「真昼の決闘 High Noon」 1952年


- フレッド・ジンネマン Fred Zinnemann -

<懐かしの西部劇>
 僕が最初に映画に出会ったのは、子供の頃、テレビの映画劇場でした。特に1960年代から1970年代にかけては、テレビの映画劇場の黄金時代で、ほとんどの曜日にどこかのチャンネルで映画を見ることができたものです。そんな中、小学校の高学年だった僕が最初に見出したのは、たぶん西部劇だったように思います。
 ジョン・ウェインの「リオ・ブラボー」は子供にも楽しかったし、クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」やジュリアーノ・ジェンマの「荒野の1ドル銀貨」など、マカロニ・ウェスタンものはヒーローものとして何度も見たものです。そして、「西部開拓史」や「荒野の七人」のような大作映画は、まるで映画館で見ているような気分にさせてくれたものです。もちろん、「シェーン」のような感動作もあったわけですが、僕としては「ミネソタ大強盗団」、「夕陽の群盗」、「明日に向かって撃て」、「ワイルド・バンチ」、「夕陽に向かって走れ」、「ビリー・ザ・キッド21才の生涯」など、ニューシネマ以降の西部劇に最もひかれていたような気がします。
 当然、西部劇史上に残る名作のひとつ「真昼の決闘」もテレビで見たはずなのですが、実はあまり印象が残っていませんでした。この作品の発表後、「地上より永遠に」(1953年)、「わが命つきるとも」(1966年)で2度のアカデミー賞に輝く巨匠フレッド・ジンネマンの代表作でもあるのですから、見たことはあるはずなのですが?
 しかし、今回久しぶりに見て、ちょっと驚かされました。まさか、こんなストーリーだったとは・・・・・。そして、その裏には時代の影響が色濃く出ていたことがわかると、この作品への思いはかなり違ったものになるはずです。

<1950年代のアメリカ>
 1947年、アメリカの下院非米活動調査委員会はハリウッドにおける共産主義の浸透度を調査するためと称し、19人の映画人に召喚状を送り、そのうちの11人が証言台に立ちました。しかし、そのうちの10人は委員会への協力をこばみ証言を拒否したため刑務所に送られてしまいます。
 俗にいう「ハリウッド」は、こうして映画界を追放され、ハリウッドにおける「赤狩り」第一幕が終りました。しかし、「赤狩り」は見せしめとなった10人の犠牲者だけで終ることはなく、さらなる共産主義者のリスト・アップが開始され、「レッド・チャンネル」という共産主義者と思われる映画人の名を載せた213ページにわたるブラック・リスト本が作られるにいたります。そして、1951年、ハリウッドにおける「赤狩り」の第二幕があき、再び多くの映画人に召喚状が送られました。しかし、この第二幕はすでに始まった時点で勝負はついていました。「ハリウッド・テン」による最高裁への上告も結局彼らの無実を認める結果をえることはできず、社会全体が「赤狩り」のブームに巻き込まれてしまっていたのです。それどころか、共産主義者としてリスト・アップされた人物もまたリストに載せられるというシステムが確立し、人々は口を閉ざすことで自らの身を守ることしかできなくなっていました。
 この頃、「探偵物語」(1951年)でアカデミー助演女優賞にノミネートされたばかりの新進女優リー・グラントは、突然映画界を追放されました。それは、彼女の夫で脚本家のアーノルド・マノフがブラック・リストに載っていたことと、同じくブラック・リストに載ったために仕事を失った俳優J・エドワード・ブロムバーグが心臓麻痺でこの世を去った際、彼女がその葬儀で弔辞を読んだためといわれています。彼女はそれでも1967年には「夜の大捜査線」で映画界に復帰し、1975年の「シャンプー」では見事にアカデミー助演女優賞を獲得、自らメガホンを取り記録映画「Down and out in America」でアカデミー記録映画賞を受賞しました。しかし、彼女のように映画界に復帰することができたのは、ほんの一握りに過ぎないことも忘れるわけにはゆきません。この映画が公開された年、1952年はまさにそんな「赤狩り」時代のまっただ中だったのです。

<フレッド・ジンネマン>
 この映画の監督フレッド・ジンネマン Fred Zinnemannは、1907年4月29日オーストリアのウィーンに生まれました。ユダヤ系の医師の家に生まれた彼は音楽家になることを知ると映画の世界にひかれてゆきました。特に、ウィーン大学在学中に見たエリッヒ・フォン・シュトロハイムの伝説の超大作「グリード」やカール・テホ・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」、エイゼンシュタインの歴史的名作「戦艦ポチョムキン」など、ヨーロッパ映画の伝説的名画をリアル・タイムで見た彼は映画を仕事にしようと決心し、パリの映画撮影技術学校に入学します。当初は、ドイツのベルリンでカメラマンとして働き出しますが、第一次世界大戦の影響でハリウッドへと渡ってゆきました。
 しかし、彼がアメリカに渡った1930年は大不況が始まった年でもありました。映画界も当然一時の勢いを失いつつあり、彼はすぐに活躍することができませんでした。そのため、彼は一時期、記録映画界の巨匠ロバート・フラハティの助手として働きながら、ドキュメンタリー映画を製作する現場につきます。そして、社会問題と深く関わることになり、「ドキュメンタりー映画の父」ロバート・フラハティの影響の元に最初の作品「波」(1935年)を撮りました。(この作品はメキシコの漁民の生活をじっくりと追ったドキュメンタりー映画です)
 その後、彼はMGMで低予算の短編映画を撮りながら経験を積んでゆき、1941年、ついに初長編映画「Kid Globe Killer」を監督します。1943年には、スペンサー・トレイシーを主演に迎えて初のメジャー作品「The Seventh Cross」を撮ります。しかし、彼はハリウッドの単純な娯楽映画路線に反発を覚えており、ことごとくフロントと衝突し、停職処分となったりします。そんな彼にヨーロッパから仕事の依頼がやってきます。戦争直後のヨーロッパを舞台にした映画「山河遥かなり」(1947年)は、彼が望んでいた作品だったこともあり、アカデミー賞にもノミネートされ、監督としての彼の評価はいっきに高まりました。
 彼のヨーロッパへのこだわりと反ナチズムの姿勢は、この後、名作「ジュリア」を生み出すことになります。そして、その裏には彼の両親がともにホロコーストによって命を落としているという事実があることも忘れるわけにはゆかないでしょう。

<ゲイリー・クーパー>
 この映画で「究極の正義の男」を演じたゲイリー・クーパーは、映画のとおりアメリカの正義を象徴する俳優として活躍した数少ないスター俳優です。当然、ドル箱スターとしての評価も高かったのですが、アカデミー主演男優賞も二度受賞しています。最初は、1941年の「ヨーク軍曹」で、この作品で彼は二度目の受賞を果たしました。典型的な二枚目俳優でありながら、彼の演技は静かな名演ともいえるスタイルを貫きました。
「ぼくは、いかに演技すべきかということを知らない。ぼくにできることは、いかに熱演しないかということだけだ」
ゲイリー・クーパー

 真面目な二枚目俳優としてのイメージが強い彼ですが、私生活では長い期間にわたり、不倫していたことは有名です。ただし、彼はけっして正妻との離婚はせず、最終的には不倫から戻る道を選択しています。とはいえ、彼のもてっぷりは伝説的だったようです。そんな彼のモテた理由について、彼の出演作品の多くを監督している巨匠ビリー・ワイルダーはこう語っています。

「彼が、女という女にモテた秘密だが、それはなにもクーパーが、内容のある話をすることで女を魅了したからではない。ただし彼は、聴くことは知っていた。
 わたしは確信をもって言えるが、女の話を聴くときの彼は、特別にそれに注意を集中してさえいなかった。ただ、話しつづける女から視線は離さず、そしてときどき、次の三句のいずれかで口をはさんだ。
「まさか」
「ほんとかい」
「そういう話、はじめて聴くよ」
 こんな調子で女に胸の内を吐露させているうちに、女たちは自然に彼とベッドを共にするようになる、というわけだ」

塩野七生「人びとのかたち」より

<ディミトリ・ティオムキン>
 アカデミー歌曲賞を受賞した主題歌も含め、この映画の音楽を作曲したのは、ロシア出身の作曲家ディミトリ・ティオムキン Dimitri Tiomkinです。彼は1894年5月10日サンクトペテルブルグに生まれました。ピアニストだった母親にピアノを習い、ペテルブルグ音楽院に入学。卒業後はピアニストとして活躍。しかし、1930年の二度目の渡米の際、そのままハリウッドにとどまり作曲家としての道を歩み始めます。1935年以降は完全に映画音楽専門の作曲家となり、その後35年間、映画のための音楽を作り続け、1979年11月11日にこの世を去りました。代表作を挙げると、「ダイヤルMを廻せ!」(1954年)、「紅の翼」(1954年)、「ピラミッド」(1955年)、「友情ある説得」(1956年)、「ジャイアンツ」(1956年)、「OK牧場の決闘」(1957年)、「老人と海」(1958年)、「リオ・ブラボー」(1958年)、TV「ローハイド」(1957年)、「アラモ」(1960年)、「ナバロンの要塞」(1961年)、「ナバロンの要塞」(1961年)、「北京の55日」(1963年)そして、彼はこの映画と、「紅の翼」「老人と海」で3度アカデミー賞を受賞しています。
 西部劇や戦争映画などを中心に、男っぽい映画の音楽を得意とする作曲家だったといえるでしょう。

<「赤狩り」の影響>
 この映画が撮影された1951年は、前述のとおり「赤狩り」の第二弾が始まった年でした。そんな状況で作られたこの作品が示す街の姿をハリウッドとダブらせて見なかった映画人はいなかったはずです。もちろん、この映画にはまったく「赤い色」が感じられません。おまけに主役のゲイリー・クーパーは、すでに証言台に立って自らが共産主義者ではなくアメリカ政府に忠誠を誓う者であると宣誓した人物であり、政府に協力する立場をとっていました。
 さらにフレッド・ジンネマンがブラック・リストに載っていなかったこともあり、この作品はアカデミー作品賞など、各部門の候補作となり、前述の転向者ゲイリー・クーパーは見事主演男優賞を獲得しています。しかし、残念ながら作品賞をこの作品はとることができませんでした。といっても、この年、アカデミー賞を受賞したのは大ベテラン、セシル・B・デミルの超大作「地上最大のショウ」。誰もが「なぜ?」と首をかしげるアカデミー賞史上最も不可思議な選択といわれることになります。この年には、他にもジョン・フォードの「静かなる男」があったのですが、アカデミーの会員たちは過去の巨匠に対して功労賞代わりに作品賞を与えることを選択したのでしょうか。

<オー・マイ・ダーリン!>
 この映画の主題歌もまた映画同様大ヒットし、スタンダード・ナンバーの仲間入りをすることになりました。その曲のタイトルは「Do Not Forsake Me,Oh,My Darlin'」訳するとすれば「ダーリン、私を見捨てないでおくれ」となるのでしょう。しかし、なんと皮肉なタイトルでしょう。この映画を見たハリウッドの映画人の心はどう揺れ動いたのでしょうか?一時は反共宣言をして左翼系の映画人を告発したゲイリー・クーパーは、この後「赤狩り」の対象となった映画人を助ける側にまわります。そして、時代の変化とともに「赤狩り」の時代は終わりを迎えることになりますが、それはまだまだ先15年後のことになります。その間、ハリウッドからは多くの優秀な人材が失われ、テレビの発達とともに映画業界は凋落の道を歩むことになります。
 実際、この映画の脚本を書いたカール・フォアマンはこの後すぐに赤狩りの対象となり、アメリカの映画界から追放されることになりヨーロッパへと渡ることになります。彼はイギリス映画「戦場にかける橋」の脚本を担当し、見事アカデミー脚色賞をもたらします。しかし、たとえイギリスの映画だったとはいえアカデミー賞に彼の名前を出すことはできなかったため、公式には脚色者の名前は原作者のピエール・ブールと共同脚本のマイケル・ウィルソンになっており、当時彼にアカデミー賞の栄誉が渡ることはありませんでした。(現在は公式に彼が脚本家となっています)たぶん、ウィルという優秀な保安官を失い、街の名誉までも失ったハドリーヴィルの街もまたその後没落への道を歩んだことでしょう。
 真昼の12時に始まる決闘までのわずか2時間ほどの出来事をほぼリアル・タイムで収めたこの作品は、ドキュメンタりー映画出身のジンネマンならではのリアリズムに徹した作品であると同時に、シンプルなストーリーゆえに時代を越える傑作となる可能性を最初からもっていました。「真昼の決闘」は舞台をかえ、時代をかえて、どこでもいつでも起こりうる可能性を秘めた永遠の寓話なのです。

「真昼の決闘 High Noon」 1952年公開
(監)フレッド・ジンネマン
(製)スタンリー・クレイマー
(原)ジョン・W・カニンガム
(脚)カール・フォアマン
(撮)フロイド・クロスビー
(音)ディミトリー・ティオムキン
(出)ゲイリー・クーパー、グレース・ケリー、トーマス・ミッチェル、ロイド・ブリッジス、ケティ・フラド、アイアン・マクドナルド、リー・ヴァン・クリーフ

<あらすじ>
 西部の小さな街、ハドリーヴィルの保安官ウィル・ケイン(ゲーりー・クーパー)は、保安官を退職することになっており、その当日、結婚式を挙げていました。ところが、その式の最中に思わぬ知らせが届きます。かつてウィルが逮捕して刑務所に送り込んだフランクが釈放され、ウィルへの復讐を果たすため街に向かっているというのです。そのうえ、汽車で駅に着く彼を待って、仲間が集まっているということもわかりました。
 暴力を否定するクウェーカー教徒の妻エミイ(グレース・ケリー)は、正義よりも命を守るべきと、夫に街を出るよう頼みますが、逃げても追ってくるならここで一味と対決すると彼は決断します。そこで彼は保安官助手を急遽召集し、さらに街の人々にも応援を呼びかけます。ところが、フランク一味の恐ろしさを知る街の人々は、恐れをなして知らん振りを決め込んでしまいます。さらには、頼りにしていた保安官助手も命惜しさに逃げてしまい、彼の元を去ってしまいます。最後の救いと思い、教会の礼拝に集まる街の良識派の人々にも協力を訴えましたが、彼らは今この街で銃撃戦が起きれば、せっかく東部からくるはずの資本が引き上げてしまうと、ウィルに街を出るよう宣告します。
 ついに彼はたったひとりでフランク一味4人を相手にすることになりました。時計の針は無常にも正午をさし、駅にフランクが到着、彼らはすぐに街に現れ決闘が始まります。怪我を負いながらも、たったひとりで闘う夫の姿を見て、エミイも銃を取りますが、彼女もフランクに捕まってしまいます。
 エミイとウィルの運命は?



「雨に唄えば」のヒットでミュージカル映画のブーム
3D映画最初のブーム(米)
カイエ・デュ・シネマ創刊(仏)

「赤い風車 Mourin Rouge」 (監)ジョン・ヒューストン(出)ホセ・ファーラー(ヴェネチア映画祭銀獅子賞
「雨に唄えば Singin' in the Rain」 (監)スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー(音)レニー・ヘイトン
「愛しのシバよ帰れ Come Back, Little Sheba」 (監)ダニエル・マン(シャーリー・ブースがアカデミー主演女優賞
「オーソン・ウェルズのオセロ」(監)オーソン・ウェルズカンヌ映画祭グランプリ
「革命児サパタ Viva Zapata !」(監)エリア・カザン(アンソニー・クィンがアカデミー助演男優賞マーロン・ブランドカンヌ映画祭主演男優賞
「禁じられた遊び」(監)ルネ・クレマン(ヴェネチア映画祭金獅子賞
「静かなる男 The Quiet Man」 (監)ジョン・フォードアカデミー監督賞)〈出)ジョン・ウェイン
「ジャズ・シンガー The Jazz Singer」(監)マイケル・カーティス
地上最大のショウ The Greatest Show On Earth」(監)セシル・B・デミル(なぜかアカデミー作品賞?)
「2ペンスの希望」(監)レナート・カステラーニ(カンヌ映画祭グランプリ
「真昼の決闘 High Noon」(監)フレッド・ジンネマン(音)ディミトリー・ティオムキン(ゲイリー・クーパーがアカデミー主演男優賞
「ライム・ライトLimelight」 (監)(音)チャーリー・チャップリン アカデミー作曲賞(なんとこの映画の助監督ロバート・アルドリッチだったそうです!)
「乱暴者The Wild One」 (監)ラズロ・ヴェネディク(出)マーロン・ブランド
NOUS SOMMES TOUS DES ASSASSINS(WE ARE ALL MURDERERS)」(監)アンドレ・カイヤット(カンヌ映画祭審査員特別賞

生きる」(監)(脚)黒澤明(脚)橋本忍、小国秀雄(製)本木荘二郎(出)志村喬、小田切みき、金子信夫、伊藤雄之助(ベルリン映画祭三位入選)
「稲妻」(監)成瀬巳喜男(原)林芙美子(脚)田中澄江(出)高峰秀子、三浦光子
「おかあさん」〈監)成瀬巳喜男〈脚)水木洋子〈出〉田中絹代、岡田英次、香川京子
「カルメン純情す」(監)(脚)木下恵介(音)黛敏郎(出)高峰秀子、若原雅夫、淡島千影
「現代人」(監)渋谷実(製)山本武((脚)猪俣勝人(出)池辺良、小林トシ子、山田五十鈴、山村聡
「西鶴一代女」(監)溝口健二(脚)依田義賢(出)三船敏郎、田中絹代(ヴェネチア映画祭国際賞
「真空地帯」(監)山本薩夫(原)野間宏(脚)山形雄策(出)木村功、利根はる恵
「本日休診」(監)渋谷実(原)井伏鱒二(製)山本武(出)柳永二郎、鶴田浩二、淡島千影
「山びこ学校」(監)今井正(脚)八木保太郎〈撮)伊藤武夫〈出)木村功、岡田英次、杉葉子
「源氏物語」(監)吉村公三郎(撮)杉山公平(カンヌ映画祭で撮影賞を受賞)


イギリスがモンテベロにて原爆実験を行う
エリザベス2世誕生
ヨーロッパ防衛共同体条約EDC調印される
ポーランド人民共和国憲法公布
リビア独立(イタリアより)
エジプト革命により国王が退位、共和国制へ移行
(ガマール・アブドゥル・ナセルが大統領に)
米国が対インドシナ軍事援助を増強(ベトナム戦争への静かな歩みが始まる)
韓国にて新憲法公布

<芸術、文化、商品関連>
「ケイン号の叛乱」ハーマン・ウォーク著(ピューリツァー賞受賞)
「ゴドーを待ちながら」サミュエル・ベケット著(英)
まっぷたつの子爵」イタロ・カルヴィーノ著(伊)
「地上より永遠に」ジェームス・ジョーンズ著(全米図書賞)
米国アカデミー賞授賞式の放映権をNBCが獲得。授賞式の演出がショーアップされはじめる。
黒人作家ラルフ・エリソンの「見えない人間」が発表される
作家ウイリアム・バロウズ William S. Burroughsが「ジャンキー」を発表
ビート・ジェネレーションの中心の一人)
「老人と海」アーネスト・ヘミングウェイ(ノーベル文学賞受賞)
ラジオ・ドラマ「君の名は」(菊田一夫作)がスタート、1954年にかけて大ヒットとなる
手塚治虫の「アトム」が月間「少年」で連載開始
テトラパックの生産開始(スウェーデン)

<音楽関連(海外)>
ペレス・プラードがマンボを引っさげてアメリカ上陸
フォーク・グループ、ウィーバーズが赤狩りにより解散に追い込まれる
ハワイのアーティスト、アルフレッド・アパカ Alfred Apakaアメリカで人気者になる
ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassensデビュー、フランスを代表する歌手、詩人となる
カバセレが、アフリカン・ジャズを結成する
<音楽関連(国内)>
美空ひばりが歌謡界史上初の歌舞伎座公演開催
ジーン・クルーパー・トリオ来日、初の米国ジャズ・ミュージシャンの来日で本格的なジャズ・ブーム到来
米軍の撤退が始まり、日本人ジャズ・バンドが米軍基地から外に出始める
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