「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」
村上春樹インタビュー集 1997−2009

- 村上春樹 Haruki Murakami -
Part 6

<貴重な言葉の数々>
 村上春樹初のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」は、海外のインタビュアーも含めた様々な聞き手と村上春樹の対話をまとめたものです。そこには「小説とは何か?」、「小説を書くために重要なポイントは何か?」、「何のために小説を書くのか?」など、村上春樹という誰よりも寡黙な作家にしては珍しく小説についての熱い思いが語られています。
 もしかすると、海外メディアとの対話が日本向けではないということで、いつになく村上春樹氏も心を開いたのかもしれません。また、日本のメディア以上に彼の作品について詳しく語るインタビュアーの情熱に答えようと、いつになく熱く語ってしまったのかもしれません。
 質問に対する答えは、自発的に書くエッセイとはやはり違い、より村上春樹という作家の本質が引き出されているように思います。そこからわかるのは、彼がいかに長いスパンの計画をもって作家生活をおくっているのかということです。長距離走者として走り続ける彼にとって、作家活動とは1Kmごとにラップを刻みながら走り続けるマラソンと同じなのだということです。

「少なくとも最後まで歩かなかった」、墓石にそう刻んでもらいたい。
(以下、注記がない場合はすべて村上春樹氏の言葉です)

 スポーツマンガにでてきそうな名セリフです。彼自身がマスコミの前に顔を出さない伝説的存在だからこそ言えるセリフかもしれません。でも、彼が本当に凄いのは、それだけ小説に対する思いを持っていながら、いざ「書く」段階に入った瞬間、それらすべてのことを忘れ去り、小説の世界に没入できることです。

<書く前に待て!>
 だから僕は、小説家の坂にとって一番大事なのは、待つことじゃないかと思うんです。何を書くべきかというよりも、むしろ何を書かないでいるべきか。書く時期が問題じゃなくて、書かない時期が問題なんじゃないかと、小説を書いていない時間に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるかということが、結果的に凄く大きな意味を持ってきますよね。

 彼はなぜ、なんのために、なにを描こうと「小説」を書くのか?先ずは、彼が描こうとしている現代社会について、その分析から始めます。この言葉は、高橋源一郎氏の「小説論」とぴったり一致しています。

<オープン・システムとクローズド・システム>
 村上春樹の作品において、重要な言葉に「システムの戦い」があります。あの有名な「壁と卵」の演説のテーマは、その象徴といえます。

 冷戦時代には東西という二つのシステムの戦いでしたよね。それが、今では異種のシステムとシステムの戦いみたいになっている気がするんです。
 それは何かというと、オープン(開放)システムとクローズド(閉鎖)システムの戦いです。オウム真理教というのは完全にクローズドシステムで、外なる社会というのはオープンシステムですね。それはひとつの社会体制と別の社会体制の対立というのではなく、同じ社会体制の中にも閉鎖系があり、開放系がある。そういう点では物事は以前よりずっと内向化しているし、複雑化しているし、見えにくくなっているところがある。どっちが優れたシステムで、どっちが善でどっちが悪かというのは、これはものすごくわかりにくい話で、ある場合にはクローズドシステムの方が非常にうまく機能している部分もあるわけです。・・・・・
 『アンダーグラウンド』を書いてみて思ったんだけど、結局のところ僕は、被害を受けた人々、何時間もかけて満員電車で通勤している人々の作りあげている社会を根源的には信じていると思う。・・・・・


<新システムの模索>
・・・結局、今の世界が経験していることは何かというと、再編成ですよね。冷戦後の世界体制の再編成や経済の再編成、テクノロジーの再編成があって、当然文学というのも再編成されていかざるを得ない。
 で、そういう再編成におけるいちばん深刻な問題は何かというと、それは整合性の欠如ですね。これまである種の整合性の枠内である程度明白にとらえられたものが、そうじゃなくなっている。混沌の中に呑み込まれていって方向がわからなくなっているわけです。その中で、これまでの方向感覚、座標軸でとらえられなかったものを違う座標軸でとらえなくてはいけないんじゃないかということが出てくるわけです。そこで何が有効になってくるかというと、さっきから言っている物語性なんです。・・・
 物語というのは、世界中にあります。・・・いろんなところにいろんな異なった物語性があるんだけど、世界中の神話に共通する部分があるのと同じように、物語性の中にもお互い呼応する共有部分というのが、いっぱいあるわけです。・・・・・


 21世紀に入り、これまでの秩序(システム)が、崩壊する中、人類は新たなシステムを確立するための模索を続けています。そして、そのために必要とされる重要なツールの一つに「物語」があるということです。

 最初にやったのが『アンダーグラウンド』の仕事です。僕はあの本を「ノンフィクション」だとは考えていません。もちろんフィクションではない。しかし、ノンフィクションでもありません。僕としてはそれをむしろ「物語(ナラティブ)の集合体」として考えています。僕がインタビューした人々は、事件の被害者たちは、みんなそれぞれに語るべき個人の物語を持っていました。彼らはたしかにそこで事実を語りました。でもそれは百パーセントの事実ではありません。それらの事実は彼らの体験を通して目にされた光景です。これはひとつのナラティブです。
・・・彼らのナラティブのうちのあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォメーションを総合したものが、その総体が、ひとつの広い意味での真実を形成するからです。


 20世紀の人類は、マスコミが伝える「情報」こそ、真実を伝える唯一の存在と考えてきました。しかし、本当にそうなのでしょうか?「情報」が伝えきれない何か重要なものがあるのではないか?それを伝えることができるとすれば、「物語」の中ではないか?新たな「情報伝達」手段としての「物語」の可能性。これが未来の文学なのかもしれません。

<脱カルトのための物語>
・・・地下鉄サリン事件とは、彼らのナラティブと、我々のナラティブの闘いであったのだということです。彼らのナラティブはカルト・ナラティブです。それは強固に設立されたナラティブであり、局地的には強い説得性を持っています、それゆえに多くの知的な若者たちがそのカルトに引き寄せられました。彼らは美しい精神の王国の存在を信じました。そして彼らは我々の暮らす、矛盾に満ちて便宜的な社会を攻撃しました。

 「システム」と「システム」の闘いは、「情報」と「情報」の闘いではなく、「物語(ナラティブ)」と「物語」の闘いなのかもしれません。

<脱テロリズムのための物語>
 ええ、今日、多くの場所で、閉じた世界がだんだん強くなってきています。原理主義、カルト、軍国主義。でも閉じた世界は武力では壊せません。壊してもシステム自体は残ります。たとえば、アルカイダの兵と全員を殺すことはできても、閉じたシステム自体は、理念は、残ります。どこかよそへ場所を移すだけの話です。
 なしうるベストのことは、ただ語ってみせることです。開かれた世界のよい面を見せること。時間はかかりますが、長い目で見れば、開かれた世界のそういう開いた回路は、閉じた世界がなくなっても残ると思う。


 閉じた世界を開かせるために出来ることは何か?そのために「物語」は何ができるのか?

<世界の危機を知らせる「物語」>
 自分たちは比較的健康な世界に生きている、とみんな信じています。僕が試みているのは、こうした世界の感じ方を揺さぶることです。僕たちは、ときに、混沌、狂気、悪夢の中に生きています。僕は、読者がシュールレアリスティックな世界、暴力や不安や幻覚の世界に潜ってゆくようにしたい。そうすることによって、人は自分の中に新しい自分を見出せるかもしれません。

 村上春樹が好きな作家、故カート・ヴォネガットはかつて、SF作家の使命は「炭鉱夫が坑内の持ち込むカナリヤのように人々に危機が近づいていることを知らせること」といいました。

 もちろん小説家が個人的な意見を発表してはいけないということでは、まったくありません。しかし、小説家の役割は一つの意見を表明することよりはむしろ、それらの意見を生み出す個人的な基盤や環境のあり方を、少しでも正確に(フランツ・カフカが奇妙な処刑機械を異様なばかりに細密に描写したように)描写することではないか、というのが僕の考え方です。極端な言い方をするなら、小説家にとって必要なものは個別の意見ではなく、その意見がしっかり拠って立つことのできる、個人的作話システムなのです。

 小説家は、個別の見解を述べるよりも、それをトータルな世界観にまとめて「物語」として提示するべきである。やはりここでも「物語」の重要性が語られています。

<自己表現のための物語>
 今、世界の人がどうしてこんなに苦しむのかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。・・・だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
 僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていなくて、僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんですよ。・・・・・


 「生きる」意味とは?その根本的な部分についての問いかけ。
 現代社会は、誰もが自分の存在を、ネットやマスコミを通じて世界に発信できます。それだけに、誰にも知られない人間でいることは、存在価値がない人間であることとイコールと考えられる時代なのかもしれません。
 だから、誰もが世間に自分の存在を知らせようと、時には犯罪行為によって、自らの存在を表明する。そんな危険な時代でもあるのです。

<物語の危険性>
・・・僕の場合、物語ということで追求していくと、ある部分そういうところに行くことになるんじゃないのかな。ただその非近代化を現代にいま持ち込むというのは、ある意味では危険を伴うことになるんですよね。下手すれば宗教がかってしまうし。たとえばヒトラーがやったみたいに古代ゲルマンの神話体系を持ち込んでくるようなことになってしまうと、すごくまずいことになります。だから非近代的な中でも、ある程度腑分けしなくちゃいけないわけです。その腑分けを意図的に取り違えてしまうと、これは危険なことになると思う。

 「物語」による世界観の表現は、ある種の神話体系の構築に似てきます。理想的なユートピアや恐るべきディストピアを描くことは、実在の世界の宗教や文化、伝説的な過去の理想郷に似てきたりしがちです。そうなると、その世界観は前近代的な民族主義や宗教絶対主義に陥り、再び世界を聞きに巻き込む危険なシステムを生み出す可能性が高まることになるでしょう。

<深層心理への冒険としての物語>
 こうした、地球規模の新たな世界観を構築する挑戦には、人類全体の深層心理に迫る試みが必要とされるのかもしれません。そして、そのためにこそ「神話的な物語」の発見?構築?創造?が求められるのでしょう。そして、それはかつて「シュールレアリスティック」と呼ばれた精神世界への冒険に近いものかもしれません。

・・・それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上学的だとか、メタファーだとか、シュールレアリスティックだとか、言われるんでしょうね。でも、僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものごとはむしろ自然なものとして目に映ります。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは論理をいつも介入させられるとはかぎらない、法外な経験なんです。
 夢見るために毎朝僕は目覚めるのです。


 こうした井戸の底への旅こそ、村上作品のもつ最大の特徴です。多分、優れた小説の多くは、多かれ少なかれそうやって書かれたに違いないと思います。だからこそ、著者は物語を生み出す過程で、自らも物語を体験し、それにより変身を遂げるのです。

 ええ。そして主人公が体験する冒険は、同時に作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。
 言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっている、ということです。


 こうした、著者の冒険は、作者の分身を物語の世界に侵入させ、そこで物語を体験させることを必要とします。著者に分身があるように、現実の世界にもやはりもうひとつ別の世界が存在します。

 いつも言うんだけれど、「僕」という小説の中の主人公は、僕の仮説なんですよ。ひょっとしたら、僕がそうなりえていたかもしれないもの、人生のどこかの段階で違う方向に歩んでいたら、そうなっていたかもしれない存在なんです。・・・僕は、いろんな状況にいろんな仮説の僕を放り込むことによって、物語が動いていく様相というのを書きたかったんです。そういう意味で、僕の中には、自分がいくつもの人生を生きているという気分がすごくある。

 僕らは、ひとつの世界、この世界に生きていますが、しかし、その近辺には別の世界がいくつも存在しているのだと思います。もしも、あなたがほんとうに望むなら、壁を通りぬけて、別世界へと入っていくことができるでしょう。

 「物語」は、主人公を変化させると同時に作者をも変化させます。しかし、それはけっして成長することを求めるわけではありません。「物語」に必要なのは「ハッピーエンド」という結果ではなく、あくまで経験することであり、それによって登場人物、作者、そして読者を変えることにあるのです。

 そのとおりです。経験そのものがひとつの意味です。その経験の連鎖を通して主人公は変化します。それがいちばん重要なことです。彼が見つけたものだはなく、彼が見つけなかったものにでもなく、彼がくぐり抜けてきた変化にこそ意味があるのです。

<小説の書き方(アメリカ文学とジャズ、映画の影響)>
 ここからは「物語」を生み出すための具体的な手法について語られている部分を取上げてみます。先ずは、彼が29歳の時に神宮球場で突如小説を書こうと思い立った頃のことから・・・

 二十九歳のときに小説を書こうと思ったとき、僕には小説の書き方がわかりませんでした。それまで日本の小説をあまり読んだことはなかったし、だからどうやって日本語で小説を書けばいいのか、見当もつきません。でもあるとき、こう思ったんです。良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。・・・

 まったく小説など書いたことのなかった彼になぜいきなり小説が書けたのか?それは、彼の中に蓄積されていた様々な知識や思いの深さのおかげでした。
 ジャズ・バーをやりながら聴きまくっていたジャズの影響。高校生の頃から、アメリカの小説の原書を読んで身につけたアメリカ文学の影響は必要不可欠のものでした。

 これは極端な意見かもしれないけど、アメリカ合衆国という国家そのものが、フィクショナルな存在であると言っていいような気もしました。となると、僕がその国の文化を個人的にフィクショナライズしていたのも、あながち間違ったことではなかったかもしれないですね。

 同じように学生時代に見まくった映画と読みまくった映画のシナリオによって獲得した映画的な視点の影響もまた彼にとっては大きな武器になったようです。

 今の人はビデオ屋に行けば何でもある。もちろん便利でいいんだけど、でもそれはそれとしてシナリオを読むのって面白いですよ。慣れると、頭の中にすらすらと映像が浮かんできて、けっこうな病みつきになっちゃう。実際にそういう風にして読んだシナリオの映画を、たまたまリバイバルで見たりすると、「おい、オレの方がもっといい映像を頭の中でつくってたぜ」とか。

 ちなみに現代音楽の巨匠シェーンベルクは楽譜についてこう言っていたそうです。

「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ」
アーノルド・シェーンベルク

 さらに彼は自分ならではの小説を生み出すために自分だけの文体、自分だけの言葉を生み出そうと努力を重ねます。

 どんなに威勢のよい言葉も、美しい熱情溢れる言葉も、自分の身のうちからしっかり絞り出したものでないかぎり、そんなものはただの言葉に過ぎない。時代と共に過ぎ去って消えていくものです。この経験から僕は「耳に心地よい言葉」はあまり信用しなくなりました。小説を書くにあたっても、人の言葉を借りることはせず、新しい「自前」の語彙を絞り出すように努めてきました。
 僕自身が最も理想的だと考える表現は、最も簡単な言葉で最も難解な道理を表現することです。少なからざる人がごく簡単な道理を難解な言葉で表現しようとします。これは馬鹿げているだけではなく、時としてとても危険なことでもあります。


 あれこれ言う前に、やっぱり小説というのは文体だと思うんです。僕は文体というのはフィジカルな流れとか強さみたいなものが文体を規定している。頭で考えた文章というか文体というのはあんまり意味持たないと思うんです。

<総合小説の完成に向けて>
 彼は新しい作品を書くたびに新たな文体、ジャンル、キャラクターなどに挑戦し続けていて、マンネリというものを知りません。なぜなら、彼は自らのゴール地点を設定していて、そこに向かって日々少しずつ進む努力を続けているからです。

 ただ僕は、自分の小説の最終的な目標を、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」においています。そこには、小説が持つすべての要素が詰め込まれています。そしてそれは、ひとつの統一された見事な宇宙を形成しています。僕はそのようなかたちをとった、現代における「総合小説」のようなものを書きたいと考えています。

 しっかりとした目標があり、そのためにできる事は何かを常に考えながら、彼はエンターテイメントとしての小説の役割りについても常に考えています。そのあたりは、ロシア文学を目標としながらも、同時にレイモンド・チャンドラーカート・ヴォネガットアーネスト・ヘミングウェイなど、アメリカのエンターテイメントな小説を愛する彼らしいところです。

 最初にひとつのイメージがあり、僕はそこにあるひとつの断片を別の断片に繋げていきます。それがストーリー・ラインです。それから僕はそのストーリーラインを読者に向かって提示し、説明する。うまく呑み込ませる。何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり親切にならなくてはならない。「いや、自分さえわかっていればそれでいいんだ」という態度では、ほとんど誰もついてきてくれない。簡易な言葉と、良きメタファー、効果的なアレゴリー。それが僕の使っているヴォイスというか、ツールです。僕はそのようなツールを使って、ものごとを注意深く、そしてクリアに説明します。

 彼の小説の凄いところは、それがフィクションであるどころか、現実には絶対にありえない異常な出来事を扱っていながら、読者にそれを現実であるかのように信じさせるところです。

・・・ある意味では、僕は読者に向かって「これはただの物語なんですよ」と言ってしまいたいのです。要するに、「これはただの作り話なんですよ」と。しかし読者がその作り話がその作り話を、作り話であると同時に掛け値なしの現実になるんです。

<嘘を現実にするリアルな描写>
 しかし、「ウソ」なのに「真実」と思わせるのは、カルトの教祖なら可能でも開かれた世界ではなかなかできることではありません。そのために彼がこがわっているのは、「ウソ」をあくまで「リアル」に細部まで描き込むということです。

 僕は細部がとても好きなんです。たとえばトルストイは全体像を描くことに心血を注ぎます。でも僕はむしろ、どうでもいいような細かい部分に目を注ぎたいんです。あなたは何かを凝視しようとする。すると、あなた焦点はどんどんその個別の部分に接近してゆく。そしてそこで、トルストイの小説とはまったく逆のことが起こります。接近すれば接近するほど、ものごとはむしろ非リアリスティックになっていくのです。それが小説において僕のやりたいことです。

 彼は基本的に作品の舞台を現実の場所に設定することはありません。もし、現実に存在する土地を舞台にする必要があったとしても、彼はけっしてその土地を訪れて調査を行ったりしないといいます。(例えば、「ねじまき鳥クロニクル」の時も、彼はノモンハンには調査に行ってはいません)
 そうすることで、彼の小説の中の舞台はたとえばそれが実在の場所だとしても、どこか異空間に存在する場所のような感覚を憶えさせてくれるのです。

 普通の人は本を書く前に、リサーチのために現地に行く。でも僕は逆のことをやったわけです。想像力というのは、僕にとってもっとも重要な資質です。実際にそこに行くことで、想像力をスポイルしたくなかった。

 やっぱり村上春樹は凄い、と改めて思いました。リーマン・ショック、同時多発テロ、オウム真理教事件、阪神淡路大震災、東日本大震災、ギリシャ危機、・・・混沌とする21世紀。
 なぜ村上春樹の小説が世界中で読まれているのか?それも中国とソ連で特に人気が高いのは、二つの大国が共産主義から民主主義いや拝金主義へと傾く価値観の崩壊に直面しているからです。価値観が崩壊する時、人はカルトもしくは宗教に救いを求めがちです。しかし、神に祈ることを忘れてしまった現代人の多くは新たな価値観を求めて、多くの人々と共有できる世界観をもつ「物語」を求めているのでしょう。
 小説家のやるべき仕事は、壮大なスケールで展開するであろう人類救出作戦の台本を書くことなのです。そんな気概を持って小説を書いている作家は他にも少なからず存在します。(そう多くはないのですが・・・)
 このサイトでは今後も、そうした本物の「小説家」の作品を、それなりの気概をもって紹介してゆきたいと思います!

<参考>
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997−2009」 2010年
文芸春秋

20世紀文学大全集へ   村上春樹トップページへ   トップページへ