
「悲情城市」 1989年
- ホウ・シャオシェン 侯孝賢 -
<台湾小史>
この映画は台湾を代表する映画監督、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)の代表作であり、ヴェネチア映画祭でグランプリを獲得した名作です。そして、自伝的な内容の中に台湾の歴史をドキュメンタリー・タッチでおさめてきた彼の作品の中でも最も濃い内容の作品になっています。ただし、この監督の作品はリアリズムに基づいてシンプルに撮られている分、歴史についての説明がほとんどなく台湾についての知識がある程度ないと分かりづらい部分があります。特に、この映画と「戯夢人生」は歴史的事実が物語の重要な柱になっています。それだけに、この映画を見る前に少しだけ台湾の近代史を知っておくと、面白さ、感動がぐっと深まるはずです。
台湾は1895年から1945年までの50年間、日本の植民地となっていました。20世紀の半分は日本人に支配されていたわけです。ということは、映画の中の俳優たちが日本語をしゃべっていた時期もあったわけです。(この時代をドキュメンタリー・タッチで描き出した「悲情城市」の姉妹編ともいえる作品が1993年公開の映画「戯夢人生」です)
1945年、日本の敗戦により台湾は中国に復帰することになります。しかし、この時すでに中国国内では毛沢東率いる共産軍と蒋介石率いる国民党軍の間で内戦が始まっていました。1949年には共産党に敗れた国民党とその軍隊、そして共産主義に反対する人々は中国本土を脱出し台湾へと移住することになります。その数は200万人にもなるそうです。こうした漢民族の移住者たちの多くは北京語を話す人々で外省人と呼ばれ、元々台湾に住んでいた漢民族の人々、台湾語を話す人々とは異なっていました。(もとはといえば、彼らもまた中国からの移民なのですが)支配階級が話す北京語と一般大衆が話す台湾語、この二つはかなり異なるもののようです。この映画で主役の一人文清が聾唖者という設定になっているのは、実は文清を演じている中国人俳優トニー・レオンが台湾語をしゃべれなかったからだといわれています。
数的には少ないものの、外省人の権力者には中国から持ち出した財産と強力な軍隊があり、彼らは政治的に圧倒的な力を持つことになりました。そのため、台湾議会の多数派は外省人たちによって占められるようになります。さらに外省人による国民党政権は文化的にも北京語を公的な言語と定め、台湾語を中心とする本省人の文化を少しずつ消し去り始めます。映画界においても、国民党は国営ともいえる映画会社、中央電影を設立すると全編北京語の映画を作らせてゆきました。(北京語をしゃべるはずのない普通の人々までもが北京語をしゃべるのは明らかに不自然でしたが・・・・・)
<2・28事件>
当然、こうした状況に本省人たちは不満を感じるようになります。当初は反共、反中国という共通の目標があったものの、中国大陸を再び取り返すことが不可能であることが明らかになるとともに台湾国内では本省人対外省人という新しい対立の構図が生まれてゆきました。こうした、対立状態に加えて国民党は台湾に政治的な腐敗を持ち込んだため、政界も混乱。ついに1947年2月28日、ささいなトラブルをきっかけに台湾全土で本省人による大暴動が起きることになりました。(これを2・28事件と呼びます)
しかし、台湾政府はこの暴動をきっかけに本省人の反体制派をいっきに弾圧し始め、投獄や処刑という厳しい処分に出ます。なんとこれから40年という長きに渡り台湾は戒厳令下におかれ、右派政権による一党独裁が続くことになります。(こうした、漢民族による異文化の弾圧、占領の歴史から、2008年にチベットで起きた反政府暴動を思い起こす方も多いのではないでしょうか)
この戒厳令が解除になったのが1987年のこと。したがって、この映画は台湾の雪解けとほぼ同時に企画、撮影が行われたわけです。とはいえ、それまで2・28事件は台湾の国民にとって公に語ることを許されないタブーだっただけに、映画の完成後も検閲によって公開されない可能性は十分にありました。しかし、時代の変化は、この映画を公開できる自由をすでに育てていて無事に公開が実現。この映画は台湾国内で大きな話題となり大ヒットすることになりました。人々は誰かがタブーを破り、2・28の真実を語ってくれることを待っていたのでしょう。
<ホウ・シャオシェン>
この映画の監督ホウ・シャオシェン(侯孝賢)は、1947年4月8日に中国本土の広東省で生まれました。1歳の時に家族と一緒に台湾に移住した典型的な外省人です。彼は高校を卒業すると兵役につき、その後映画監督を目指して国立芸術専科映画演劇科に入学しました。卒業後はスクリプター、照明、助監督などを経験した後、脚本を自ら書きながら監督を目指し、1980年「ステキな彼女」でデビューを飾りました。
外省人のほとんどの人々と同じように彼の家はけっして裕福な家ではありませんでした。そんな彼の少年時代の生活ぶりは、彼の自伝的作品「童年往時」(1985年)に詳しく描かれています。1950年代の台湾を描いたこの作品を見ているとたぶん多くの方は、妙に懐かしく感じることでしょう。僕も、この映画を見た時、ずっと昔に母方の祖母の家に行った時のことを思い出してしまい、ウルっときたことをはっきり憶えています。それは当時の台湾の人々の生活が、かつての日本の家庭を思い出させるからでした。そのうえ、映画の主人公同様、外省人の多くは、かつて台湾を支配していた日本人が残していった日本風の家屋に住み着いていました。そのために、彼らの生活が妙に懐かしく見えるのでしょう。おまけにホウ・シャオシェン監督は小津安二郎監督の大ファンとしても有名なだけに、彼の映画は小津安二郎作品を台湾でリメイクしたようにも見え、今や日本から消えてしまった懐かしい日本を見ることができるような気がします。
<「冬冬の夏休み」>
1984年の「冬冬の夏休み」は、彼が自らの少年時代を現代(1980年代)の台湾に移し変えて撮った作品です。母親が手術のために入院し、そのため夏休み期間中、母方の祖父の家で過ごすことになった少年と妹のひと夏の体験です。
夏休み前の終業式では「蛍の光」が歌われ、夏休みが終わって台北の家に帰るラスト・シーンのバックには「赤とんぼ」がかかります。それはまるで昭和の日本を見ているようで、懐かしさにジーンときてしまいます。
2016年にデジタル・リマスター版が発売されたため、映像が鮮明化。雲が流れることによる画面の明暗の変化が、夏の日差しの強さを感じさせ、小鳥のさえずりがなんとも心地よく聞こえます。ここまでドキュメンタリー・タッチで撮られていると、時代の風俗をタイムカプセルのように収めたことで、まったく古さを感じさせない作品になりました。(彼の作品はどれも古くならないでしょう)日本的な家屋と人々の静かなたたずまいは、中国人というよりも日本人のメンタリティーに近く、まるで小津安二郎の作品を見ているようです。
<「恋恋風塵」>
「童年往時」が彼の少年時代を描いた作品なら、1987年の「恋恋風塵」は彼の青春時代を描いた作品なのでしょう。この映画もまた今時ありえないほど純粋な恋を描いていて、懐かしいやら恥ずかしいやら複雑な気持ちにさせてくれる作品です。幼馴染の女の子と主人公。お互いに手を握り合ったこともない二人の関係ですが、二人はいつの間にか「あ・うん」の呼吸をもつまでになっていました。しかし、主人公の青年が兵役で街を離れている間に女の子は郵便局に勤める青年と結婚してしまいます。手紙でそのことを知った青年が泣き出すシーンは、誰もがかつて体験した失恋の痛みを思い出させ、グッときてしまいます。こうした、感情移入ができるのも、この映画の登場人物がみんなかつての日本人と重なって見えるかもしれません。そして、1989年、彼は念願だった2・28事件を題材として「悲情城市」を撮ることになりました。
<「悲情城市」>
主人公となる一族の父親は台湾に昔から住む本省人のやくざでした。といっても古いタイプのヤクザは日本のヤクザやマフィアもかつてそうだったように地域社会のまとめ役としての役割も果たしていて、日中戦争中は日本軍に対して物申すことの出来る貴重な存在として頼りにされていたといいます。しかし、戦後、中国本土から新しい外省人のヤクザがやってくると彼らの立場はいっきに弱くなってしまいます。台湾の本省人文化が消えてゆく様子がこうして一族の崩壊をとおして描かれてゆきます。
「台湾の小津」と呼べそうな程、彼の映画にはかつての小津作品のような淡々とした時間が流れていて、いつしか別世界へと連れて行ってくれます。中国映画お得意のド派手なカンフー・アクションとはまったく正反対に位置するものですが、その分日本人である我々にはしみじみと心にしみるものに感じられます。この監督がその後日本で映画を撮ることになるというのも、けっして偶然ではなく必然的なことだったのかもしれません。
監督自身は、この事件の後に台湾に移住しているのですが、彼のような世代にとっても、この事件について知ることは台湾人として必要不可欠なことだったのでしょう。その意味では台湾という国について興味のある方には是非一度見て欲しい作品です。
「悲情城市」 1989年公開
(監)ホウ・シャオシェン
(脚)ウー・ニェンツェン、チュー・ティエンウェン
(撮)チェン・ホァイェン
(音)立川直樹、チャン・ホンイー
(出)トニー・レオン、シン・シューフェン、チェン・ソンヨン
<あらすじ>
林家は本省人のヤクザとして父親の代から地域のまとめ役として一目置かれる存在でした。長男の文雄(陳松男 チェン・ソンヨン)は父親の後を継ぎますが、上海からやって来た外省人のヤクザ・グループに脅されて麻薬の密輸などに協力させられます。弟の文良が日中戦争中に日本軍の通訳として働いていたことを密告すると言われ断りきれなかったのでした。しかし、彼はさんざん利用された後、抗争の犠牲となって殺されてしまいます。林家の四男文清(トニー・レオン)は耳が聞こえないこともあり写真館を経営。近くの病院で看護師として働く寛美(シン・シューフェン)と出会い、付き合い始めます。
1947年2月28日ささいな事件から始まった本省人と外省人の衝突はいっきに全国規模の暴動へと拡大してゆきました。この事件はしだいに単なる暴動から本省人による反体制運動へと発展、多くの知識人たちもその運動に積極的に参加し、ついには本省人による独立運動へとなっていったのでした。そして、その運動に寛美の兄で教師だった寛栄(呉義芳 ウー・イーフェン)も参加。彼は独立運動に参加するため、山の中へと旅立ち、残された文清は反体制派として逮捕されてしまいます。聾唖者だったこともあり、無事に釈放された文清は同じ留置場にいて処刑されてしまった人々の遺品を持って親族を訪ね歩くのでした。
その後、文清は寛美と結婚、子供をもうけますが、その間もゲリラ活動を続ける寛栄を経済的に支援し続けていました。しかし、ついにその寛栄が政府軍に発見され射殺されてしまいます。自分にも逮捕の手が及ぶとこを覚悟した文清は妻と子とともに最後の記念撮影を行うのでした。
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