「ハーモニー Harmony」

- 伊藤計劃 Keikaku Ito (Project Ito) -

<最後の傑作>
 この小説は、「虐殺器官」によって、多くのSFファン、ミステリー・ファンを驚かせた伊藤計劃の長編第二作であり、最後の長編小説です。これから、この小説を読む方は、彼がもうこの世になく、この小説が自らの死を意識しつつ書かれたものだということも、ご存知かもしれません。そう思って読むと、ひとつひとつの言葉や描写の重さに引き込まれ、冷静に近未来SFの傑作として読むのが難しくなるかもしれません。
 入院していた病院で最新の治療を受けながらも、それでは自分の命を救えないと知った時、やっと作家として認められたのにもう自分のアイデアを小説として書く時間がないと知った時、・・・彼はどれだけ「生」について考えたことか・・・。この小説のテーマとあまりにも直結する事実は、読書が冷静に作品世界に入ることを邪魔するかもしれません。しかし、そこまで深読みしながらこの小説を読んでも、なお読み終わって期待はずれと感じることはないでしょう。
 前作に続き、彼はこの小説でも最後に驚きの仕掛けを用意しています。しかし、この作品を書いた作家がこの世にいないというのもまた究極の仕掛けかもしれません。そして、この小説は命を賭けた仕掛けに値する作品だといえると思います。だからこそ、この小説は、第30回日本SF大賞受賞作品、「ベストSF2009」第一位作品、第40回星雲賞日本長編部門受賞作品に選ばれているのです。まさに0年代を代表する傑作おちえるでしょう。

<すべてを外注する時代>
「オトナたちは、それまで人間が分かちがたい自然の産物と思ってきた多くのものを、いまや外注に出して制御してる。病気になることも、生きることも、もしかしたら考えることも。むかしは自分自身のものだった。自分自身のものでしかあり得なかった多くのものが、経済の流れのなかで外にお任せになっている。・・・」
本文より(以下、太字部分はすべて本文からの引用です)

 この小説を読んでから、改めて2011年の世界を見ると・・・いかに人類は様々な行為を「外注」に預けてしまっているかを思い知り、恐ろしくなってきます。
 子供への教育を、教師に外注する親たち
 老後の生活を、政府や保険会社に外注する国民
 親の介護を、介護企業に外注する子供たち
 「学ぶ」ことを、ネットに外注する学生たち
 友達を、ケイタイに外注する女子学生たち
 料理を、コンビニと冷凍庫に外注する主婦たち
 戦争を、民間軍事会社に外注する軍人たち
 出産を、試験管と見知らぬ主婦に外注する妻たち
 運転技術を、自動車のコンピューターに外注する運転手
 数えあげればきりがありません。
 しかし、こうしてあらゆる能力を外注に出していった先に「人間」とは、いかなる存在になるのでしょうか?これは、SF小説の王道ともいえる論理的に「人間」の未来を追及する試みのひとつです。Project Ito最後の挑戦は、かつてH・G・ウェルズがタイムマシンに乗って人類の未来を見てきたように「論理」という予知能力を用いて、人類の最終進化形を描き出しました。文庫版の解説には、彼が先ず「論理」ありきで物語の枠組みを作り、そこにキャラクターを当てはめていったことが書かれています。

「僕はまず、理屈が先にある感じです。理屈にそってキャラクターを作り、そのキャラが喋るロジックを魅力的に見せるにはどうしたらいいのかっていうことで話を考えていきます。いかにロジックを話しに落とし込むかっていう緩衝剤としてキャラクターは存在するわけです。」
(解説より)
 しかし、この作品に関しては、彼の「論理」には常に「病い」からくる「エモーション」が注入されていました。このことが、どれだけ作品に影響を与えたか?今ではそれを確かめようはありませんが・・・。

「僕が考えるロジックというのは、やっぱり自分が生きている状況に関する、ある種の分析になっているんですね。なぜ、自分は今病院にいて、こうした治療を受けているんだろうか、なぜ今はこういう医療体制なんだろうとか、そういうところから考え始めたある種、切実なロジックです。切実なロジックを、その切実さを残したままキャラクターに喋らせると、なんとかエモーショナルになってもらえるんじゃないだろうか。そういう期待のもとに書いている部分はあります。」
(解説より)
 この小説を一度読んでから再び頭にもどると、「なるほど!」とうなづけますが、最初読み出した時は、ちょっとわかりずらいと思います。それは、主人公の住む世界についての説明が何もないまま物語が始まってしまうからかもしれません。もちろん、それは作者の計算によるもので、少しずつその世界の全貌を明らかにする仕掛けと考えるべきです。とはいえ、一度整理するとよりわかりやすいと思うので、ここでその世界についての解説をしてみます。

<「ハーモニー」の世界>
 時は2010年頃のこと。世界を巻き込んだ戦争「大災禍」によって世界各地に核爆弾が落とされ、その放射能によって生み出された突然変異のウィルスが人類を絶滅の危機に追い込みました。そのウィルスとの闘いの中から、人類は「生府」ヴァイガメントを中心としたそれまでの社会とは異なる医療福祉社会を作り上げてゆきました。その社会の中心思想は、宗教でも、資本主義でも、社会主義でもない新たな思想「生命主義」でした。
「生命主義」
 生命至上主義。構成員の健康の保全を統治機構にとって最大の責務と見なす政治的主張。・・・二十世紀に登場した福祉社会を原型とする。より具体的な局面においては、成人に対する充分にネットワーク化された恒常的健康監視システムへの組みこみ、安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、将来予想される生活習慣病を防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供、その三点を基本セットとするライフスタイルを、人間の尊厳にとって最低限の条件と見なす考え方。

 こうして設立された「生府」は、政治組織ではなく、統治を行うための官僚組織とも異なる存在です。それは国民全体の健康を管理するネットワークであると同時に、国民の思想や意志までも管理することのできる巨大なシステムへと成長してゆきました。
「生府。正確にいうところの医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)。提供される医療システムについて一定の合意に至った人々の集まり。調和者たち。そリゃ、生府にも評議員連中やコミッショナーあたりに、王様や政府ほどの権力は集中していない。
 なぜって、みんなに力を細かく割って配りすぎた結果、何もできなくなったしまったから。生府を攻撃しようって言ったところで、わたしたちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩きつける国会議事堂もありゃしない」


 「生府」の基礎は議会でも、法律でもなく、すべての国民の意志に直接結びついていました。それは国民一人一人の体内に成人になった段階で入れられるWatch Me と呼ばれるセンサーによってネットワーク化された「巨大な意志」とでも呼ぶべきものでした。

「・・・いまWatch Me が行ったのは、心拍やホルモン・バランスなど医療分子が計測した身体的精神的なぶれを解釈し、対人上好ましくない精神状態としてユーザーに拡現表示で警告することだ。つまり、どのような態度をとるべきであるのか、Watch Me はささやかな作法の指導をミァハの母親に与えたわけだ。言ってみれば自分を律することの大半は、いまや外注に出されているのだ。生化学的に計測された精神的逸脱への警告というかたちで、外部化されたのだ。医療分子の発明は、身体と規範とを同一のテーブルに並べてしまった。・・・・・」

「派手な色彩の建築はまかりならん、と誰が法律で定めたわけでもないというのに、そこに広がっているのはひたすらに薄味で、何の個性もなく、それ故に心乱すこともない街だった。・・・わたしの瞳に映ったもの、それは2060年6月12日の夕日と、こう言ってよければ彼岸此岸問わず地平線の彼方まで果てしなく広がる一個の巨大な病棟。人類は今や、無限に続く病院のなかに閉じ込められた。・・・・・」

 そのため、このシステムの悪用は、そのまま人類の滅亡に結びつく可能性を秘めていました。そこで、その危機管理を専門とする組織が設立されました。
<螺旋監察官事務局=世界保健機構の一部>
 世界原子力機構IAEAの遺伝子版として設立された。人類にとって危険な遺伝子操作が行われていないかどうか、その種の技術を研究している生府の研究施設に立ち入って、技術監査を行うのが元々の業務でした。しかし、いつしか生命権を守るため、あらゆる分野にその活動範囲を広げていました。
 主人公の霧慧(きりえ)トァンは、その組織の優秀な査察監として、2049人が命を落とした世界規模の同時多発自殺事件の捜査を担当することになります。事件後、その犯人グループはテレビのニュース番組のキャスターを通して、驚くべき犯行予告ならびに要求を全人類に向けて発表しました。人類の中で生き残りたい者は、一週間以内に自分のまわりの人間を一人殺せ、という指示でした。もし、それができなければ、その人間は今後の新世界にとって不要な人間とみなし、自殺してもらう、というものでした。ネットワークによってつながった人類は今やまるごと人質にとられたのです。

「・・・この社会はね、自分自身を自分以外の全員に人質として差し出すことで、安定と平和と慎み深さを保っているんだよ。・・・・・」

<トァンとミァハの見た世界>
 この事件の捜査により犯人として浮かび上がってきたのが、かつてトァンの友達だったミァハだったことから、物語は二人の少女時代へとさかのぼることになります。少女時代のミァハの語る言葉からは、レイ・ブラッドベリの名作「華氏451度」の登場人物クラリスが思い出されます。

「誰かが孤独になりたいとしたら、死んだメディアに頼るのがいちばんなの。メディアと、わたしと、ふたりっきり」
「映画とか、絵画とか。でも、持久力という点では本がいちばん頑丈よ」


「未来は一言で『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言っていた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」

「・・・昔の人の想像力が、昔の文学や絵画が、わたしはとってもうらやましいんだ、トァン」
「どうして」
「誰かを傷つける可能性を、常に秘めていたから。誰かを悲しませて、誰かに嫌悪を催させることができたから」


 電子書籍のブームが訪れつつある21世紀、本をバラバラにして電子書籍にする人々を見て彼女はどんな顔をするでしょうか。そんな彼女が、Watch Me によって、自らの身体を電子化することを拒否するのは当然のことです。
「自分のカラダが、奴らの言葉に置き換えられていくなんて、そんなことに我慢できない・・・・・」

 そして、彼女は二人の仲間とともに唯一可能なテロ行動を開始します。
「わたしたちが奴らにとって大事だから、わたしたちの将来の可能性が奴らにとって貴重だから。わたしたち自身が奴らのインフラだから。だから、奴らの財産となってしまったこの身体を奪い去ってやるの。」

「権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる時間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点」

ミシェル・フーコー

 しかし、トァンが、死んだはずのミァハについて捜査を進めるうちに少しずつ、ミャハの過去が明らかになってゆきます。彼女のもつ想像をこえた悲惨な過去。地獄のような世界からやってきたはずの彼女にとって天国に思えても不思議ではない安全な世界のはずが、彼女にとっては「死」の世界にしか思えませんでした。
「こことは真逆な場所。向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね」

 物語はこの後、「人間」とは何か?「意志」とは何か?というこの小説のテーマへと迫ってゆきます。
「この星に生きる数十億の人間。その長い進化の道のり、いつか、どこかの時点で人間は「意志」なるものを獲得した。進化というのは、極めて場当たり的なものだ。そのときこのときの環境に適応する遺伝子が残る。その色々な適応、いわば継ぎ接ぎの適応の結果が、いまここに立っているヒットという種であり、そこに実装された意識なる奇妙な作用なのだ。」

「人間」にとって「意志」とは必要なものか?当たり前のこととも思える「意志」の存在の必要性に対して、著者は意外な見解を展開します。

「社会的動物である人間にとって、感情や意識という機能を必要とする環境が、いつの時点でかとっくに過ぎ去っていたら。我々が糖尿病(糖尿病は寒冷地で人間が生きるために必要な対応から生まれたという説があります)を治療するように、感情や意識を「治療」して脳の機能から消し去ってしまうことに何のちゅうちょがあろうか。
かつて人類には、怒りが必要だった。
かつて人類には、喜びが必要だった。
かつて人類には、哀しみが必要だった。
かつて人類には、楽しみが必要だった。
 かつて、かつて、かつて。
 それは過ぎ去った環境と時代に向けられた弔いの言葉。
 かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。」


「・・・いつか人間が精神をデジタル空間に移行すれば、仮想のわたしの研究室で、フロッピーや磁気テープやフラッシュメモリの間に、魂のない人間がごろんと転がっているってのはあり得る話じゃないか。『進化した意識を持つ人間』が生まれてきたなら」
「わたしは逆のことを思うんです。精神は、肉体を生き延びさせるための単なる機能であり手段に過ぎないかもって。肉体の側がより生存に適した精神を求めて、とっかえひっかえ交換できるような世界がくれば、逆に精神、こころのほうがデッドメディアになるってことにはなりませんか。」


<「意志」なき世界の幸福>
 「意志」はなくても生命は存在できていて、地球上の生命のほとんどは、「意志」を持っていないように見えます。ならば、人間もまた「意志」がなくなっても生きられるのかもしれません。それどころか、「意志」の存在が消えた時、人間は最も幸福なのかもしれません。例えば、アンディ・ウォ−ホルはかつてこう言いました。
「ぼくは機械になりたい、同じことを規則正しく繰り返す機械はすばらしい」

 「無の境地」という言い方も、「意志」の存在を消すことの必要性を説いているといえます。もしかすると、その時、人類は本当に天国に近づけるのかもしれません。

「調和のとれた意志とは、すべてが当然であるような行動の状態であり、行為の決断に際して要請される意志そのものが存在しない状態だと。完璧な人間という存在を追い求めたら、意識は不要になって消滅してしまったと」

「天国なるものがこの世のどこかにあるとしたら。
 完全な何かに人類が触れることができるとしたら。
 おそらく、「進化」というその場しのぎの集積から出発した継ぎ接ぎの脊椎動物としては、これこそが望みうる最高に天国に近い状態なのだろう。社会と自己が完全に一致 した存在への階梯を昇ることが。
 いま人類は、とても幸福だ。」


 いったい人間にとって「幸福」とはなんぞや?

 年代的にみて、「ハーモニー」に描かれている時代と彼の処女小説「虐殺器官」に描かれている時代の間に「大災禍」があると考えられますが、その大混乱の時代を当初著者は書こうとしていたようです。しかし、途中まで書いてやめてしまい本作の執筆に入ったとのこと。彼は本当はその大混乱の時代こそ、もっとも書きたかったのかもしれません。 でも、自分にはもう時間がないと感じ、なおかつ自らの病のことを考えると「ハーモニー」のような題材こそ、書くべきものと判断したのかもしれません。しかし、今の日本社会を見るとき、「大災禍」と「ハーモニー」どちらの世界が近いかと考えれば、明らかに「ハーモニー」でしょう。
 願わくば、「大災禍」の時代が訪れませんように・・・。

「ハーモニー」 2008年
伊藤計劃 Keikaku Ito (Project Ito)(著)
早川書房
祝!P・K・ディック特別賞受賞!(2011年)

前作「虐殺器官 Genocidal Organ」(2007年)についてはここから!

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