赤い砂漠」(監)ミケランジェロ・アントニオーニ(出)モニカ・ヴィッティ、リチャード・ハリス(ヴェネチア映画祭金獅子賞)
「女が愛情に渇くとき」(監)ジャック・クレイトン(アン・バンクロフトがカンヌ映画祭主演女優賞)
「奇跡の丘」(監)ピエロ・パオロ・パゾリーニ(出)エンリケ・イラゾクイ(ヴェネチア映画祭審査員特別賞)
「幸福」〈監)〈脚)アニエス・ヴァルダ〈出)ジャン・クロード・ドルオー、クレール・ドルオー
「荒野の用心棒 Per un Pugno Di Dollari」(監)ボブ・ロバートソン(音) Ennio Morricone
(原)黒澤明、菊島隆三(もちろん、名作「用心棒」のパクリです)
(C.イーストウッドの出世作、マカロニ・ウェスタン・ブームの火付け役、モリコーネの原点)
「質屋 The Pawnbroker」(監)シドニー・ルメット(音)Quincy Jones(出)ロッド・スタイガー、ジェラルディン・フィッツジェラルド
(シドニー・ルメットの名作、クインシーの映画音楽はここからスタート)
「銃殺」(監)ジョセフ・ロージー(出)ダーク・ボガート、トム・コートネイ(ヴェネチア映画祭主演男優賞)
「シェルブールの雨傘 Les Parapluies Cherbourg」(監)ジャック・ドゥミ (音)ミシェル・ルグランMichel Legrand
(カトリーヌ・ドヌーブの大ヒットミュージカル、彼女が後にビヨークと共演するとは!カンヌ映画祭パルムドール)
「007/ゴールドフィンガーGoldfinger」(監)ガイ・ハミルトン(音)John Barry
「その男ゾルバZorba The Greek」(監)マイケル・カコヤニス〈原)ニコス・カザンツァキス(音)
ミキス・セオゾラーキス
(アンソニー・クインがいい味、音楽もヒット、リラ・ケドローワがアカデミー助演女優賞)
「チャルラータ」(監)(脚)(音)サタジット・レイ(原)タゴール(ベルリン国際映画祭銀熊賞)
「トプカピ Topkapi」(監)ジュールス・ダッシン(出)メリナ・メルクーリ、ピーター・ユスティノフ
「パリは燃えているか」〈監)ルネ・クレマン〈脚)ゴア・ビダル、フランシス・F・コッポラ〈出)アラン・ドロン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンス
「バルタザールどこへ行く」(監)(脚)ロベール・ブレッソン(撮)ギスラン・クロケ(出)アンヌ・ヴィアゼムスキー、フィリップ・アスラン(カンヌ国際映画祭特別表彰)
「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
A Hard Day's Night」(監)リチャード・レスター
「ベケット Becket」(監)ピーター・グレンヴィル(出)リチャード・バートン、ピーター・オトゥール
「マイ・フェア・レディ My Fair Lady」(監)ジョージ・キューカー(音) Andre Previn
アカデミー編曲賞(オードリー・ヘップバーン主演、女の敵?、女性改造ミュージカル、アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞)
「メリー・ポピンズ Mary Poppins」(監)ロバート・スティーブンソン(音)Richard
M.Sharman,Robert B.Sharman アカデミー作曲、歌曲賞
(ディズニーの名作ミュージカル、ジュリー・アンドリュースがアカデミー主演女優賞)
「誘惑されて棄てられて」(監)ピエトロ・ジェルミ(サロ・ウルツイがカンヌ映画祭主演男優賞)
「赤い殺意」(監)〈脚)今村昌平(脚)長谷部慶次(撮)姫田真左久〈出)西村晃、赤木蘭子、春川ますみ
「越後つついし親不知」(監)今井正(原)水上勉(脚)八木保太郎〈出)三国連太郎、小沢昭一、佐久間良子
「怪談」〈監)小林正樹〈原)小泉八雲(脚)水木洋子(撮)宮島義男(音)武満徹(出)新珠三千代、中村賀津雄、岸恵子
「香華」〈監)(製)(脚)木下恵介〈原)有吉佐和子(出)乙羽信子、岡田英次、岡田茉莉子
「砂の女」(監)勅使河原宏(原)安部公房(出)岡田英次(カンヌ映画祭審査員特別賞、メキシコ映画新聞雑誌協会外国語映画賞))
「荷車の歌」(監)山本薩夫(撮)前田実(アジア・アフリカ映画祭入賞)
「0011ナポレオン・ソロ」(TVシリーズ) Laro Schifrin
円谷特技プロダクション設立
佐田啓二(俳優)死去(38歳)

世界商業衛星通信網協定調印
<アメリカ>
「ヴェトナム戦争への介入本格化」
民主党全国大会開催
(民主党内の公民権法反対派(ミシシッピー州民主党)について、党内、白人黒人間に亀裂が生じる。黒人側の過激派誕生のきっかけとなった事件)
SNCC(学生非暴力調整委員会)が中心となり公民権運動に白人学生を動員する動きが活発化
アメリカで新公民権法が成立(黒人無差別の広範囲適用)
カリフォルニア大バークリー校で「フリー・スピーチ運動」が始まる。これはヴェトナム反戦運動など、学内での政治活動禁止に対する反発で、ここから学生運動が世界中に広まって行くことになります。
トンキン湾事件をきっかけに、アメリカのヴェトナム介入が始まる
カシアス・クレイ(モハメド・アリ)がソニー・リストンを破り世界ヘヴィー級王者につく
クーデターにより、カステロ・ブランコによる軍事政権が樹立される(ブラジル)
ドミニカ共和国で革命、アメリカが軍事介入
<ヨーロッパ>
フルシチョフの失脚により、ブレジネフが書記長就任
<アジア>
中国が初めて原爆実験を実施、成功させる(中ソ対立決定的となる)
パレスチナ解放機構(PLO)設立
<日本>
東京オリンピック開催、東海道新幹線開業
佐藤栄作内閣設立
<芸術、文化、商品関連>
「マリリン」 アンディー・ウォーホル
「ケンタウロス」ジョン・アップダイク著(全米図書賞)
マーシャル・マクルーハン「メディア論」
シャネル、クレージュ、イヴ・サンローランが「パンタロン・ルック」を発表
テレンス・コンランが「ハビタ」をオープン(コンラン・ショップ)
「ひょっこりひょうたん島」放映開始
月刊漫画誌「ガロ」、「平凡パンチ」創刊
TOTOがホテル用ユニット・バスを開発
「クリネックス・ティッシュ」「ワンカップ大関」「かっぱえびせん」発売開始
<音楽関連(海外)>
オランダのフィリップス社がカセット・テープの発売を開始
ブリティシュ・インベイジョンと呼ばれるイギリス勢のアメリカ進出が本格化
初めてのビートルズ・アメリカン・ツアー開始
ビートルズがアメリカのヒット・チャートでベスト5を独占("Can't
By Me Love","Twist & Shout","Please
Please Me", "She Loves You",「抱きしめたい」)
映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」公開
ダンス「スウィム」がブームになる
フリージャズ・ミュージシャンによるコンサート、「ジャズの10月革命」開催
ニューヨークでサルサのレーベル、ファニアが設立される(アルゼンチン生まれの弁護士、ジェリー・マスッチとドミニカ生まれのジョニー・パチェーコによる)
バイーア四人組(カエターノ・ヴェローゾ、マリア・ベターニャ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ)の活躍が始まる
ジャマイカで、スカのパイオニア、スカタライツが結成される
南アフリカで、マハラティーニ&マホテラ・クィーンズが結成される
<音楽関連(国内)>
歌謡界の青春御三家活躍(舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦)
日本武道館開館
「恋をするなら」「チェッ、チェッ、チェッ」「恋のメキシカン・ロック」「あの娘と僕」など、エレキ歌謡と呼ばれる曲が次々にヒット
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