<新しい視線の発見>
多くの発明は、意図したものではなく失敗や偶然によって生まれたものと言われます。科学の分野ですらそうして生まれたものが多いのです。芸術の分野では、それ以上に偶然が生んだ発明が多かったはずです。映画においても、そうした発明が存在します。ここで取り上げるのは、フランスのカメラマン、アンリ・ドカエ
Henri Dekaeが生み出した手持ちカメラによる「ヌーヴェルヴァーグ」の映像です。
1949年に彼が「恐るべき子供たち」で行った手持ちカメラの映像は、その後の映画史を大きく変える変革をもたらすことになりました。ただし、彼はその革命が意図的なものではなく、偶然が生んだものでもなく、あくまでも経済的な必然が生んだものであると説明しています。
「恐るべき子供たち」を完全に手持ちカメラだけで撮影したのは、じつは、お金がなかったからだったんですよ。カメラの移動が必要なのに、クレーンもなければ、移動車もない。そこでエレベーターを利用したりしたわけです。人物の顔をクロース・アップするときも、カメラをかついで近寄っていくしかなかったんですよ。
わたしたちがやった方法は、資金不足でやむを絵図考え出したものでしたが、それをヌーヴェル・ヴァーグが受け継いで、ひとつの方法論として体系化したわけです。
さらにいうと、撮影の際、いちいち撮影許可を取らずに無許可で撮影を行ったのも、時間の短縮のために必要な処置だったと言えます。ヌーヴェル・ヴァーグにそれまでなかった新しい「視線」をもたらしたフランスを代表するカメラマン、アンリ・ドカエについて彼のインタビューも交えて書いてみます。
<追記>
カナダの監督グザヴィエ・ドランの「Mommy/マミー」(2014年)では携帯の画面のような正方形の画面が使われて話題になりました。今やスマホのカメラで映画が撮れる時代です。今後は、そうした新たなテクノロジーを使った新しいタイプの映画も生まれてくるのでしょう。
撮影しながら同時に世界配信される映画なんてのもあるかも?新しい視線(カメラ)は新しい映画を生み出す「鍵」であることは変わらないでしょう。
<アンリ・ドカエ>
アンリ・ドカエ(アンリ・ドカの方が正しい発音のようです) Henri Decae は、1915年7月31日フランス、パリ郊外のサン=ドニに生まれています。子供の頃から映画の仕事に憧れていた彼は、当初は録音技師として映画の撮影現場に参加しています。
あるドキュメンタリー映画のなかで、カメラマンが波に揺られて決死の撮影を行っている姿を見て、すっかり魅了されてしまった。それ以来カメラマンを目指そうと映画学校に入学した。
彼がカメラマンとして映画の撮影に関わったのはちょっとした偶然でした。彼がまだコマーシャル・フィルムの撮影監督だった頃、「海の沈黙」を撮影中にカメラマンを首にしてしまったジャン=ピエール・メルヴィルがカメラマンを探しているのでやらないか?と声をかけられたのです。とにかく映画の仕事に関わりたかった彼は、ノーギャラでその仕事を受けました。まだ無名だったメルヴィルには撮影資金も少なかったので、彼は手持ちカメラのみで撮影を行いました。メルヴィルはノーギャラが気にいったのか、撮影の費用が安いのが良かったのか、それとも撮りあがった映像が気にいったのか、とにかく彼の仕事を高く評価し、その後も彼をカメラマンとして使うようになりました。そして、あの名作「恐るべき子供たち」(1950年)が誕生します。
ちょうどその頃、フランスでは映画史に残る映画の革命「ヌーヴェル・ヴァーグ」が始まろうとしていました。映画雑誌カイエ・デュ・シネマの若き批評家、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロール、ルイ・マルらは映画を研究し、その革新を目指す中でアンリ・ドカエのカメラに注目します。そこには手持ちカメラならではの機動力とリアリティーがあり、そのうえお金がかからないことが彼らを魅了しました。そこで彼らは自分たちが映画作りを始めると、さっそく撮影を彼に任せます。
<ヌーヴェル・ヴァーグ>
彼はルイ・マルの「死刑台のエレベータ―」(1958年)、クロード・シャブロールの「いとこ同志」(1959年)、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959年)と次々にヌーヴェル・ヴァーグの歴史的名作を撮ります。
安く早く作品を取り上げるため、彼らはスタジオを出て路上や乗り物での無許可撮影を多用しましたが、そのおかげで画面の中にはそれまでにないリアルな世界が生まれることになりました。例えば「大人は判ってくれない」では、路上で父親が子供を殴るシーンがありました。その撮影中、通りを歩いていた通行人が、「あんたはなぜそんなに子供をいじめるんだ!」と怒るシーンがあり、それがそのまま使用されました。
カメラというのは演出の協力者にしかすぎないというのが、わたしの持論であり、心構えでもあるわけです。だから、カメラというのは、監督が真に個性的で独創的なアイデアをもたらしてくれたときにのみ生きることは、言うまでもありません。
ヌーヴェル・ヴァーグというのは、映画についてのまったく新しい考え方の勝利だったのではないかと思いますね。それまでは映画にふさわしくない題材として無視されてきた人生の出来事や問題を、正面きってあつかったという斬新さ、ですね。その概念や方法はまったく新しいものでしたから、ほかに比較されるべきものがなにもなかった。それは真にユニークであったのです。
<モノクロとカラー>
ヌーヴェル・ヴァーグの名作の多くはモノクロ映像でしたが、彼はカラーへのこだわりも強く、ルイ・マル監督の「ビバ!マリア」(1965年)のように鮮やかな色を使った映画も残しています。
モノクロは黒と白だけですが、カラーにはそれ以上の色があるということですね。ということは、それだけ、いろいろ雑多な要素がカラーの場合にはまぎれこんでくるということです。単に色の種類ばかりではなく、それに対応する感情とか意味が、ですね。だから、当然、モノクロよりも、カラーのほうが、ドラマ性を強めるわけです。そうしたドラマチックな雑多な要素をいかに整理し、統一化するかということが、非常にむずかしいですね。
わたしがこれからぜひともやりたいと思っていることは、カラーがほんとうにドラマチックな効果をあげる劇映画を撮るということですね。わたしが思うに、もしカラーを真に情念の表現としてつかえば、カラーはモノクロよりもはるかに強烈に映画のドラマ性を生み出すことができるのです。
彼の色へのこだわりは強く、それだけに現在のカラー作品に対する不満もありました。
・・・いまではカラーで撮影することがあたりまえになり、じつに簡単になった。だから、もうカラーそのものに対する細心な注意が、払われることがないんですね。とりあつかいは簡単だけれども、じつはいまこそ、ほんとうのカラーの効果を出すのが、以前よりも、ずっとむずかしいわけですが・・・。
目下のところ、カラーのドラマチックな効果を完全に出し切った映画はないと思います。これは、わたしにとってはさいわいなことですよ。まだ開拓すべき余地があるということですから!
<その後のアンリ>
彼が始めたヌーヴェル・ヴァーグの独自の手持ちカメラによる「視線」はその後ゴダールの「勝手にしやがれ」によって、世界的な知名度を得ることになります。(カメラは彼ではないのですが・・・)それが可能になったのは、新たな映像を求める若い監督たちの情熱と予算不足だったのかもしれませんが、カメラ技術の進歩がより小型化したカメラを生み出していたことも重要です。上記のインタビューは1970年代に行われたものですが、彼がこだわるカラー映像についての意見は普遍的なもので、デジタル映像によって様々な色の加工が可能になった今、また考えるべきことのような気もします。
その後、彼はフランスを飛び出してハリウッドにも進出し、様々な作品を撮ることになります。20世紀を代表するイケメン俳優、アラン・ドロンを世に送り出したのも彼の優れた撮影でした。
「沈黙の海」(1947年)ジャン=ピエール・メルヴィル
「恐るべき子供たち」(1949年)ジャン=ピエール・メルヴィル
「カスバの恋」(1951年)ピエール・カルディナル
「死刑台のエレベーター」(1957年)ルイ・マル
「恋人たち」(1958年)ルイ・マル
「いとこ同志」(1958年)クロード・シャブロール
「大人は判ってくれない」(1958年)フランソワ・トリュフォー
「太陽がいっぱい」(1959年)ルネ・クレマン
「生きる歓び」(1960年)ルネ・クレマン
「私生活」(1961年)ルイ・マル
「シベールの日曜日」(1962年)セルジュ・ブールギニョン
「黒いチューリップ」(1963年)クリスチャン=ジャック
「危険がいっぱい」(1963年)ルネ・クレマン
「輪舞」(1964年)ロジェ・バディム
「ダンケルク」(1964年)アンリ・ヴェルヌイユ
「大追跡」(1964年)ジェラール・ウーリー
「ビバ!マリア」(1965年)ルイ・マル
「将軍たちの夜」(1966年)アナトール・リトヴァク(この頃からハリウッド映画に進出)
「パリの大泥棒」(1966年)ルイ・マル
「サムライ」(1967年)ジャン=ピエール・メルヴィル
「悪魔のようなあなた」(1967年)ジュリアン・デュビビエ
「大反撃」(1968年)シドニー・ポラック(フランスの古城を舞台にした戦争映画)
「シシリアン」(1969年)アンリ・ヴェルヌイユ
「この愛にすべてを」(1969年)ジョージ・スティーブンス(巨匠ジョージ・スティーブンスの遺作)
「仁義」(1970年)ジャン=ピエール・メルヴィル
「大乱戦」(1971年)ジェラール・ウーリー
「ふたり」(1972年)ロバート・ワイズ(パリ、モロッコが舞台のラブ・ストーリー)
「暁の七人」(1975年)ルイス・ギルバート(チェコのプラハを舞台にした戦争映画)
「ブラジルから来た少年」(1978年)フランクリン・J・シャフナー(南米、ヨーロッパ、アメリカを舞台にしたサスペンスの傑作)
「アイランド」(1980年)マイケル・リッチー
上記インタビューは1976年に来日した際に行われたものからの抜粋です。
主催はキネマ旬報社でインタビューを行ったのは、白井佳夫、山田宏一。
<参考>
「白井佳夫の映画の本」 1977年
(著)白井佳夫
(株)話の特集
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