- 村上春樹 Haruki Murakami -
Part 1

<心の師匠>
 僕は昔から何かに凝るたびに、その道の先輩を勝手に「師匠」と呼んできました。それは時には身近な存在だったり、はるか雲の上の存在だったり様々です。
 スキューバ・ダイビングに熱中していた頃は、インストラクターであり友人の小川くん。スキンダイビングに関しては、まさに雲の上の人ジャック・マイヨール。シーカヤックによるクジラ・ウォッチングにアラスカまで出かけた頃は、ジョン・ダウド、そしてニセコ在住の新谷さん。テレマーク・スキーだったら秀岳荘の栃内さん。海外ひとり旅の師匠は今は亡き物井さん、彼は人生全般についても僕の師匠となってくれました。パソコンについては、中華食堂「桂苑」の沢田君、彼にはいつもお世話になっています。ブラック・ミュージックの師匠は、吉祥寺にあった芽瑠璃堂の大場さん。・・・・   そんな中、「物書き」としての師匠と言える人物はというと、この村上春樹氏それとスティーブン・キングが僕の場合は忘れられない存在です。特に村上春樹氏のことを、僕はかってに兄のように思ったりしています。彼のストイックな生き方とクールな文章の向こう側に見えてくる「優しさ」が、僕のこのサイトからも感じられるようにと、常々思っています。

<神戸育ちの青年>
 村上春樹が生まれたのは、1949年1月12日京都市の伏見区です。しかし、彼の家族はすぐに兵庫県西宮市夙川に転居。続いて芦屋に引っ越しました。高校は県立神戸高校。夙川、芦屋と言えば、全国的にも屈指の高級住宅地ですが、彼の家族はどんな人たちだったのでしょう?
 1968年に早稲田大学の文学部に入学し、1971年に陽子夫人と学生結婚。さらに在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」をオープンさせ、卒業後、国分寺にあった店を千駄ヶ谷に移転させました。この混乱の時代にきちんと大学を卒業しているというのも彼らしいかもしれません。
 時は60年代末。場所は早稲田大学。まさに70年安保のど真ん中だった青春時代。彼がどんな学生生活を送っていたのか、それもまた謎に包まれています。ゲバ棒を振り回し、バリケードを作っていた若者たちの一人だったのでしょうか?それとも「神田川」に書かれた四畳半フォークの世界の住人だったのでしょうか?(実は、この二人は同じ人物だったのかもしれないのですが・・・)少なくとも、未だに奥様とは仲が良いようですから、けっして彼は若気のいたりや寂しさから結婚したのではないはずです。彼は、結婚し、ジャズ喫茶をオープンさせた時点で、ある程度完成された一人の大人になっていたということなのかもしれません。(村上師匠勝手なことを書いてすいません!)

<作家としてのスタート>
 激動と混乱の60年代末をすぎ、多くの若者たちが自分の行く先を見定めることができずにいる頃、すでに彼は自分の生きて行くべき方向に向かって歩き始めていたのでしょう。こうして、長距離走者、村上春樹は本格的に人生をスタートさせます。
 先ず彼はジャズ喫茶のオーナーとして、生活の基盤を築きます。それは独立した一人の人間として生きて行くことを確認する作業だったのかもしれません。その後、彼は店を営業しながら「作家」としてのもうひとつの人生をスタートさせます。これが次なるステップでした。
 こうして、彼は1979年「風の歌を聴け」でデビュー。いきなり群像新人賞を受賞しました。大森一樹によって映画化されたこの青春文学作品と続編的小説「1973年のピンボール」(1970年)により、僕はすっかり「ジェイズ・バー」の常連客のひとりになっていました。当時大学生だった僕にとって、村上文学の描くストイックな世界は、ちょっとした理想郷であり、あこがれのライフ・スタイルでした。ビール党になったり、サンドイッチにうるさくなったりしたのは、この頃のことです。

「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか?きっと何もかも上手くいくぜ。」
「手始めに何をする!」
「ビールを飲もう」

「風の歌を聴け」より

<専業作家へ>
 1981年、彼は専業作家となるためにジャズ喫茶を売却し、千葉の船橋市に住み始めました。そして、翌年彼は初期の代表作であり、三部作の完結編とも言える「羊をめぐる冒険」を発表します。彼はこの作品について「長いもの、ストーリー・テリング、力技の三つがテーマだった」と言っていますが、確かにこの作品はそれまでの彼の作品とは違い、ずっしりとした重みを持つものになっていました。この後、彼の長編小説は上巻、下巻に渡る分厚い大作が主流となって行きます。こうして、彼は新たなステップへと到達したのでした。

<マラソン・ランナー作家>
 ちょうどこの頃、彼はランニングを本格的に始めるようになり、翌年1982年にはギリシャまで出かけ、アテネのオリジナル・マラソン・コースを見事に走りきっています。
 実は僕もこの頃会社の仲間たちとバスケット部を作ったことから、毎日ランニングをするようになり、ちょっとしたランニング・オタクになっていました。そのおかげで、「ランナーズ・ハイ」と呼ばれる長距離走者特有のハイな気分もわかります。
 村上作品とランニングの関係は、ただ単に小説の長さの問題だけではなく、作品の内容にも深く影響を与えていると思います。それはある意味、時代のサインだったとも言えます。ジョギングの専門雑誌ができたのもこの頃で、ジョギング文化というものが一般化したのがこの頃だったのです。もちろん、彼が小説を書く作業を「ランニング」と同じように毎日コツコツと続けるべきものと考えているのは当然だと思いますが、・・・。(これは、ほとんどの作家が「文章上達への唯一近道」としてあげていることです)

<超売れっ子翻訳家>
 どんどんオリジナル小説が分厚くなり発表の間隔が長くなった分、その合間に彼は本業以外の仕事、翻訳家としての作業を活発化させます。この仕事は彼にとって、単純に楽しみの一つであると同時に、文章トレーニングの方法でもあり、埋もれた作家や小説の紹介という生き甲斐ともなりました。僕も、彼が翻訳した本は大好きですが、彼の作品の選び方や翻訳の上手さのせいか、彼の翻訳作品はどれも、村上春樹のオリジナル作品のように思えてしまいます。明らかに、それらの作品には何か共通するテイストというものがあるように思えるのです。
スコット・フィッツジェラルド「マイ・ロスト・シティー」(1981年)、ジョン・アービング「熊を放つ」(1986年)、レイモンド・カーヴァー「僕が電話をかけている場所」(1983年)、トルーマン・カポーティー「おじいさんの思い出」(1988年)、ティム・オブライエン「ニュー・クリアエイジ」(1989年)、ポール・セロー「ワールズ・エンド(世界の果て)」(1981年)そしてあえて彼が新しく翻訳を行ったサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などなど。
 考えてみると、僕が好きな村上作品の中には、これらの彼の翻訳作品も含まれています。そう考えるとハルキ・ワールドというのは、実に置くが深く、幅の広い世界です。

<ノンフィクション作家>
 ノンフィクション作品や紀行文も、彼にとっては「肉体」を使って作品を書き上げるというもう一つの重要なジャンルかもしれません。
 特にトルコを一人旅したことのある僕にとっては、ギリシャ、トルコの旅行記「雨天炎天」は、他人の旅とは思えない身近な企画でした。
 弟に借りて読んだ「もし僕らの言葉がウイスキーであったなら」もまた素敵な本でした。シングル・モルト・ウイスキーの故郷イギリスを旅する紀行文というマニアックな企画ですが、これを読めば誰でもシングル・ウイスキーを飲んでみたくなるはずです。(でも、シングル・モルト・ウイスキーって高いんですよ)

「でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らの言葉はほんとうにウイスキーになることがある。そして僕らは(少なくとも僕はということだけれども)いつものような瞬間を夢見て生きているのだ」
「もし僕らの言葉がウイスキーであったなら」より

 ノンフィクションではありませんが、彼のジャズへの深い愛が生んだ和田誠(イラストレーター)との共作エッセイ「ポートレイト・イン・ジャズ」(1997年、2001年)もまた素敵な作品です。「もし僕らの言葉がウイスキーであったなら」が舌で書かれたエッセイだとすると、これは耳で書かれたエッセイということになるのでしょう。ジャズにあまり詳しくない人には、入門編としてもお薦めです。
 その他にも、1983年から1984年にかけて、大作の間を縫うように彼は次々とエッセイ集や短編集を発表しています。「中国行きのスロウ・ボート」「カンガルー日和」「象工場のハッピーエンド」「螢・納屋を焼く その他の短編集」「村上朝日堂」など。そして、1985年彼は久々の大作小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を発表します。
 この時期までの村上作品は、一言でいうと「ハードボイルド青春冒険ファンタジー小説」だったと思うのですが、その意味でこの作品はその集大成であり、第一次ハルキ・ワールドの完成型だったと思います。

<海外への旅と作家生活>
  1986年、彼は神奈川県の大磯に引っ越しますが、その後ヨーロッパへの長い長い旅に出発します。ギリシャやイタリアを旅しながら、彼は次回作「ノルウェイの森」を執筆。1987年にこの作品が世に出ると、それまでの人気の枠をはるかに越える層に受け入れられることとなり、500万部に迫るモンスター・ヒットとなりました。
 考えてみると、この作品は彼にとって、久しぶりのリアリズム小説(ファンタジーではないという意味で)であると同時に初の恋愛小説でもありました。「ハードボイルド青春冒険ファンタジー」から「リアリズム恋愛小説」への転換がファン層を女性たちへと大きく広げることになったのは、ある意味当然のことだったのかもしれません。
 しかし、あまりのヒットぶりに、書いた本人は日本を離れることを決意します。そうでなくとも、テレビ、雑誌などの取材にほとんど答えることがなかった人なだけに、それは当然の選択だったのかもしれません。(それにしても、彼の奥さんである村上陽子さんとは、いったいどんな方なのでしょう?それは僕にとって、村上春樹に関わる最大の謎かもしれません)
 彼の長い旅は、その後も続きました。イタリアのローマ、ボローニャ、シチリア島、ギリシャ、イギリス、ドイツ、オーストリア、それにトルコなど、広範囲にわたっています。
 1988年、イギリスで書かれたという長編小説「ダンス・ダンス・ダンス」は、完結したはずの羊男シリーズの80年代版とも言える作品であると同時に、バブルに向かいつつある日本を遠く異国の地から見つめ直しつつ、自らの作品を見つめ直すものでもありました。
 1991年、彼はアメリカに移住し、プリンストン大学の客員研究員となった後、翌年客員講師として、現代日本文学のセミナーを担当します。(この時の経験はエッセイ集「やがて哀しき外国語」に書かれています)
 1994年、アメリカで書かれた大作「ねじまき鳥クロニクル」の第1部と第2部が発表されます。(第3部は1995年発売)この作品では、第二次世界大戦中におきたノモンハン事件や中国での大虐殺などの史実が、ハルキ・ワールドと「井戸」という暗い穴によってつながり、現実世界と物語世界をリンクさせる新しいスタイルを生み出しています。90年代村上作品を代表する重い重い大作です。

<地下鉄サリン事件の衝撃>
 1995年、一時帰国していた村上春樹は、久々の日本帰国中に地下鉄サリン事件の衝撃映像を目にします。この後、彼は再びアメリカにもどりますが、翌年、日本にもどり、この事件の被害者たちに対するインタビューを行います。こうして、90年代村上春樹を代表するもうひとつの傑作「アンダーグラウンド」(ノンフィクション)が世に出ることになりました。
 この時の取材と作品化は、彼にとって新たな挑戦であり、その試練が彼を新しい段階へと進ませることになりました。だからこそ、そこから生まれた作品のもつ新鮮で前向きな力強さに感動させられてしまうのだと思います。この作品は、かなり分厚く重い内容なため読んでいない方が多いと思いますが、是非チャレンジをお薦めします。
 この作品で彼はサリンをまいたオウム真理教の狂気を描くのではなく、その事件に巻き込まれたごく普通の人々の人生を事件前から事件後へと淡々と追い続けることに徹しています。そこには英雄も悪人も登場せず、ドラマは静かにあの事件当日の地下鉄車内へと集約され、その後それぞれの運命をたどってゆくことになります。・・・そして、そこには人間に対する「優しさ」があり「生きようとする強い意志」があり、家族や恋人への「愛」があり、仕事に対する「誇り」があります。
 村上作品に共通するテーマ、もうひとつの暗い穴の中のような世界が地下鉄とするなら、そこから地上へとはい上がろうと苦闘する人々一人一人は皆主人公なわけです。例えノンフィクションとは言え、やはり村上作品には首尾一貫した主題が存在するのでしょう。
 こうして、世紀末の日本の姿をノンフィクションという形で描いた後、彼は1999年「スプートニクの恋人」を発表。21世紀を迎えることになります。その後21世紀に入り、彼は「海辺のカフカ」(2002年)「アフター・ダーク」(2004年)を発表。彼はまた新しいスタイルを作るべく挑戦を続けています。

<きちんとした人>
 村上春樹という人はいかなる人物か?僕のイメージでは、ずばり「きちんとした人」です。きちんと部屋を掃除し、きちんとレコード棚を整理し、きとんとした料理を作り、きちんと食べた後は、きちんと食器を洗う人。そして、きちんとしたスプリット・タイムを刻みながら、きちんと42.195キロを走りきる人。きちんとした取材、きちんとした文章で、きちんとした生活を送りながら、きちんとした創作活動を行う人。しかし、そうやってきちんと書かれていればいるほど、そこに描き出された作品世界のグロテスクさと混沌さは際だってきます。
 それにしても、こうやって多くの人々からイメージづけをされてしまう身になると、日本を離れたくなる気持ちが良くわかります。その点、小説家という仕事は、紙と鉛筆もしくはパソコンがあれば世界中どこででも可能なので恵まれているのかもしれません。
 コンサートも開かなくていいし、テレビに出演する必要もないし、雑誌の取材も受けなくていい。・・・もちろん、売れっ子になったらの話しですが・・・
 一度、彼の対談番組を見たい気もするのですが、・・・我慢します。
 その代わり、今までどうりきちんと作品を発表し続けて下さい。我が心の師匠!

<「ノルウェイの森」にて>
 実は昔「ノルウェイの森」がきっかけで大恋愛をしてしまったことがあります。(詳しく書くと一冊本ができちゃいそうなので、めいっぱいはしょることにします)
 場所は、長野県の木曽の民宿。僕はインドをいっしょに旅したI君に誘われて、彼の定宿?で開かれたクリスマス・パーティーに連れて行かれました。そのパーティーでむかえの席に座った女の子がこんなことを言いました。
「私、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだんですけど、好きになれなかった」
すでに村上春樹を「心の師匠」としていた僕としては黙っていられませんでした。
「村上春樹は、「ノルウェイの森」よりも、「羊をめぐる冒険」か「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで欲しいな」と思わず反論。
 そこから、滋賀県に住む女の子と埼玉県に住む僕との遠距離ラブ・ストーリーが始まりました。と、ここから先は早送りして・・・結末へ。
 彼女の家は古い家で、跡継ぎがいませんでした。そのため、彼女は婿養子を迎えるため、親戚の家から養子としてもらわれてきた子だということでした。(北海道ではあり得ないことです!)そのため、北海道から来たわけの分からない男、それも長男と付き合うなどもってのほか!ということになったわけです。彼女にそのことを電話で聞かされた僕は、最後の手段として、彼女の両親に直談判するため彼女の実家まで押しかけて行きました。
 それも、電話のあったその日に車を飛ばして行ったのですが当時僕は車を持っていなかったので、なんと友人であるG君に運転させて東京から滋賀まで行きました。後藤君には本当にお世話になりました。まさに青春時代でした。
 しかし、そんな僕の思いは残念ながら通じませんでした。ノイローゼ気味の両親には絶対に会わないでと言っていた、彼女の言葉を無視した僕の行動に、彼女は「そんなことはして欲しくなかった」と言い、僕らの別れは決定的になりました。でも、その時の僕にはそんなバカげた行動を後悔する気持ちはまったくありませんでした。若いって良いなあ!
 その後、僕の友人木村君が「恋をしたら狂って当然さ。何をやるかわかないのが恋なのさ!」と言った言葉は今でも忘れられません。こうして、東京駅でキスまでしてしまった元祖シンデレラ・ラブ・ストーリーは、激しくも短く燃え尽きてしまいました。
 そんなわけで、僕の人生とハルキ・ワールドはかなり深くリンクしてしまったわけです。(どこがリンクしてるって?)

<きちんとした後日談>
 実はうちの奥さんとは、この事件の後、すぐに出会いました。そして、こちらの方ははきちんとしたお付き合いをして、きちんとした結婚式を挙げることができました。きちんとした人間になるためには、一度は人間、狂った方が良いのかもしれません。
 みんなどうせなら一度は激しい恋をしましょう!

<締めのお言葉>
この街にやってきたとき、僕は門番に自分の影を預けなければならなかった。
「それを身につけたまま街に入ることはできんよ」と門番は言った。
「影は捨てるか、中に入るのをあきらめるか、どちらかだ」
僕は影を捨てた。

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」より


<エルサレム賞受賞記念講演より>(2009年2月18日追記)
2月15日 イスラエルのエルサレムで行われた文学賞「エルサレム賞」の授賞式における村上春樹氏による記念講演の要旨(2月16日北海道新聞より)
一、 イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む千人以上が命を落とした。
   受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと   思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。
一、 わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。
   どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
一、 高い壁とは戦車だったり、ロケット弾だったり、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
一、 さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。
   制度はわたしたちを守るはずの のだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷静かつ効果的、組織的に殺させる。
一、 壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。
   制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくるのではなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

以下は、村上春樹著「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」からの抜粋です。

「これが壁だ」と門番は言って、手のひらで馬を叩くときのように何度か壁を叩いた。
「高さは七メートル、街をぐるりととり囲んでいる。これを越せるのは鳥だけだ。出入り口はこの門の他にない。・・・」

「壁はそれを一枚の地図に捉えるにはあまりにも巨大であり、その息づかいはあまりにも強烈であり、その曲線はあまりにも優美だった。そして僕はその壁の姿をスケッチブックに描き写すたびに果てのない無力感に襲われることになった。壁は眺める角度によって信じがたいほど大きく表情を変え、その正確な把握を困難なものにしていた。・・・」

「世界の終りかもしれないが、ここには必ず出口がある。それは俺にはっきりとわかるんだよ。空にそう書いてある。出口があるってね。鳥は壁を越えるよな?壁を越えた鳥はどこへ行くんだ?外の世界だ。この壁の外にはたしかにべつの世界があるし、だからこそ壁は街を囲んで人々を外に出さないようにしているんだ。外に何もなきゃわざわざ壁で囲いこむ必要なんてない。そして必ずどこかに出口はあるんだ」

「・・・心は獣によって壁の外に運び出されるんだ。それがかいだすということばの意味さ。獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界に持っていってしまう。そして冬が来るとそんな自我を体の中に貯めこんだまま死んでいくんだ。彼らを殺すのは冬の寒さでもなく食料の不足でもない。彼らを殺すのは街が押しつけた自我の重みなんだ。そして春が来ると新しい獣が生まれる。死んだ獣の数だけ新しい子供が生まれるんだ。それは完全さの代償なんだ。そんな完全さにいったいどんな意味がある?・・・」

「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」

<カタルーニャ国際賞受賞スピーチ要旨>(2011年6月9日追記)
 東日本大震災で全ての日本人は激しいショックを受けた。今なおたじろぎ、無力感を抱いている。
 だが、われわれは精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくだろう。われわれはそうやって長い歴史を生き抜いてきた。
 日本は唯一核爆弾を投下された国だ。放射能が世界や人間の身にどれほど深い傷痕を残すか、われわれは被爆者の犠牲の上に学んだ。
 福島第一原発事故は日本人が体験する2度目の大きな核の被害だが、今回は爆弾を落とされたわけではない。自らの手で過ちを犯した。
 理由は「効率」だ。原子炉は効率が良い発電システムだと電力会社が主張し、政府も国策として推進した。
 地震国の日本は世界第3の原発大国となり、原発に疑問を呈する人には「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られた。
 だが原発は今、無残な状態に陥った。原発推進派の「現実」とは「便宜」にすぎなかった。論理をすり替えていたのだ。
 (福島事故は)すり替えを許してきた日本人の倫理と規範の敗北でもある。われわれは自らも告発しなかればならない。
 日本人は核に「ノー」を叫び続けるべきだった。技術力結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原発に代わる有効なエネルギー開発を国家レベルで追求すべきだった。
それが、広島、長崎の犠牲者に対する、集合的責任の取り方となったはずだ。
 損なわれた倫理や規範は簡単に修復できないが、それはわれわれ全員の仕事だ。新しい言葉を連結させなくてはならない。
 夢を見ることを恐れてはならない。「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追い付かせてはならない。われわれは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的は夢想家」でなくてはならない。

(カタルーニャ国際賞)
 スペインのカタルーニャ自治州政府(バルセロナがその中心)が1989年に創設した国際的な賞。文化、科学、人文科学分野の価値発展のため、意欲的・創作的活動が評価された人物」が選ばれる。過去の受賞者の中には、ジャック・イブ・クストー、アウン・サン・スーチー、ジミー・カーターらがいます。

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