- エクトル・ラボー Hector Lavoe -

映画「エル・カンタンテ El Cantante」

<明るいダンス・サウンドの影に>
 リッキー・マーティンのヒット曲の数々、そして彼のセクシーなお尻こそ90年代から21世紀にかけての「サルサ」だったと言えるのでしょう。サルサとはダンス・サウンドであり、当然それはセクシーさを売り物とするものです。しかし、どんなダンス・ミュージックにも、そのルーツには必ず悲しみをたたえた美しい音楽が存在するものでもあります。
 アメリカン・ブラックのソウル、R&B、ラップなどファンキーなサウンドの影には、ブルースという魂の暗闇を覗く奴隷時代の苦しみから生まれた音楽が存在します。ほとんどのすべてのダンス・ミュージックは、植民地の歴史もしくは人種差別の歴史の元で生まれたものだからです。さらに言うなら、ボブ・マーリーは、かつてインタビューで歌い始めたきっかけを尋ねられこう答えている。「始まりは・・・嘆きさ。そう、嘆きから始まったんだ」と・・・。

<ヒスパニックの声を代表する存在>
 サルサのようなラテン気質を象徴する明るいサウンドにも、やはりそれを生み出した背景には、深いセンティミィエント(ラテン語の悲しみ)が存在します。貧しさのために故郷を捨て、アメリカという夢の国に人生の望みを託したカリブの島々からの移民たちが生み出したサウンドがサルサであることを考えれば、そこに「悲しみ」や「望郷」の思いが込められていないわけはないのです。
 そして、そんなヒスパニックの悲しみを表現できる最高のアーティストこそ、ニューヨーク・サルサ最高のヴォーカリスト、エクトル・ラボーでした。彼の人生はニューヨーク・サルサ栄光の時代とともに始まり、その終わりはニューヨークに住むヒスパニックたちのセンティミェントの象徴となりました。彼のことを人々は、「La Voz 声」、そして「El Cantante 歌手」と呼びました。彼の歌は、ヒスパニック系住民たちの「声」そのものだったのです。

<プエルトリコからニューヨークへ>
 エクトル・ラボーは、アメリカの準州のひとつ、カリブに浮かぶ島、プエルトリコのポンセという町に生まれました。時は1946年9月30日、アメリカ本国は戦後の好景気に沸いていましたが、アメリカの実質的な植民地だったプエルトリコはあまりに貧しかったのです。そのため、若者たちの多くは夢を求めて、アメリカへと渡って行きました。そして、その玄関口でもあるニューヨークのイースト・ハーレムには、そんな移民たちが住みつくようになり、いつしかヒスパニック系の街が出来上がっていったのです。(この地域はエル・バリオと呼ばれ、この地域に住むプエルトリカンと白人の人種的対立を描いたのが、1961年作のあの名作ミュージカル「ウエストサイド・ストーリー」でした!)
 多くのプエルトリカンが仕事に恵まれず貧しい生活を送っている中、幸いなことに彼には素晴らしい歌の才能がありました。そのうえ、この頃ニューヨークでは、ヒスパニック系ミュージシャンの働き口はたっぷりとあったのです。なぜなら、当時ニューヨークを中心にマンボなどキューバ発のラテン音楽が一大ブームになっており、さらに1958年末に起こったキューバ革命によって、キューバとアメリカの国交が絶たれたため、亡命以外の方法でキューバのミュージシャンがニューヨークで働くことは不可能になっていたのです。おかげで、彼らの多くがミュージシャンという仕事に自分の夢を賭けることになりました。(1990年の統計によるとプエルトリコ系移民の平均所得はアフリカ系移民よりも、メキシコ系移民よりも低い最低ランクに位置していました)

<ウィリー・コロンとのデビュー>
 
1960年代の中頃、ニューヨークのラテン音楽シーンではブーガルーが一大ブームを巻き起こしていました。それは、R&Bという当時最高の人気を誇っていたアメリカン・ブラックのサウンドとラテン音楽とのフュージョンであり、ラテン系ポップスの英語化によるポップス・シーンへの挑戦でもありました。その流れの中、弱冠17歳のプエルトリカン、ウィリー・コロンはトロンボーンをフィーチャーした独自のサウンド、「トロンバンガ」をひっさげて新興のラテン・レーベル、ファニアからさっそうとデビューを飾ります。そして、そのトロンボーンによる重いビートを持つ無骨なサウンドとは対照的に美しくしなやかなヴォーカルにより、コローンのバンドの顔となったのが、当時20歳だったエクトル・ラボーでした。
 二人は最高のコンビでした。ストリートの悪(ワル)をイメージ・キャラクターとして売り出したウィリー・コロンにとって、エクトルのセンティミェントにあふれたヴォーカルは、パワフルなトロンバンガ・サウンドにヒスパニック系移民たちの悲しみを込めるため、なくてはならない存在だったのです。
 この後、エクトルの活躍の場はさらに広がって行きます。それはあの伝説のサルサ・バンド「ファニア・ファニア・オールスターズ」のヴァーカリストの一員となったことです。その時点で彼の声は、いよいよ一大ブームを巻き起こそうとしていた70年代ニューヨーク・サルサの顔になったと言ってよいでしょう。

<暗く長い闘いの始まり>
 しかし、彼のしなやかで繊細な歌声はその繊細な「声」だけでなく、彼の繊細な「心」をも象徴するものでした。巨大なムーブメントへと成長しつつあるニューヨーク・サルサの顔となってしまったことは、彼にとって耐え難いほどのプレッシャーとなり、その神経を押しつぶし始めます。そこから逃れるため、彼はしだいに麻薬の泥沼へと、はまりこんで行きました。
 しだいにその状態は悪化し、コンサート活動にも支障をきたすようになると、ついに良き相棒だったウィリー・コロンも彼をかばいきれなくなり、バンドの専属ヴォーカリストとしての契約をうち切られてしまいます。こうして、彼と麻薬との暗く長い闘いが始まりました。

<ウィリーの友情>
 相棒ウィリー・コロンはそのコンビを解消したものの、エクトルをけっして見捨てたりはしませんでした。ソロ・アルバム第1弾の"La Voz"(1975年)以降、彼はずっと彼のアルバムのプロデュースを続けて行きます。その中でもエクトルの出世作となった作品"De Ti Depende"(1976年)と"Comedia"(1978年)の二枚は彼の作品と言うより、70年代ニューヨーク・サルサを代表する名盤と言ってよいでしょう。(ウィリー・コロンは、この二枚で華麗なオーケストレーションを用いたゴージャスで都会的なニューヨーク・サルサを完成の域に高めましたが、この時オーケストラ・アレンジを担当していたのが、後に独自のオーケストラ・アレンジで一時代を築くルイス・ペリーコ・オルティスでした)
 しかし、そんな傑作を生み出しながらも彼は常に麻薬の深みから抜けられず、そこから脱出するための闘いを続けていました。実際"De Ti Depende"を発表した翌年には、一時プエルトリコに戻り麻薬から抜け出すための治療に専念しています。

<死闘、そしてその終わり>
 プエルトリコから戻ると、ウィリー・コロンやルベン・ブラデスらファニア・オールスターズの仲間たちの協力を得ながら、彼はアルバムを作り続けます。
"Comedia"(1978年)、"Recordando A Felipe Pirela"(1979年)、"Feliz Navidaa Con Daniel Santos,Yomo Toro"(1979年クリスマス・アルバム)、"El Sabio"(1980年)、"Que Sentimient"(1981年)、ソロ・アルバムとファニア・オールスターズの作品を平行しながら、彼は1970年代から1980年代にかけて、なんとか生き抜きます。そして、1987年"Strikes Back"(戻ってきたぜ!)というタイトルのアルバムを発表します。しかし、自らその復活を宣言したものの、彼の心と身体はすでに崩壊寸前だったようです。彼は、ホテルからの投身自殺を図り重傷を負うところまで、追い込まれていました。もう彼の心も身体も死んだも同然の状態になっていたのです。
 1993年6月29日、彼は46歳の若さでこの世を去りました。彼の心臓は、その時すでにボロボロだったと言いますが、実は彼はエイズに冒されていたことが後に明らかになります。麻薬とエイズ、20世紀後半のアーティストたちの多くが苦しんだ闇の部分と戦い続けた悲劇のアーティスト、それがエクトル・ラボーでした。

<映画「エル・カンタンテ」>
 2006年、彼の伝記映画が出来ました。もとになったのはブロードウェイでもヒットしたミュージカル「誰がエクトル・ラボーを殺したか?」で、主演はマーク・アンソニー、もちろん歌も自ら歌っています。そして、彼の奥さん役に本物の奥さんでもあるジェニファー・ロペス。彼女はこの映画のプロデューサーも勤める熱の入れ様です。映画化タイトルは、その名もずばり!「エル・カンタンテ」です。DVD化もされていて、歴史的価値の高さと音楽の良さはもちろん、一人のアーティストの人生を描き出した本格的伝記映画として傑作に仕上がっています。サルサ・ファンの方には間違いなくお勧めできる作品です。必見です!
 マーク・アンソニーの演技はミュージシャンであることを忘れさせます。もちろん、ジェニファー・ロペスの演技は最高。美しく、セクシーで、ダンスも見事です。プロデューサーとして自らが立ち上げた会社の一本目に選んだだけに気合が入っています。二人が実際に素晴らしい夫婦であることは、この映画が悲劇的ではあっても美しい愛の映画になった最大の理由かもしれません。
 薬によって人生をダメにしたものの1980年代に自ら薬を断ち、見事な復活を果たしたファニア出身のサルサ・アーティストとしては、同じヴォーカリストとして、イスマエル・ミランダがいます。エクトルと同じ道を歩みながら、そこから奇跡的に帰還したそのイスマエルが、実はこの映画で、エクトルの父親役として出演しています。なんという配役へのこだわりでしょう!ちなみにそれ以外では、ファニアのクアトロ奏者として人気者だったヨモ・トロも自らを映画の中で演じています。その他、ルベン・ブラデス、ウィリー・コローン、ジョニー・パチェーコなど実在の人物に扮した俳優たちもなかなか似ています。
 オリジナルの音源を用いたと思えるファニアの「ライブ・アット・チーター」の音だけでなく、映画全体に流れるサルサがまたどれも素晴らしい!(ついでながら、当時、人気だったトーキング・ヘッズマーヴィン・ゲイ、ジェームス・ホワイトなどのヒット曲もいい感じです。
 ニューヨーク生まれのプエルトリカンであるウィリー・コロンとプエルトリコからの移民ニューヨーカーのエクトル。ウィリーがR&B、ジャズの要素をもつラテン音楽を、エクトルが、ボンバやプレーナなどプエルトリコの土臭いラテン音楽を持ち寄り、新たなラテン音楽である「ブーガルー」そして「サルサ」を生み出した。そう考えると、「ニューヨリカン」の原点ともいえるこの二人こそ、ファニアの最重要人物だったのかもしれない。そう再認識させられました。
 サルサの黄金時代、70年代から80年代にかけての熱く美しく哀しい音楽をもっと多くの方に聴いて欲しいと思います。一時期、僕はこの時期のサルサのアルバムばかり買っていたことがありますが、まさにお宝の山です!
 この映画の監督レオン・イチャソは、かつてルベン・ブラデスがサルサからアメリカのポップス界、映画界へと進出するための足がかりとして出演した映画「クロスオーヴァー・ドリームス」(1984年)の監督でもあります。


「エル・カンタンテ El Cantante」 2006年
(監)(脚)レオン・イチャソ Leon Ichaso
(製)フリオ・カロ、ジェニファー・ロペス、サイモン・フィールズ、ダビ・マルドナード
(脚)ダビ・ダルムスタイテル、トッド・アンソニー・ベロ
(撮)クラウディオ・チェア
(音)アンドレス・レヴィン
(出)マーク・アンソニー、ジェニファー・ロペス、ジョン・オーティス、イスマエル・ミランダ

<締めのお言葉>
「ダーリャ、おめえ何でも山ほど背負い込むでねえぞ - くたくたにおっ潰れちまうでな。一等大事なものが何か考えて、それだけ引き受けるだ。良心にそむかねえですむように、呵責も感じねえですむようにな・・・」
ラスプーチン著「マチョーラとの別れ」より

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