- 早川義夫、ジャックス Yoshio Hayakawa , Jacks -

<40歳を過ぎて>
 2004年3月18日、僕は44歳になりました。1994年に早川義夫が25年ぶりのアルバム「この世で一番キレイなもの」を発表したのが、彼が46歳の時ですから、その歌詞に込められた思いが分かる年にやっとなってきたのかもしれません。
 年齢的にはすっかりおじさん。まわりから見てもやっぱりおじさんかもしれませんが、心の中はあの頃と変わらない。ついでに言うと歌唱力も昔のまま。
 からっぽのままで裸の自分をさらし続けるラブ・ゼネレーションの生き残り。それが、かつてジャックスという異色のバンドの中心として活躍した男、早川義夫です。

<早川義夫との出会い>
 彼がどんな生い立ちで、どんな人生を歩んできたのか、僕はほとんど知りません。彼の有名な著書「ラブ・ゼネレーション」も、本屋になくて残念ながら読んでいません。
 そのうえ、彼のアルバム「この世で一番キレイなもの」を初めて聴いたのが、発売から10年後の2004年で、彼のそれ以前の音ももちろん聴いたことがありませんでした。このサイトを始めていなければ、一生聴くことがなかったかもしれません。
 音楽とは不思議なものです。これだけ長い間出会うことがなかったにも関わらず、「この世で一番キレイなもの」を聴き始めたとたん、昔からの友人と再会したように歌が身近なものに感じられたのです。
「うーん、確かに。でも、そんなこと恥ずかしくて他人には言えないよね」とニヤニヤしたり。
「そうだよ。そのままでいいんだよ」とうなずいてみたり。
鈴木慶一&ムーンライダースの90年代の作品にも「本物のおじさんロック」を感じますが、早川義夫の作品とはかなり違う気がします。
 彼はデビュー当時の自分をタイムマシンに乗せて現代へと連れてきてしまったのかもしれません。心も歌も、その時のままなのに、確実に時は過ぎていて、気がつくと心は若いまま、中年男の肉体をもつ裸のままのおじさんができあがっていた。それが早川義夫であり、彼の歌のような気がします。

<ジャックス結成>
 1965年、高校生だった早川義夫は同級生二人とナイチンゲイルというバンドを結成しました。大学に進学後、彼はそのバンドの名をジャックスと改め、ライブ活動を行うようになります。1967年、メンバーが代わり、早川のボーカル&ギターと谷野ひとしのベース、木田高介のドラム&フルート、水橋春夫のリード・ギターという四人編成が固まりました。ヤマハ主催の音楽コンテストで入賞した彼らは、インディーズのタクト・レーベルから初シングル「からっぽの世界」を発表。(1968年)同じ年に東芝と契約し、デビュー・アルバム「ジャックスの世界」を発表します。

<1968年のJ−ロック>
 1968年と言えば、英米ではロックが最も熱く燃えていた時期にあたります。とは言え、日本においては、まだまだロックの情報すらなかなか届かない状況が続いていました。もちろん、日本にはまだオリジナルなロック・バンドというものは存在せず、そのほとんどはコピー・バンドの域を出ていませんでした。グループ・サウンズというある意味日本独自のスタイルをもつバンドたちが、ストーンズやビートルズをカバーしていたのが最もロックらしい存在だったのかもしれません。
 そんな状況の中、数は少ないもののJ−ロックの原点とも言えるバンドたちが、やっと登場し始めていました。デイブ平尾とエディ藩率いるゴールデン・カップス、山口富士夫を中心とするダイナマイツ、鈴木ヒロミツのモップス、そして加藤和彦、北山修、はしだのりひこのフォーククルセイダーズなど。しかし、フォークル以外のほとんどのバンドは、まだ基本的にブルース・ロック、もしくはロックン・ロールのコピー・バンドだったと言うべきでしょう。
 その点では、ジャックスは最もオリジナルでかつ個性的なバンドだったと言われています。いったい、なぜ?彼らはそうなり得たのでしょうか? 

<ジャックスのメンバーたち>
 ジャックスのメンバーとその活動に関わった人々のほとんどは同じ和光高校出身で、なおかつ同じ劇団のメンバーでした。(早川義夫、谷野ひとし、木田高介、初代ドラマーの高橋末広、それと作詞を担当することになる柏倉秀美、相沢靖子たち)ちなみに、この和光高校は、自由の理念をかかげた有名な学校で、同い年の僕のいとこもここに通っていました。
 当時の演劇界はアングラ芝居と呼ばれていた新しい劇団たち(早稲田小劇場、天井桟敷、状況劇場など)が、それまでの演劇とはまったく異なるある種「日本的な情念の世界」を生み出して一大ブームを巻き起こしていました。これは英米産ロック一辺倒だった音楽界とはまったく異なる状況だったと言えるでしょう。(もちろん、このブームはアンダーグラウンドででしたが・・・)
 ジャックスのメンバーは、こうした演劇界からの影響を音楽に持ち込むことで、他のバンドとは異なる独自の世界を作りだしていたようです。(彼らのライブには、その雰囲気がより強く打ち出されていたそうです)こうして、芝居から受けた影響によって、日本語を重視する独自のロックが、彼らによって生み出されることになりました。これは、後に「はっぴいえんど」が完成させることになる和製ロックの原石とも言えるものでした。

<ジャックスの手法>
 ジャックスのメンバーはもともと音楽に関しては素人だったため、英米のロック・バンドのマネをしようにも、それだけのテクニックを持ち合わせてはいませんでした。もちろん、本場アメリカのブルースを演奏するなど至難の業だったでしょう。そのため、彼らはいやおうなく自分たちで演奏できる範囲の曲作りを進めるしかありませんでした。その点、歌詞にはそんな制約がありません。こうして、音作りに不満を持ちながらも、自らの思いをそのまま曲にするジャックス独自の音楽が生まれることになったのです。(それは1970年代半ばに登場するパンク・ロックを思い起こさせます)

<フォーク・ブームの中で>
 1966年、マイク真木が歌う「バラが咲いた」が大ヒット。GSブームと平行して、「この広い野原いっぱい」(森山良子)「遠い世界」(五つの赤い風船)など、ポジティブで夢のある歌詞をもつフォークソングが日本中で一大ブームを巻き起こしていました。
 それに対し、ジャックスは徹底的にアンチ・フォーク的な立場をとっていました。「からっぽの世界」は、そんな彼らの代表的な曲と言えるでしょう。(まさにアンチ「遠い世界」です)
「 ぼく死んじゃったのかな
 誰が殺してくれたんだろうね
 静かだなあ 海の底
 静かだなあ なにもない」
 こうした彼らのアンチ・フォーク的なスタイルは、当然世の中の流れからはみ出すことになり、デビュー・アルバム「ジャックスの世界」はごく一部の人々に衝撃を与えただけで、ほとんど受け入れられませんでした。

<関西へ>
 居場所を失った彼らは、東京よりはシリアスな音楽が活躍する場が多かった関西へとその活動拠点を移します。そこには、そんな関東とはまた違うフォークを歌う岡林信康や高田渡、遠藤賢司などをかかえる高石音楽事務所がありました。彼らはその音楽事務所に籍をおき活動を再開します。
 その間、ギタリストの水橋は早々と脱退し、代わりに角田ひろ(つのだひろ)が参加するものの、彼らに回ってくる仕事は誰か別のミュージシャンのバックを務めることぐらいでした。結局、大坂にも彼らの居場所はなく、元々方向性も違ったバンドのメンバーたちは解散の道を選びます。

<個性的なメンバー>
 ジャックスと言えば、早川義夫以外のメンバーもそれぞれミュージシャンとしての才能をもっていました。そのため、彼らのアルバムには早川色以外にも異なる色が存在していました。谷野ひとしの「ジョーのロック」(ヴォーカルはつのだひろ)、水橋春夫の「いい娘だね」(後にあがた森魚がカバー)「薔薇卍」、つのだひろの「この青い海に」などは、それぞれのカラーを出しています。
 実際、彼らのほとんどは解散後もそれぞれの個性を生かして音楽業界で活躍することになります。(木田氏はその後もギタリストとして活躍をするものの、1980年に自動車事故で早くに他界してしまいました。ご冥福をお祈りいたします)

<ラスト・アルバム>
 解散を前に、彼らはセカンド・アルバム「ジャックスの奇蹟」(1969年)を発表します。しかし、この時すでに早川は高石音楽事務所が始めたレコード会社「アンダーグラウンド・レコード・クラブ URC」で録音ディレクターとして働き始めていました。そして、サラリーマンとして働きながら、社長からのすすめでソロ・アルバムの録音を行います。こうして、会社の経費を抑えるため、わずか2日間で録音を終えたアルバム、それが「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」(1969年)でした。なんてかっこ悪いアルバムタイトルでしょう!それはアルバム・タイトルだけでなく、収められた曲にも言えることでした。
「もてないおとこたちのうた」「無用ノ介」は、タイトルからしてかっこ悪いです。
映画「卒業」の残された花婿を歌ったかのような駄目男の歌、「サルビアの花」
(この曲は後にあがた森魚がカバーして有名になります)のような曲もあれば、
こんな歌詞の曲もあります。
「 あったかいセーターがほしい
 あったかいマフラーがほしい
 あったかいスープとコーヒーがほしい
 あったかい会話がほしいんだよ
 ・・・」
「シャンソン」より
「 暗くなった貴女のいないこの浜に
 それでもともかく 帰ってきました
 私の体は砂に埋もれてゆく
 過ぎ去ったすべてのことが
 過ぎ去ったすべてのことが
 思い出として残ります
 貴女と - は素晴らしい空の上」
「埋葬」より

<録音ディレクターとして、本屋として>
 ソロ・アルバム発表後、彼はURCの正式社員として、他のミュージシャンの録音に関わりました。岡林信康の超名盤「見る前に跳べ」も彼がディレクターとして関わったアルバムです。ということは、このアルバムで岡林のバックを務めていたはっぴえんどのスタートにも関わったということかもしれません。
 しかし、彼と音楽との関係も、そのわずか2年後には終わりを向かえてしまいます。1971年、彼は完全に音楽業界から足を洗い、翌年自らの手で早川書店を開業。本屋のオヤジになってしまったのです。それから20年、彼は本屋の仕事をしながらエッセイ集「ラブ・ゼネレーション」(1972年)、「ぼくは本屋のおやじさん」(1982年)を発表。25年後のソロ・アルバム発表まで、長い沈黙が続きました。

<セカンド・アルバム発表>
 25年たって発表された彼のセカンド・アルバム「この世で一番キレイなもの」には、相変わらず早川義夫的な曲が収められていました。(セカンド・アルバムは、全曲が作詞、作曲早川義夫です)そして、相変わらず彼の歌はへたくそなままです。我が家で、このアルバムを聴いていたら、うちの奥さんに「なにこれ?」と怪しまれてしまいました。
 確かにバック・バンドのメンバーは優秀です。駒沢裕城(ペダル・スティール)、梅津和時(サックスなど)、楠均(ドラムス)、大久保晋(ベース)、森俊也(アコーディオン)など、上手い人たちが集まっています。そのためかえって、歌のへたさが引き立ってしまうのかもしれません。初めて聴いた人には、そのへんのオヤジがプロの一流バンドをバックに歌っているように聞こえるかもしれません。
 でも、いいじゃないですか。
僕も2回目に聴いたときには、すでに耳は理解していたし、彼の歌は歌詞もよく聞き取れます。

<誰が聴いても良いとは思えないかも>
 彼の曲は、聴く人を選ぶかもしれません。そして、聴く時間や聴く状況をも選ぶかもしれません。昼間ではなく夜、みんなでわいわいではなく一人で聴くべきでしょう。実は、彼は雑誌レコード・コレクターズのインタビューでこう言っていました。
「・・・それで僕が今回やろうと思ったのはね、たとえば店でBGMにでもなるような、喫茶店で流れてもいいような音楽が作りたかったのね。・・・」
1994年レコードコレクターズ11月号より
 残念ながら、そうはなっていないような気がします。
 でも、いいじゃないですか。
夜、寝る前にしみじみ聴ける曲も必要です。そうそう、以前よくロンセク・スミスのアルバムをそんな感じで聴いていたものです。考えてみると、彼もまたデビュー作からしてしみじみ「オジサン」してましたっけ。
 季節それぞれに合う音楽があるように、時間それぞれ、お天気それぞれ、場所それぞれ、気温それぞれ、そして何より聴く人の心模様それぞれにとって合う音楽は異なります。早川義夫の音楽は、これらの条件のかなり狭い範囲に属しているのかもしれません。
 でも、いいじゃないですか。
そのぶん、心の奥底までしみじみと広がって行くのですから。
 彼にはこんな名言もあります。
「フォークは『忘れよう』と唄い、ロックは『忘れろ』と唄い、歌謡曲は『忘れられない』と唄う」
 では、彼の歌はどれに属するのでしょう?もちろん、どれにも属していないのでしょう。なぜなら、彼の歌は、彼自身の思いを、彼が伝えたい人のためだけに作ったものだからです。
 でも、いいじゃないですか。
そんなたったひとりの思いでも、それが強い思いなら、多くの人の心に通じるかもしれないのです。いや、きっとこれからどんどん増えて行くに違いありません。少なくとも、今後僕のようなオヤジは確実に増えて行くでしょうから・・・。

<締めのお言葉>
「伝えたいことと、伝えたい人がいれば、才能がなくても、歌は生まれると、僕は、今でも、思っている」

早川義夫「ラブ・ゼネレーション」より

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページヘ