ヒップホップとアメリカ黒人文化史(5)
- デフ・ジャムとパブリック・エネミー -
- Def Jam & The Pblic Enemy -
<ヒップホップの世界進出>
1980年代、世界にその名を知られるようになったヒップホップですが、その存在はまだ黒人音楽の一ジャンルに過ぎませんでした。それは一時的なブームとして、ディスコ・ブームのようにすぐに終わりを迎える可能性もあったのです。それが、そうはならなかったのには、やはり重要な鍵となる存在の登場がありました。
ここではそのきっかけとなったレーベル「デフ・ジャム」とその所属アーティストたち、RUN-DMCからパブリック・エネミー、フーディニ、アイスT、LLクールJ、ビースティー・ボーイズに注目します。なぜ、「デフ・ジャム」がヒップホップの世界進出を実現することができたのか?
それはインディーズとしてスタートした「デフ・ジャム」が、ヒップホップによって大きな利益を生み出そうとした企業ではなく、白人のヒップホップ・ファンが自分の趣味でヒップホップを押し出した「愛」ある企業だったことが重要でしょう。ここでは、1980年代から90年代にかけて、ヒップホップ界ナンバー1のレーベルとして活躍した「デフ・ジャム」を生み出した地域性から始めてみようと思います。
<デフ・ジャム誕生の時代背景>
それまで黒人音楽・エンターテイメントの発信源は、常に都市部の貧しい黒人居住地域でした。(黒人が奴隷として働くしかなかった19世紀は、必然的に農村地域しか音楽を生み出せませんでしたが・・・)しかし、1960年代公民権運動の盛り上がり以降、黒人たちの間に中産階級が生まれ、その一部が都市部を出て郊外の新興住宅地に住み始めるようになります。そうした黒人たちが住む「ブラック・ベルト」と呼ばれる地域は1950年代末から広がりはじめます。そして1970年代初めには、そこで生まれた子供たちが新たな音楽文化を生み出すことになります。
「デフ・ジャム」はまさにそうした子供たちが生み出したレーベルでした。
「デフ・ジャムは究極のサバービア(郊外)・レーベルだ」。音楽評論家のフランク・オーエンは、パブリック・エネミーに関する初期の記事にそう記した。ラッセル・シモンズとリック・ルービンは「成功を収めるために、ショウビズ的な華美さや将来豊かなイメージで飾り立てる必要のなかった最初のブラック・ミュージック」を作り出し、「ブラック・ミュージックの高級化に反対する」戦いを牽引していった、とオーエンは論じている。興味深いのは、シモンズやランDMC、LLクールJは,クイーンズの持ち家家庭に育ち、ルービンとオリジナル・コンセプト、パブリック・エネミーは「ロング・アイランド、ビークの裕福なコミュニティ」出身であるという点だ。
公民権運動が掲げた人種統合。その夢が挫折した結果、ブラック・ベルトの若者が生まれた。しかし、彼らは様々な現実に触れることができた上、新たな世界でどうやって自分の居場所を確保するべきかを熟考し、計画を立てる時間もスペースもたっぷり持ち合わせていた。
1980年の国勢調査によると、ニューヨークに住む白人の40%以上が郊外に住んでいたのに対し、黒人市民の郊外在住率は、たったの8%でした。言い換えれば、郊外に住む黒人市民は黒人の中の「有能な一割」であり、人種差別擁護論者の期待の星でした。
それまでの黒人層とは異なる場所で育ったからこそ、ヒップホップはそれまでの黒人音楽とは異なる視点からアメリカ社会・文化を描くことが可能になったのかもしれません。
もうひとつ興味深いのは、1980年代、アメリカでは再び人種差別に対する反対運動が盛り上がりをみせていたことです。ただし、それは自分たちの国のことではなく、遠くアフリカの地、南アフリカにおけるアパルトヘイトへの反対運動でした。
1984年前後がそうした反アパルトヘイト運動のピークでしたが、アメリカの黒人学生は大学内での闘争とコミュニティにおける闘争の結びつきを理解し、自身の地域の問題の結びつきも悟ることになりました。(反アパルトヘイトの主張を歌ったオールスター・アルバム「サン・シティ」の発表が1985年です)そして1980年代後半、活動家たちは反アパルトヘイト運動から、より広範な反人種差別運動に移行して行くことになりますが、その活動はかつての勢いを失い、その向かう方向もバラバラなものとなって行きます。なぜなら、アパルトヘイトほど、わかりやすい人種差別はもう世界中のどこにもなくなっており、それ以後の戦いは「心の中の見えざる差別」との戦いという、より困難なものになって行くからです。
<デフ・ジャムの誕生>
デフ・ジャムはそんな時代、1984年に生まれたのでした。その設立者はユダヤ系の白人リック・ルービンと黒人エグゼクティブのラッセル・シモンズのコンビ。彼らは、同じくユダヤ系の白人で過激派のジョン・シンクレアに憧れていたジョン・アドラーやビル・ステフニーらを社にスタッフとして迎え入れます。そして、それぞれの才能や人脈を利用することで、次々に才能あるアーティストを迎え入れることに成功し、ヒップホップ界の最強レーベルにのし上がることになります。もちろん、当初から人種融合の企業として、業界をリードしていたわけではありませんが、方針は当初から変わらず、人種の壁を越えることにありました。
あるラジオ局が、ランDMCによるエアロスミスのカヴァー曲「ウォーク・ディス・ウェイ」についてリサーチを行ったところ。「ニガーは電波から締め出せ」というような人種差別的フィードバックがあった。それにもかかわらず、ビル・ステフニーは、ロック・ラジオ局の知人たちに「ウォーク・ディス・ウェイ」をプレイし続けるよう説得した。また彼はビースティー・ボーイズをラップ・ラジオでオンエアさせるという快挙も成し遂げた。1986年の終盤までに、彼らの戦略は完璧に遂行されたのだ。黒人グループのランDMCは「レイジング・ヘル」で白人オーディエンスにクロス・オーヴァーに、白人グループのビースティー・ボーイズは「ライセンス・トゥ・イル」で黒人オーディエンスにクロス・オーヴァーしたのである。
ポップとの融合というデフ・ジャムの画期的な試みにより、ラップの購買層は大幅に拡大することになりました。そして、それがアーティストの不足につながり、ラップ系アーティストの契約ラッシュが巻き起こることになります。メジャー・レーベルは、ラップが一時的流行ではないことに気づき、自分たちが流行に乗り遅れていただけなのだと気がつき、あわててアーティスト探しに奔走し始めたのです。
同じ頃、クール・ハーク、アフリカバンバータ、グランドマスター・フラッシュで育ったティーン・エイジャーたちは成人し、自分たちにも何か言うべきことがあると感じ始めていました。彼らに必要だったのは、自分たちの主張が何なのかを見極めることであり、そのためのツールにラップはぴったりだったのです。こうして新世代によるヒップホップの時代が始まることになり、その中の多くのアーティストがデフ・ジャム・レコーディングスと契約し世界規模の活躍をすることになったのです。
その主なアーティストとしては、パブリック・エネミー、LLクールJ、ビースティー・ボーイズ、アシャンティ、ジャ・ルール、ナズ、ニーヨ、レッドマン、リアーナ、シズラ、ウォーレンG、TERIYAKI BOYZ(日本)、ジェイ・Z、カニエ・ウェスト、メソッドマン、リュダクリス、パティ・ラベル、ミュージック・・・
<パブリック・エネミーの誕生>
後にパブリック・エネミーの中心となるチャックDの才能を早くから認めていたリック・ルービンは、彼と契約することを望んでいましたが、当時本人はラッパーを続ける気はなかったといいます。そこでルービンは、チャックDの友人であり、自社の社員でもあるステフニーに交渉をさせ、フレイヴァー・フレイヴとハンク・ショックリーと一緒のグループとしてならという条件でなんとか契約にこぎつけます。こうして誕生したのが、1980年代最強のラップチーム、パブリック・エネミーでした。
白人音楽ファンからのバッシングを意識したことからついたそのチーム名について、当時、ビル・ステフニーはこう思ったそうです。
「よし、このグループ名ならうまい宣伝展開ができるぞ。俺たちは全員が社会の敵だ。ハワード・ビーチでの事件や、バーナード・ゲッツの発砲事件、マイケル・スチュワートの殺人事件にしたってそうさ。黒人の男は、確かに社会の敵なんだよな」
こうして「民衆の敵」パブリック・エネミーという名前を持つヒップホップ・グループの活躍が始まります。人種差別に対するメッセージを積極的に発した彼らは、その名のとおり、多くの白人から批判の対象となります。しかし、彼らには自分たちが成すべきことに対する明確な指針がありました。
「問題は、この手のフォーマットには硬質な情報がまったくないってことだ。この国に生きている俺たちに関わるニュースが全然ないんだぜ?ラジオでオンエアされなくても、何百万もの人々がラップを聴いている。というのも、ラップはアメリカのTV局だからさ。ラップは人生のあらゆる側面を伝えること、ありのままをリスナーに届けてくれる。ドラッグ、セックス、教育、愛、金、戦争、平和
- ありとあらゆることをね」
チャックDは、この考えから「ラップはブラック・アメリカのCNNだ」という名言を生み出すことになります。
そして、そんな彼らが主題曲「ファイト・ザ・パワー」を担当した映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」は、まさにそんな彼らの闘争を象徴する作品となりました。ただし、その主張はあまりに危険なもので批判の対象にもなりました。
「スパイク・リーが金儲けしようと日和見的にこの映画を作ったのならば、彼は都会という遊び場でダイナマイトをいじっているようなものだ。映画に対する反応は、彼の手に負えないものになるかもしれない」
デヴィッド・デンビー(映画評論家)
<ヒップホップの言葉を伝える雑誌>
パブリック・エネミーがラップによって社会的なメッセージを発信し始めた頃、彼らだけがそうした音楽性を持っていたわけではありませんでした。ヒップホップは様々なことを題材として、様々なスタイルへと発展し始めていて、オールド・スクールのラップとは異なる多様性を持つようになっていました。それに対して、文化として確固としたスタイルを確立しつつある新たなジャンルを、文字によって、しっかりと批評・分析しようという動きが始まります。
1988年1月雑誌「ヴィレッジ・ヴォイス」は「ヒップホップ・ネーション」と題したヒップホップ特集号を組みました。グレッグ・テイト、R・J・スミス、ハリー・アレンらが関わった同特集号はその文化が一過性のものでないことを指摘します。テイトはヒップホップについて、こう記しています。
「現存する唯一のアヴァンギャルドな文化で、いまだに新しいショックを与えてくれる」
「彼らはジェームズ・ブラウンの古い楽曲を肥料に、まったく新しいものを作り出す」
こうした雑誌などの登場によって、ヒップホップは文化として正当に評価されるようになって行きましたが、その中でも最も重要な存在となったのがヒップホップ専門の雑誌「ソース」でした。その創刊は1988年8月。発行者は、ハーヴァード大の生徒だった二人のユダヤ系白人デヴィッド・メイズとジョン・シェクターでした。二人の斬新なアイデアにより、「ソース」は、ネットを利用して、全米規模の情報ネットワークを作ることで、ミュージシャン、プロモーター、ラジオDJ、CD小売店、そしてファンを結びつけた画期的な雑誌となって行きます。
「我々『ソース』は、ラップ業界で唯一のインデペンデントな声を保つという困難な問題に本気で取り組んでいます。ビジネス面の関係を尊重しながら、編集記事の完全な独立性を維持することが、我々の責務だと考えています。明瞭で公平な報道を続けるためには、これしか方法がないのです。我々が読者の敬意を勝ち得たのは、この明瞭で公平な報道にあると思うのです。・・・」
「ソース」発行人の信条より
<パブリック・エネミーの崩壊>
皮肉なことに、パブリック・エネミーの崩壊を早めることになった原因は、彼らの才能を見出し、世界的なブレイクのチャンスをもたらしてくれたユダヤ系白人たちとの対立でした。
アメリカにおける人種差別の被害者は、かつて黒人だけではなくユダヤ人もその対象になっていました。アカデミー作品賞を受賞した名作「紳士協定」は、そうしたユダヤ人への差別を描いた作品でした。キング牧師の活躍で有名な公民権運動において中心的存在となったNAACP(全米有色人種地位向上協会)の設立も、実は1909年にユダヤ人と黒人の弁護士によって行われています。だからこそ、公民権運動の盛り上がりの際、白人側の中心となった人々の中には多くのユダヤ人がいたのです。(映画「ミシシッピー・バーニング」でも描かれた南部ミシシッピー州における公民権運動活動家の殺害事件。その際に殺害された活動家の若者のうちの白人二人は共にユダヤ人でした)
しかし、アメリカの富の多くを所有し、黒人エンターテナーたちの活躍から多くの利益を上げているエンタメ業界の支配者ともいえるユダヤ人たちとその後も貧しいままの状況が続く黒人たちの対立は、ある意味必然だったのかもしれません。
1968年にブルックリンのオーシャンヒル、ブラウンズヴィル学区で起きたユダヤ人と黒人の対立は、その分裂が本格化するきっかけだったと言われます。元々アフリカ系が多いその地域で、教育委員会のトップになった黒人活動家が、それまで地域の教育を担っていたユダヤ系の教育委員を追い出し、教師も黒人を雇うように方針を転換したことで、教育界が大混乱。この問題以降、全米中で黒人とユダヤ系の関係が急激に悪化し始めることになりました。
パブリック・エネミーの情報大臣として思想面を担っていたメンバーの「プロフェッサー・グリフ」ことリチャード・グリフィンもまたユダヤ人への批判を口に出すことで多くの人々を敵に回し、グループをはずされることになります。そのきっかけとなったのは、「パレスチナ人が武器を片手にイスラムを侵略し、ユダヤ人を皆殺しにしても、特に問題はないだろう」という発言でした。
当時、グリフはブラック・ムスリムの熱心な信者であり、その思想が彼のその発言をさせました。この頃再びその人気を集めつつあったブラック・ムスリムの思想は、彼らにユダヤ人と対立すること求めるをことになります。次にこのブラック・ムスリムの盛り上がりについても考えてみます。
<ブラック・ムスリムの復活>
1980年代にレーガン政権によって行われた弱者の切り捨ては、貧困層を急増させることで、かつてブラックパンサーの精神的主柱となっていた宗教ブラック・ムスリムの勢いを増すという結果を生み出していました。
残念ながら1960年代に活躍した公民権運動の担い手たちは、自分の子供たちの世代に運動の精神的遺産を残すことができず、世代間の分断が進んでいました。そんな中、カリスマ的な指導者ルイス・ファラカーンを中心とする黒人イスラム教組織「ネーション・オブ・イスラム」は若者たちの採り込みに成功して行きます。ブラック・ムスリムの過激な思想は、道に迷う若者たちにとって、魅力的に映ったのです。どの時代でも、若者たちの多くはより過激な方向へと引き寄せられる傾向があるようです。
「私は、このアメリカで果敢にも立ち上がる。軍隊もなければ、銃もない。しかし、私はアメリカ合衆国政府の邪悪さに対し、言論で立ち向かっていくのだ」
多くの若者たちが、ファラカーンのこの言葉に魅了され、イスラム教に入信することになりました。
1989年6月25日、1000人を越える黒人ギャング団の総長たちを集めた彼は、その出席メンバーにメッセージを伝えます。
「アメリカ合衆国政府は、黒人コミュニティに対する攻撃を計画している。特に標的となるのは若者たちだ」
「君たちは今、敵の術中に陥っている。敵は、君たちを利用し、自滅に追い込もうとしているのだ」
こうして黒人の若者たちに政府と相対することを求めたことで、20年ぶりに黒人革命の思想をアメリカでよみがえらせることになりました。こうした黒人の若者たちの間に広がっていた思想とパブリック・エネミーの主張はリンクしていたのです。
「公民権運動の勝利に続いて始まった70年代は意識の低い時代だった。それにあの頃は、重要な黒人指導者も殺されてしまったし、裏切るヤツや、逃げ出すヤツも多かったからね。黒人を取り巻く状況は変わったと思い込ませるような国家のプロパガンダがあった。名ばかりの人種差別撤廃だ。TV業界とか目立ったところで、ごく少数の黒人を重要な地位に就かせるんだ。でも残りの大多数は、もちろん今までどおり低い地位のままさ。だが、抜擢された黒人たちは、その理由をきちんと理解していなかった。だからヤツらはこれまでの苦労を忘れ、すっかり怠け者になって、自分たちが60年代を通じて学んできた歴史や文化を若い世代に伝える役割を怠ったんだ。黒人がどれだけタイトに結束しなくちゃいけないかってことを教えなくなってしまったのさ。こうして黒人はアイデンティティを喪失したことを教えなくなってしまったのさ。こうして黒人はアイデンティティを喪失した。ようやくアメリカ人として受け入れられたなんて錯覚し始めたんだ。実際は常にダブル・スタンダードに直面していたのにな。・・・」
チャックD
こうした状況によって、公民権運動時代の知識や経験を持つ人材が育たなかったことから、90年代に入り、ロドニー・キング事件などが起きた際、若者たちの暴走を止めることもできず、政治的な運動を展開することもできなかったのでした。こうしてアメリカ最大最悪の都市暴動がロサンゼルスで起きることになります。
「ロドニー・キング事件」
1992年4月29日、世界中に映像が配信され話題となった黒人のロドニー・キング氏に対する警察官による暴行事件の裁判が行われ、4人の警官に無罪の判決が下ります。(午後3時15分)その判決により、アメリカ全土で黒人たちによるデモが起きますが、午後4時、ロサンゼルスで5人の若者が韓国系アメリカ人が経営する酒屋に押し入り、店主に暴行を加えた上、酒を盗み出します。彼らはその際「ロドニー・キングの仇討だ!」と叫んだと言います。この事件をきっかけにロサンゼルス中で暴動が始まることになります。
4月29日から5月4日までの6日間に逮捕された約1万人のうち、37%はラテン系でアフリカ系(黒人)よりも多く、メキシコからの不法移民が暴動の中心だったことがわかります。
「我々は、キング牧師とマルコムXに続くカリスマ的ヒーローを切望していたが、その座は空いたままだった。80年代が、他の年代に比べて政治的に不安定だったとは思わない。違いはただ一つ、指導者が不在だったという点だ」
ビル・ステフニー
そして、その指導者の役割がヒップホップのアーティストたちに回ってきたと言えますが、その役割は実に重いものでした。21世紀に向けた新たな道筋を示すことは、あまりに困難な役割だったのです。こうしてロドニー・キング事件以降、ヒップホップは、より過激な内容を題材とした「ギャングスタ・ラップ」の時代へと進んで行くことになります。ところが、その過激な内容は世界中の若者たちに受け入れられ、ヒップホップは世界制覇ともいえる大きな成功を収めることになって行きます。
こうして時代は、ギャングスタ・ラップのブレイクと世界制覇そして次々と起きる悲劇の時代に突入して行くことになります。
「ミリオン・マン・マーチ」 1995年10月16日
ルイス・ファラカーンのアイデアにより、黒人男性100万人を首都ワシントンDCに集め、黒人の団結と平和への意思を示すイヴェントとして開催された。会場では、次々に大物の黒人が壇上からメッセージを述べました。ローザ・パークス、クウェイン・ムフーメ、タイネッタ・ムハンマド、クイーン・マザー・ムーア、キャロル・モズリー・ブラウン、コーネル・ウエスト、スティーヴィー・ワンダー、ジェシー・ジャクソン・・・
「参加者は、自分と同じ苦しみを味わっている黒人がほかにもいるということを実感したがっていた。ミリオン・マン・マーチが多くの人々の心を捕えた理由はそこにもあると思う。彼らは、そのつながりをしばらく感じていなかったのね」
「今後、私たちはその連帯感を利用することができるんじゃないかしら」
アンジェラ・デイヴィス
映画「ゲット・オン・ザ・バス」
このイベントに参加するために会場に向かう人々を描いた映画「ゲット・オン・ザ・バス」という映画があります。監督はスパイク・リーで、これもまた当時の空気を見事に再現しています。集団人間ドラマとして、素晴らしい作品です。
「ゲット・オンザ・バス Get On The Bus」 1996年
(監)(製)スパイク・リー(脚)レジ―・ロック・バイスウッド(撮)エリオット・デイヴィス(音)テレンス・ブランチャード
(出)チャールス・S・ダットン、イザイア・ワシントン、ヒル・ハーパー、オシー・デイヴィス、アルバート・ホール、ハリー・レニックス
<ルイス・ファラカーンによる演説最後の誓約>
私と一緒に唱えてほしい。私は今日この日から、自らを愛するように同胞を愛するよう努めると誓う。私は今日この日から、自分自身、家族、そして同胞の利益のために、宗教的、道徳的、精神的、社会的、政治的、経済的に自身を高める努力をすると誓う。
私は自分自身、家族、そして同胞の利益のためにビジネス、家、病院、工場を築き上げ、国際的な取引に乗り出すことを誓う。
私は今この日から、正当防衛以外の理由で家族および何人もナイフや銃で傷つけないと誓う。
私は今日この日から、決して我が妻に対して、肉体的、精神的な虐待をしないと誓う。なぜなら、彼女は我が子の母親であり、私の未来図を作り出す女性だからである。
私は今日この日から、決して子供を虐待せず、彼らが安心して成長できるよう見守っていく。私は今後決してBワードで女性、特に我々の同胞である黒人女性を形容しない。
私は今日この日から、ドラッグなど、自らの健康や幸せを蝕む物で身体を汚染しないことを誓う。
私は今日この日から、黒人の作る新聞、ラジオ、TVを支援する。また、自らの行いを改め、自分自身、他人、さらには全人類を尊重する姿勢を示す黒人アーティストを支援する。
私はこれらすべてを実行する。神よ、私を救い給え。
<参考>
「ヒップホップ・ジェネレーション」 2005年
Can't Stop Won't Stop( A Histry of the Hip-Hop Generation)
(著)ジェフ・チャン Jeff Chang
(訳)押野素子
リットー・ミュージック
ギャングスタ・ラップ史とヒップホップの世界拡散
黒人音楽の歴史へ
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