- ヘンリー・ウォレスHenry Agard Wallace -
<歴史の転換点>
人にはそれぞれの歴史があり、「もしあの時、あの人と出会っていなければ・・・」とか「もしあの時、あの事件が起きていなければ・・・」など、大きな転換点というものが誰しもあるものです。(多くの場合、人はそのことに気づかないのですが・・・)
そして、その歴史の転換点は、国や世界の歴史についても言えます。
そんな世界の歴史を変えた人物については、歴史の教科書に詳しく書かれていますが、「世界の歴史を変えたかもしれない」人物のことは、そこには書かれていないものです。でも、もしあの時、その人物がしかるべき地位にいたら・・・世界の歴史は大きく変わっていたはず、そんな人物も歴史の陰に確かに存在しています。
ここでは、多くのアメリカ人ですら忘れかけているかもしれない、ヘンリー・ウォレスという政治家を取り上げます。
1945年4月にルーズベルト大統領の後を継いだのが、トルーマンではなくウォレスだったとしたら、アメリカはどのような国になっていただろう。第二次世界大戦でやはり原爆が投下されただろうから、アメリカはどのような国になっていただろうか。核兵器競争と冷戦は避けられたか。戦後、公民権や女性の権利はすぐさま認められたか。植民地主義が数十年早く終わりを告げ、科学とテクノロジーの恩恵が世界の隅々にまで公平に行き渡っただろうか。答えは永遠に藪の中だ。
オリバー・ストーン
<やり手の農務長官>
ヘンリー・ウォレスHenry Agard Wallaceの活躍が始まったのは、アメリカ中が不況に苦しんでいた世界恐慌の時期でした。当時の大統領ルーズベルトによって農務省の長官に任命された彼は、世界恐慌によって値崩れを起こした農作物の価格を戻すため、国家予算を使って綿花や豚をまとめて買い上げたり、個別には難しい農作物の品種改良を国家プロジェクトとして研究するなど、次々に改革を行いました。それにより、アメリカの農業は復活し、その危機を救った彼の手腕を高く評価したルーズベルト大統領は、1940年3期目を目指そうとする選挙戦で彼を副大統領に指名します。
反ファシストで、反人種差別主義者で、左派よりの彼の政治姿勢はラディカル過ぎると批判する政治家は多く、同じ民主党内の保守派は彼の副大統領就任に反対していましたが、その実績が高く評価されていたこともあり、彼の就任を止めることはできませんでした。そんな彼の政治姿勢については、それを示す文章が残されています。
当時、出版界の帝王と呼ばれていたヘンリー・ルースは、「ライフ」誌で「20世紀はアメリカの世紀になる」として、こう書きました。
「われわれは世界で最も強力かつ重要な国としての義務と機会を全面的に引き受け、しかるべき目的に対し、しかるべき手段でアメリカの影響力を全世界に行使すべきである」
ところがそれに対して、ヘンリー・ウォレスははっきりと異を唱えています。
「『アメリカの世紀』という言葉を耳にします。しかし私は、この戦争につづく世紀が、『人々の世紀』になると考えています。そうでなくてはならないのです。・・・どのような国にも、他国から搾取をおこなう権利はありません。軍事的にも経済的にも、帝国主義はあってはならないことです。アメリカの欲を満たすための国際カルテルや、ドイツの身勝手な支配欲を、この世界にのさばらせるわけにはいきません。・・・
過去150年のあいだ、人々は自由への偉大なる歩みを進めてきました。1775年のアメリカ独立革命があり、1792年のフランス革命があり、南米諸国の相次ぐ独立運動があり、1848年にはドイツの革命があり、1917年にはロシア革命が起こりました。いずれも普通の人々のための戦いです。なかには極端すぎたものもあります。しかし手探りではありますが、人々は光を求めて進んできたのです。そうした革命から生まれ、革命の重要な一部となった現代の科学は、世界中の人々に十分な食べ物を用意することを可能にしました・・・しかしナチスの支配下にあるすべての人々が自由になるまで、気を抜くことはできません。・・・人々の革命は、今も進行中なのです。」
ルーズベルトの人気が高かったこともあり、彼が選んだヘンリー・ウォレスは副大統領に選ばれ、3期目のルーズベルト政権でも大きな活躍をすることになりました。しかし、4期目となる次の大統領選挙では、彼の副大統領選出にストップがかかることになります。それには大きな理由がありました。
4期目の大統領選に挑むルーズベルトには、健康面で大きな不安があり、もし当選できても任期を全うできないかもしれないと周囲は不安視していました。もし、彼が任期途中で退任することになれば、副大統領がその後任になります。そうなった時、大統領になったウォレスは民主党上層部の意見に従うかどうか?そこに大きな疑問があったのです。ならば、初めから自分たちの意見を通しやすい、副大統領を任命させるべき。そこで「ミスター・イエスマン」として白羽の矢が立てられたのが、ハリー・トルーマンでした。
<ハリー・トルーマン>
ハリー・トルーマンは、様々な職に就きながら成功に至らず、40歳を過ぎて政界入りした遅咲きの政治家です。幸いにして、彼の無色透明性は辣腕政治家たちには利用しやすかったらしく、大物政治家たちと共に、その地位をどんどん上げて行くことになります。先ずは悪名高い政治家ハリー・ペンダーガストの使いッパシリから彼のキャリアはスタート。ボスの後押しを得て、上院議員になった彼はペンダーダストが逮捕されると、これまた悪名高いセントルイスの政治家、ハニガン=ディックマンのコンビに目をかけられ、再び上院議員に選出されます。こうして政界の大物たちの下で少しづつ地位を上げていった彼は、政界の「イエスマン」として民主党の幹部たちからの支持を得て、ついに副大統領に指名されるチャンスをつかむことになりました。
1944年の民主党大会で、多くの議員はルーズベルトが指名したウォレスを支持しますが、党の幹部はそんなウォレス支持派を少しづつ切り崩し、最後の最後に逆転。トルーマンを副大統領にねじ込み、自分たちの言うことを聞かないウォレスを追い出すことに成功します。
<ヘンリー・ウォレスの孤独な戦い>
第二次世界大戦終結後、ウォレスは新しい大統領アイゼンハワーのもとで商務長官に任命されますが、その左派よりの政策は保守派からの批判の対象となります。政府内でただ一人、対ソ強硬路線に異を唱えていた彼の立場はソ連との対立が深まる中、逆風にさらされることになります。こうしてヘンリー・ウォレスは、当時の大統領アイゼンハワーによって商務長官を辞任させられます。
政府から追い出された彼は、選挙によって民主党に戦いを挑む決意を固め、1946年9月20日ラジオで国民にこう語りかけました。
平和の実現は、高い地位よりも大切です。党派政治のいかなる思惑よりも大事です。われわれの外交政策の成否が、われわれの子や孫の生死を分けることになるでしょう。人類の、そして世界の、存続と滅亡を分けることにもなるかもしれません。ですから、平和を実現するための戦いに加わることはなによりも重要で、われわれの一人ひとりがそれを聖なる務めととらえるべきです。・・・改めてはっきりさせたいことがあります。それは、私はいかなる帝国主義にも侵略にも反対だということです。ロシア、イギリス、アメリカのいずれによるものであっても反対です。・・・どんな政策も、成功するかどうかは究極的に国民の信頼と意志にかかっています。国民がそれらの問題について知識も理解ももたないなら、あるいは事実をすべて知らされないなら、そしてオープンで十分な議論を通じて外交政策の策定に参画する機会が得られないなら、政策の成功を支える基盤は存在することができません。
この議論において、われわれが他国民にこちらの権利と利益を尊重しなくてはなりません。ニューヨークでの演説で述べたように、この議論をどう決着させるかによって、そもそもわれわれが生きていかれるかどうかどうかが決まります。私は平和を目指す戦いを続けていくつもりです。
1947年3月、アメリカの上下両院合同会議でトルーマン大統領はギリシャとトルコの右派政権支持を表明し、彼らに軍事援助など4億ドルの支出を行うと発表しました。それはソ連からの共産主義拡大を防ぐのが目的とされましたが、トルコにソ連からの圧力は当時まったくありませんでした。
「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれたこの宣言に対し、ウォレスはNBCラジオでこう演説しています。
「トルーマン大統領が東西南北の世界規模の対立を宣言するのは、ソ連の指導者に対してわが国が来るべき戦争の準備をしていると告げるに等しいのです」
「アメリカが変化への抵抗を支持すれば、私たちは敗者となります。アメリカは世界で最も嫌われる国になるでしょう」
「トルーマンの政策は、ヨーロッパとアジアで共産主義を広めることになるでしょう。トルーマンがギリシャのゲオルギオス国王に無条件の援助をすれば、彼は共産主義がこれまでに迎え入れた最も都合のいいセールスマンとして働くことになります」
(これらの言葉は、そのまま21世紀のアメリカとイスラム教徒との関係にも当てはまる気がします)
この後、彼はリベラルな「ニュー・リパブリック」誌の編集長となり、トルーマン政権への批判を続けた後、1947年12月大統領選に挑むことを発表します。政府にとって、ウォレスの存在が再び危険なものとなりました。
ホワイトハウスの補佐官フラーク・クリフォードはトルーマンにこう進言します。
「国民の頭の中で彼を共産党員だと思わせて共産党員とおもに孤立させるために・・・あらゆる手を打つ必要がる。・・・現政権は、リベラル派や革新派の著名人を
- そのような人だけを - 説得して、公然と騒ぎ立ててもらわねがならない。ウォレスの支持者の中核は共産党員と共産党支持者だということを指摘させなくては」
1948年ウォレスは民主党を離党し、進歩党というより左派的な党から大統領選挙に挑戦しますがわずか2.3%しか票を獲得できず惨敗してしまいます。その後、彼の支持者の多くが「赤狩り」の流れによって摘発されてしまい、彼は政界で完全に孤立してしまいます。こうして彼は自ら政界を去り、ニューヨーク州北部の町で隠遁生活を送りながら、農場でトウモロコシと鶏の世話をしながらその生涯を終えることになります。
彼の不在により、アメリカの政治は1960年代後半まで右傾化を続けて行くことになります。「冷戦」を止める最初のチャンスはこうして失われました。
<参考>
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史(2) 2つの世界大戦と原爆投下 The Untold History of the United
States」 2012年
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)大田直子、鍛原多恵子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世
早川書房
世界を変えた大事件へ
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