「二十四時間の情事 Hiroshima, mon Amour」 1959年

- アラン・レネ Alain Resnais、マルグリット・デュラス Margeritte Duras -

<1959年という年>
 この年は、文学界ではレーモン・クノーが「地下鉄のザジ」を、アラン・ロブ=グリエが「迷路の中で」を、フランソワーズ・サガンが「ブラームスはお好き?」を発表。いわゆるヌーボー・ロマンの時代でした。そして、映画界ではトリュフォーが「大人は判ってくれない」を、クロード・シャブロルが「いとこ同志」を、そしてジャン・リュック・ゴダールが「勝手にしやがれ」を発表。ヌーヴェル・バーグが華々しいデビューを飾った年でした。フランスは文学、映画ともに新しい時代を迎えつつあったのです。
 そんなエネルギーに満ちたフランスが生み出したもうひとつの傑作が、文学者マルグリット・デュラスと映画監督アラン・レネによるまったく新しいコラボレート作品「二十四時間の情事」でした。

<核の時代>
 1945年8月6日広島に落とされた原子爆弾による被害は、それまで人間が生み出してきたどの兵器をも上回るものでした。それどころか、それは単に今までの兵器を強力にしただけのものではなく、兵器の持つ概念を根本的に変えてしまうものでした。
 核兵器による戦闘が世界規模で起きた時、それは人類の滅亡を意味するということが、すぐに明らかになったからです。こうして、「抑止力」という新しい言葉が生まれ、「軍拡競争」という架空の戦闘が「鉄のカーテン」ごしに繰り広げられることになりました。
 しかし、こうして世界各地で核武装のための準備が進む中、広島と長崎の人々を中心に核兵器の廃絶に向けた地道な取り組みもまた少しずつ盛り上げを見せつつありました。こうした反核運動において非常に大きな役割を果たしたものとして、映画の存在をあげることがあります。
 原爆資料館のインパクトは確かに大きいのですが、それは広島を訪れなければ見ることができません。それでは世界中に広島の惨劇を広めることはなかなか困難です。そんな中、日本を代表する監督、新藤兼人は1952年「原爆の子」を発表。この映画は日本だけでなく海外でも公開され、原爆がもたらした悲劇を世界に広める重要な役割を果たしました。そして、もう一本1954年に公開された「ゴジラ」もまた核兵器が生んだ怪獣として、その後世界中に知られることになります。
 さらに1955年には広島で第一回原水爆禁止世界大会が開催され、広島(ヒロシマ)は一躍その名を世界中に知られることになりました。
 「ヒロシマ」と「ナガサキ」そして「原爆」の衝撃を海外に伝えることは、けっして簡単な作業ではありません。それでも、正確な情報を知る科学者や優れた感受性をもつアーティストたちの中には、すぐにその重要性に気づいた人々もいました。
 その中の一人、フランスの作家マルグリット・デュラスは、広島に落ちた原爆の記事を初めて新聞で読んだ時のことを、こう書いています。
「わたしは思い出す、1945年8月10日のことを。わたしと夫はアヌシー湖に近い収容所の家にいた。ヒロシマの原爆を報じる新聞の見出しを読んだ。急いでその施設から外に出た。道路に面した壁に寄りかかり、そのまま立ったまま気を失った。・・・・・それから私は生涯、戦争について書いたことはない。・・・・・」

 しかし、そんな彼女にヒロシマについて書く機会が訪れます。映画「二十四時間の情事」の脚本を書いてほしいという依頼が彼女のもとに届いたのです。

<誕生の経緯>
 先ずはこの映画が企画された経緯から始めましょう。この作品は意外な理由から誕生しています。短編映画を中心に芸術性の高い作品を製作していたフランスのアルゴス・フィルムが日本の映画会社大映に共同で映画を撮る依頼をもちかけたのがきっかけでした。当時の日本の映画市場には外国映画の公開制限枠というものがあり、そのため新たな映画会社が日本で映画を公開することはできませんでした。しかし、日本の経済復興は着実に進んでいて、映画市場としての日本進出のチャンスを得たいと考えたアルゴス社は、日本の映画会社との合作は制限の範囲外と知り、当時黄金時代にあった永田雅一率いる大映に合作話を持ちかけたのでした。大映側もフランスの映画会社との合作は、自社にとって大きなメリットがあると判断し、すぐに合意が成立しました。
 こうして動き出した日仏合作プロジェクトのリーダーとなったアルゴス社のプロデューサー、アナトール・ドーマンはすでにアルゴス社で数本の作品を撮っていたアラン・レネに監督を依頼します。

<アナトール・ドーマン>
 この映画の製作者であり、日仏合作という画期的プロジェクトの仕掛け人のひとりだったアナトール・ドーモンもまた、この後のフランス映画界の中心となる重要人物です。彼はこの時の経験を生かして日本映画のフランス進出、特に大島渚のヨーロッパ進出を仕掛けることで日本の映画館にも大きな貢献を果たしてくれることになります。
 主なプロデュース作品は、「彼女について知っているニ、三の事柄」(1967年)、「愛のコリーダ」(大島渚作品、1970年)、「愛のコリーダ」(大島渚作品、1978年)、「ブリキの太鼓」(1979年)、「上海異人娼館/チャイナドール」)(寺山修司作品、1981年)、「パリ・テキサス」(1984年)、「ベルリン・天使の詩」(1987年)
 ちなみに彼もまた第二次世界大戦の重い記憶を背負っています。彼はポーランドのワルシャワ生まれのユダヤ系で、大戦中フランスに亡命、レジスタンスとして活動していた経験をもっています。

<異色のヒロシマ映画>
 企画準備のために来日したアラン・レネは、当初広島を舞台にしたドキュメンタリー映画を撮るつもりでした。しかし、ある時、彼の頭の中に「ひとりの女が川辺のカフェでたたずむ姿」が強烈なイメージとして浮かび、彼はこのイメージをなんとか生かしたいと考えます。そこで広島のドキュメンタリーとこの女性のドラマを同時進行させてはどうかと考えたのでした。こうして、「原爆の街、ヒロシマ」と「あるフランス人女性の愛の物語」が同時に描かれるという異色の映画が生まれることになったのです。彼はさっそくこの構想を脚本を依頼することになった前述のマルグリット・デュラスに話したというわけです。

<マルグリット・デュラス>
 フランスのヌーボーロマンを代表する作家、マルグリット・デュラス Margeritte Durasは1914年4月4日フランス領インドシナに生まれました。少女時代を異国の地で過ごした後、18歳の時、パリに旅立ち、そこで作家を目指して活動を開始しました。
 1943年29歳の時、小説「あつかましい人々」で作家デビュー。しかし、なかなか文学界での評価を得ることができず、一時はアルコール中毒に苦しみますが彼女の代表作であり、後にジャン・ジャック・アノーによって映画化もされる「愛人ラ・マン」の大ヒットとゴンクール賞の受賞で一躍文壇のトップに踊り出ることになりました。彼女はこの「二十四時間の情事」で初めて映画の仕事に関わることになりましたが、この映画の成功でその後も彼女は映画に関わり続けることになります。ついには自ら監督をするまでになり、実験的な作品を中心に作品を発表し続け、作家と映像作家、二足のワラジをはいた異色のアーティストとして活躍し続けます。(1996年3月3日癌のためパリで死去)

「そこで私は一人で、”物語”ではなく、私が脳裏に描いたままの映像を追い、しかるべき言葉と音を入れ、コンテ形式にまとめあげた。レネは規則正しく原稿を取りにきた。私たちは原稿が整理されてから、ゆっくりと論議し、あらてめて二人が完全に一致していることを確認した・・・・・。私が初めて”ラッシュ”を見たとき、それはまさに私の望んでいたものであった。レネはカット割り、被写体の枠取り、カメラの動きをできるだけそっくり残していたが、それは方針としてそうしたのではなく、彼がそれらを私と同じように感じたからである」
マルグリット・デュラス

<撮影開始>
 この作品の撮影は広島とヌーブルの二ヶ所で行われましたが、それぞれ日本人とフランス人のカメラマンが別々に担当しています。日本側のカメラマンに選ばれた高橋通子は大映のカメラマンで、彼女の撮った作品を見たアラン・レネが自ら指名したといわれています。
 もうひとりのフランス人カメラマン、サシャ・ヴィエルニと高橋の撮ったフィルムが違和感なくつながるように、二人はジャン・コクトーの映画「オルフェ」を基準にしながら「ルック」のの共通性を保ったのだそうです。

<アラン・レネ>
 この映画によって一躍有名になったアラン・レネ Alain Resnaisは、1922年6月3日にフランスのブルターニュ地方ヴァンヌに生まれました。父親は薬局を営んでいましたが、彼は幼い頃から病弱で、喘息により中学校も退学。家が母親が教師代わりに勉強をさせますが、多くの時間彼は一人で漫画を見たり、映画を見て過ごしていました。そのため彼は14歳の頃すでに友だちといっしょに8mmカメラでアクション映画を撮っていたといいます。

 過去と現在の交錯、忘却と記憶との交錯、外的現実と意識との交錯 - レネがいつもこうした人間の内面の現実を描くのは、彼が幼少時代から病弱であるということにも関係があるであろう。
 病気のため学校もやめ、家にあって母親の教育を受け、文学の世界の中で少年時代を送った彼のとって、はじめから学校で友達と一緒に勉強したり遊んだりする通常の外的現実というものは存在しなかった。内的現実を掘り下げることだけが、彼の人生の唯一の可能性であったのだ。その彼がマルセル・プル−ストの文学を愛したのは、当然のことであった。

田山力哉

 1939年、彼は独学で大学入学の資格を取得しパリに出で、演劇を学び始め、1943年には映画高等学院に入学します。しかし、相変わらず彼は病気がちで、理論ばかりの授業にも不満だった彼は学校をやめてしまいます。彼の夢は一時、戦争によって中断され、彼は兵役につくことになりますが、戦後は再び映画の世界に戻り、同じ館に住んでいたジェラール・フィリップ主演の「人物鑑定の図式」。1947年からドキュメンタリー映画「リュシャン・クートー訪問」など「訪問シリーズ」を数本撮影。マルセル・マルソーのパントマイム映画「指輪」、「マックス・エルンスト訪問」、そして1948年、ゴッホのドキュメンタリー短編映画「Van Gogh」を発表し、高い評価を得ました。1955年には、ナチス・ドイツの戦時中の行為を暴いた中編ドキュメンタリー作品「夜と霧」を発表し、世界に衝撃を与えました。そして1959年彼はこの作品でいよいよ劇映画の監督としてデビューを飾ることになったわけです。「美術映画の巨匠」とも呼ばれていた彼が、この映画の撮影のため来日した当時、日本での彼の知名度はまだほとんどありませんでした。
 彼は1961年、アラン・ロブ=グリエの原作・脚本による「去年マリエンバートで」を発表し、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞。その後も、ジャン・ケイヨール原作・脚本の「ミュリエル」(1963年)、「戦争は終った」(1965年)など着実に作品を発表しますが、鳴り物入りで公開されたホルヘ・センプラン原作・脚本の「薔薇のスタビスキー」(1973年)が不評で一時スランプにおちいりますが、1977年には「プロビデンス」で見事に復活。(「薔薇のスタビスキー」はけっして駄作ではなかったと僕は思っています)1980年の作品「アメリカの伯父さん」ではカンヌ映画祭で審査員大賞を受賞します。アンリ・ベルンシュタインの戯曲を映画化した「メロ」(1986年)。その後も1997年には「恋するシャンソン」、2003年には「巴里の恋愛協奏曲」と作品を作り続けています。

 少年時代から彼にとって、文学と映画とは一体となった喜びであった。だからレネ作品のシナリオがいつも文学者の執筆という形になるのは、決して偶然ではないだろう。
「私はいつも小説家と一緒に仕事をする。他のだれが私の役に立ってくれるのか?第一、すぐれたシナリオ・ライターはほとんどすべてが一流の小説家でもあったじゃないか。ダニエル・ブーランジェ、アンリ・ジャノン、ジョルジュ・ヌヴーなどを見よ」

アラン・レネ

<君はヒロシマを見たか?>
「君は広島を見ちゃいない。なにも」
「私はすべてを見た。すべてを」

 オープニングで何度も繰り返されるこの二人のモノローグは、この映画のすべてを表わしています。
ヒロシマを本当の意味で語ることは不可能である。ただし、「ヒロシマを語ることは不可能である」と語ることは可能であり、この作品もまたそうした問いかけのひとつの形だったのです。
 ヌーブルとヒロシマ、フランスと日本、女と男、愛と死、記憶と忘却、戦争と平和、・・・相対する二つの概念のぶつかり合いもしくは問いかけが生んだ新しいスタイルの映画は未だにその輝きを失っていません。
 しかし、正直、この映画を見るよりも、願わくは、世界中のすべての人に一度「ヒロシマ」を訪れてほしい。そう思います。
 そして、「原爆」と「ヒロシマ」「ナガサキ」「太平洋戦争」にこだわり続けた黒木和雄監督の作品「Tomorrow 明日」(1988年)「父と暮らせば」(2004年)、そして、「美しき夏キリシマ」(2002年)、「紙屋悦子の青春」(2006年)も合わせてご覧いただければと思います。

「二十四時間の情事 HIROSIMA MON AMOUR」 1959年公開
(監)アラン・レネ
(製)サミー・アルフォン、永田雅一
(原)(脚)マルグリット・デュラス
(撮)サシャ・ヴィエルニ、高橋通夫
(音)ジョバンニ・フスコ、ジョッルジュ・ドルリュー
(出)エマリュエル・リヴァ、岡田英次、ベルナール・フレッソン

<あらすじ>
 原爆をテーマにした映画に出演するため広島にやって来たフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)は、偶然知り合った日本人男性(岡田英次)となぜか気が合い、一晩限りの恋に落ちます。ともに夫も妻もいる身でありながら二人は心のうちを語り合い、少しずつそれぞれの過去が明らかになってゆきます。
 かつて第二次世界大戦中、彼女はフランスを支配していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちた経験がありました。しかし、ドイツの降伏を前にその兵士は殺され、彼女もまた非国民として頭を丸刈りにされるという辱めを受けます。その後、しばらく彼女は父親によって家に閉じ込められていましたが、ある夜、正気を取り戻した彼女は両親の許しを得て、故郷ヌーブルの街からパリへと旅立ったのでした。その後、女優となった彼女は広島を訪れ、再び忘れかけていた戦争の記憶を蘇らせることになったのです。
 日本人の建築家もまた家族を原爆によって失うという悲しい記憶をもっており、二人は戦争の重い十字架をお互いに思い起こすことで、より深くつながり、わずか一晩の恋が永遠とも思える深い愛情へと発展してしまったのでした。
 しかし、その愛も彼女の帰郷とともに終わりを迎えます。「愛の終わり」は確実に訪れますが、その記憶は「忘却」のために時間を必要としています。二人の愛の終わりもまた戦争の記憶とともに長い忘却のための時を必要とするのかもしれません。
<追悼>
エマニエル・リヴァさんが、2017年1月27日、89歳でお亡くなりになられました。ご冥福をお祈りします。



トリュフォー、ゴダールが長編映画の監督としてデビューし、ヌーヴェルヴァーグの時代始まる

「甘い生活」(監)(脚)フェデリコ・フェリーニ(脚)エンニオ・フラヤーノ他(撮)オテロ・マルテッロ(出)マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ
「アメリカの影」(監)ジョン・カサベテス(音)チャールズ・ミンガス(出)レリア・ゴルドーニ、ヒュー・ハード、ベン・カルーザス
「或る殺人」(監)オットー・プレミンジャー(出)ジェームス・スチュアート、リー・レミック(ヴェネチア映画祭主演男優賞
「アンネの日記 The Diary of Anne Frank」(監)ジョージ・スティーブンス
(シェリー・ウィンタースがアカデミー助演女優賞
いとこ同志(監)(製)(脚)クロード・シャブロル(撮)アンリ・ドカエ(音)ポール・ミスラキ(出)ジェラール・ブラン、ジャン=クロード・ブリアリ
「五つの銅貨 The Five Pennies」(監)メルヴィン・シェイヴルソン
「お熱いのがお好き Some Like It Hot」(監)ビリー・ワイルダー(出)ジャック・レモン、マリリン・モンロー
「大人は判ってくれない」(監)フランソワ・トリュフォーカンヌ映画祭監督賞
「勝手にしやがれ A Bout De Souffle」(監)ジャン・リュック・ゴダール
 (音)「クラリネット協奏曲」(第一楽章)(モーツァルト作)ジーン・セバーグがかけるとベルモンドが俺も好きさ、という曲
「騎兵隊 The Horse Soldiers」(監)ジョン・フォード
「去年の夏突然に Suddenly,Last Summer」 (監)ジョセフ・L・マンキウィッツ
「黒いオルフェ Orfeu Negro」 (監)マルセル・カミュ(原)ヴィニシウス・ジ・モライス
(ブラジル音楽が世界に広まるきっかけとなった伝説的傑作、カンヌ映画祭パルムドール
「戦争・はだかの兵隊」(監)マリオ・モニチェリ(出)ヴィットリオ・ガスマン(ヴェネチア映画祭金獅子賞
「誓いの休暇」(監)(脚)グリゴーリ・チュフライ(脚)ワレンチン・エジェフ(出)ウラジミール・イワショフ、ジャンナ・プロホレンコ
「年上の女 Room at the Top」 (監)ジャック・クレイトン
(フランス人のシモーヌ・シニョレがアカデミー主演女優賞カンヌ映画祭主演女優賞
渚にて On The Beach」(監)スタンリー・クレイマー(出)グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー
「二十四時間の情事」(監)アラン・レネ(原)(脚)マルグリット・デュラス(出)エマニュエル・リヴァ、岡田英次
「人間の運命」(監)(製)(出)セルゲイ・ボンダルチェフ(原)ミハイル・ショーロホフ(脚)ユーリー・ルキン他(出)ジナイダ・キリエンコ
「灰とダイヤモンド」(監)アンジェ・ワイダ(出)ズビグニエフ・チブルスキー(ヴェネチア映画祭国際映画評論家連盟賞)(公開は1957年)
「ベン・ハー Ben-Hur」(監)ウイリアム・ワイラー(音)ミクロス・ローザ
アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞(チャールトン・ヘストン、ヒュー・グリフィス)など)
「ポギーとベス Porgy and Bess」ジョージ・ガーシュインの代表作の映画化)
(監)オットー・プレミンジャー(音)アンドレ・プレヴィン、ケン・ダービー
「北北西に進路を取れ」(監)アルフレッド・ヒッチコック
「魔術師」(監)イングマール・ベルイマン(出)マックス・フォン・シドー、イングリッド・チューリン(ヴェネチア映画祭審査員特別賞
「ロベレ将軍」(監)ロベルト・ロッセリーニ(出)ヴィットリオ・デシーカ(ヴェネチア映画祭金獅子賞

「蟻の街のマリア」(監)五所平之助(撮)竹野治夫(スペイン・サンセバスチャン映画祭カトリック賞
「愛と希望の街」(監)大島渚(監督デビュー作)
「いつか来た道」(監)島耕二(撮)小原譲治(モスクワ国際映画祭審査員特別賞
「キクとイサム」(監)今井正(脚)水木洋子(撮)中尾俊一郎(出)高橋エミ子、奥の山ジョージ、北林谷栄
「白鷺」(監)衣笠貞之助(撮)渡辺公夫(カンヌ映画祭審査委員賞
「第五福竜丸」(監)新藤兼人(脚)八木保太郎(音)林光(出)宇野重吉、小沢英太郎
「にあんちゃん」(監)(脚)今村昌平(脚)池田一郎(原)安本末子(出)長門裕之、松尾嘉代、吉行和子
「荷車の歌」(監)山本薩夫(原)山代巴(脚)依田義賢(出)三国連太郎、望月優子、左幸子
「人間の条件(第一部・第二部)」(監)(脚)小林桂樹(原)五味純平(脚)松山善三(出)仲代達也、山村聡、新珠三千代、淡島千影
ヴェネチア映画祭サンジョルジョ賞、パシネッティ賞
「野火」(監)市川昆(原)大岡昇平(脚)和田夏十(出)船越英二、ミッキー・カーティス、滝沢修

(株)黒澤プロダクション設立



児童の権利宣言採択、南極条約調印
ハワイ、50番目の州となる
キューバ革命(カストロ首相に就任)
ブラジルの新しい首都、ブラジリア完成
欧州自由貿易連合EFTA調印
コンゴ暴動勃発(対オランダ)
チベットで反乱、ダライ・ラマ氏インドに亡命
中国がインド国境を侵犯
北ヴェトナム軍、ラオス侵入
シンガポール独立
皇太子、正田美智子と結婚(テレビが全国に一気に普及する)
伊勢湾台風、日本に大きな被害を与える

<芸術、文化、商品関連>
「地下鉄のザジ」レイモン・クノー著(仏)
「魔法のたる」バーナード・マラマッド著(全米図書賞)
「裸のランチ」ウイリアム・バローズ著
「梱包された缶」 クリスト
フランク・ロイド・ライト設計のグッゲンハイム美術館オープン
世界初のコピー機「ゼロックス914」発売
ピエール・カルダンがライセンス事業を開始(ファッション産業の新しいスタイル)
<音楽関連(海外)>
バディ・ホリー、リッチー・バレンス、ビッグ・ボッパー飛行機事故で死亡
第一回グラミー賞の授賞式開催
「ザ・トゥイスト」(ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズ)のヒットでトゥイスト・ブーム始まる
ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」のアルバムが大ヒット
オーネット・コールマンがバンドを結成。フリー・ジャズ時代始まる
<音楽関連(日本)>
第一回日本レコード大賞「黒い花びら」水原弘(曲)中村八大(詞)永六輔
 僕には典型的な歌謡曲に思えていたこの曲も実はロカビリー風バラードとして作られたものだそうです。当時としては、新しかった曲にあえてレコード大賞が与えられたわけです。
フジテレビ系列で「ザ・ヒットパレード」放映開始(カバー曲中心の構成)
この年の音楽については、ここから!

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