ヒップホップの誕生と生みの親

ヒップホップとアメリカ黒人文化史(1)

- 「ヒップホップの父」クール・ハーク -

<ヒップ・ホップの歴史>
 ヒップ・ホップが登場した当時、音楽と思えないような不思議なサウンドがまさか21世紀まで生き残る人気ジャンルになるとは、ほとんどの人は考えていなかったはずです。ましてや、それがアメリカの音楽業界において、最大の売り上げを記録するジャンルとなり、そこから派生したビジネスがファッション業界、映画界にまで大きな影響を与えることになるなど、当のミュージシャンたちですら思っていなかったでしょう。実際、最初にヒップ・ホップを生み出したアーティストたちは、ただ単に仲間たちを喜ばせられて、自分が街の人気者になれれば、それで良かったのです。まさか、ヒップ・ホップがセレブへの最短コースになるなどとは思ってもみなかったはずです。今やヒップ・ホップ界でもオールド・スクールと呼ばれる初期のアーティストたちは伝説の存在になりつつあります。そして、その誕生の歴史も少しずつ記憶のかなたに消えつつあります。そのうえ、ヒップ・ホップ誕生の歴史は意外に複雑で全体を理解している人はほとんどいないように思います。
 ヒップホップの歴史は、ブルースやジャズなど他の黒人音楽とは異なり社会全体の歴史と切り離せない部分があり、それには理由があります。それはヒップホップ自体が「音楽」の一ジャンルではなく、グラフィティーやブレイクダンスなどもその一部とする総合的なアートであるためアメリカの社会的、経済的変化を直接反映する傾向にあったからといえます。そのため、ヒップホップについてちゃんと語ろうとするとその時代の社会、政治、文化の状況についても抑える必要があるので、膨大な資料集にならざるをえないのです。今回、「ヒップホップ・ジェネレーション」という本を読んで大幅にこのパートを書き直すことにしました。700ページを超える大著は大いに参考になり、その多くの部分には音楽以外の歴史が書かれていて大いに参考になりました。
 そんなわけで、かなり長い特集になりますので、じっくりとお読みください。

<全体の流れ>
 ヒップホップの歴史は、まず初めに「元祖DJプレイ」、「DJの父」と呼ばれるクール・ハークから始めます。その後、彼が生み出した観客たちを愉しませるためのDJプレイに独自の思想と音楽的知識を盛り込んで「プラネット・ロック」という大ヒットを生み出したアフリカバンバータを取り上げます。彼はヒップホップの発祥地であるブロンクス最強のギャング団のトップに立っていた人物でもあり、そうしたギャング団の歴史も語ることになります。
 そんな二人の元祖のテクニックを研究し、それを完成の域に高めたのが次に取り上げるグランドマスターフラッシュです。彼は前述の二人より若く、機械オタクだったため、一気にDJテクニックを驚異的なレベルに高めることになりました。
 三者三様のアーティストによって、ヒップホップの音楽面は完成したと言えますが、ヒップホップを構成するのはそれだけではなく、ブレイクダンスやグラフィティなども忘れるわけにはゆきません。今回は、それら音楽以外の分野についてもまとめてみました。
 その後、ヒップホップはニューヨークの限られた地域を出てアメリカ全土へと広まることになりますが、そのきっかけを作ったのは、シュガーヒルという小さなレコード会社が見つけた無名の若者たちでした。
 1980年代半ば、ヒップホップは世界進出を果たすことになります。その主役となったのは、「デフジャム・レコード」というインデペンデント・レーベルとそこに所属するアーティストたちでした。ランDMC、ビースティー・ボーイズ、パブリック・エネミーらの活躍の背景には、アメリカにおける黒人たちの地位向上がありました。しかし、アメリカ大統領ロナルド・レーガンによる弱者切り捨て政策により、失業者が急増すると、時代は再び過去へと逆戻りし、ロドニー・キング事件とそこから始まったロサンゼルス暴動という悲劇が起きることになります。
 1990年代に入りヒップホップはアメリカを飛び出して、世界へと拡散します。しかし、その中心となったN.W.A.の音楽は、皮肉なことにロサンゼルスの混沌が生み出したギャングスタ・ラップとしてアメリカ国内で物議をかもすことになります。
 こうして売れる音楽として認知されたヒップホップは、商業利用されるようになり、時代の最先端となり、トップ・アーティストたちに巨万の富をもたらすことになります。ヒップホップは、時代の変化が生み出した巨大な潮流の総称と呼ぶべき存在になったのです。
 ここではできるだけそうした歴史を複合的、立体的に見られるようにまとめようと思います。かなりの分量になりそうですが、じっくりとお付き合いください。1960年代から21世紀までのアメリカ黒人音楽&文化史の旅へ、ようこそ!
 そんなわけで、先ずは「ヒップホップ・サウンドとは何か?」という基本的なところ、そして「DJの父」クール・ハークによる最初のパーティーから始めたいと思います。

<ヒップ・ホップ・サウンドとは?>
 ヒップ・ホップ・サウンドを生み出した三つの要素として、名著「ヒップ・ホップ・アメリカ」の著者ネルソン・ジョージ Nelson Georgeは、「ディスコ・ミキシング」、「ダブ・サウンド」、「トースト」をあげています。
 「ディスコ・ミキシング」とは1970年代半ばに一大ブームとなったディスコ・ブームの時、DJたちがダンサーたちを踊らせ続けるために編み出した2枚のレコードをつなげてかける手法のことです。リズムを合わせて異なる曲をつなげたり、同じ曲を交互に切れ目なくかけることで永遠に続くグルーブを生み出したりとDJたちは、そのテクニックを競い合いました。

 「ダブ・サウンド」とは、1970年代前半にジャマイカ発の音楽として大ブレイクしたレゲエの発展型のひとつです。レゲエはスカから進化し、ボブ・マーリーによって世界中に広められましたが、それはスカからレゲエ、レゲエからダブへの進化の中で、どんどんそのスピードがゆっくりになり逆にベースとドラムスによるリズムが強調されてゆきました。その究極の形では、メロディーは失われ、強烈なリズムだけが繰り返されるというデニス・ボーヴェルによる過激で前衛的な段階にまで行き着くことになります。
 ただし、当時ジャマイカ系の移民たちが求めていたのは、屋外でのガンジ(大麻)を吸いながらのダンス・パーティー用のサウンドだったので、ゆったりではあっても踊れるビートの音楽でした。ジャマイカでは、こうしたリズムを強調したミキシングを用いてレゲエを加工して聞かせる独特のオーディオ設備「サウンド・システム」が屋外のパーティーで大活躍。それがニューヨークにあるジャマイカ系のコミュニティーに持ち込まれ、さらにジャマイカ人DJのUロイが編み出した「トースト」の手法が導入されることで大きな盛り上がりをみせることになりました。
 「トースト」とは、DJがサウンド・スステムでダンス音楽をかけながら、その合間にレゲエのリズムに乗っておしゃべりを挟み込み観客を楽しませるもので、「歌」と「ラップ」の中間的な存在といえます。「歌」のようにメロディーがあるのではなく、かといって「ラップ」のように「韻を踏んだ言葉遊び」というわけでもありません。
 こうして、ジャマイカ系のコミュニティーで生まれた「ダブ・サウンド」と「トースト」は、そこで急激な進化をとげ、それが前述の「ディスコ・ミキシング」と出会うことで、ヒップ・ホップ・サウンドが誕生することになります。その融合を最初に行った人物は、やはりジャマイカからの移民だったDJでクール・ハーク Kool Hercという人物でした。

<クール・ハーク>
 1970年代初め、「ダブ・サウンド」と「トースト」の故郷、ジャマイカから、12歳の少年クライブ・キャンベルが家族と共にアメリカに渡りました。アメリカ人になり切ろうと考えた彼は、ジャマイカなまりの英語を直し、テンプテーションズアレサ・フランクリン、スモーキー・ロビンソン、ジェイムス・ブラウンなどのアーティストから影響を受けながら独自の音楽スタイルを身に着けて行きました。
 1973年の夏、彼は弟のランディがお金を貯めるために企画したパーティーでDJプレイを頼まれました。そこで彼は自分の手で改造したパワフルなサウンド・システムを持ち込み、観客を大いに盛り上げ一躍地域の人気者になりました。彼はその後、「クール・ハーク」という名前で、当時最もニューヨークで危険な地域といわれていたブロンクスのクラブでDJプレイを披露することになります。

 独自のサウンド・システムを使いながら、彼は初めて「ダブ・サウンド」と「トースト」、「ディスコ・ミキシング」を組み合わせることに成功しました。
 当時、ブロンクスは、アフロ・アメリカン(黒人)とプエルトリカン出身のヒスパニックが住民のほとんどでした。そのため、彼がジャマイカ産のレゲエやダブをかけても、反応はさっぱりでした。そこで彼はファンクやラテン中心の選曲に切り替えると同時に「ブレイク」を多用して、一躍人気DJの仲間入りを果たします。

 「ブレイク」とは、もともとがジャズ・ミュージシャンが用いていた音楽用語です。「ブレイク」=「ブリッジとメロディをつなぐアドリブのソロ・プレイ」
 ジャズを演奏している途中で、メロディーの演奏を一時停止し、ベースとドラムなどのリズム演奏だけにして、観客を乗せることをいいます。ダブの手法を用いていたクール・ハークは、このブレイク・パートが観客たちを一気に盛り上げ踊らせることに着目。ミキシングによって「ブレイク・パート」をつなぎ、それを連発して観客たちを熱狂させることに成功したのです。こうして、「ブレイク・ビーツ」の手法が生み出されました。それは1974年頃のことといわれています。彼は「ブレイク・ビーツ」を生み出すため、ほんの一部のカッコいいフレーズを求めてレコードを買った最初のDJでもあるのです。彼のお気に入りとしては、インクレディブル・ボンゴ・バンドの「Apache」、ジェイムズ・ブラウンの「Give It Up or Turn It Loose」(ライブ・ヴァージョン)、ジョニー・ペイトの「Saft in Africa」、デニス・コフィーの「Scorpio」などがありました。

 ハークは、注意深くダンサーを観察した「俺は煙草を吸いながら、曲が終わるのを待っていた。すると、皆が一定のパートを待っていることに気づいたんだ」。この発見は、ルディ・レッドウッドがダブを発見したのと同じぐらい重要な意味を持つ。ダンサーが最も盛り上がるのは、曲中の短いインストゥルメンタル・ブレイクだった。バンド全体の演奏はストップし、リズムセクションだけがグルーヴを繰り出す。メロディ、コーラス、歌なんて二の次。一番大切なのはグルーヴだ。グルーヴで盛り上げて、その勢いを持続していくのである。
 ハークはレコードの核にあるループ、つまりブレイクに焦点を合わせた。彼は、ブレイクのサウンドを基準として、クール・ハークならではの曲を探し始めた。

「ヒップホップ・ジェネレーション」より

 彼はさらに、他のどのDJにもマネすることのできない自分だけのサウンド・システムを所有していました。そのサウンド・システムが発する音はまさに爆音で、野外でDJプレイをやっても誰にも負けず、どんなに離れている観客にも彼の音を聞かせることができました。そして、彼は自らのDJプレイに集中するために自分で「トースト」もしくはMCを行わず、その代わりにMC担当として、コーク・ラ・ロックやクラーク・ケントなどを雇い、彼らに盛り上げ役を任せました。彼らDJたちのMCはまだラップではありませんでしたが、その後のラップの原点になるものでした。
 こうして、クール・ハークによって成された三つのテクニックの融合からヒップ・ホップの原形が生まれ、さらに彼のDJプレイを見た後輩たちが新しいテクニックや音楽性を付け加えてゆくことになります。

 彼はヒップホップの歴史に対し、もうひとつ大きな影響を与えています。それはヒップホップのもうひとつの顔であるブレイクダンスに関することです。
「ブレイキングとは、ダンスフロアでクレイジーになり、自分だけのスタイルを作り出すという意味」
 ブレイキングは、音楽のビートは合わせて繰り広げられるダンスというだけではなく、攻撃を芸術に変化させた儀礼的な戦いでもあるります。

 パーティーで一番盛り上がったのは、輪になってそれぞれがフリースタイル・ダンスを披露する、ダンス・サイファーだ。ハークの「メリー・ゴーランド」目当てでやって来た若者たちは、ここで踊ることで自らも名を馳せるようになっていた。血気盛んで個性も強い彼らに、全員がそろってステップするハッスルのようなダンスバトルを繰り広げ、ワイルドに「ブレイク」し合っていたのだ。ハークには彼らをブレイク・ボーイズ、略してBボーイズと呼んだ。
「ヒップホップ・ジェネレーション」より

 彼は、こうして「DJの父」として、ヒップホップ界に大きな貢献を果たしたのですが、突然その活躍は終わりを迎えることになります。1977年末、彼はケンカの仲裁に入った際に左手を刺されてしまったのです。大好きなDJプレイができなくなったこともあり、彼は引きこもり状態となり、表舞台から突如消えてしまったのです。
 しかし、彼がヒップホップ界に残したのは単なるDJプレイのテクニックだけではなく、その思想的な部分も大きかったようです。ここでは、最後に彼が大著「ヒップホップ・ジェネレーション」に寄せた序文を一部ご紹介して終わります。

 ヒップホップは今の世代の声だ。70年代のブロンクスに育っていない人々のためにもヒップホップは存在し、強大な力となった。ヒップホップには、世界中に住むあらゆる国籍の人々を結びつける力がある。
 しかしヒップホップ世代は、自身の評価や立場を最大限に活用していない。ヒップホップにどれだけのパワーがあるのか、皆は認識できているのだろうか?・・・・
 音楽は時に、現実から逃れる薬として使われる。また人々は、悲劇が起きた時にしか話し合おうとしない。トゥパックやビギー、ジャム・マスター・ジェイが死んだ時、人々は対話を求めたが、それでは遅すぎた。ヒップホップを使って深刻な問題に取り組み、悲劇が起きる前に状況を変えようと努力する人々はまだまだ少ない。・・・
 ラッパーたちに言いたい。「他人の手本になるなんてまっぴら」などどいう台詞は聞きたくない。そんなことを言っても、俺の息子はラッパーに影響されているのだから。・・・
 今の君は派手で楽しい生活を送っているかもしれない。しかし、君がゲットーを脱したということは、必要な時に君を導き、「ほら、2ドルやるよ」と助けてくれた恩人がいるはずだ。ゲットーを抜け出そうと散々もがいてきたのだろうが、最近ゲットーに何かしてやったことはあるだろうか?・・・
 ヒップホップは楽しむことが肝要。ずっとそうだった。しかし、楽しむと同時に責任も持たなければならない。ヒップホップを通じて、俺たちには自らの考えを話す場が与えられた。何百万という人々が俺たちを見つめている。パワフルな言葉を聞きたいじゃないか。人々が求めていることを話そう。
 どうすればコミュニティを助けられるだろうか?俺たちは何のために戦っているのだろうか?社会の状況を変えるためにヒップホップ世代が一丸となって投票したり、自ら組織を設立したら、どんなことが起こるだろうか?きっと大きな影響を与えるに違いない。
・・・
「ヒップホップ・ジェネレーション」より

<アフリカ・バンバータ>
 アフリカ・バンバータ Africa Bambaataaは、音楽マニアだった母親の影響で「マスター・オブ・レコード」と呼ばれるほどの音楽的知識と膨大なレコードを持ち、それを武器に、より幅広いジャンルの音楽を用いることで、それまでファンクとラテンだけを使用していたヒップ・ホップにはどんな音楽も使うことができるということを証明してみせ、ヒップ・ホップの新しい地平を開いて見せました。特に有名なのは、当時世界的に人気が高まりつつあったクラフトワークの曲「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」を用いて作り上げたヒップ・ホップ史に残るシングル「プラネット・ロック Planet Rock」(1986年)です。
 もうひとつ彼が果たした役割として大きかったのは、彼がズールー・ネーションという組織を立ち上げ、ギャングになるしかなかった多くの若者たちをヒップ・ホップによって救い出したことでしょう。後にギャングスタ・ラップと呼ばれるギャング指向のラップが登場するのとは、まったく逆の活動を彼は行っていました。
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<以降の歴史>(ここから先の予告です)
<グランドマスター・フラッシュ>
 グランドマスター・フラッシュ Grandmaster Flashもまたヒップ・ホップ初期の偉人のひとりです。学校で電気回路について学んでいた彼は、その知識によって数々のアイデアを実現。自分のミキサーを改造し、次にかけるレコードの音をヘッドフォンで先に確認できるようにするなど、DJプレイのための機能を追加してゆきました。彼はエンターテなーとしても優れていたため、次々に新しいテクニックを生み出しながらヒップ・ホップのDJスタイルを完成の域にに高めました。
 特に有名なのは、「スクラッチ」の手法を彼が完成させたことでしょう。「スクラッチ」の手法はもともと、グランド・ウィザード・セオドアというDJが生み出した手法だったようですが、それを完成させ一般に広めたのは、確かにグランドマスター・フラッシュでした。
 その他にも、彼はDJプレイにドラム・マシーンを導入したり、メリー・メル、キッド・クレオールなど多くのMCを使ったりとエンターテイメントとしてのヒップ・ホップを追求し続け、シュガーヒル・レコードから歴史的アルバムとなった「The Message」(1984年)を発表。60年代公民権運動以後の黒人社会がけっして良い方向に向かってはいないことを言葉によって描写することで、ヒップ・ホップを単なるダンス音楽を越えたメッセージ性をもつ黒人音楽へと変貌させました。
 こうして、ヒップ・ホップは初期の英雄たちによって、ブロンクスで生み出され育てられましたが、当時そこはアメリカでも最も危険といわれていた街でした。そのため、街に遊びに来る人間は非常に珍しく、そこで生まれたヒップ・ホップという特殊な文化はブロンクスの街から外へと広がることなく、そこでじっくりと熟成されることになりました。

「だいたい70年代後半になるまで、この文化のことは、外の世界の誰も知らなかったのだ。ヒップ・ホップは純度100%のストリート・ミュージックとして、長い間完璧なアンダーグラウンドとして存在していた。白人のニューヨーカーにとってブロンクスを訪れるなんてこともまったくあり得なかった。ブロンクスは外からの干渉がないまま、この文化を育てていた。・・・」
野田努著「ブラック・マシン・ミュージック」より
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<ヒップ・ホップ、ブロンクスを出る>
 コアなダンス音楽ファンしか知らなかったヒップ・ホップ文化が、ブロンクスを出るきっかけとなったのは、実は音楽とは関係ない分野の流行がきっかけでした。地下鉄の車両やビルの壁などに描かれた独特のスタイルをもつ絵画「グラフィティ」が注目を集めるようになったことが、ヒップ・ホップ文化最初の外部流出でした。そして、もうひとつヒップ・ホップのダンス・ヴァージョンともいえる「ブレイク・ダンス」の存在もまたヒップ・ホップのもうひとつの顔でした。
 「グラフィティー」と「ブレイク・ダンス」、そして独自のDJプレイとMCによるラップからなる「ヒップ・ホップ」、この三つによってヒップ・ホップという新しい文化が形作られ、それらが注目を集めることで、一気にそれは世界中に知れ渡ることになります。特に1983年に公開されたドキュメンタリー映画「Wild Style」は、それらすべての要素を紹介することで一気に世界中にヒップ・ホップを広める役目を果たすことになります。
ヒップホップ・カルチャーの多面性

 1978年、それまで未知の存在だったヒップ・ホップのシーンが「ビルボード誌」によって紹介され、音楽界の一部はヒップ・ホップに熱い視線を送るようになります。ただし、メジャー・レーベルは、まだヒップ・ホップという音楽を海のものとも山のものとも知れないものとみなし、まったく無視していました。そんな中、シュガーヒル・レコードという新興レーベルが世界で初めてのラップ・レコードを発売します。それが1979年にシュガーヒル・ギャング Sugar Hill Gangが発表し、大ヒットしたシングル「ラッパーズ・ディライト Rapper's Delight」でした。(正確には、世界最初のラップ・レコードは、スプリング・レコードが発売した「King TimV(Personality Jock)」(the Fatback Band )のようです。しかし、そのレコード会社はこのラップ・ナンバーをB面にしてしまい、歴史にその名を残すチャンスを逃してしまいました)

<シュガーヒル・ギャング>
 「ラッパーズ・ディライト」を生み出し、ブロンクス発のヒップ・ホップを世界に広めたたシュガーヒル・ギャングは、実はブロンクス出身のグループではありませんでした。マスター・ジー、ワンダー・マイク、ビッグ・バンク・ハンクの3人は、ニュージャージー州のイングルウッド出身で、ブロンクス出身のBボーイではなかったのです。
 1979年、彼らがあるパーティーでラップしていると、それを新興のレコード会社シュガーヒルのやり手女社長シルヴィア・ロビンソンが聞いていて、これはいけると判断。すぐに彼らはシュガーヒル・ギャングとしてデビューさせられることになりました。当時ファンク界最大の人気者だったシック Chicの大ヒット曲「Good Times」のベイシック・トラックを用いたシングル「ラッパーズ・ディライト」は、マイナー・レーベルのレコードにも関わらず、口コミでゆっくりとR&Bチャートを昇ってゆき、19週ランクイン、ついに最高位4位にまで上昇し、ポップ・チャートでも36位にまで達しました。新興レーベルならではのフットワークの軽さが、このヒットにより「ラッパー」という言葉がポピュラーになっただけでなくシュガーヒル・レコードはヒップ・ホップのナンバー1レーベルとしての地位をつかみ、グランドマスター・フラッシュ、トレチャラス・スリーなどのアーティストを世に出し、かつてのモータウン・レコードのようにヒップ・ホップ・ブームのトップを走ることになります。(残念ながらシュガーヒルの黄金時代は、そう長くは続かないのですが・・・)
ヒップホップ世界へはばたく!

<ヒップ・ホップ時代の幕開け>
 こうして、ヒップ・ホップの時代が幕を開けることになりましたが、まだこの時点では、音楽業界の誰もがシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」をまぐれ当たりと考え、ラップのレコードを自分のレーベルから出そうとは考えていませんでした。たぶん、このままならヒップ・ホップは一時的なブームで終っていたかもしれません。しかし、現実にはそうはなりませんでした。それはなぜでしょう?
 ヒップ・ホップは生まれた当時、60年代の公民権運動から生まれた民族意識の高揚の延長としての文化でした。そして、ヒップ・ホップはその独特の言語によって、社会を映し出す鏡となり、時代の先端に立ちアメリカの文化をリードしてゆくことになります。その先頭に立ったのは、白人と黒人の経営者によって立ち上げられたレコード会社、デフジャムでした。
 しかし、そうした歴史の流れはアメリカの黒人社会にとって、けっして良いことばかりではありませんでした。皮肉なことに、ヒップ・ホップは、そのイメージを決定づけることになるギャングスタ・ラップのような暴力的、差別的な文化の影響のもとで急激に人気を獲得してゆくことになります。それは、もちろん1980年代荒んだアメリカ社会が鏡に映った姿でもあったのです。

「ヒップ・ホップとは公民権運動後の、精神分裂症的なアメリカという国そのものの産物なのである」
ネルソン・ジョージ著「ヒップ・ホップ・アメリカ」より 

 では世界のポップミュージックの歴史を変えた「ヒップホップの歴史」の旅へ!行ってらっしゃい。

<参考>
「ヒップ・ホップ・アメリカ」 2002年
(著)ネルソン・ジョージ Nelson George
(訳)高見 展
ロッキング・オン
「ヒップホップ・ジェネレーション」 2005年
Can't Stop Won't Stop( A Histry of the Hip-Hop Generation)
(著)ジェフ・チャン Jeff Chang
(訳)押野素子
リットー・ミュージック

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