1970年代

- オハイオ・プレイヤーズ The Ohio Players、コモドア−ズ The Commodores ...etc. -

<ハイテク・ファンク・バンドたち>
 1970年代に活躍したハイテク・ファンク・バンドたちについては、このサイト内ですでにかなり取り上げてきました。JB’sスライ&ザ・ファミリー・ストーンウォータワー・オブ・パワークール&ザ・ギャングアース、ウィンド&ファイヤーザ・ミーターズパーラメンツシックなど、もちろん、これらのバンド以外にも忘れてはならないバンドがいくつもあります。

 「ファンク」の原点とも言われるチョッパー・ベースの元祖、ラリー・グラハム率いるグラハム・セントラルステーション Graham Central Station。
 オーティス・レディングとともに飛行機事故でメンバー5名のうち4名を失ってしまった悲劇のバンド、バーケイズ Bar-Kays。その後、再結成されたバーケイズは21世紀まで活躍を続け、伝説のファンク・バンドになりました。
 アイズレー・ブラザース The Isley Brothersも忘れてはいけない存在です。彼らは1940年代から21世紀まで活躍を続けているレジェンド・オブ・ファンク・バンドのひとつです。
 「Do it ( 'Til You're Satisfied)」のヒットで有名なB.T.エクスプレス B.T.Express。「ソウル・トレイン」で司会のドン・コーネリアスが彼らを紹介する時、力強く「B、T、エクスプレス!」叫んでいたのが忘れられません。
 チャカ・カーンがメイン・ヴォーカルとして活躍し、「Once You Get Started」(Pチャート10位)や「Tell Me Something Good」(Pチャート3位)などをヒットさせたルーファス Rufusもまた「ソウルトレイン」の常連として活躍していました。
 映画「カー・ウォッシュ」のテーマ曲を大ヒットさせ一躍有名になったモータウン所属の数少ないファンク・バンド、ローズ・ロイス Rose Royce。
 サム&デイヴのバック・バンドからスタートして、「Love Ballad」(R&Bチャート1位)をヒットさせて大物バンドの仲間入りを果たしたオズボーン兄弟を中心とするバンド、LTD(Love,Togetherness and Devotionの略)
 マイアミ出身で白人、黒人混成の異色のファンク・バンド、K・C&ザ・サンシャイン・バンド K.C&the Sunshine Band。彼らのヒット曲の数々「That's The Way (I Like It)」、「Get Down Tonight」、「(Shake,Shake,Shake)Shake Your Booty」、「I'm Your Boogie Man」などは、ディスコ時代を代表する大ヒット曲です。
 「Play That Funky Music」(ポップチャート1位)一発だけの感もありますが、この一曲だけでファンクの歴史にその名を残したオハイオの白人ファンク・バンド、ワイルド・チェリー Wild Cherry。
 同じ白人ファンク・バンドでも、スコットランドからアメリカに渡った異色のバンド、アヴェレージ・ホワイト・バンド Average White Bandも忘れられません。彼らの代表曲「ピック・アップ・ザ・ピーセス」はインストナンバーでありながら大ヒットを記録。白人バンドでありながら、ファンク魂を持つ数少ないバンドとして高い評価を得ました。
 ドイツで結成された白人黒人混成のファンク・バンド、ヒートウェイブ Heatwaveも「Boogie Nights」、「The Groove Line」、「Always and Forever」などのヒット曲を残し解散するも、ヒップ・ホップのブームで再評価され、1990年に再結成されています。
 クインシー・ジョーンズがツアー・メンバーに採用したことから有名になり「Stawberry Letter 23」(ポップチャート5位)のヒットなどで一躍スターになったブラザース・ジョンソン Brothers Johnson。彼らはその後、マイケル・ジャクソンのブレイク作「Off The Wall」ではバックもつとめています。(ライブを中野サンプラザで見ました。チョッパー・ベースの連発に感激したものです)
 1970年代から活動していたものの、当時は芽が出ず、1986年「Word Up!」によって世界的ブレイクとなった遅咲きのベテラン・ファンク・バンド、ラリー・ブラックモン率いるキャメオ Cameo。
 オクラホマ州タルサの街にあるストリート(Greenwood Archer,Pine)の名をとったウィルソン3兄弟からなるファンク・バンド、ザ・ギャップ・バンド The Gap Band。彼らは90年代に大活躍した数少ないバンドです。
 「ファンク」と呼ぶにはお洒落すぎるかもしれませんが、21世紀まで活躍を続けた数少ないファンク・バンド、メイズ・フィーチャリング・フランキー・ベバリー Maze Featuring Frankie Beverly。彼らはソウルを愛した人々からも未だに愛され続けています。
 他にも、スレイブ Slave、レイクサイド Leleside、ブリック Brick、コン・ファンク・ション Con Funk Shun、ブラス・コンストラクション Brass Construction、ファットバック Fatback(
Band)、マンドリル Mandrill、ザ・ニュー・バース The New Birth・・・etc.

 さて、ここではこうしたファンク・バンドの中から、このサイトで取り上げていない2つのバンドを取り上げてみたいと思います。

<オハイオ・プレイヤーズ>
 1970年代の中頃、ディスコでも大ヒットしたファンク・ナンバーを次々と発表しファンク・バンドの代表的存在として一時代を築いたオハイオ・プレイヤーズ The Ohio Players の歴史は意外に古いようです。1960年頃、ジ・オハイオ・アンタッチャブルとして結成されたのが、そのスタートでした。グループの中心はヴォーカル兼ギタリストのロバート・ウォードとベーシストのレヴァー・フレドリック、ドラムスのコーネリアス・ジョンソンでした。そこにトランペットのラルフ”ピーウィー”ミドルブルックとサックスのクラレンス”サッチ”サッチェルが加わって、そのキャリアがスタートしました。しかし、当初はまったくヒットが出ず、彼らがバックをつとめたウィルソン・ピケットが在籍していたヴォーカル・グループ、ファルコンズの「I Found a Love」のヒットぐらいしか結果を残せず、ロバートはソロ活動をするためにバンドを去ってゆきました。
 代わって彼の弟分的存在だったリーロイ”シュガーヒット”ボナーがバンドに参加。しかし、彼はギターのみの担当ということでヴォーカルは別のメンバーが担当。もし、この時から彼が歌っていたら、もう少し白彼らはブレイクしていたかもしれません。なぜなら、彼らがブレイクするのはリーロイがヴォーカルを担当してからすぐのことだからです。
 1967年、アンタッチャブルズはオハイオ・プレイヤーズに改名して再スタートを切り、新ヴォーカリストとしてジョー・ハリス、ドラムスにはグレッグ・ウェブスターが参加しました。1968年、新メンバーによるオハイオ・プレイヤーズとしてのデビュー曲「トレスパッシン」は小ヒットとなりますが、その後はヒット曲が出ず、ヴォーカリストなどメンバーの入れ替えが行われますが結果は出ませんでした。
 1971年、レーベルを移った彼らはシングル「ペイン」を久々にヒットさせます。(R&Bチャート35位)そして、この時アルバムのジャケットに用いられたのがスキン・ヘッドの黒人女性がSM風のスタイルで写っている写真でした。このアイデアはバンド・リーダーのサッチ・サッチェルによるものでしたが、その後、彼らのアルバム・ジャケットはずっとそのバリエーションで展開されることになります。特に有名なのは、「Skin Tight」、「Honey」、「Mr.Mean」、「Gold」の4枚のアルバムです。当時、彼らは大ブレイクしていたこともあり、その時、アルバム・ジャケットの写真を撮ったのは雑誌プレイボーイのカメラマン、リチャード・フェグリー。モデルもまたプレイボーイの見開きを飾ったパナマ出身の人気モデル、エスター・コーデットでした。
 アルバム・ジャケットのデザインとしては、それまでになかったエロチックなデザインは、女性蔑視と批難されるなど論議を巻き起こし、その後、音楽業界だけでなく出版界全体にも大きな影響を与えることになりました。ちなみに、ドナ・サマーの大ヒット曲「Love to Love you Baby」(1976年)があのエッチなあえぎ声で、それまでタブーとされてきたセックスの音楽表現の壁を壊してしまったのもまたちょうど同じ頃でした。ただし、彼らがそのSMちっくなデザインを取り入れた当初、1971年から1974年までの間、オハイオ・プレイヤーズは単なる変態ブラック・ロック・バンドというゲテモノ的な扱いを受けるにとどまり、ヒット曲を生み出すことは出来ずにいました。唯一ヒットした曲は、後にパーラメント/ファンカデリックのメンバーとなるウォルター”ジェニー”モリソンの変態的ヴォーカル&シンセサイザーによるノヴェルティー・ナンバーの「ファンキー・ウォーム」でしたが、そのジェニー・モリソンが抜けて代わりにキーボード奏者のビリー・ベックが加入。ドラムスもジョー”ダイヤモンド”ウィリアムズに代わった彼らは大手レーベル・マーキュリーと契約します。
 ここでやっと、バンドのヴォーカルはギタリストのボナーになり、彼のヴォーカルを中心に展開する変態的ファンクがブレイクすることになります。彼の鼻にかかった声と「ウワォー」と音を伸ばす独特のヴォーカル・スタイルは多くのファンク・バンドに影響を与え、コモドアーズのライオネル・リッチーやキャメオのラリー・ブラックモンのようなフォロアーまで生み出すことになります。
「Jive Turkey(Part 1)」(1974年)、「Skin Tight」(1974年)、「Fire」(1974年Pチャート1位)、「I Want to be Fire」(自由の魂)(1975年)、「Sweet Sticky Thing」(1975年)、「Love Rollercoaster」(1975年Pチャート1位)、「Who'd She Coo?」(1976年)、1974年から1976年にかけてディスコ・ブームに乗り、彼らは次々とヒット作を出しました。
 しかし、一躍大スターになってしまった彼らですが、残念ながらあぶく銭が身につかず、アルバム制作前に前払い金を使い果たしてしまうなど。自らバンドを崩壊に追い込んで行くことになります。1978年にはバンドが分裂してしまい、その後彼らは分かれて活動を続けることになり、完全に忘れられた存在になってしまいます。
 1985年、やっと彼らは再結集し、同じオハイオ州が生んだ当時ブレイク中のロジャー・トラウトマンのプロデュースをえてアルバム「シュガー・フット」を発表します。ところが、内容物に評価は高かったものの、契約問題からかつてのバンド名「オハイオ・プレイヤーズ」が使えなかったことも災いしたのか、再びチャートを駆け上がることはできませんでした。ヒップ・ホップの時代が訪れ、かつての作品が次々にサンプリングされる中、彼らの分厚いファンク・ミュージックはすぐに再評価されることになりました。
 それは彼らの生み出していた音が他のお洒落なファンク・バンドとは異なりブルース的で泥臭い重量級のファンキーさをもつ独特のファンク・ミュージックだったからです。この時代、数多くのファンク・バンドが活躍していましたが、その中でも彼らの重量級ファンクは別格だっただけにかえって時代の変化についてゆくことは難しかったのかもしれません。しかし、その中心的存在だったリロイのブルース・フィーリングにあふれたギターが、多くのアーティストたちに影響を与え、ザップのロジャー・トラウトマンは特にそのスタイルを強く受け継ぐことになりました。(その縁でロジャーは彼らのプロデュースを受けたようです)

<コモドアーズ The Commodores>
 数あるファンク・バンドの中でも、コモドアーズほど極端な変化を遂げ、分裂してしまったバンドはいないでしょう。ブラック・ミュージックのファンや黒人たちの間では、コモドアーズから独立しライオネル・リッチーは白人かぶれのキザなリッチな黒人の象徴としてすっかりお笑いの対象になってしまった感がありますが、コモドアーズにいた頃の彼は多彩なバンドの顔のひとつとして確かに魅力的な存在でした。
 バンド自体が売れ線狙いに走ったがゆえに、彼らはファンク・バンドからディスコ・バンドへ、そしてブラコン(ブラック・コンテンポラリー)バンドへと変身を遂げ、ついにはライオネル・リッチー、ジェームス・アンソニー・カーマイケル、トーマス・マクラリーらの脱退を招くことになり、その勢いを失ってゆくことになります。しかし、彼らがそうした多彩な音楽性を展開できた原点は、彼らが二つのバンドが合併してできたバンドだったこともあるのかもしれません。
 1968年、アラバマ州のタスキーギー大学で活動していた二つのバンド、ミスティックスからは、ライオネル・リッチーとウィリアム・キング(トランペット)、トーマス・マクラリー(ギター)の3人。ジェイズからは、マイラン・ウィリアムズ(キーボード)とロナルド・ラプリード(ベース)の2人が参加して新バンドを結成します。この時、辞書のページをめくって適当に選び出した名前が「コモドアー Commodore(提督)」だったのでした。そのバンドに、ドラマーとしてウォルター”クライド”オレンジが加わり、週末や夏休みなどを利用してライブ活動を行うようになります。
 1970年、彼らはアトランティック・レーベルからシングル「Keep on Dancing」でデビュー。その翌年、モータウンの子会社だったモーウェスト・レーベルに移籍した彼らに大きなチャンスが巡ってきます。当時、人気絶頂だったジャクソン5の前座に抜擢され、世界ツアーに参加することになったのです。2年半に渡り、彼らはツアーの前座をつとめることライブ・バンドとしての実力をつけた彼らは、親会社モータウンと再契約することができました。
 1974年、彼らはモータウンからインストロメンタル・ファンク・ナンバー「マシンガン Machine Gun」を発表。見事にR&Bチャート7位のヒットとなり、知名度は一気に上がることになりました。その後も、彼らは単独ではなく超大物バンド、ローリング・ストーンズやスティービー・ワンダー、オージェイズらの前座として競演する機会を得ながら成長をとげることになります。元々彼らはモータウンでは珍しい曲作りと演奏、両方をこなすことのできる自給自足のバンドでした。それだけに、こうした経験を、彼らは曲作りだけでなくライブ・パフォーマンス全体にいかすことができました。彼らは元々ファンキーなインスト・ナンバーを得意としており、ヴォーカル・ナンバーの場合はドラムスのクライド・オレンジが担当していました。(全米5位の大ヒットとなった「ブリック・ハウス Brick House」はその代表曲といえます)当初は、そうしたファンク・ナンバーがバンドの売りでした。ところが、それらのファンキーな曲の合間に収めたアクセント的役割の曲がシングル・カットされ意外なヒットとなります。ライオネル・リッチーが歌うカントリー調のバラード・ナンバー「Easy」(1977年ポップチャート4位)、「Three Times a Lady」(1978年Pチャート1位)、「Still」(1979年Pチャート1位)などが、R&Bチャートを飛び越してポップチャートにランクイン。彼らは全米規模で支持されるバンドとなり、その後は同じ路線を歩むため、ポップ・バラード・バンドとしての道を歩むことになって行くことになります。いつしか、その主役となったライオネル・リッチーはバックにファンク・バンドを必要としなくなり、独立する道を選ぶことになります。こうして、彼はソロ・アーティストとして「Endless Love」(1981年、ダイアナ・ロスとのデュエットで全米1位)「All Night Long(All Night)」(1983年Pチャート1位)、「Hello」(1984年Pチャート1位)、「Say You,Say Me」(1985年Pチャート1位)などの大ヒットを連発します。すると、彼のカントリー調のバラードを高く評価したカントリー界の大御所、ケニー・ロジャースからプロデュースを依頼されたライオネル・リッチーは、プロデュースと作曲を担当。ケニー・ロジャースに「レイディー」と「愛する限り」の大ヒットをもたらすことになりました。
 残されたコモドアーズのメンバーは、かつてのファンク・バンドにもどることもなく、モータウンで地味に活動を続けて行きました。そんな中、1985年彼らがR&B1位に輝いた「Nightshift」は特筆すべき名曲です。この世を去った(ナイトシフトへと旅立った)ソウルの英雄たちに捧げた美しい曲は、彼らにとって久々の傑作となり、多くのソウルファンに感動を与えてくれました。
 その後のコモドアーズは自ら「ナイトシフト」へ移行してしまったかのようで、ほとんどその名を聞かなくなってしまいました。あのライオネル・リッチーの目立ちぶりに比べると実に寂しい限りです。

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