「うわさの男」の孤独の日々に乾杯!


- ハリー・ニルソン Harry Nilsson -
<ライブをしないシンガー>
 今時ならライブもせず、顔も見せずに活躍するミュージシャンはそう珍しくはありません。後期ビートルズブライアン・ウィルソンは、ライブをやらないアーティストとしても先駆的存在でした。そして、ハリー・ニルソンもまたそんなライブを行わないアーティストの一人でした。彼はデビュー当時は別として、1980年代以降、まったくライブを活動を行わなくなり、1990年代になって親友リンゴ・スターのコンサートにゲスト出演したのが唯一のライブだったとも言われています。
 そこまで公の場を嫌っていたにも関わらず、彼の人気は高く、多くの人に愛され、ミュージシャンたちの友人も多く、グラミー賞も二度受賞しています。アメリカン・ロックの世界で「うわさの男」だったハリー・ニルソンとは何者だったのか?

<デビューまで>
 ハリー・ニルソン Harry Nilsson こと、ハリー・エドワード・ニルソン2世は、1941年6月15日ニューヨークのブルックリンに生まれています。その後、家族と共にロサンゼルスに移住していますが、アーティスト一家だったわけではなくスウェーデン系のごくごく真面目な両親の元で育てられました。そもそもミュージシャンになる気などなかった彼は、大学を卒業すると銀行員として就職します。セキュリティー・ファースト・ナショナル銀行のコンピューター部門でスペシャリストとして働く彼は、優秀なサラリーマンとして何不自由ない生活を送っていました。
 そんな真面目男の彼が音楽界でデビューするきっかけとなったのは、さすがに歌い手としてではなく、作曲家としてでした。曲を書くことが好きだった彼は、自作曲を出版社に送り、ソングライターのバイトを始めます。すると彼の曲が認められ、名門音楽出版社のひとつであるペリー・ボトキンJr.から認められ、専属作曲家の仲間入りをすることになりました。
 1965年、彼が書いた曲がフィル・スペクターのプロデュースによりリリースされます。その2曲、ロネッツの「パラダイス」とモダン・フォーク・カルテットの「This Could Be The Nigh」は、どちらも高評価を得たため、彼にチャンスが巡って来ることになります。

<デビューからブレイク>
 1967年、彼は他のアーティストに提供した曲のセルフカバーなどを収めた初の本格的なソロ・アルバム「Pandemonium Shadow Show」がこうして発表されることになりました。収録曲には、モンキーズの「Cuddly Toy」、ヤードバーズの「Ten Little Indians」、ブラッド・スウェット&ティアーズの名曲「Without Her」、トム・ノースコットの「1941」がありました。
 1968年、「空中バレエ Aerial Ballet」も高い評価を得て、このアルバムからは「ONE」がスリードッグナイトによってカバーされ、全米5位のヒットになりました。さらにこのアルバムに収録されていた「Everybody's Talkin(うわさの男)」(作曲はフレッド・ニール)は、「真夜中のカウボーイ」の監督ジョン・シュレシンジャーに気に入られ、彼の歌でテーマ曲として使用されることになりました。この曲で、彼はグラミー賞を受賞することになります。さらにこの年、彼はオットー・プレミンジャー監督の映画「スキドゥー」の音楽を任されることになりました。
 同年、ビートルズのカバー曲が収められたファースト・アルバムを聴いて、彼の歌が気に入ったジョン・レノンによって、彼はビートルズによる「ホワイト・アルバム」の録音に招かれます。ジョン・レノンとの友情はこの頃から始まり、ビートルズからポール・マッカートニーが脱退した際、ポールの代わりにニルソンがメンバー入りするという噂がささやかれるほどの関係になります。
 ジョン・レノンとの関係は、この後も長く続き、1974年のアルバム「プシー・キャッツ」ではジョンがプロジューサーを担当。ジョンがオノ・ヨーコと別居中だった時期、ハリーはジョンと毎晩のようにニューヨークも街を飲み歩き、何度も騒ぎを起こしたことは今や伝説になったいます。

<ブレイクから>
 1970年、アルバム「ランディ・ニューマンを歌う」を発表。それは、彼の親友でもあったランディ・ニューマンのカバー・アルバムでした。アルバム「オブリオの不思議な旅 The Point !」は、彼が作曲したアニメ番組の音楽をまとめた作品集です。
 1971年、アルバム「ニルソン・シュミルソン Nilson Sohmilson」は、アルバムチャート5位となったニルソン最大のヒット作。このアルバムからは、バッドフィンガーの曲をカバーした「Without You」がシングルとして4週連続全米ナンバー1という快挙を成し遂げました。3オクターブの音域をもつ彼の声域が見事に生かされた名曲。さらに同アルバムには、全米8位の「ココナッツ Coconuts」、全米27位の「Jump Into the Fire」も収録されています。
 1972年、アルバム「シュミルソン2世」から、「Spaceman」が全米23位のヒットになっています。
 1973年、彼の代表作となった「夜のシュミルソン」は、ジャズのスタンダード曲をオーケストラをバックに録音した作品集で「時のたつまま」、「オールウェイズ」、「Makin' Hoopie」などを収録。

<孤独な日々へ>
 ジョン・レノンとオノ・ヨーコが別居状態にあった時期、彼はジョンとザ・フーのドラマー、キース・ムーンらとパーティー三昧の日々を過ごしました。
 ジョン・レノン初のナンバー1ヒットなった「真夜中をぶっ飛ばせ」(1974年)は、その頃の曲です。しかし、ジョンがヨーコとよりを戻して家に帰り、1978年にキース・ムーンがこの世を去ったことで、彼は独りぼっちになってしまいます。身体もこの間の荒れた生活のおかがでボロボロになっていて、糖尿病や心臓発作により、入退院を繰り返すことになり、そのせいで3オクターブの歌声は失われてしまいます。
 1980年、ロバート・アルトマンの大失敗作映画「ポパイ」の音楽を担当。この映画の失敗後、彼は一時的に音楽業界を離れることになりました。その間、自ら映画会社を立ち上げますが、経営は上手く行かず、財産の申告をごまかして罪に問われ逮捕されることになり、破産することになります。
 そんな状況下でも彼は病気と闘いながら、自伝の執筆や音楽活動の再開を目指す曲作りを始めましたが、彼にはもう時間はそう長くは残されていませんでした。
 1994年1月15日、彼は何度目かの心臓発作により、ついにこの世を去ってしまいました。
 素晴らしい歌の才能を持ちながら、その歌声を自らつぶしてしまった「うわさの男」の可笑しくてやがて悲しい人生に乾杯!

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