橋本治の残した言葉集


「思いつきで世界は進む」より

- 橋本治 Osamu Hashimoto -
 今は亡き、橋本治先生。
 一度、会って話してみたかった。
 ここでは橋本治が残した文章をまとめた本「思いつきせ世界は進む」の中から、厳選したお言葉を書き出してみました。
 どれも説得力のある素晴らしいお言葉ばかりです。

<おバカ>
 いつから日本人は、「バカ」のことを「おバカ」といって、その軽蔑度合いを軽くしてしまったのでしょうか?
 それって、「バカ」であり続けることを認めただけでなく肯定してしまったということなのでしょうか?そこに見事に突っ込んだお言葉から始めます。

 「バカ」を「おバカ」と言って中和した結果、日本人は大切なものをなくしてしまった。それは「恥」の感覚ですね。

 なんで「バカ」じゃいけないんだろう?「危険だからやめましょう」と言われるよりも、「バカがやって、バカになる、バカドラッグ」の方がずっと大きな抑止力になると思うのは、「バカ」と言われないことにあぐらをかいている人間だからこそ、そんなドラッグに手を出すからだ。

 「バカ」であることを容認するということは、日本の文化レベルの低下を認めるということでもあります。そしてそのことは、日本のニュース・レベルの低下にもはっきりと表れていると橋本治は怒っています!

・・・あきれるのは、視聴率低迷で悩むテレビ局が「イケメンのコメンテーターをキャスターにすればニュース番組の視聴率が取れる」と発想してしまったことで、そこまでニュース番組のレベルを下げてどうするんだよ。

 「幼児性がある」というのは、別に悪いことではない。誰の中にもそれはある。それを弾圧してしまうと、人間は錆びついてしまう。でも、幼児性は誰の中にもあるもので、成長した人間は、自分の幼児性を守るために、そして暴走させないために、幼児性を覆うカバーを持っている。そう進むのが「成長の方向性」というもので、日本人はそれをいつの間にかなくしたらしい。

「大人にならなくていい。大人にならずにいれば、消費経済を支えるいい消費者になれる」でいいんだろうか?

<「アナと雪の女王」のヒットについて>
 「バカ」であることの容認。いやその肯定についての最大の現れは、ディズニーへの評価の無条件な高さです。誰も言いませんが、ディズニーは世界を平和にすると見せかけて、世界中の人々を「バカ」にしてしまう恐るべきメディアなのです。そのことをなぜ誰も指摘しないのか?そこは僕がいつも思っていたことです。
 「アナと雪の女王」の大ブームはその象徴的な事件でした。

 すごい婉曲なことを言っていますが、バカ達が声を合わせて「ありのままの!」と歌っていると、「バカのまんまでいいのかよ!」と思うな - ということですね。
 人間のあり方は変わって、今の「ありのまま」派の人は、きっとお小遣いでいろんな物を買って消費経済を動
かすんだろう。つけまつ毛の一件に関しては、どうでもいいと言えばどうでもいいが、「ありのまま」によって動かされる世界経済というのは、哀しいものだと思います。


<花火大会で落雷から逃げる女子の笑顔について>
 ニュース映像のワンシーン、花火大会に雷が落ちた事件でのこと。人々が混乱し逃げ惑う中で笑いながら逃げている女の子の映像を見て、あきれ返った時のお言葉です。

 まァ、無知で恥知らずでも生きて行けますね。他人に不快な思いを与えるかもしれないけれど、それだって、「キャーッハッハッ!知らなかった」と笑ってしまえば、どうということもありませんしね。・・・
 で、それはそれでいいけど、危機意識までなくしちゃっていいの?


<憲法の役割>
 こちらは凄く真面目な部分です。憲法のあり方について。新型コロナウィルスのドサクサに紛れて、政府はまた憲法改正が必要と言いだしています。ウィルス対策になぜ憲法改正が必要なのか?そこじゃないですよね。問題なのは、政府トップの判断力のなさですよね!

 民主主義国家の憲法は、国民というものの側に立って、うっかりすれば国民の権利を規制しかねない国家権力を縛るものです。それが民主主義国家に於ける憲法の第一原則であるはずなのに、日本人の多くは「国家権力を縛る」という発想を持ちません。・・・・・
「戦後という時代は確立されているのか、いないのか」という不安感は、この「憲法そのものに関する認識の欠落」によるものではないのかと、私は思います。・・・・・


<平成と昭和>
 「昭和」という時代はは長かった。多くの歴史的事件があり、そこから現代につながる様々なことが生まれました。それに比べると「平成」は短いだけでなく歴史的にも忘れらがちな時代になるでしょう。

 平成の30年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。たいしたことのない芸能人が、古くからいるという理由だけで「大御所」と呼ばれる。年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。平成の時代を輝かせた「平成のスター」である安室奈美恵や小室哲哉は、平成が終わる前に消えようとしている。平成は短命だが昭和は長い、というのではないだろう。昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている - としか思えない。

<日本人と自由>
 日本人にとって「自由」とは何なのでしょうか?与えられた「自由」しか知らない日本人は、「自由」を永遠に理解できないままなのか?

 バブルの後「失われた20年」みたいな言われ方をしたけれど、日本の軍国主義も「失われた20年」に近いようなものかもしれない。別に、戦争を軽んじて言っているのではなくて、「戦後」あるいは「終戦」を一区切りとしてしまうと、「それ以前の時代はずっと暗黒だった」的な理解が生まれてしまう - 明らかに一時期はそうだった。
 でも、近代になって西洋からそれ(自由)がやって来なくても、日本は「自由」で「のん気」で「わがまま気まま」ではあった。(「大正デモクラシー」、「自由民権運動」、「江戸町文化」など)
 だからこそ問題は生まれる。仏教系の古くから日本にある「自由」は内面的なもので、「外からの抑圧によって自由が妨げられている」というような質のものではなかった。だから戦後になって「自由」がやって来ても、「戦後だ、自由だ、アメリカの占領軍が自由を持って来てくれた」と考えて、「誰が自由を奪っていたのか」を考えなかった。・・・


<道徳教育について>
 中学生くらいだったら、「こういうことをするのは恥ずかしいことです」という形で、ずるくていけないことを列挙した方が、身を乗り出すと思いますね。・・・「こういうことはずるいことだよ、人として恥ずかしいことだよ」という悪い例を教えた方が、邪悪なものに対する免疫ができる。・・・「してはいけないものか?」と考えることになって、本当の意味での思考能力が育つ。・・・・・

<新聞の自主規制>
 映画「新聞記者」のヒットは予想外でしたが、それだけまだまだ日本の新聞への期待があるということえもあります。新聞屋さん!そしてマスコミの皆さんもっと頑張って!戦って!応援するから。

 日本の新聞がはっきりした物言いをしなくて、「ここら辺が公正中立の着地ポイントだろう」という判断で記事を書いていて、それが外の国での「言論の自由」とはズレているにしろ、国民に対して「この内閣の提出するこの法案にこういう問題点がある」ということをきちんと説明し始めたら、読者の多くは面倒臭がるんじゃないのかと思う。今のメディアの最大の問題というか困難は、「受け手に関心を持たれないようなことをやって、逃げられたらどうしよう?経営の危機だしな」というところにあるように思う。・・・・・新聞の見出しに大きなクエスチョンマークを付けるのって、タブーなんだろうか?「リーマンショック直前に酷似?」とやっただけで、かなりの主張は出来る。・・・

<ジャスミン革命>
 中東で起きた「ジャスミン革命」について。

 数年前、北アフリカの方面で独裁政権が倒されるという事例が続いて、「ネットが民意を結集させた」とか言われましたが、その「ジャスミン革命」なるものが、その後は芳しくない。様々に不平を抱えている人達が、「原因はあそこだからあれを倒せ」で一つになるのは、通信手段の発達で可能かもしれない。でも、「倒した後をどうするか?」は、通信手段だけではどうにもならない。
 倒すためだけに様々な人が一時的に結集出来ても、倒してしまった後では、様々な人の思惑が勝手に走り出すから、収拾がつかない。そして内輪揉めが始まる。・・・」


<問題解決と大人の対応>
 国と国、宗教と宗教など様々な思想、信条が対立を深める21世紀。対立を収める唯一の方法について。

 内輪揉めの解決は話し合いしかない。話し合いで双方が譲歩して妥協するしかない。そして、ここで一番重要なのは「力ある大きなものほど大きく譲歩する」ということで、これがなければ話し合いなんかまとまらない。

<表現の自由による攻撃>
 パリの新聞社がテロリストに攻撃された事件。世界中がパリの新聞社を支持しましたが、僕はちょっと違和感を覚えていました。新聞の記事によって攻撃されたイスラム教徒の気持ちを彼らは考えたのだろうか?僕はそうも思いました。新聞記者に象徴されるフランスの知識人の方々は、思い上がっているのではないか?そんなことを考えていました。

 それで、イスラム過激派がフランスの新聞社シャルリ・エブドを攻撃した事件なんですけどね、とんでもない数の人間がパリに集まって「表現の自由!」を訴えるデモをしたけど、やっぱり私は、ここに「表現の自由」っていうスローガンが出て来なくちゃいけないのかな?と疑問に思う。「テロを許さないぞ!」だけのデモじゃいけないのかなと。「シャルリ・エブド」はタブーを恐れず宗教にまで諷刺の矛先を向ける」ていうけれど、でもそれは「もう宗教にそれほど寄りかかる必要のない人達」の間で成り立つことで、そうではない「宗教に生きる基盤を置いている人達」にとっては、その開祖をいわれもなくからかわれるのは、諷刺ではなく、冒涜であり暴力的な「攻撃」になるはずですけどね。

<「戦争」「経済」「テロリズム」>
 なぜ、テロリストが時代の主役になったのでしょうか?
 戦争を表立ってできなくなった21世紀の世界において、「経済」で戦えない貧しい国々の人々が選択できる道は、「戦争」に代わる「テロ」しかないのではないか?
 そう思えてしまいます。

 世界は、部族社会が好きな「戦争」という選択肢を失っている。だから、ヤクザの鉄砲玉みたいなテロリストがあちらに出現する。戦争に代わる戦いの手段は「経済」で、それがもう限界に来ている。だから中国は鉄を作り過ぎて困っている。利益偏重ワンパターンの「部族社会が成功する限界」は、歴然とある。ポピュリズムの最大の欠点は、ポピュリズムを選択した人の頭の中に「自分達の幻想の利益」しかないということで、放っておけばこれは破綻する。「部族としての結束」はとりあえず必要なんだろうが、その先で「他との調和の必要性」を学ぶしかないだろう。

<中国と民主化>
 中国という経済最優先の共産主義国家は、その時点で大いなる矛盾を抱えています。その国が民主主義を認めてしまったら・・・共産主義など成り立つはずがないのです。国家の基盤がすでに間違っているのですから、他の国にもおかしな要求を連発するのは当然です。

 今の中国政府が民主化要求なんてものを受け入れたら、中国政府がバラバラになって大変な騒ぎが起きる。でも、民主化要求を受け入れないままでいても、ろくなことは起こらない。だから「どうせそんなことはしないだろう」と思いはするけれども、今の中国政府には、「民主化されても中国が困ったことにならないように、人民を教育する」という選択肢しかないんじゃないかと思う。

<民主化よりもマナー>
 中国という国が抱える矛盾の大きさから考えれば、国もマナーの悪さも当然のことかもしれません。それならば、国民個人個人にそのマナーを求めたって無理に決まっています。

 中国人観光客の「どこでもやりたい放題」のマナーの悪さを見ていて、ハッと気がつく。南沙諸島の埋め立てで「ここは我々の主権内だ」と言って一歩も引かない中国の姿勢は、これと同じなんだと。つまり、「マナーが悪い」ではなくて、「マナーを知らない」のだと。だから、責められて「なにが悪い!」と怒鳴り返す。そういう国相手に必要なことは、軍事行動ではなくて、教育だと思う。どうすれば中国国民に「国際的マナー」を教え込めるかは知らないが。

<それぞれの「時代」、それぞれの国>
 そもそも21世紀の世界は、どの国も21世紀という時代に達しているのでしょうか?
 それぞれの国には文化を生み出すだけの歴史は存在しているのでしょうか?
 それがないなら、いつまでも民主主義は育たないのではないでしょうか?
 それを言っちゃお終いなのかもしれませんが、それって本当は大事なことですよね。

 表面上は「現代」という顔をしても、その内情は各国均一じゃない。自衛隊が行った南スーダンじゃ、大統領派と副大統領派が二つに分かれて銃撃戦を演じている。よく考えりゃ、近代以前の19世紀レベルの状態じゃないか。
 世界中には、いろいろな「時計」がある。近代という示して引っ張って来たヨーロッパ製の時計は、ネジが切れたのか、もう先を示せなくなった。・・・
 かつては「後進国」として取り残されていた国々が、経済発展のおかげで「先進国並」を当たり前に主張する。でもそれが実現されたら、多分、地球は過飽和状態でぶっ壊れる。・・・


<戦争を避けるための軍備>
 軍備の意味をもう一度ちゃんと考えるべき時ではないのでしょうか?
 それって本当に無駄なことなんですよね。それで儲けようとしている奴らが消えれば、その当たり前のことに皆が気づくのでしょうか?

 衝突を起こしたら、その先は「戦争」なのか?しかし、二回の世界大戦を経験した世界は、「本格的に戦争を始めたら莫大な被害が出る」ということはもう知っている。「没落せずになんとか繁栄を」と思う国は、戦争という選択肢を取らず、威嚇のためにやたらの金を注ぎ込んでいる。・・・

<世界の「経済」は一つなのか?>
 世界を単純化して科学的にシュミレーションできるとするのが、今の世界の共通の考え方。それって、本当に可能なのでしょうか?
 科学を本気で様々な分野に渡り広く学んだ人なら、それが不可能に思えるはず。専門分野が狭い人ほど、それは可能だと考えるのだと僕は思います。そういう専門家に世界のかじ取りを任せては危険です。新型コロナウイルスへの対応策も広く見渡せる専門家がいないと・・・だから日本はダメなんです。

「今時、一つの理論で”世界が救える”なんてことがありうるのかな?」と思って、それでうっかりと「経済というものは、世界を”一まとまりのもの”としえ考えちゃものなんだな」ということ
気がつきました。ピケティや経済の理論の前提は、「世界を均一な一として扱う」なんですね。


<オリンピックは巨大イベントであるべきか?>
 オリンピックって本当にやらないとダメなのでしょうか?
 この基本的な問題にも橋本治はズバッと切り込みます。

 たとえば、ボート競技だったらテームズ川かセーヌ川をその「聖地」にして、世界に中継すればいいじゃないか。ウィンブルドンのように - 「世界的にメジャーなスポーツ」って言うんだったら。
 今ある大きな会場をそのまま使おうと考えると、「小さい。観客数を増やすんだから、大きいのを造れ」と言われてしまう。テレビで全世界に中継するんだから、そんなにでかい会場を要求しなくたっていいじゃないかと思う。わざわざ2週間ばかりの間に世界中から人間を招き寄せて、そのために道路やなにやらを作って、そんなに人間ばっかり一つに集める必要があるんだろうか?


<効率アップの意味はあるのか?>
 電子化は本当に善なのでしょうか?科学の進歩は善なのでしょうか?そのことも今や誰も考える事すらしなくなっていませんか?

 コンピューターによる効率アップというのは、実のところ泥棒にとっても効率アップで、悪気はなくてもうっかりしているだけで、やたらの数のものを流出させてしまうことになる。
 紙に戻せばいいんですよ。そうして効率を悪くして、もう一度「しばらくお待ちください、ちょっと面倒なので」という状態を復活させればいい。効率が悪いということは、時間がかかるということで、それはつまり「考える時間が増える」になる。


<北朝鮮の自己承認欲求>
 北朝鮮問題についても、実にわかりやすく語っています。

 北朝鮮がなぜ核実験やミサイル発射実験を繰り返すのかと言えば、大方の言うところは「アメリカと平和条約を結びたいから」である。つまり、「こっち向いてくれ!向いてくれないならこっちにも考えがあるぞ!」と言って暴力的なデモンストレーションを繰り返しているわけで、つまりは、アメリカに対する自己承認欲求である。金正日の時はそれほど露骨でもなかったが、金正恩になってしまうと、もう明らかに「他人に認めてもらいたくてジタバタする不幸な子供」である。
 オバマ大統領は、「仲よくしたいんなら、そんなバカげたことはやめる」として、金正恩を相手にしてはいないが、しかしオバマのアメリカは、まだ「世界の警察」で、北朝鮮を「認める」ということが可能な立場に立っている。でも、ドナルド・トランプは、「もう世界の警察なんかやって無駄な金を使ってられない」という立場である。・・・
 「そんなこと知らん」とアメリカに言われてしまえば、「自己承認欲求」そのものが成り立たなくなってしまう。だだをこねる息子と、そえを無視するこわいお父さんの関係と一緒だ。
 「これからどうするんだろう?」ということもあるが、よく考えれば、自己承認欲求というのは、平和がもたらした贅沢な産物なのだ。



「思いつきで世界は進む」
- 「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと 2019年
(著)橋本治
ちくま書房

近代・現代文学大全集へ   トップページヘ