ヒップホップ、世界へ羽ばたく!


ヒップホップとアメリカ黒人文化史(4)

- シュガーヒル・ギャング、マルコム・マクラーレン -
<直径7マイルから世界へ>
 驚くべきことに、1970年代の中頃まで、ヒップホップのアーティストたちは、わずか7マイルの範囲(約11.2Km)だけで活動していて、自分たちがその範囲から出て世界にその名を知られることになるとは思ってもいませんでした。それどころか、自分たちのパフォーマンスを録音し、それをレコード化して売ることすら考えていないアーティストが多かったのです!自分たちの音楽は、パーティー会場を盛り上げるためのパフォーマンスであって、それを録音したものがレコードとして楽しめるとは思ってもいなかったのです。彼らは会場で観衆を見ながら、曲を選び、ブレイクのタイミングを計り、最高のノリを生み出すことにプライドを持っており、それ以上の名誉を求めてはいなかったのです。
 あのグランドマスター・フラッシュも、当初は彼のパフォーマンスを録音してレコードとして発売したいというレコード会社からのオファーを断っていたといいます。

・・・フラッシュはレコード・レーベルの首脳陣とのミーティングを一切拒否した。彼にしてみれば、レコーディングというアイデア自体、実に馬鹿げていたからだ。「ブロンクスのガキがレコードに合わせてラップしているレコードなんて、誰が買うんだ?」と彼は考えていた。
・・・ギグは毎週入っている。金も確実に入る。フラッシュはそれで満足だった。だが1979年10月、事態が一変した。
 今にして思えば、ヒップホップ金脈を最初に掘り当てたのが、他人のライムを拝借してラップする無名のグループだったのは完璧に理にかなっている。
 三人の無名ラッパーが、ブラック・インディー・レーベルのオーナー、シルヴィア・ロビンソンのスタジオに足を踏み入れ、「ラッパーズ・ディライト」をレコーディングした時、彼らには応えるべき地元の期待も、守るべきストリートの名声も、満足させるべき常連のオーディエンスもなければ、失敗して失うものもなかった。


<シュガーヒル・ギャング>
 当時、ブロンクスのピザ屋の店頭で、ラジオの音楽に合わせてラップしていたヘンリー・ジャクソンを、偶然みかけたシュガーヒル・レーベルのシルヴィア・ジャクソンがスカウト。とにかくラップ・グループのレコードを作りたかったシルヴィアは、ヘンリーを説得。彼の二人の友人を加えて、即席のグループを作り、録音をさせました。そして、グループ名には設立したばかりのレコード会社名から「シュガーヒル・ギャング」を与え、レーベルの顔としてデビューさせました。すると、シュガーヒル・ギャングは時代の波に見事に乗り、大ヒットしました。

 発表当時、ヒップホップの歴史だけでなくポピュラー音楽の歴史を変えたともいえる「シュガーヒル・ギャング」の「ラッパーズ・ディライト」に対しての感想は、人種間で大きく異なっていました。
 その曲をラジオで毎日のように聞き、ラップ・ミュージックの大ファンとなり、ついには音楽評論家を経て、デフ・ジャム・レーベルの広報担当となる「白人」のビル・アドラーは、こう思ったといいます。

「アーティストが歌わずにラップしていたからじゃない。曲の長さが15分もあるってことに驚いたんだ。ボストンには、当時、黒人のラジオ局があった。WILDっていうAM局なんだけど、『ラッパーズ・ディライト』は毎回必ず15分のフル・ヴァージョンでオンエアされていた。あんなのは前代未聞だったね」
ビル・アドラー

 それに対して、後にパブリック・エネミーのMCとなる「黒人」のチャック・Dはこう思ったそうです。

「だけど、マジで驚いた。『ラッパーズ・ディライト』がリリースされたんだ。音楽業界の常識からしたら長い曲だったけど、ヒップホップの世界で考えたら、すごく短い曲だった。『ったく、ヒップホップを15分にまとめあげるなんて、すげえな』って思ったよ。・・・」

 意外なことに、この当時、ブロンクスのクラブからはクール・ハークは消え、Bボーイも姿を消していて、一時の勢いは消えていたといいます。ある意味、ヒップホップは1980年には一度死んでいたのです。

 皮肉なことに、シュガーヒル・ギャングの成功のおかげで、風前の灯だったブロンクスのクラブ・シーンは復活する。だが、クラブに行くことが、これまでになく受動的な行為となってしまった。Bボーイは姿を消した。チャーリー・エーハーンはこう語っている。
「誰も踊らなくなったんだ。ラップが中心になってしまった。客は、ステージ上のMCを見ているだけだったのさ」
 もはや、ヒップホップ・ミュージックの中心はDJではなかった。サンプリングによって音楽出版社から訴えられるのを恐れていた新興のインディー・ラップ業界に、DJの居場所はなかった。DJはお決まりでプレイする楽曲のスピリットをいかに模倣して演奏するかをハウス・バンドに指南するだけにとどまったのである。・・・
「要するに、ヒップホップは1980年までには死んでいたってわけだ。・・・」


 こうして復活を果たしたヒップホップは、今度はブロンクスを飛び出してダウンタウンへと進出し始めます。それまでとは異なりヒップホップは様々な人種、様々な人々を巻き込む大きな文化潮流になって行くのでした。

<ヒップホップ、ブロンクスを出る>
「正式にヒップホップがダウンタウン初進出を果たしたのは、この時だ。熱狂的に歓迎されたよ。クールなニュー・ウェイヴ系のヤツがこぞってやって来て、すごく気に入ってくれた。ヒップホップがどんなものかわかっていたヤツはいなかったはずだ。・・・」
FAB5

「状況が変化し、様々な人々が交わり出した。これがすごくエキサイティングだったのさ。異人種間の交流は、非常に大きな出来事だった。大勢の黒人、プエルトリカン、ダウンタウンの白人が交流するのは、本当に刺激的だった。あらゆる地域からやってきた人々が、皆で一緒に楽しむことができるって概念に馴染み始めていたんだ」
チャーリー・エーハーン(映像作家)

 ブロンクスを飛び出したヒップホップは海外にも影響を与えるようになり、1981年にアメリカでライブを行ったパンクの大御所クラッシュは、ニューヨークでの初ライブの前座にグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴを抜擢しています。(ただし、この時のグランドマスター・フラッシュのパフォーマンスは、クラッシュを見に来たパンクスから大ブーイングを浴びせられ、途中で降板することになります)
 さらには、それまでのブロンクスのクラブとは異なり、より幅広いジャンルのパフォーマンスを売りにするロキシーのようなクラブが登場したことで、ヒップホップはそれまでのファン層とは異なる人々をもひきつけるチャンスを得ることになります。

 1981年、アフリカン・リズムをロックに取り入れたファンク・ロック・バンドとして、ブレイクを果たしたトーキング・ヘッズの別プロジェクトであるトム・トム・クラブがデビュー・アルバム「Tom Tom Club」を発表します。そのアルバムの中からヒットした「Genius of Love」は、クールな恋人に捧げたラブ・ソングが、ジョージ・クリントン、ブーツィー・コリンズ、ボブ・マリー、スライ&ロビーらブラック・ミュージックの英雄たちに捧げる歌となって行く曲で、当時のダウンタウンに満ちていた独特の雰囲気を見事に表していました。

 1982年6月、クール・レディー・ブルーはロキシーにこんな看板を掲げる。「音楽で平和に」。彼女は完璧なタイミングで賭けに出た。ブルーは、グラフィティにBボーイング、ヒップホップ・ミュージックが大流行していた夏の初めに、シーンの大物を勢揃いさせて「ホイールズ・オブ・スティール」を再スタートさせたのである。・・・

 当時のロキシーのレギュラーは、バムとアフリカ・イスラム、グランド・ミキサーD・ST、ジャジー・ジェイ、グランドウィザード・セオドア、グランドマスター・フラッシュでローテーション・・・・。
 フロアの中央でDJプレイ。両脇のスクリーンにチャーリー・エーハーン撮影のBボーイ、ラッパーのスライド上映。その横でロックステディー・クルーのメンバーがダンス。グラフィティのライヴ・パフォーマンス(Phase2,FUTURA,DOZE・・・)も行われ、ヒップホップのすべてのパフォーマンスがそこで行われていました。

 7月のある晩、営業時間前にセックスピストルズのドキュメンタリー映画「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」を上映。多くの白人パンクスが集まり、その後Bボーイたちと交流することになり、新しい観客層が生まれるきっかけとなった。こうして、その店(ロキシー)にはトーキングヘッズ、B-52ズ、バスキア、キース・ヘリング、マドンナビースティー・ボーイズ、ルシャス・ジャクソン、デヴィッド・ボウィアンディ・ウォーホルなどが訪れ、まさに時代の最先端を走る場所となっていました。

<ヒップホップ、世界へ>
 同じ頃、ヒップホップを商業ベースで世界中に広めることになったシングル「バッファロー・ギャルズ」が発売されます。

 1982年の秋、マクラーレンはショッキングなシングル盤「バッファロー・ギャルズ Buffalo Gals」をリリース。マクラーレンとコラボレートしたトレヴァー・ホーンは、バンバータのファンキーなブレイクの持つフィーリングを模倣しようと試みた。彼は最新のサンプラーを使って、シュプリーム・チームの番組にかかってきた電話や、南アフリカのタウンシップ・ジャイヴ、ジャスト・アラーのラップ、さらには古い「ヒルトッパー」ソングのマクラーレン流解釈を曲に加えていった。プロモーション・ヴィデオはグリニッジ・ヴィレッジの怪しいハロウィン・パーティの真っ只中で撮影された。その中で、ロック・ステディクルーは踊り、ドンディ・ホワイトはグラフィティを描き、ヴィヴィアン・ウェストウッドの服を着たモデルはホーボーのような出で立ちで外を歩き回っている。ヴィデオにラジオ番組、ナイトクラブにファッション・ラインと、すべてを消費用にお膳立てすると、マクラーレンとその仲間たちは、相乗効果を目論んだ販売計画という企業手法を初めてヒップホップ文化に持ち込んだのだった。

 「バッファロー・ギャルズ」に続いてリリースされたマルコム・マクラーレンのアルバム「ダック・ロック Duck Rock」は、その手法に数々の問題はあったものの、しっかりと時代を先取りしていました。マクラーレンとトレヴァー・ホーンはヒップホップ的手法であらゆる音源を取り込み、世界各国のポピュラー・ミュージックや宗教的ダンス・ミュージックをまとめあげていました。メレンゲ、ムバカンガ、マンボ、ルクミ族のドラム、風変わりなスクエア・ダンス、そしてもちろんヒップホップを融合することで最先端のポップミュージックを生み出したのでした。そして、シュプリーム・チームの騒々しく楽しいラジオ・リスナーとのかけ合いが、アルバム全体を結びつけました。ヒップホップの世界観を持つことで、マクラーレンは「ワールド・ミュージック」というジャンルをまとめ上げることができたといえます。「ワールド・ミュージック」というジャンルの音楽が先進諸国のポップ・ミュージック市場で地位を確立する10年も前に、彼は同ジャンルを総括すると同時に、分解してみせたのです。(アメリカで「Duck Rock」をリリースしたのは、クリス・ブラックウェルが主宰する「ワールド・ミュージック」の先駆的レーベル、アイランド・レコードでした)
 ヒップホップのいう音楽ジャンルは、単なるラップを主役とする音楽というだけではない、より総合的なパフォーマンスの総称として、新たなポップ・ミュージックを生み出す、起爆剤の役割を果たすようになっていたのでした。それはかつて「ロック・ミュージック」が果たしていた役割に近いのかもしれません。
 こうして、ヒップホップはブロンクス、ニューヨークを出ることになりました。しかし、それが1990年代に入り、世界のポップ・ミュージックをも席巻する巨大な音楽ビジネスへと成長して行くことになるとは、まだ誰も思ってはいなかったはずです。

<参考>
「ヒップホップ・ジェネレーション」 2005年
Can't Stop Won't Stop( A Histry of the Hip-Hop Generation)
(著)ジェフ・チャン Jeff Chang
(訳)押野素子
リットー・ミュージック

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