- 村上春樹 Haruki Murakami -
Part 5

 21世紀に入り村上春樹の小説は、40ヶ国に及ぶ国々で翻訳・出版されています。三島由紀夫や川端康成、大江健三郎のような作家の作品も世界各地で読まれていますが、彼らの作品は日本という国に興味をもつ、一部の読書ファン、日本文化ファンという読書層をこえることはできませんでした。しかし、村上春樹の作品はそれまでの日本文学の限界をはるかに超えてしまったといえます。なぜ、彼の作品はそこまで世界中に人々に受け入れられたのでしょうか?今や、村上文学は「世界文学」になったのかもしれません。
 でも、世界中の誰でもが読みやすく理解しやすい物語。それが村上文学の特徴なのでしょうか?いや、それなら彼の小説は「童話」のような存在ってことになってしまいます。彼の作品を「世界文学」と呼ぶとき、そこにはより深い意味が込められているようです。

・・・むしろここで私の念頭にあるのは、自国の文化のコンテクストを離れ、翻訳を通じて様々な違う文化のコンテクストに受容され、そこで新たな生を始める - そういう現在進行中の現象としての世界文学である。当然、それは受容国のプリズムによって屈折させられ、変化していく。その意味での世界文学のヒーローは、原著者である以上にむしろ翻訳者なのだ。そして、一つの「村上文学」というものは存在しない。翻訳される言語の数だけ、翻訳者の数だけ、村上文学はあるのだ。しかし同時に、多彩な村上文学を合わせた総体を、私たちは世界文学の一部として思い描くことができる時代に生きている。
沼野充義

 しかし、村上文学が世界文学となりえたのは、世界各国の読者の側がそれを受け入れるように変化したおかげでもあります。時代が少しずつ彼の作品を受け入れられるように変化していったのです。したがって、その広がりは国ごとに、世代ごとに違います。村上文学のブームは、世界で同時多発的に起きたわけではありません。

 まだ、わたしの仮説なんですが、村上春樹の作品が世界中で読まれる背景には、読者の間にポップ・カルチャーという文化的な共通基盤があるだけではなく、韓国であれ、旧ユーゴスラビアの国々であれ、何らかの形で政治的挫折感を味わった、そういう著者にとくに受け入れられている気がしています。・・・
四方田犬彦(評論家)
 では、それぞれの国での受け入れ方が、どう異なるのかを簡単に振り返ってみましょう。

<中国では>
 中国圏では、中国から離れ独自の文化を持ち、本土よりも経済的に発展していた台湾の人々がいち早く村上文学に反応していたようです。次いで、まだ中国に復帰してはいなかった香港でも村上文学のブームが起き、その影響のもとでウォン・カーウェイ監督の「恋する惑星」のような作品が生まれています。さらに本土でも天安門事件で民主化運動における挫折を経験した若者たち、バブル的ともいえる経済的発展を経験した若者たちが、村上文学のファンになってゆきました。

<韓国では>
 戦後長く日本文化を排除してきた韓国では、当初村上文学を受け入れる下地はありませんでした。しかし、日韓共催となったワールドカップ・サッカーの成功など、日韓の雪解けが急激に進む中、戦争を知らない世代を中心に日本への関心が増しました。そして、経済的な発展とその後の不況を体験した韓国の若者の多くが村上文学の世界に飛びつくようになりました。今や韓国では多くの作家が村上文学の影響のもとに作品を書いているといいます。

<ロシアでは>
 ロシアは、1990年代以降、ソ連の崩壊とその後の経済不況を体験した若者たちがいち早く村上文学に反応し、海外でいち早く村上文学ブームが巻き起こった国となりました。ロシアでは、村上春樹の本を持ち歩くことは若者たちの間でステイタスとなりファッションの一部と化したとも言われます。

<ヨーロッパでは>
 ヨーロッパでいち早く村上文学に飛びついたのはフランスでした。フランスは、19世紀にいち早く葛飾北斎らの日本画に注目し、ジャポニズム・ブームをヨーロッパ中に広めた国でもあります。その後も、フランスはアンドレ・マルローによる日本文化の紹介やファッション、ジャパニメーション、北野武の映画などをいち早く評価するなどヨーロッパにおける日本の良き理解者でした。それだけに、村上文学に対してもいち早く反応しています。

<アメリカでは>
 最も村上文学が影響を受けているアメリカ文学の母国では、彼の作品は以外に理解されていませんでした。それはアメリカの若者たちが、他国の若者たちのように挫折を体験していなかったせいかもしれません。それを証明するかのように、2001年の「同時多発テロ事件」と「リーマン・ショック」以降、アメリカではの村上文学人気は急速に広まりつつあるようです。

 村上は僕の知るかぎり東と西にまたがることのできた初めての日本人作家です。まるで自分がウィスコンシン州マディソンとかサンアントニオとかの近所にいるみたいに書くことによって、彼は僕たちを武装解除します。パスタ、チャールズ・ミンガス、レイモンド・カーヴァーといった、特定の土地から離れて浮遊しあらゆる場所に語りかけているような、グローバル意識を作り上げているもろもろの要素を彼は巧みに使っているのです。
ローランド・ケルツ「ヴィレッジ・ヴォイス」

<意識の下の共通認識>
 このサイトは、立ち上げた2000年当初、「ロックッ世代のポピュラー音楽史」というタイトルでした。当然このサイトは、村上春樹とはまったく関係がありませんでした。ところが、その後、僕の好きなアーティスト、気になるアーティストを取り上げているうちに、このサイトは「村上春樹研究サイト」的になってきたようです。それは彼が描いてきた世界が、アメリカを中心とするポップ・カルチャーを基本にした世界観の上に成り立っていることを考えると当然のことかもしれません。僕自身、同じようなカルチャーを基礎にこのサイトを作ってきたのですから。(ただし、僕と村上春樹とは10年ほど世代が異なりますが、・・・)

・・・彼の小説は、グローバリゼーションの時代精神を捉えているだけではありません。彼の小説自体が、時代精神そのものなのです。村上がフィッツジェラルドやケルアックを自分の先達としてたたえていることはよく知られていますが、失われた世代の人々や、車でアメリカ中をさまよう者たちを謳い上げることによって、村上春樹はそうしたさまよえる人々を、われわれの生きる現在にまで - 自らの拠って立つ場が曖昧になり、移動することが常態と化し、国家的アイデンティティや地理的固有性といった静的な観念が見るみる消えていきつつある現在にまで - いわば引き延ばしているのです。
リチャード・パワーズ(作家)

 村上春樹という作家の作品のベースにある「ポップの世紀」的世界は、20世紀後半から21世紀にかけて青春時代を送った世界中の人々の精神世界とも多分に共通するところがあるはずです。だからこそ、世界各地の読者に彼の小説は受け入れられてきたのでしょう。

・・・村上春樹の物語は、分散した自己を生きること、古い国家が消えていくなかで新しい世界主義を生きることにめざましい心地よさを見出しています。難民状態が普遍化した時代にあって、われわれはどこで生きることを望めるでしょう?あらゆる場所にほかなりません。故郷がないからこそ、世界のどこにでも住みうる自由が生じます。ミラーリングする心の交渉のなかから、いたるところですべての場が立ち上がってくるのですから。自ら生きることによって、自分が書く物語のなかに故郷を見出す自由がわれわれにはある。そして他人が生きるのを見ることによって、自分が読む物語のなかで生きる自由がわれわれにはあるのです。
リチャード・パワーズ

 ここで書かれている「ミラーリング」という言葉については、説明が必要でしょう。以下の解説をご覧下さい。
「いくつかの調査においては、何かを実際に見るときよりそれを想像するときの方が、一次視覚皮質がより多量な血液を使っている。・・・何かをするのを想像することと、実際に何かをすることは、重なりあう営みなのだ。・・・視覚能力・運動能力を再現することが、思考することの根底にあるのだ。・・・」
ジョン・R・スコイルズ、ドリオン・セーガン著「アップ・フロム・ドラゴンズ」より

 脳内の神経組織は、何かの肉体的な作業を実際に自分がやらなくても、それを見ているだけで、行っているのと同じように信号を走らせるということです。それは、ある意味イメージトレーニングの効果を証明したともいえます。

<都会生活者たちへ>
 たとえジャズという音楽のことなど知らなくても、ジャズがかかっているある種の居心地の良い空間について、多くの人々は似たようなイメージを浮かべられるはずです。
 黒光りした重厚なカウンターのあるバー。カウンターの向こうには味のある顔つきのバーテンがいて、ビールを注いでくれます。もちろん、あなたの席の隣には素敵な女性が・・・。(いやあ、底が浅いイメージですいません)
 そんなイメージを描ける人々は、たぶん世界の中の一部、先進国の都市部に住む中産階級以上に属しているのでしょう。村上文学においては、こうした都市生活者こそが物語の主人公となります。そのため、読者は安心して、自分の分身ともいえる主人公に感情移入することができます。
 しかし、21世紀の今、それらの種族に属する人々の多くは、政治に不満を感じ、そのために何らかの行動を起こした後に挫折を経験し、自分が属する現在の体制(システム)に疑問を感じながらも、そこから先、どこへ向かうべきなのかを模索し続けています。
 そのうえ、グローバリズムという21世紀の巨大な世界的潮流は、人々の居場所を奪い故郷を奪いつつあります。

「まわりの空間があまりにも広すぎるので、自分という存在のバランスをつかんでいることがむずかしくなってくるのです。・・・風景と一緒に意識だけがどんどん膨らんでいって、拡散していって、それを自分の肉体に繋ぎとめておくことができなくなってしまうのです。」
「ねじまき鳥クロニクル」

<世界に開かれた文学>
 かつて村上春樹の小説がロシアで急激に人気を獲得した時期、同じようにロシアではオウム真理教が若者たちを中心に広がりをみせていました。では、心の隙間に入り込むカルト教団の教えと村上文学には共通する何かがあるのでしょうか?
 たぶんそこには、誰にでもわかりやすい言葉で作られた心引かれる世界観が共通認識としてあるのでしょう。そこにいれば安心できる何かがあるのです。しかし、カルト教団が信者たちを彼らだけの集団に閉じ込めて、世界との交信を絶つのに対し、村上文学は必ず壁の向こう、暗闇の中、井戸の底から現実の世界へと帰ることになっています。村上春樹が作る世界は常に現実世界へと開かれているのです。

「それは本当に - 本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。・・・
「でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの」

「ノルウェイの森」より

「本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる。」
「スプートニクの恋人」

 彼の小説は世界に向かって開かれています。
「人々の心は常に世界に向かって開けれていなくてはならない」彼の作品が発する唯一のテーマはこれかもしれません。
 実は、このサイトの目指すところも同じです。このサイトで得た情報を入り口に、外へ出てそれぞれの作品を体感してほしい。それがこのサイトの目的です。より多くの方に共通意識をもっていただければと思います。

 もし村上文学に何かひとつ支配的なテーマ、何かひとつ抗いがたい魅力があるとすれば、「われわれ」がどこで終わってどこで他者がはじまるのか誰にもわかりはしないという、奥深い、かつ遊び心に満ちた叡智とそがそれでしょう。
リチャード・パワーズ

「この世界における一人ひとりの人間存在は厳しく孤独であるけれど、その記憶の元型においては、私たちはひとつにつながっているのだ」
「海辺のカフカ」

 ただひとつ忘れてはいけないことがあります。そのことを、評論家の四方田氏が指摘しています。

・・・世界が春樹を読む。大いに結構です。だがその場合の「世界」とは何なのか。端的にいって勝ち組の国家や言語だけではないのか。ここに排除されているものは何なのか。誰なのか。・・・
四方田犬彦

 この問題を克服しなければ、世界はいつしか村上春樹的世界と、そうでない世界に二分されることになるかもしれません。いやすでに世界は、そうなっているのかもしれません。そして、この問題を解決することこそが、次なる村上文学の目標なのかもしれません。
 たかが「小説」されど「小説」です。

<追記>
 国際舞台への関心は、今日に国際化時代と結びついている。文学作品のなかには絶対に翻訳不能なもの、他の国にはわかってもらえないものもある。だが「国際化」が強迫観念として働くいまのような時代には、国境を越えられないものは二流のものだとの見方が生まれ、文学者の意識を歪ませることにもなる。
(村上春樹に代表されるグローバル化する小説の世界は、それだけがすべてではない!このことも忘れてはいけないでしょう)
「本を読む前に」荒川洋治

<参考>
「世界は村上春樹をどう読むか A Wild Haruki Chase」
 2006年
(企画)国際交流基金
(編集)柴田元幸、四方田犬彦、藤井省三、沼野充義
文芸春秋
17カ国23人の翻訳者、出版社、作家たちが語り合った作家・村上春樹についてのシンポジウム。その記録。

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