- クール・ハーク、アフリカ・バンバータ、グランドマスター・フラッシュ、シュガーヒル・ギャング -

<ヒップ・ホップの歴史>
 ヒップ・ホップが登場した当時、音楽と思えないような不思議なサウンドがまさか21世紀まで生き残る人気ジャンルになるとは、ほとんどの人は考えていなかったはずです。ましてや、それがアメリカの音楽業界において、最大の売り上げを記録するジャンルとなり、そこから派生したビジネスがファッション業界、映画界にまで大きな影響を与えることになるなど、当のミュージシャンたちですら思っていなかったでしょう。実際、最初にヒップ・ホップを生み出したアーティストたちは、ただ単に仲間たちを喜ばせられて、自分が街の人気者になれれば、それで良かったのです。まさか、ヒップ・ホップがセレブへの最短コースになるなどとは思ってもみなかったはずです。今やヒップ・ホップ界でもオールド・スクールと呼ばれる初期のアーティストたちは伝説の存在になりつつあります。そして、その誕生の歴史も少しずつ記憶のかなたに消えつつあります。そのうえ、ヒップ・ホップ誕生の歴史は意外に複雑で全体を理解している人はほとんどいないように思います。そんなわけで、1970年代から80年代にかけてのヒップ・ホップの歴史を先ずはその誕生の秘密から書き始めてみたいと思います。

<ヒップ・ホップとは?>
 ヒップ・ホップ・サウンドを生み出した三つの要素として、名著「ヒップ・ホップ・アメリカ」の著者ネルソン・ジョージ Nelson Georgeは、「ディスコ・ミキシング」、「ダブ・サウンド」、「トースト」をあげています。
 「ディスコ・ミキシング」とは1970年代半ばに一大ブームとなったディスコ・ブームの時、DJたちがダンサーたちを踊らせ続けるために編み出した2枚のレコードをつなげてかける手法のことです。リズムを合わせて異なる曲をつなげたり、同じ曲を交互に切れ目なくかけることで永遠に続くグルーブを生み出したりとDJたちは、そのテクニックを競い合いました。
(注)「ディスコ・ミキシング」については、「ディスコからハウスへ」のページ参照。
 「ダブ・サウンド」とは、1970年代前半にジャマイカ発の音楽として大ブレイクしたレゲエの発展型のひとつです。レゲエはスカから進化し、ボブ・マーリーによって世界中に広められましたが、それはスカからレゲエ、レゲエからダブへの進化の中で、どんどんそのスピードがゆっくりになり逆にベースとドラムスによるリズムが強調されてゆきました。その究極の形では、メロディーは失われ、強烈なリズムだけが繰り返されるというデニス・ボーヴェルによる過激で前衛的な段階にまで行き着くことになります。
 ただし、当時ジャマイカ系の移民たちが求めていたのは、屋外でのガンジ(大麻)を吸いながらのダンス・パーティー用のサウンドだったので、ゆったりではあったも踊れるビートの音楽でした。ジャマイカでは、こうしたリズムを強調したミキシングを用いてレゲエを加工して聞かせる独特のオーディオ設備「サウンド・システム」が屋外のパーティーで大活躍。それがニューヨークにあるジャマイカ系のコミュニティーに持ち込まれ、さらにジャマイカ人DJのUロイが編み出した「トースト」の手法が導入されることで大きな盛り上がりをみせることになりました。
 「トースト」とは、DJがサウンド・スステムでダンス音楽をかけながら、その合間にレゲエのリズムに乗っておしゃべりを挟み込み観客を楽しませるもので、「歌」と「ラップ」の中間的な存在といえます。「歌」のようにメロディーがあるのではなく、かといって「ラップ」のように「韻を踏んだ言葉遊び」というわけでもありません。
 こうして、ジャマイカ系のコミュニティーで生まれた「ダブ・サウンド」と「トースト」は、そこで急激な進化をとげ、それが前述の「ディスコ・ミキシング」と出会うことで、ヒップ・ホップ・サウンドが誕生することになります。その融合を最初に行った人物は、やはりジャマイカからの移民だったDJでクール・ハーク Kool Hercという人物でした。

<クール・ハーク>
 1970年代初め、「ダブ・サウンド」と「トースト」の故郷、ジャマイカから、12歳の時にやって来たクライブ・キャンベルという少年は、当時最もニューヨークで危険な地域といわれていたブロンクスのクラブでDJプレイをすることになりました。クール・ハークという芸名で活動していた彼は、初めて「ダブ・サウンド」と「トースト」、「ディスコ・ミキシング」を組み合わせることに成功しました。
 当時、ブロンクスは、アフロ・アメリカン(黒人)とプエルトリカン出身のヒスパニックが住民のほとんどでした。そのため、彼がジャマイカ産のレゲエやダブをかけても、反応はさっぱりでした。そこで彼はファンクやラテン中心の選曲に切り替えると同時に「ブレイク」を多用して、一躍人気DJの仲間入りを果たします。
 「ブレイク」とは、もともとがジャズ・ミュージシャンが用いていた音楽用語です。ジャズを演奏している途中で、メロディーの演奏を一時停止し、ベースとドラムなどのリズム演奏だけにして、観客を乗せることをいいました。ダブの手法を用いていたクール・ハークは、このブレイク・パートが観客たちを一気に盛り上げ踊らせることに着目。ミキシングによって「ブレイク・パート」をつなぎ、それを連発して観客たちを熱狂させることに成功したのです。こうして、「ブレイク・ビーツ」の手法が生み出されました。それは1974年頃のことといわれています。彼は「ブレイク・ビーツ」を生み出すため、ほんの一部のカッコいいフレーズを求めてレコードを買った最初のDJでもあるのです。
 彼はさらに、他のどのDJにもマネすることのできない自分だけのサウンド・システムを所有していました。そのサウンド・システムが発する音はまさに爆音で、野外でDJプレイをやっても誰にも負けず、どんなに離れている観客にも彼の音を聞かせることができました。そして、彼は自らのDJプレイに集中するために自分で「トースト」もしくはMCを行わず、その代わりにMC担当として、コーク・ラ・ロックやクラーク・ケントなどを雇い、彼らに盛り上げ役を任せました。彼らDJたちのMCはまだラップではありませんでしたが、その後のラップの原点になるものでした。
 こうして、クール・ハークによって成された三つのテクニックの融合からヒップ・ホップの原形が生まれ、さらに彼のDJプレイを見た後輩たちが新しいテクニックや音楽性を付け加えてゆくことになります。

<アフリカ・バンバータ>
 アフリカ・バンバータ Africa Bambaataaは、音楽マニアだった母親の影響で「マスター・オブ・レコード」と呼ばれるほどの音楽的知識と膨大なレコードを持ち、それを武器に、より幅広いジャンルの音楽を用いることで、それまでファンクとラテンだけを使用していたヒップ・ホップにはどんな音楽も使うことができるということを証明してみせ、ヒップ・ホップの新しい地平を開いて見せました。特に有名なのは、当時世界的に人気が高まりつつあったクラフトワークの曲「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」を用いて作り上げたヒップ・ホップ史に残るシングル「プラネット・ロック Planet Rock」(1986年)です。
 もうひとつ彼が果たした役割として大きかったのは、彼がズールー・ネーションという組織を立ち上げ、ギャングになるしかなかった多くの若者たちをヒップ・ホップによって救い出したことでしょう。後にギャングスタ・ラップと呼ばれるギャング指向のラップが登場するのとは、まったく逆の活動を彼は行っていました。

<グランドマスター・フラッシュ>
 グランドマスター・フラッシュ Grandmaster Flashもまたヒップ・ホップ初期の偉人のひとりです。学校で電気回路について学んでいた彼は、その知識によって数々のアイデアを実現。自分のミキサーを改造し、次にかけるレコードの音をヘッドフォンで先に確認できるようにするなど、DJプレイのための機能を追加してゆきました。彼はエンターテなーとしても優れていたため、次々に新しいテクニックを生み出しながらヒップ・ホップのDJスタイルを完成の域にに高めました。
 特に有名なのは、「スクラッチ」の手法を彼が完成させたことでしょう。「スクラッチ」の手法はもともと、グランド・ウィザード・セオドアというDJが生み出した手法だったようですが、それを完成させ一般に広めたのは、確かにグランドマスター・フラッシュでした。
 その他にも、彼はDJプレイにドラム・マシーンを導入したり、メリー・メル、キッド・クレオールなど多くのMCを使ったりとエンターテイメントとしてのヒップ・ホップを追求し続け、シュガーヒル・レコードから歴史的アルバムとなった「The Message」(1984年)を発表。60年代公民権運動以後の黒人社会がけっして良い方向に向かってはいないことを言葉によって描写することで、ヒップ・ホップを単なるダンス音楽を越えたメッセージ性をもつ黒人音楽へと変貌させました。
 こうして、ヒップ・ホップは初期の英雄たちによって、ブロンクスで生み出され育てられましたが、当時そこはアメリカでも最も危険といわれていた街でした。そのため、街に遊びに来る人間は非常に珍しく、そこで生まれたヒップ・ホップという特殊な文化はブロンクスの街から外へと広がることなく、そこでじっくりと熟成されることになりました。

「だいたい70年代後半になるまで、この文化のことは、外の世界の誰も知らなかったのだ。ヒップ・ホップは純度100%のストリート・ミュージックとして、長い間完璧なアンダーグラウンドとして存在していた。白人のニューヨーカーにとってブロンクスを訪れるなんてこともまったくあり得なかった。ブロンクスは外からの干渉がないまま、この文化を育てていた。・・・」
野田努著「ブラック・マシン・ミュージック」より

<ヒップ・ホップ、ブロンクスを出る>
 コアなダンス音楽ファンしか知らなかったヒップ・ホップ文化が、ブロンクスを出るきっかけとなったのは、実は音楽とは関係ない分野の流行がきっかけでした。地下鉄の車両やビルの壁などに描かれた独特のスタイルをもつ絵画「グラフィティ」が注目を集めるようになったことが、ヒップ・ホップ文化最初の外部流出でした。そして、もうひとつヒップ・ホップのダンス・ヴァージョンともいえる「ブレイク・ダンス」の存在もまたヒップ・ホップのもうひとつの顔でした。
 「グラフィティー」と「ブレイク・ダンス」、そして独自のDJプレイとMCによるラップからなる「ヒップ・ホップ」、この三つによってヒップ・ホップという新しい文化が形作られ、それらが注目を集めることで、一気にそれは世界中に知れ渡ることになります。特に1983年に公開されたドキュメンタリー映画「Wild Style」は、それらすべての要素を紹介することで一気に世界中にヒップ・ホップを広める役目を果たすことになります。
 1978年、それまで未知の存在だったヒップ・ホップのシーンが「ビルボード誌」によって紹介され、音楽界の一部はヒップ・ホップに熱い視線を送るようになります。ただし、メジャー・レーベルは、まだヒップ・ホップという音楽を海のものとも山のものとも知れないものとみなし、まったく無視していました。そんな中、シュガーヒル・レコードという新興レーベルが世界で初めてのラップ・レコードを発売します。それが1979年にシュガーヒル・ギャング Sugar Hill Gangが発表し、大ヒットしたシングル「ラッパーズ・ディライト Rapper's Delight」でした。(正確には、世界最初のラップ・レコードは、スプリング・レコードが発売した「King TimV(Personality Jock)」(the Fatback Band )のようです。しかし、そのレコード会社はこのラップ・ナンバーをB面にしてしまい、歴史にその名を残すチャンスを逃してしまいました)

<シュガーヒル・ギャング>
 「ラッパーズ・ディライト」を生み出し、ブロンクス発のヒップ・ホップを世界に広めたたシュガーヒル・ギャングは、実はブロンクス出身のグループではありませんでした。マスター・ジー、ワンダー・マイク、ビッグ・バンク・ハンクの3人は、ニュージャージー州のイングルウッド出身で、ブロンクス出身のBボーイではなかったのです。
 1979年、彼らがあるパーティーでラップしていると、それを新興のレコード会社シュガーヒルのやり手女社長シルヴィア・ロビンソンが聞いていて、これはいけると判断。すぐに彼らはシュガーヒル・ギャングとしてデビューさせられることになりました。当時ファンク界最大の人気者だったシック Chicの大ヒット曲「Good Times」のベイシック・トラックを用いたシングル「ラッパーズ・ディライト」は、マイナー・レーベルのレコードにも関わらず、口コミでゆっくりとR&Bチャートを昇ってゆき、19週ランクイン、ついに最高位4位にまで上昇し、ポップ・チャートでも36位にまで達しました。新興レーベルならではのフットワークの軽さが、このヒットにより「ラッパー」という言葉がポピュラーになっただけでなくシュガーヒル・レコードはヒップ・ホップのナンバー1レーベルとしての地位をつかみ、グランドマスター・フラッシュ、トレチャラス・スリーなどのアーティストを世に出し、かつてのモータウン・レコードのようにヒップ・ホップ・ブームのトップを走ることになります。(残念ながらシュガーヒルの黄金時代は、そう長くは続かないのですが・・・)

<ヒップ・ホップ時代の幕開け>
 こうして、ヒップ・ホップの時代が幕を開けることになりましたが、まだこの時点では、音楽業界の誰もがシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」をまぐれ当たりと考え、ラップのレコードを自分のレーベルから出そうとは考えていませんでした。たぶん、このままならヒップ・ホップは一時的なブームで終っていたかもしれません。しかし、現実にはそうはなりませんでした。それはなぜでしょう?
 ヒップ・ホップは生まれた当時、60年代の公民権運動から生まれた民族意識の高揚の延長としての文化でした。そして、ヒップ・ホップはその独特の言語によって、社会を映し出す鏡となり、時代の先端に立ちアメリカの文化をリードしてゆくことになります。当然ながら、それはけっして良いことばかりではありませんでした。皮肉なことに、ヒップ・ホップは、そのイメージを決定づけることになるギャングスタ・ラップのような暴力的、差別的な文化の影響のもとで急激に人気を獲得してゆくことになります。それは、もちろん1980年代荒んだアメリカ社会が鏡に映った姿でもあったのです。

「ヒップ・ホップとは公民権運動後の、精神分裂症的なアメリカという国そのものの産物なのである」
ネルソン・ジョージ著「ヒップ・ホップ・アメリカ」より 

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