ヒップホップ・カルチャーの多面性

ヒップホップとアメリカ黒人文化史(3)

- グラフィティ・アート、ブレイク・ダンス、記録映画 -

 ヒップホップが最初に海外でも知られるようになった頃、そのイメージは「ラップ・ミュージック」よりも、地下鉄の車両に描かれた独特のグラフィティ・アートやアクロバティックなダンス・パフォーマンスだった気がします。当時「ヒップホップ」とは、ニューヨークのブロンクスの街角で見ることができる総合的なアートの集合体だったといえます。もちろん、そうなったのにはそうしたヒップホップ文化を世界中に紹介したドキュメンタリー映画「ワイルド・スタイル」などの影響かもしれません。
 実際、当時のブロンクスではそうしたラップ以外の文化も同時発生的に発生・発展を続けており、それは偶然ではありませんでした。ここではそうしたラップ以外の分野について、まとめてみました。

「ポップ・アーティストは、ポップ・カルチャーからアートを生み出した。ヒップホップ・アーティストは、それとまったく反対のことをやろうとしている。つまり、アートからポップ・カルチャーを生み出そうとしているのだ」
キム・レヴィン

「スタイルは、衝突を伴う。人種、階級、年齢、性別といった要素が、洋服、音楽、そしてスラングという土俵で戦うのだった。・・・」
リチャード・ゴールドスタイン

「地元に限った出来事ではなかったんだ。皆、常に街全体を狙っていた。そうするべきだったのさ。街全体を狙っていた。そうするべきだったのさ。街全体が芸術の舞台になっても構わないだろう?」
チャーリー・エーハーン(映像作家)
<グラフィティ・アート> 
 グラフィティ・アーティストたちは、もともとそこから富を得ようなどという考えは少しもありませんでした。彼らが望んだのは、ただ注目されることだけでした。貧しさから抜け出すチャンスもない地域に生まれ、教育を受けるチャンスもない子供たちが人々の注目を集めるには目立つしかなかったのです。

 彼らは当初は街中の壁に自分の名前(もちろん本名ではなくニック・ネームや記号化されたもの)を書き印す「タギング」からスタートしました。そして、より多くの人々が見る公共の場所に進出。地下鉄は最高レベルのアーティストたちだけが発表の場にしてしまいました。
 そして、地下鉄に描かれることで「グラフィティ」は7マイル地帯の外へと広がってゆくことになりました。


 1965年頃、フィラデルフィアの有色人種が住む地区で、ある黒人少年シンシアという少女の気をひこうと自分の名前「Cornbread」を落書きしたのが始まりのようです。彼の弟分だった「Top Cat」くんがニューヨークのハーレムに引っ越し、そこで彼が広めたレタリングのスタイルがその後の「ギャングスタ」スタイルとなったようです。
 もとは自分の名前を「タグ」付けすることから始まり、それが「名前」ではなく独自の「スタイル」を文字だけでなく「絵」で描くようになったことで一気に広がりを見せるようになてゆきました。そうしたグラフィティ・アーティストの中には、元祖DJパーティーの主催者の一人クライヴ・キャンベルもいました。

・・・1974年までに、グラフィティは、テーマを持った目も眩むばかりの壁画といった様相を呈してきた。高さ12フィート(約3.6m)、長さ60フィート(約18m)という車内の側面を覆っていたのである。ゴールドスタインの言葉を借りれば、彼らはより大規模に、より目につきやすい方法で、自身を表現していたのだ。グラフィティとは、反逆としてのスタイルだった。

 グラフィティ・アートの世界で数少ない成功者のひとりが時代の寵児となったバスキアは黒人の画家としては異例の成功を成し遂げますが、それは彼にとっての心の平安には結びつかなかったようです。

 グラフィティ全盛の頃、アート界が初めて一つにまとまったかのように思えた・・・でも、それは錯覚だった。アーティストの多くは当時を振り返り、自分たちは利用されたと感じている。「俺たちは雰囲気を提供したんだ。でも、それだけのことだった」とはFUTURAの弁だ。
エリザベス・ヘス

 いくら仕事がうまく行っても、バスキアの心の中に棲む悪霊は休んではくれなかった。コカインの摂取量が増えるにつれて、バスキアは被害妄想を強めていったと、愛人の一人だったスザンヌ・マルロークは語っている。「自分は有名な黒人男性だから、そのうちCIAに殺される。彼はそう思い込んでいました」。

 バスキアは1988年にヘロインの過剰摂取によって命を落とし、キース・ヘリングは1990年にエイズによる合併症でこの世を去りました。欲望と名声、無邪気さと出会い、漫画と財産、幼年時代と商品。こんなテーマを執拗に描いてきた二人は、永遠に語り継がれる人物として、一挙にアートの世界で尊敬を得るようになった。
 二人が相次いでこの世を去る中、1989年5月12日、ニューヨーク都市交通局はグラフィティが描かれた列車を一切走らせないと決定。これにより、地下鉄の車両からグラフィティが消滅することになりました。そして、二人をその象徴としてヒップホップ文化の花形だったグラフィティは、一気にニューヨークの街から消えてゆくことになりました。 
<ヒップホップ・ダンス(ブレイク・ダンス)の誕生> 

 ヒップホップの文化を生み出しただけでなく、今や世界中にそのスタイルを広め、日本では学校の授業に取り入れられるほどの存在となったヒップホップ・ダンス。20世紀の黒人文化の中でも最も多くの人々に広がった文化といえるかもしれません。
 その誕生もまた「DJプレイの元祖」クール・ハークのパーティーからだったと言われています。彼が主催するパーティーでその踊りのテクニックを競い合う若者たちのことをハークが「ブレイク・ボーイズ」(Bボーイズ)と呼んだことが、そのルーツのようです。

 パーティーで一番盛り上がったのは、輪になってそれぞれがフリー・スタイル・ダンスを披露する、ダンス・サイファーだ。ハークの「メリーゴーランド」目当てでやって来た若者たちは、ここで踊ることで自らも名を馳せるようになっていた。血気盛んで個性も強い。彼らに、全員が揃ってステップするハッスルのようなダンスは踊れなかった。彼らは次々に輪の中に入って踊り、互いにダンス・バトルを繰り広げ、ワイルドに「ブレイク」し合っていたのだ。ハークは彼らはブレイク・ボーイズ、略してBボーイズと呼んだ。

 Bボーイズのダンスがフォークダンスやバレーとは根本的に異なる部分をもつことは重要です。Bボーイズにとってのダンスは、子供から大人への通過儀礼であると同時に、敵との戦いの方法の一つなのだということです。

「ヒップホップ・ダンスをきっちり観察してみれば、それが通過儀礼だということがわかるだろう。ダンサーは決して腕を下げることはない。常にファイティング・ポジションを取っているのさ。踊ることが戦うことだったんだ」
「俺たちは、踊ることを何て言うか?バトルするって言うんだ。戦いに行くって言うのさ」

レニー・ハリス(1970年代の伝説的ダンサー)

 さらにいうと、Bボーイのダンス・スタイルの多くは、ブロンクスを縄張りに活躍していたギャングたちの影響も受け継いでいました。

「縄張りを争って敵対するギャングは、まず内輪で集まる。そして、お互いの軍司令官がダンス・バトルをするんだ。そして、そのダンスで勝った方が、正式な決闘の場所を決めるんだ」
ルイス・エンジェル・マッテオ

 Bボーイのダンスは、トップロックやアップロックの状態から、床に向かって下がっていった。・・・・・
 BボーイやBガールは、サイファーに入って踊るたびに、自身の世代についてのストーリーを身体で語っていた。トップロックから始めて、両手は喧嘩するギャングのように刺すモーションをし、足は試合中のモハメド・アリのごとく左右に動かす。そして、ジェームズ・ブラウンのごとく床に沈むのだ。ハリケーンのようなスパイの見事なフットワークやズールーのフリーズ、激しいスピンを行い、これらの動きの合間に、ブルース・リーのような微笑や、マオリ族の言語を真似する。彼らの動きは、ヒップホップ全体の歴史を見事なスタイルで提示していた。
 彼らのダンス・パフォーマンスは、その名づけ親であるクール・ハークが第一線を去ってから一気に下火となり、その文化は消えかかることになりましたが、ダンス・チームの中の最高峰だったロックステディークルーのメンバーがパーティー会場ではなくストリートを舞台にして、再びそのパフォーマンスを披露し始めることになります。
 ロック・ステディ・クルーのオリジナル・メンバーのジミー・ディー、ジミー・エリスに新人のクレイジー・レッグスが加わり、彼らは街中でダンス・バトルを始め、すぐれたBボーイをメンバーに加えて行きます。すると彼らのパフォーマンスにどんどん人が集まるようになってゆき、メンバーは様々なジャンルのパフォーマーによって構成されるようになってゆきました。

「SHY147やDONDIもクルーに加わった。ローラースケーターの連中もいたし、ウェボ・ダンスをやる女の子もいた。ただ俺たちをサポートし、一緒につるんでいるようなフライ・ガールズもいたよ。要するに、多様なクルーだったのさ。当時のロック・ステディは、少なくとも500人ぐらいのメンバーを抱えていたんじゃないかな」
クレージー・レッグス

 彼らは、ブレイキングを復活させ、昔の動きを賛美すると同時に、斬新な動きを編み出してゆくことになります。 
<ヒップホップの映像作品> 
  ドキュメンタリー映画「ワイルド・スタイル」という作品がなければ、ヒップホップの世界進出はもっともっと遅くなっていたかもしれません。それどころか、その文化がダンスとグラフィティとDJスタイルとラップなどから成り立つことも知られなかったかもしれません。

「カルチャーが本当の意味でカルチャーになるには、音楽、ダンス、ヴィジュアル・アートがなけりゃだめだっていう話を、昔どこかで読んだことがあるんだ。それを読んだ時、俺にはピンと来た。『これって、まさに今起きていることじゃないか』ってね。こっちではグラフィティが盛り上がってるし、あっちではブレイクダンス。DJやMCも頑張っている。俺の頭の中じゃ、これらすべてが一つのことだったんだ」
FAB5FREDDY(グラフィティ・アーティスト)

 1980年の夏、FABは仲間のリー・キニョネス(グラフィティ・アーティスト)と共にアマチュア映像作家チャーリー・エーハーンと共にブロンクスの様々なパーティーに行き、それぞれの会場で撮影を行ううちに記録映画を作ることを思いつきます。これが映画「ワイルド・スタイル」を生み出すことになります。

 1982年のスピリットを讃えた作品として、最も燦然と輝き続けているのは、おそらく「ワイルド・スタイル」だろう。チャーリー・エーハーン、FAB5FREDDY、リー・キニョネスが、タイムズ・スクウェアにある廃屋と化したマッサージ・パーラーに集まり、アイディアを話し合って作られた映画だ。
 映画のクライマックスは、ブロンクスの公園での野外パーティを再現した熱狂的シーンだ。ここでもヒップホップの四大要素がダウンタウン流に披露されているが、他の作品との決定的な違いは一つ存在する。『ワイルド・スタイル』は、ヒップホップを金回りのよい人間向けに披露することはなく、ヒップホップを生んだ人々の手に戻したのである。


 アメリカとイギリスの公共放送の支援、財団法人や政府の芸術助成金、さらにはネイサン・グレイザーからの支援を受け、ヘンリー・シャルファントとドキュメンタリー作家のトニー・シルヴァーは、ヒップホップ映画における古典的名作「スタイル・ウォーズ」を作り上げた。1981年から1983年にかけて撮影されたこの作品は、ヒップホップという若者文化が一つの世代を代表する世界的文化になる直前の時期を捉え、絶頂へと向かっていく姿を映し出している。

 このドキュメンタリー映画「スタイル・ウォーズ」のように記録映像として余計な演出を加えない映像作品が生み出されたことは、ヒップホップという総合的な文化にとって幸福なことだったといえます。こうして、ヒップホップは総合的な文化として急速な発展を遂げると同時に、ブロンクスから世界へと飛び出してゆくことになったのでした。
 ただし、これらの映画が作られた直後、1981年に誕生したロナルド・レーガンの政権の方針転換により、アメリカ社会はでは弱者が切り捨てられてゆくことになります。そして、その影響は黒人社会に大きな痛手を負わせることになり、ヒップホップ文化もまた大きな影響を受けることになります。
 1983年に公開され世界的なヒットとなった「フラッシュ・ダンス」には、ロックステディ・クルーのメンバーが出演していました。そして、映画がヒットしたことから、「ブレイクダンス」や「ビート・ストリート」のような作品が作られます。しかし、子供向けに薄められた感のあるこれらの映画のおかげで、ヒップホップは着実に海外へと浸透して行くことになりました。

<参考>
「ヒップホップ・ジェネレーション」 2005年
Can't Stop Won't Stop( A Histry of the Hip-Hop Generation)
(著)ジェフ・チャン Jeff Chang
(訳)押野素子
リットー・ミュージック

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