1970年代前半

- JB、スライからP−ファンクまで -

<ハイテク・ファンク黄金時代>
 1970年代前半は、ジェームス・ブラウンによって生み出されたファンク・ミュージックがスライ・ストーンによってアメリカ中に広められ、それが優れたテクニックをもつ数多くのバンドの活躍によって黄金時代を迎えた時期でした。
アース、ウィンド&ファイヤークール&ザ・ギャングウォー、グラハム・セントラルステーション、タワー・オブ・パワー、バーケイズ、アイズレー・ブラザース、オハイオ・プレイヤーズ、B・T・エクスプレス、ルーファス、K・C&ザ・サンシャイン・バンド、アヴェレイジ・ホワイトバンド、ワイルド・チェリー、ブリック、ヒート・ウェイブ、ブラザース・ジョンソン、それにパーラメントとファンカデリック・・・etc.
 これだけ多くのVo&インストロメンタル・グループが活躍したのはこの時期だけであり、たぶん今後も2度とないでしょう。それは1970年代前半という特殊な時代だからこそ花開いた音楽であり、ブラック・ミュージックにとって一つの頂点を示すものでした。その証拠にその後1980年代以降に訪れるヒップ・ホップ・ブームにおけるサンプリングのネタとして最も多く使用されているのは文句なしにこの時期のファンク・ミュージックなのです。
 大人数の優れたミュージシャンたちによって生み出されて独特のグルーブは二度の再現することはできませんが、幸いにしてその録音を聞くことはできます。一体なぜ、究極のファンク・サウンドがこの時期に黄金期を迎えたのか?先ずは1970年に時計の針を巻き戻し、その時代を振り返ってみたいと思います。

<熱い時代が終って>
 1960年代に繰り広げられた人種解放運動の結果、アフロ・アフリカンの人々は公民権だけでなく多くの権利を獲得し、アファーマティブ・アクションによって職場も確保。政界にも黒人の議員が数多く進出すると同時にかつてマルコムXキング牧師ぐらいしか発言できなかった人種問題についての告発も自由にできる空気が生まれました。その象徴的な存在だった人物としてモハメド・アリがいます。
 徴兵を拒否したために世界ヘビー級のタイトルを剥奪され、1967年以降アメリカ国内で試合をすることもできなくなったモハメド・アリは、1970年ついにアトランタで復帰戦を行います。そして、1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取った彼は再び世界チャンピオンに向けて再スタートを切ります。彼の戦いと勝利はアメリカに住む黒人たちにとって自由の象徴であり、経済的成功というアメリカン・ドリームの象徴でもありました。
 当時、徴兵を拒否したアリはある記者会見でこういいました。
「俺は、ヴェトコンから黒んぼ呼ばわりされたことなどない」

 ファンク・ミュージックのについての大著「ファンク」の中で作者のリッキー・ヴィンセントは、1970年代初めのアメリカについてこう書いています。
「黒人大衆は、いわゆる平等を片方の手に入れ、政府の仕事(もしくは施し)をもう片方の手に入れることによって1960年代ほど危機感を感じなくなったため、それぞれの生活に落ち着いた。・・・」

「『ブラック・イズ・ビューティフル』という言葉も、もはや闘う姿勢を象徴してはいなかった。『黒人であることはかっこいい』ただそれだけを「意味するようになったのだ。・・・」

<1970年代ファッション>
 そんな時代の空気は、当時の黒人たちのファッションにも見事に表れています。
 なんといっても巨大なアフロヘアーで有名ですが、それだけではありません。お尻はピッタリで裾がたっぷり広がったベルボトム・ジーンズ。やたらと大きな襟でミラーボールの光に輝く化学繊維のブラウス。エスニックっぽいプリント柄のロング・ベスト。ダシーキ(Dashiki)と呼ばれるアフリカの民族衣装。やたらと底が厚い靴(Platform Shoes)やサンダル。女の子ではバサバサと音がしそうな長い付けまつげに大きなイヤリングにフォークロア調のビーズのアクセサリー。
 当時のファッションを分かりやすく説明すると、ぴっちりとしたものはあくまでボディ・コンシャスにジャスト・フィットしたデザインを追及。エスニックなスタイルは、逆にゆったりとしたデザインが基本でした。衣類、アクセサリーなどすべてのものが極端にデザインされ、それぞれが個性を強調することを良しとする時代が1970年代の初めだったのです。それでもなお人々がバラバラにならなかったのは、この時代はまだ民族としての絆や家族としての絆が、まだしっかりと保持されていたからです。

<「絆」の文化>
 こうした絆に支えられた文化は、人種解放運動の盛り上がりによっても、さらに強められ、それがファンク・ミュージックのあのグルーブを生み出す原動力にもなっていたといえるでしょう。
「ファンク・バンドにおいては、音楽に関しても地位に関しても、全員平等というのが基本原則となる。この原則があったおかげで、柔軟に即興演奏が行われたりリズムについての見方が広がったりして、この時代独自の新しいアイデアが数多く生まれることになった。・・・」
リッキー・ヴィンセント「ファンク」より

 誰もが「Say it loud, I'm Black and I'm Proud」と叫ぶことができ、「We are Family」と歌うMFSB(Mother, Father, Sister, Brother)の絆がたもたれていた時代。それが1970年代でした。そして、こうした時代背景があったからこそ、この時代のファンク・アルバムの多くは、単なるダンス音楽ではなく、政治的な主張やアフリカ回帰への想いなどがこめられたトータル・アルバムとしてつくられていました。
 Earth,Wind &Fireの「Grattitude」やクール&ザ・ギャングの「Wiid & Peaceful」、スライ&ファミリー・ストーンの「スタンド Stand」などは、特にアルバムとして完成された内容になっていますが、残念ながらそれらはアルバム単位ではあまり聴かれていません。シングルとして発表されていない曲にも素晴らしい曲があることも要注意です。ハイテク・ファンクとも呼ぶべき、大人数のバンドによる高度なファンク・ミュージックは、こうした時代背景のもとで発展したわけです。

<ハイテク・ファンクの原点>
 ハイテク・ファンクの原点であると同時にその頂点でもある存在。それがJBことジェームス・ブラウンであることに異を唱える人はいないでしょう。しかし、意外かもしれませんが、彼のファンク・ミュージックはあまりに黒すぎてかつてポップ・ミュージックの世界では受け入れられていませんでした。それはここで「ハイテク・ファンク黄金時代」といっている1970年代の初めでも同様で、多くのバンドの曲がヒット・チャート、それもポップ・チャートを駆け上がってゆく中、JBのナンバーは相変わらずR&Bチャートにしか登場していませんでした。(1985年に「リビング・イン・アメリカ」という愛国ソングによって、やっと彼は全米規模で認知されることになります)
 人種問題を声高に叫ぶことが法的に自由になったとはいえ、それは社会的経済的に自分が不利な立場に追い込まれることと結びついていました。「自由」は勝ちとったものの、そこには新たな落とし穴が待ちうけていたわけです。そんな状況の中、JBが生み出したファンク・ミュージックを黒人だけでなく白人たち、そしてポップ・チャートにまで広めたのは、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリーダー、スライ・ストーンでした。彼が具体的にファンクの歴史において成し遂げたことは、彼でなければできなかったことばかりです。サンフランシスコの黒人向けラジオ局で人気DJとして活躍していた彼女はヒッピー・ムーブメントの聖地で、ロックの最先端とソウルの融合を目指しました。
 人種融和の時代となる1970年代を先取りした彼は、黒人と白人そして女性をメンバーとする画期的なバンドを立ち上げます。バンド名はファミリー・ストーン。このバンドのスタイル自体がすでに時代の先を行っていましたが、同時にそれは音楽のスタイルにそのまま生かされることになります。自由なメンバー構成から生まれたロックとソウルの壁を取り払った自由な音楽。それがスライのファンク・ミュージックでした。
「このバンドの音には、測り知れないほどの自由があった。バンドの音が複雑だったのは、自由というものが複雑だからだ。・・・」
グリル・マーカス

 それはJBが生み出した徹底した管理と訓練による究極のエンターテイメントとしてのファンク・ミュージックとは、ある意味対極に位置していたのかもしれません。しかし、スライにはDJとして身につけた観客を喜ばせる優れたセンスがありました。そして、JBが築き上げた完璧なテクニックにまさるとも劣らない観客を躍らせずにはおかない熱い情熱がありました。スライ&ザ・ファミリー・ストーンの演奏はテクニックを超越した時代の空気満載のエネルギーの塊として、白人、黒人、女性、ロックファン、ソウルファン、そして国籍も超えてファンク・ミュージックを広めることに成功しました。
「70年代という時代は、みずからが音楽をどう理解しているかにのっとって音楽を解釈し表現する自由を黒人ミュージシャンに与えた」
ポーシャ・モルツビー(音楽学者)

 こうして、ハイテク・ファンク・バンドの時代が始まることになりますが、そこにはやはりいくつかの共通項がありました。

<ハイテク・ファンク・バンドのファッション>
 ファッション的には、やはり前述の70年代ファッションがメインでしたが、かつてのソウル・グループのようにおそろいの衣裳でビシッと決めることはありませんでした。逆にメンバーそれぞれが思い思いの衣裳を着てステージに上がるのがこの時代でした。その代表格は、パーラメントともうひとつの顔ファンカデリックでした。
 元々お洒落に対するこだわりがなかったことと、衣裳をそろえるだけのお金がなかったせいで、パーラメンツ/ファンカデリックのメンバーはステージ上にそれぞれバラバラの衣裳で上がっていました。妖精風の衣裳を身につけたグレイディ・トーマス。魔法使いのトンガリ帽子をかぶったカルヴィン・サイモン。ホテルのシーツで作ったオムツ1丁だったクラレンス”ファズィー”ハスキンズ。同じくホテルのシーツに穴を開けただけの衣裳を着たジョージ・クリントンなど。こうした、バラバラの衣裳によって表現された雑多な個性から生まれる音がジョージ・クリントンの指揮の下、うねるように撚り合わされて強烈な一つのグルーブを生み出す。これこそ、70年代ファンク・バンドが得意とするところの音楽でした。

<ハイテク・ファンク・バンドの音楽>
 当時のことを語ったインタビューの中で70年代のファンク・バンドはそのメンバーの数の多さを競っていたというものがありました。JB率いるJB’sの場合は、ホーンが3名、ギター2名、ベース2名、ドラマー2名、キーボード1名あたりが基本メンバーだったようですが、そこにさらにヴォーカルとコーラス隊、パーカッションが数名加わると、それだけで15名は越えていたことになります。こうした、メンバーの構成はアース・ウィンド&ファイヤー、クール&ザ・ギャング、オハイオ・プレイヤーズ、ウォー、タワー・オブ・パワーなどにも共通していて、それぞれが音の厚みとそこから生まれる「グルーブ」のパワーを競うため、次々とメンバーを増やしていた時期があったそうです。それはまるで巨大化が進み絶滅への道を早めてしまった恐竜の進化を思わせます。その究極の存在が、ハイテク・ファンク・バンドとして1980年代まで生き残った唯一のバンドともいえるパーラメンツでした。彼らのピーク時、ライブのステージ上には50人を越えるバンド・メンバー+αが乗っていたといいます。αというのは、自称ダンサーや自称コーラス隊などからドラッグ欲しさに紛れ込んだ麻薬中毒者、そして麻薬の売人など様々な人々でした。そんな混沌とした状況は今では考えられないことです。それでもなお彼らが強烈なグルーブをライブで生み出していたというのは信じられないことです。もちろん、到底音楽とはいえない状態の日もあったのでしょうが、かつてチャーリー・パーカーがサックスさえ持てばどんな時でも素晴らしい演奏を見せたのと同じように、彼らはいつでも強烈なグルーブを生み出すことができました。それは彼らが確かなテクニックをもつミュージシャンだったということの証明だったのでしょう。当時のミュージシャンたちが優れたテクニックを持っていたのには理由がありました。
 1950年代に黄金時代を迎えたモダン・ジャズ。しかし、1960年代に入るとR&Bやロックのブームに押され、ジャズ・ミュージシャンの需要は急激に減ってしまいました。そのため、多くのジャズ・ミュージシャンたちがR&Bのバック・ミュージシャンとしてツアーに参加したり、スタジオ・ミュージシャンとしてセッションに参加したりするようになります。モータウンの黄金時代を支えたスタジオ・ミュージシャンたちの多くは、そうしたジャズ畑からの転身組でした。逆にジャズ界からファンキーなインストロメンタル・ナンバーをポップ・チャートにランク・インさせたアーティストもいます。1965年に「The In Croud」を大ヒットさせたラムゼイ・ルイス・トリオはその代表的グループです。そして、そのラムゼイ・ルイス・トリオでドラムを叩いていたのが、アース・ウィンド&ファイヤーのモーリス・ホワイトでした。もちろん、JB’s初期のメンバーもジャズ畑出身者が多く、ファンクの基礎はこうしたジャズの基礎をしっかりと身につけたミュージシャンたちによって築かれたといって間違いないでしょう。さらにいうなら、ジャズ・ファンクの歴史的アルバムであるマイルス・ディヴィスの「Bitches Brew」が発売されたのが1970年。そして、さらなるポップ路線を歩みだしたジャズ・ファンクの大ヒット作ハービー・ハンコックの「Head Hunters」は1973年に発売されています。もとはといえば、ファンキーなジャズから生まれたともいえるファンク・ミュージックは、1970年代になるとジャズ界にまで影響を与える存在になっていたのです。

<ファンク・ミュージックとは?>
 最後に「ファンク・ミュージック」とは何か?改めて考えてみるために、それを上手く表わしている言葉を並べてみます。
「『ファンク』という奴を言葉で表現しようとするのは、ちょうど性的な恍惚感を文学にして書くようなものだ」
バリー・ウォルターズ

 これは「ファンク」の肉体的側面の本質に迫った言葉です。
「『ファンク』とは、動く『一体感』のことなのだ」
ハワード・C・ハリス

 これはかなり音楽的な解説です。さらに音楽的、技術的な解説としては次のようなものがあります。
「ベースのフレイズにシンコペイションをきかせて、そこへドラマーがとても強く重いビートを裏拍子で入れ、ギターかキーボードがベースに呼応するフレーズを弾き、これらの音に合わせて誰かがゴスペル流でソウルフルに歌えば、ファンクになる。・・・・・」
フレッド・ウェズリー(JB’s)

 さすがはJB’sの音楽的中心だった人物のお言葉です。もうひとつ分かりやすい言葉があります。
「ジミ・ヘンドリックスから非常に強い影響を受けたギターの演奏によって、聴く者をその存在のかなたにある宇宙へといざないつつ、低音のビートを出すベースが聴く者(と踊る者)をしっかり現実に引き止めておくので、多重リズムの構造と土台が築かれるのだ」
マイケル・オニール

 ファンク・ミュージックのもつ「宇宙的な浮遊感」と「原始的でアフリカ的なリズム感」は、ともに重要な要素だということです。
 さらに進化したファンク・ミュージックが生み出す「グルーブ感」とホーン・セクションの関わりについては、こんな説明があります。
「アース、ウィンド&ファイヤーは、ジェイムス・ブラウンやスタックスのバンドが主として強調つまりアクセントのためにホーンを使ったのとは違って、滑らかに第二の旋律を演奏しながら不意をついてぐんと前面に出るというように編曲の中にホーンを組み入れた」
アラン・ライト

「ファンク・ミュージック」を語る時、必ず使われるこれまた説明困難な用語「グルーブ」という言葉についてはこんな記述があります。
「ノリのいいダンス音楽からは、単に旋律とビートだけでなく、グルーブというひとつの生命体そのものが生まれてきて、これを他の言葉で置き換えたり説明することは絶対にできない・・・」
リッキー・ヴィンセント

 さて最後に「ファンク」について、締めのお言葉をP−ファンク軍団の総帥ジョージ・クリントンにいただきたいと思います。
「腰を振らずにいられなくなったら、それがファンクなのだ」
 さすが、御見それしました!

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