映画黄金期のカリスマ・スター、悲劇と栄光の日々

- 長谷川一夫(林長二郎) -
<元祖イケメン俳優>
 サイレント映画の時代からキャリアをスタートさせ、海外で日本映画が高い評価を得た黄金時代まで活躍を続けた日本映画の黄金期を代表する俳優です。しかし、その間、映画界に残っていた闇の部分にも翻弄され、様々な事件にも巻き込まれた波乱万丈の人生を歩んだ人物でもあります。
 そして何より、彼は日本映画界における「イケメン俳優」の元祖でもあり、そのイメージを守るため55歳の若さで映画界を去ったカリスマ俳優でもありました。さらにいうと、歌舞伎出身の俳優だったことから、女装して女性を演じることもできるジェンダーレス俳優の先駆的アイドルだったとも言えます。

<林長二郎>
 長谷川一夫は、1908年(明治41年)2月27日京都市伏見区の造り酒屋の息子として生まれました。(皮肉なことに、彼は大人になってもお酒は苦手だったようですが・・・)子供時代から芝居が大好きだった彼は1918年(大正7年)関西歌舞伎の初代中村鴈治郎の弟子となります。10歳で芸名「林長丸」として初舞台を踏みました。しかし、8年後、彼はスター俳優を探していた松竹にスカウトされ映画界入りすることになりました。
 こうして18歳の時、彼は松竹加茂撮影所で時代劇俳優としてのキャリアをスタートさせ、この時、芸名を林長二郎とし、美男俳優として大々的に松竹にプッシュされることになりました。
 1927年、いきなりの主演で「稚児の剣法」(監督は大塚稔)が公開され大ヒットとなります。なんとそこから一年間に17本出演し、いずれもヒットします。
 当時、映画界では彼と同じ時代劇スター、阪東妻三郎、市川歌右衛門などが活躍していましたが、彼のチャンバラを歌舞伎出身だけあって、舞うような美しい立ち回りを得意としていました。その後も、「忠臣蔵」「二つの燈籠」「鼠小僧治郎吉」「鯉名の銀平」「一本刀土俵入り」など次々にヒットを飛ばし、甘いマスクにより多くの女性ファンをひきつけることになりました。
 1935年(昭和10年)、大ヒットなった衣笠貞之助の「雪之丞変化」は、親のかたき討ちをするために役者となって敵に近ずく侍の物語。有名な「長崎の敵を江戸で討つ」の元になった時代劇で、彼は主人公の雪之丞だけではなく、仲間の義賊、闇太郎と母親(女形)と三役を演じました。
 デビューした翌年、1928年1月、彼は松竹本社に新年の挨拶をするため京都から上京することになっていました。ところが事前にそのことを知った彼のファンが東京駅に押し寄せ大混乱になりました。女性がほとんどのその数は一万人を越えていたといいます。当時、若い女性が好きなモノは、「みつまめ」と「林長二郎」と言われていて、その頭をとって「ミーハー」という言葉が生まれたとのことです!
 昭和10年代、彼は、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川歌右衛門と共に6大剣劇スターの一人として映画界を代表する存在になっていました。当時の男性俳優においては、映画スター=剣劇スターでした。
 1937年(昭和12年)、人気絶頂だった29歳の彼は、突然、東宝への移籍を発表します。移籍の最大の理由は、給料の問題でした。松竹に入社して10年間務めた彼の月給は、最初の200円から400円にアップしたものの、阪東妻三郎の3000円や片岡千恵蔵の1500円にははるかに及びませんでした。当時、東宝は新しい撮影所を建てたばかりで、新体制のもと他社から俳優やスタッフの引き抜きを行っていました。しかし、彼は松竹に育てられた俳優の一人でもあったので、周囲からは恩義を忘れたのか!と批判されることになりました。

<林長二郎傷害事件>
 1937年11月12日、渡辺邦夫監督の「源九郎義経」の撮影初日、彼は共演者の大河内傅次郎、入江たか子と宣伝用のスチール写真撮影に参加。仕事を終えて撮影所を出たところで、待ち伏せていた暴漢に突然襲われます。暴漢は、2枚の安全カミソリで林の左頬を12センチも切って逃走しました。この時、彼は第一声で「鏡を、鏡を!」と自らの顔の心配していたと言います。まさに役者魂です!
 その後、ヤクザの増田三郎と金成漢が犯人として逮捕されました。警察で二人は犯行理由について「松竹の恩義を忘れたことへの天罰」と証言。林の切り傷が深かったことから、映画の撮影は当然中止となりました。
 実は、その事件には映画界の背後に関わってきたヤクザの存在があり、そのことが後に明らかになりました。
 当時、林の移籍をやめさせようと、松竹の社長の弟、白井信太郎が松竹系新興キネマの撮影所所長の永田雅一に現金1000円を渡し、工作を依頼しました。なぜ永田に依頼したのかというと、彼は映画界で働く前は関西の本物のヤクザだったからです。依頼された永田は、自分が昔組員だった京都西陣の千本組に所属する笹井英次郎を使い、林を脅させ、移籍をやめさせようとします。ところが、その依頼を持ち込まれた笹井がその上を行く悪者でした。彼は林を脅すよりも、実際に襲ってしまったら、松竹は罪を逃れられなくなると考えます。そうなれば、自分が松竹の弱みを握ることになり、それをネタに脅迫ができる。それも巨額の金を要求できるだろう。そう考えたのでした。こうして、笹井はヤクザの増田に犯行を行うように指示。ところが、増田も自分が手を汚すことはないと、たったの50銭を渡して金に実行させたのでした。しかし、警察も馬鹿ではなく、二人の犯人を徹底的に追求し、笹井とその依頼者の永田にまで辿りつきました。これで永田も逮捕されることになるのか・・・ところが、ここでまたどんでん返しが起きます。会津小鉄の流れをくむヤクザ組織「いろは組」の松本常吉が自分が事件の首謀者であると警察に名乗り出たのです。一時は、逮捕を覚悟していた永田は、これで逮捕を免れ、笹井が懲役1年、他の2人が懲役2年という判決が下されました。
 笹井と金は出所後、罪を免れた永田をゆすり続けます。大映を立ち上げ、一躍時代の寵児となった永田にとって、二人は最悪の存在でした。しかし、金はゆすりをあまりにしつこく続けたため、ついには千本組により制裁を受けた後、韓国に強制送還されることになりました。笹井は大阪梅田にできた大映の劇場内にとんかつ屋を出店しますが、結局失敗してしまったようです。(増田は本物のヤクザらしく筋を通し、永田をゆすることはしませんでした)
 こうして林長二郎は一時は恩知らずと呼ばれたものの、事件により悲劇のヒーローとなり、移籍に対する批判は収まり、傷もなんとか治ると、6か月後には映画の撮影に復帰します。ただし、林長二郎の名前は、松竹が権利を持ち、使用できなくなったため、芸名を本名の長谷川一夫に改めました。

<長谷川一夫>
 長谷川一夫に改名後も、彼の人気は衰えませんでした。しかし、時代は戦争の混乱期に突入。彼は時代劇のヒーローではなく、国威発揚のための現代劇俳優として活躍し始めます。特に中国で活躍する軍人役で出演した、李香蘭(山口俶子)との共演作品「白蘭の夜」、「熱砂の誓い」、「支那の夜」は大ヒットしています。
 1944年、彼は召集されて入隊。三か月の訓練を受けたところで終戦の時を迎えることになりました。
 1947年、戦争が終わり、日本中で労働運動が盛り上がる中、有名な東宝争議が勃発。映画の製作現場も大混乱する中、彼は東宝を退社し、仲間たちと共に新東宝を設立します。しかし、そこも1年で退社すると自らの製作プロダクション「新演技座」を設立。60名のスタッフを抱えて、映画「小判鮫」「甲賀屋敷」などの時代劇を製作します。ところが、配給する東宝、新東宝が不振で、日本経済もまだ低成長だったことから、大きな赤字となり、1億2千万円の負債を抱えて倒産してしまいました。幸いなことに、この巨額の負債は大映の社長となっていたあの永田雅一が肩代わりしてくれました。これであの傷害事件の借りを返したわけです。

<大映時代>
 負債を肩代わりしてもらった長谷川一夫は、さらに大映に重役として雇われ、映画俳優としても働くことになり、新たな黄金期を迎えます。
 彼が出社する初日、大映京都撮影所の玄関には、永田社長ら所員がずらりと並びお出迎えをしたと言います。そして、その出迎えの顔ぶれの中には、出所していた笹井と金も居たと言います。嘘のような本当の話。当時はそれほどヤクザと映画界の結びつきは強かったし、当たり前のことだったのです。
 大映に移籍した彼は、再び活躍を開始。「月夜の渡り鳥」がヒットし、次なる「銭形平次」も大ヒット。17本も製作される大人気シリーズとなりました。
 1951年、彼は大映の創立10周年記念作品「源氏物語」に出演します。監督は巨匠吉村公三郎で脚本が新藤兼人、監修は谷崎潤一郎という豪華な製作陣。完成した豪華な歴史絵巻は海外で高い評価を受け、カンヌ国際映画祭では撮影の杉山浩平が撮影賞を受賞しました。光源氏を演じた長谷川は海外にもその名を知られることになりました。
 1953年、海外での高評価に気をよくした永田は収益を度外視した質の高い作品を目指し、衣笠貞之助を監督に「地獄門」を製作。この作品も海外で高い評価を受け、カンヌ国際映画祭でグランプリ、ロカルノ国際映画祭で金豹賞、アカデミー賞では衣裳デザイン賞を受賞しました。さらに彼は溝口健二監督の「近松物語」にも出演し、こちらもまた海外で高い評価を得ています。
 1963年、彼は出演300本記念映画として、名作「雪之丞変化を市川崑監督によりリメイク。しかし、この後、彼は「江戸無常」(1963年)に出演後、あっさりと映画界から引退します。
 55歳となり、クローズアップされた自分の顔に衰えが見えるからというのが理由でした。
 これ以後、彼の活躍の場は、舞台とテレビに移ります。NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」に史上最高の出演料で出演。俳優ではなく演出家としても活躍し、1974年に一大ブームとなった宝塚劇場の「ベルサイユのばら」では彼は演出を担当しています。
 1984年4月27日、腫瘍により76歳の生涯を閉じました。死後、彼には俳優として初の国民栄誉賞が授与されました。

<参考>
「昭和の映画ベスト10 男優・女優・作品」
 2019年
(著)西川昭幸
ごま書房

邦画の歴史と代表作へ   トップページヘ